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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第8章 毛布と冬の煮込み編 ~冬支度の市場ヴィンター~

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068 初霜の朝市で、湯気の立つ冬を見ましたわ

ヴィンターに、初霜が降りました。

白い息と湯気を見に、朝市へ向かいます。

「町が、白い粉砂糖をかぶったみたいですわ」


 朝のラウンジで、私は窓の外を見ながら言った。


 ヴィンターの屋根が、うっすら白くなっている。

 雪ではない。もっと薄く、もっと静かで、息を吹きかけたら消えてしまいそうな白だった。市場の布屋の軒先、木箱の角、薪を積んだ荷車の縁。そこへ細かな霜が降りている。


 白銀列車の中は、いつも通り暖かい。

 暖炉は穏やかに燃え、右ソファの横には蜜蝋で仕上げた毛布箱がある。灰緑の毛布は箱の中で出番を待ち、昨日の燻製肉と黒パンの匂いは、もう食堂車の記憶になっていた。


 けれど、外の町は朝から白い。

 白い息を吐く人々が、冬支度市場の通りを動き始めている。


 ノアが窓辺に立ち、外を見た。

「初霜ですね。雪より先に、地面と屋根が白くなるやつです」

「初霜」


 私はその言葉を繰り返した。

 雪より軽いのに、冬が来たと言うには十分な白だった。


 ルークはすでに厚手の外套を用意している。

「お嬢様、朝市へ出られるのでしたら、防寒を厚めにいたします」

「少し見に行くだけですわ」

「少しでも、朝は冷えます」

「白銀列車へすぐ帰れるのに?」

「はい。すぐ帰れるからこそ、外で無理をする必要がございません」


 たいへん正しい。


 アベルが厨房側から顔を出した。まだ朝食前なのに、目が完全に市場を見ている。

「初霜の日は、根菜がうまそうに見える」

「見えるだけですの?」

「実際、売る方もそう見せる。湯気を強くする。炙る。割る。バターを落とす」

「なんて恐ろしい朝市でしょう」

「行くぞ」

「料理人が一番乗り気ですわ」


 ノアが小さく笑った。

「今日は食べ歩きですか」

 アベルは首を振った。

「見て、味を覚えて、材料を買う。食うのは列車だ」

「完璧な作戦ですわ」


 外の冬を少し見る。

 湯気を吸う。

 おいしそうなものを持ち帰る。

 そして白銀列車で食べる。


 これ以上正しい朝市の楽しみ方があるだろうか。


「では、初霜の湯気を見に行きますわ」



 扉が開くと、冷たい空気が頬をなでた。


 昨日までの乾いた冷えより、少しだけ輪郭がはっきりしている。息を吐くと白くなり、すぐほどけた。足元の石畳には、霜が薄く残っている。歩くたびに、革靴の下で小さく乾いた音がした。


 寒い。

 だが、つらいほどではない。


 白銀列車が後ろにあると分かっている寒さは、ほんの少しだけ贅沢だった。いつでも逃げられる冬は、景色として楽しめる。


 ヴィンターの朝市は、昨日の昼の市場とは顔が違っていた。


 人の声は少し低く、荷車の音は乾いている。商人たちは手をこすりながら品物を並べ、木箱の霜を布で払っていた。毛布屋の店先では、女商人が厚手の布を一枚ずつ叩き、白い粉のような霜を落としている。


「あら、来たね。初霜の朝に出てくるとは、いい寒がりだ」

「寒がりにも良し悪しがありますの?」

「あるよ。家にこもるだけの寒がりと、湯気を見るために少しだけ出てくる寒がりだ」

「私は後者ですわ」

「帰る家が近い顔をしてる」

「とても近いですわ」


 女商人は笑い、通りの奥を指した。

「朝市の湯気なら、あっちだよ。根菜屋と燻製屋が並んでる。食いすぎると、昼まで動けなくなる」


 アベルが短く言った。

「食いすぎない。買う」

「料理人の顔だね」

「そうだ」


 ヴィンターの商人同士の会話は、いつも少しだけ戦のようだった。


 通りの奥へ進むと、湯気の量が増えた。


 大鍋が三つ並んでいる。

 一つは赤い根菜のスープ。

 一つは燻製肉と豆の煮込み。

 一つは白い穀物を煮た粥のようなものだった。


 火のそばでは、黒パンを焼き直し、別の鉄板で厚切りのチーズを炙っている。


 朝の冷えの中で見る湯気は、昼よりも強い。

 白い息と湯気が混ざり、鍋の周りだけ空気が食べ物になっていた。


 私は思わず足を止めた。


「冬は、湯気の形をしているのですわ」


 ノアが隣で頷いた。

「今のは分かります。寒いから見えるんですね」

「ええ。暖かい車内では、ここまで湯気が偉そうにしません」

「湯気が偉そう」

「朝市の湯気は、自分が主役だと分かっておりますわ」


 ルークが私の立ち位置を少し火のそばへ寄せた。

「お嬢様、通りの中央は冷えます。こちらへ」


 私は素直に寄った。


 湯気の近くは、匂いが濃い。


 赤い根菜のスープは、土の甘さと香草の青さが混ざっていた。鍋の中で根菜が崩れ、赤い色がスープへ溶けている。上には細かく刻んだ燻製肉が浮き、脂の輪が小さく光っていた。


 燻製肉と豆の煮込みは、もっと重い匂いだった。豆が肉の脂を吸い、鍋の底から木べらで混ぜられるたび、塩気と煙の匂いが上がる。黒く焼けた鍋肌に、煮込みが少しだけ焦げついている。


 黒パンの鉄板では、厚切りのパンが押しつけられていた。表面が固くなり、縁が濃く焼ける。そこへチーズをのせると、白い端がゆっくり沈み、パンの焦げ目へ流れていった。


 蜂蜜バターの壺もあった。

 朝市のくせに、ずるい。


「一口だけ食べてみますか」

 ノアが言った。


 私はアベルを見た。

 アベルは鍋を見て、屋台の手元を見て、少し考えてから頷いた。

「一口ならいい。味を見る」

「味を見る」


 なんて便利な言葉だろう。


 屋台の男が、小さな木皿に赤根菜のスープをよそってくれた。熱い。器から白い湯気が上がり、私の鼻先を包む。


 ルークがすぐに言った。

「お嬢様、熱さにご注意を」

「分かっております」


 私は慎重に一口飲んだ。


 甘い。


 けれど菓子の甘さではない。寒い朝に土の中から掘り出されたものの甘さだった。根菜はやわらかく、少しだけ繊維を残して、舌の上でほどける。燻製肉の細かな塩気が、後から追いかけてきた。


「これは、朝に食べる赤ですわ」

「赤を食べる」

 ノアが小さく笑った。


 次に、燻製肉と豆の煮込みを一口。


 こちらは重い。

 豆がほろりと崩れ、肉の脂を抱えている。噛むたびに煙の匂いが戻り、鼻から抜けた。朝市のざわめきと、火の音と、白い息が全部混ざる。


「これは……外で食べると、もう一口ほしくなる味ですわ」

「食うなよ」

 アベルが言った。

「まだ何も」

「顔が二口目だった」

「顔が忙しいですわね」


 アベルは屋台の男に、豆と燻製肉、赤い根菜、香草をまとめて買った。量が多い。かなり多い。


「そんなに?」

「列車で作る」

「朝食ですの?」

「朝飯の続きだな。昼まで待てるくらいにはする」

「素晴らしい響きですわ」


 黒パンの店では、アベルが焼き加減をじっと見ていた。

 店の女が笑う。

「食べるのかい、盗むのかい」

「覚える」

「一番怖い客だね」


 アベルは黒パンを二種類買った。硬めのものと、少し酸味の強いもの。チーズも、火で炙ると伸びるものと、煮込みに落とすと溶けるものを選ぶ。蜂蜜バターの壺まで買ったところで、ノアが目を丸くした。


「朝市というか、食堂車の仕入れになってません?」

「見物と仕入れは両立しますわ」

「お嬢様は何も持ってないですけどね」

「私は湯気を記憶しています」

「役割が優雅ですね」


 ルークは私の手袋を確かめた。

「お嬢様、指先が冷えてまいりました。そろそろ戻りましょう」

「まだ黒パンにチーズをのせるところを見ておりません」

「見たら食べたくなります」

「すでに食べたいです」

「では、戻りましょう」


 説得になっているようで、なっていない。

 けれど、指先が少し冷えてきたのは事実だった。鼻の頭も冷たい。白い息を吐くのは楽しいが、ずっと外で吐き続けたいわけではない。


 朝市の湯気は素晴らしい。

 だが、湯気を本当に味わう場所は、たぶんここではない。


「外で一口見て、車内で湯気を食べる。これが正しい冬ですわ」


 アベルが満足そうに頷いた。

「分かってきたな」

「料理人に褒められましたわ」

「食い方についてはな」


 ノアが笑った。

「冬支度って、だんだん食べ方の話になってません?」

「それが正しい方向ですわ」


 私たちは材料を抱えて、白銀列車へ戻ることにした。



 帰り道、初霜の市場は少しずつ昼の顔へ変わり始めていた。


 木箱の霜は払われ、屋根の白さは薄くなり、石畳の端から水滴が落ちている。けれど、朝の冷えはまだ通りの底に残っていた。荷車の車輪が濡れた石をきしませ、遠くで誰かが火に薪を足す。


 ルークは私の歩幅に合わせて、外套の前を少し直した。

「お嬢様、足元にお気をつけください」

「霜は見るには美しいですが、踏むには信用できませんわね」

「はい。信用しすぎてはいけません」


 アベルは食材の包みを持ち、ノアは黒パンとチーズを抱えている。


 私は何も持っていない。

 だが、朝市の湯気はかなり持ち帰っている気がした。鼻の奥に根菜の甘さが残り、手袋の外側に少しだけ燻製の匂いがついている。


 白銀列車の扉が開いた。

 暖気が頬に触れる。


 外の冷えが、そこで切れた。

 市場の声も、荷車の音も、鍋を混ぜる音も、防音ガラスの向こう側へ沈む。代わりに、暖炉の火の音と、食堂車の静かな気配が戻ってきた。


「お帰りなさいませ。外は冷えましたね」

 ルークが外套を受け取り、手袋についた匂いを少し確かめた。

「燻製の香りが移っております」

「悪くありませんわ」

「お食事前なら、悪くございません」


 ノアが窓側から外を見る。

「市場、こっちから見ると湯気だけ浮いてますね」


 白銀列車の窓から見る朝市は、先ほどより遠い。白い息も、鍋の湯気も、少しだけ絵のように見える。


 アベルは食材を厨房へ運びながら言った。

「少し時間をくれ。市場よりうまくする」

「もう一口だけ、先に黒パンを」

「駄目だ。焼き直す」

「チーズは」

「こっちで炙る」

「蜂蜜バターは」

「パンが焼けてからだ」


 すべて正論だった。


 私は右ソファへ向かった。

 毛布箱を開ける。灰緑の毛布を少しだけ引き出し、膝に掛ける。足先に残っていた朝の冷えが、ゆっくりほどけていく。


 窓の外では、初霜の白が薄くなっていた。

 けれど、食堂車から上がり始めた湯気は、これから太くなる。


 今日はまだ終わっていない。

 湯気は、これから太くなる。


 私は右ソファに沈みながら、厨房の音を聞いた。


 黒パンを切る音。

 鍋を火にかける音。

 チーズの包みを開く音。

 燻製肉を刻む音。

 赤い根菜がまな板に置かれる、重い音。


 外で見た冬が、白銀列車の中で料理に変わっていく。


 初霜の朝市は、これから白銀列車の中で湯気になる。

初霜の朝市で、湯気の立つ冬を見てきました。

根菜、燻製肉、黒パン、炙りチーズ。


買ってきたものは、白銀列車の食堂車へ。

右ソファと灰緑の毛布の出番です。

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