066 一番重い毛布は、持ち上げる前から眠そうですわ
冬支度市場の奥の倉へ向かいます。
持ち上げる前から眠そうな毛布が、そこにありました。
「毛布を見る前に昼食を済ませるなど、人はどこまで毛布に負ける前提で動くのでしょうか」
昼の食堂車で、私は深めの器を前にして言った。
中身は、豆と干し肉と赤い根菜のスープである。昨日、ヴィンターの市場で見た大鍋に近いものを、アベルが白銀列車向けに整えてくれた。市場の匂いは残し、埃は入れない。たいへん正しい料理である。
湯気が、器の縁からゆっくり上がっていた。
赤い根菜は厚めに切られ、煮崩れる少し手前で止まっている。豆はやわらかく、干し肉の塩気を吸って、スプーンで押すとほろりと割れた。
アベルは鍋をかき混ぜながら、まったく悪びれなかった。
「空腹で毛布を見ると負ける」
「毛布を見るだけですわ」
「昨日、触っただけで負けかけてただろ」
「……手が沈んだだけです」
「目も沈んでた」
言い返そうとしたが、少し心当たりがあった。
昨日の灰白の毛布は危険だった。指先を置いただけなのに、右ソファの午後が一枚ずつ消えていく気がした。もし空腹のまま見ていたら、毛布と鍋と湯気の区別がつかなくなっていたかもしれない。
ノアは窓側の席で、市場の通りを眺めている。
「昨日より人が多いですね。昼になると、湯気の量も増えるんですか」
「湯気は人を呼びますもの」
「布も人を呼んでましたけど」
「冬支度市場は、布と湯気で人を捕まえる場所ですわ」
ルークが私の外套を椅子の背に掛け、手袋の内側を確かめた。市場へ行く前から、私の装いは完成している。白銀列車の中は十分に暖かいので、これは防寒というより、外へ少しだけ冬を見に行くための準備だった。
「お嬢様、本日は長居なさいませんよう」
「奥の倉を見るだけですわ」
「昨日も、見るだけの予定で毛布へ手を伸ばされました」
「毛布の方から呼びました」
「では、本日は呼び声を聞きすぎないようお願いいたします」
スープを一口飲むと、根菜の甘みと干し肉の塩気が舌に残った。外の市場では湯気に混じっていた埃が、ここにはない。暖炉の火が遠くでぱちりと鳴る。食堂車の窓の向こうで、ヴィンターの人々は今日も布を抱えて歩いていた。
私は器を置いた。
「腹ごしらえは済みました。これで毛布に勝てますわ」
アベルが短く笑った。
「勝とうとする相手じゃねえ。負け方を選ぶ相手だ」
◇
ヴィンターの市場は、昨日より少しだけ見慣れていた。
布の匂い。薪の匂い。蜜蝋の甘い匂い。干し肉と豆を煮る湯気。黒パンを焼き直す焦げ目。人の肩と荷車の車輪。そこまでは同じなのに、今日は昨日ほど圧倒されない。
たぶん、帰る場所があると分かっているからだ。
それでも、湯気の屋台の前では足が少し止まる。
鉄板の上で燻製肉の切れ端が焼かれ、脂が小さく跳ねていた。隣では黒パンに薄くチーズをのせ、火に近づけて表面だけを炙っている。さらに奥では、赤い根菜を皮ごと焼き、割ったところへ塩とバターを落としていた。
「……市場には、市場の誘惑がありますわね」
「食うなよ」
アベルが先に言った。
「まだ何も」
「顔が食う顔だった」
「顔で読まれすぎではありませんこと?」
「ティアは食う時と寝る時、分かりやすい」
ノアが小さく笑った。
「今日は毛布です。湯気の続きは、たぶんアベルさんが帰ってからですね」
「湯気の続き」
「市場で匂いだけ見せられて、車内でちゃんと食べるやつです」
「では、白銀列車でやるべきですわね」
「お嬢様、もう完全に帰る前提ですね」
ルークは人の流れを見て、私を布屋の通りへ導いた。
「こちらです。毛布屋は昨日と同じ角にございます」
女商人は、店先で大きな灰色の毛布を畳んでいた。赤茶の髪を布でまとめ、腕まくりをしている。私たちを見ると、口の端を上げた。
「来たね。昼飯は食べたかい」
「食べましたわ」
「いい判断だ。腹が空いてる客は、重い毛布を愛と勘違いする」
すでに怖い話だった。
女商人は店の奥へ布の暖簾を持ち上げた。
「奥の倉は狭い。全員で入るなら、商品には寄りかからないこと。寄りかかったら寝るよ」
「商品管理として、それはよろしいのですか」
「寝かせるための商品だからね」
ノアが小声で言った。
「この町の商人、だいたい言葉が強いですね」
「冬を越す商売だからでしょう」
私は、少しだけ緊張しながら暖簾をくぐった。
◇
奥の倉は、店先よりずっと静かだった。
外の声が布に吸われて、くぐもっている。棚には丸めた毛布がぎっしり詰まり、天井近くまで積み上がっていた。木の棚、乾いた羊毛、防虫用の草、少しだけ蜜蝋。市場の埃っぽさとは違う、しまわれていた布の匂いがする。
女商人が棚の一番下から、太い革紐で巻かれた深緑の毛布を引き出した。
引き出したというより、床の上を少しずつ動かした。
「これが、一番重いやつだ」
「毛布の動かし方ではありませんわ」
「毛布だよ。冬の真ん中で、暖炉の火が落ちても朝まで逃がさない」
白銀列車なら、夜中に火が弱まって震えることはない。
寒さに備えるだけなら、ここまでの毛布は必要ない。
それでも私は、その深緑から目を離せなかった。
深緑の布は、畳まれているだけで重い。色が重い。空気が重い。そこだけ冬の底が置かれているようだった。
ルークが手を伸ばそうとしたが、女商人が止めた。
「まずは端だけ。いきなり抱えると、重さしか分からない」
私は言われた通り、端に指を置いた。
昨日の灰白の毛布よりさらに深く、指が沈む。毛足は長すぎず、けれど内側に熱を隠している。触っているだけで、肩から力が抜けそうだった。
「……これは」
試しに、女商人とルークが両側を持ち上げる。
毛布は持ち上がった。
だが、空気まで一緒に重くなった気がした。もし右ソファで膝に掛けられたら、たぶん紅茶のカップを持つ前にまぶたが落ちる。ページをめくるどころではない。夕食の匂いが来ても、起きられるか怪しい。
私は深緑の毛布を見つめた。
「これは、眠るためではなく、起きないための毛布ですわ」
アベルが吹き出しかけて、咳払いに変えた。
「朝飯まで消えるな」
「昼も怪しいです」
ノアが真顔で頷いた。
「右ソファに置いたら、たぶんそこから動かせませんよ」
ルークだけは真剣に毛布の端を見ていた。
「保温性は申し分ございません。ただ、お嬢様がご自身で払いのけるには重すぎます」
「払いのける必要がありますの?」
「ございます。お茶を飲む時、御本を取る時、夕食の際です」
なるほど。
毛布とは、ただ眠れるだけでは駄目らしい。
白銀列車では、眠りながらもお茶が飲めて、本が取れて、夕食には戻ってこられなければならない。
女商人は満足そうに頷いた。
「いい護衛だ。重い毛布を見て、まず逃げ道を考えた」
「逃げ道」
「本当に使う毛布には必要だよ。客を寝かせるだけなら簡単だ。起きた時に嫌われない重さにするのが難しい」
私は深緑の毛布をもう一度見た。
美しい。
とても危険。
だが、今の私には少し強すぎる。
「これは、私にはまだ早いですわ」
「冬の底でまた来な」
女商人はあっさり言い、次の棚へ向かった。
「なら、右ソファ用だ。寝台用じゃなく、昼寝と読書用。重いけど、逃げられるやつ」
「逃げられる毛布」
「大事だよ。人も毛布も、逃げ道がないと嫌になる」
◇
次に出されたのは、灰緑色の毛布だった。
昨日触った灰白より少し深い色で、縁に細い濃茶の布が縫い込まれている。派手ではない。棚に入っていると地味だが、手を置くと温度がゆっくり寄ってくる。
女商人が低い椅子を出した。
「座ってみな。右ソファじゃないけど、膝に掛ければ分かる」
ルークが椅子の脚を確かめてから、私を座らせた。そこまでしなくてもいいと思うが、毛布屋の奥の倉では何が起きるか分からない。私は大人しく座る。
灰緑の毛布が膝に掛けられた。
重い。
けれど、押さえ込まれない。
膝から太ももにかけて、じんわり温度が残る。手を動かすと少し抵抗はあるが、カップを持てないほどではない。本を取るために身を乗り出しても、たぶん戻ってこられる。
「重いのに、邪魔をしませんわ」
「それは当たりだね」
女商人が指で縁を弾いた。
「中の毛を詰めすぎてない。重さはあるけど、真ん中に寄らない。右ソファってのに使うなら、こっちだ」
ルークは裏地を撫で、縫い目を確かめ、毛抜けを見た。
「肌触りも問題ございません。端の処理もこちらの方が丁寧です」
アベルは私の膝の上を見て、少しだけ目を細めた。
「それなら飯の時には戻ってこられそうだな」
「毛布を選ぶ基準が夕食なのですか」
「ティアには重要だろ」
「重要ですわ」
ノアは倉の棚と毛布の厚みを見比べていた。
「置き場所、考えないといけませんね。右ソファ用にすると、ラウンジから動かなくなりそうです」
「置きっぱなしはいけませんの?」
「ルークさんが毎回たたむ未来が見えます」
「すでに見えています」
ルークが当然のように答えた。
私は膝の上の灰緑の毛布を撫でた。
昨日の毛布のような危険さはある。けれど、これは午後を全部奪うのではなく、午後を少し遅くする毛布だ。右ソファで本を読んで、途中で眠って、起きたらスープがある。そういう重さである。
「これにしますわ」
女商人は笑わなかった。
商売人の顔で、毛布の端をもう一度見た。
「すぐ使うなら、店で軽く払ってから持っていきな。倉の匂いが少し残ってる」
「その匂いも悪くありませんわ」
「悪くなくても、客室に入れるなら少し落とした方がいい。良い毛布は、使う場所の匂いに馴染ませるんだよ」
使う場所の匂い。
私は白銀列車のラウンジを思い浮かべた。
暖炉。
飴色の木。
少しだけ茶葉。
右ソファ。
ラヴェルの小布。
赤い根菜のスープの湯気。
これから、この毛布がそこに加わる。
ルークが支払いを済ませようとした時、女商人は毛布を革紐で巻き直しながら言った。
「一つ忠告。買った日に寝台へ入れるな。まずは昼に使いな」
「なぜですの?」
「夜の毛布にする前に、昼の顔を見ておくんだよ。寝台は逃げ場がない」
ノアが小声で言う。
「毛布屋さん、たまに怖いこと言いますね」
「冬を相手に商売してるからね」
女商人は聞こえていたらしく、さらりと返した。
灰緑の毛布は、ルークが抱えた。
抱えたというより、両腕で支えた。
私は持とうとしたが、三人に同時に止められた。
「お嬢様は手袋を」
「ティアは転ぶ」
「毛布に引っ張られますよ」
「毛布に引っ張られる令嬢とは何ですの」
女商人が声を上げて笑った。
「またおいで。冬の底になったら、深緑の方も見せてやるよ」
「冬の底」
魅力的だが、危険な響きだった。
今は、灰緑で十分である。十分、危険である。
◇
白銀列車へ戻る道で、市場の湯気が何度も足を止めようとした。
黒パンを焼く匂い。
燻製肉を炙る匂い。
根菜にバターを落とす匂い。
豆の煮込みに香草を散らす匂い。
毛布を買った直後だからか、どの匂いも「帰ってから食べるとおいしい」と言っているようだった。
アベルが燻製肉の店で、切り落としと塊を両方買った。
「両方ですの?」
「切り落としはすぐ使う。塊は煮込みにする」
「黒パンは?」
「買う」
「赤い根菜は?」
「買う」
「豆は?」
「ある。だが、市場のも買う」
ノアがその様子を見て、ぽつりと言った。
「毛布の話のはずなのに、荷物の半分が食べ物ですね」
「冬支度市場の正しい楽しみ方ですわ」
「毛布と食べ物で?」
「布で沈んで、湯気で戻るのです」
納得していない顔だったが、深く追及されなかった。
扉が閉まると、市場の音が一気に遠くなった。布を叩く音も、荷車のきしみも、湯気の向こうから聞こえた売り声も、防音ガラスの外へ沈む。
車内の暖気が頬に触れる。
帰ってきた。
ルークは入口で毛布を丁寧に払った。市場の埃と、倉の匂いを少し落とす。全部は消さない。少しだけ外の冬を残す。
「お嬢様、定位置へ」
「毛布も一緒にお願いしますわ」
「もちろんでございます」
右ソファに座ると、いつもの沈み込みが体を受け止めた。
ルークが灰緑の毛布を広げる。毛布は空気を含みながら、ゆっくり膝へ落ちた。
重い。
でも、嫌ではない。
体が静かになる重さだった。風干し小布は肘掛けに畳まれている。軽い布と重い毛布が、同じソファの上にいる。
ノアが窓側から見て、少し笑った。
「消えましたね、足」
「冬支度ですわ」
「そのまま一時間くらい戻ってこなさそうです」
「お茶があれば戻ります」
アベルが厨房側からカップを置いた。
「戻れるか試せ」
私は毛布の下から手を出し、カップを持った。
少し重い。けれど持てる。湯気が顔に当たり、指先が温まる。
「問題ありませんわ」
「じゃあ合格だ」
ルークが毛布の端を整えた。膝の上で、灰緑の布がきれいに落ち着く。右ソファの革の色とも、暖炉の火とも喧嘩しない。昨日までなかったものなのに、ずっと前からここに置かれる予定だったような顔をしている。
私はカップを一口飲んだ。
外で見た一番重い毛布は、まだ奥の倉にある。あれは冬の底で見るものだ。今日の毛布は、冬が来る前に膝へ置くものだった。
厨房から、燻製肉を切る音が聞こえた。
黒パンを焼く匂いもする。
今夜の食堂車は、きっと市場より清潔で、市場より逃げ場がない。
「この毛布、今夜までここに置いてよろしいですか」
私が聞くと、ルークは少しだけ考えた。
「仮置きとしては可能です。ただ、いつも置くなら専用の箱が必要でございます」
「箱」
「はい。毛布を押し込まず、埃を避け、右ソファから離れすぎない場所に」
ノアがすぐに言った。
「また市場ですね」
「毛布のためですもの」
アベルが厨房側から呆れた声を出した。
「明日は箱か」
「毛布には帰る家が必要ですわ」
私は灰緑の毛布を撫でた。
その重さは、もう少し白銀列車の匂いに馴染めば、きっと右ソファの一部になる。
明日は、この毛布の家を探しに行く。
一番重い毛布は、まだ奥の倉に残りました。
白銀列車へ来ることになったのは、右ソファで起きていられる灰緑の毛布です。
毛布にも、帰る場所が必要そうです。




