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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第8章 毛布と冬の煮込み編 ~冬支度の市場ヴィンター~

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066 一番重い毛布は、持ち上げる前から眠そうですわ

冬支度市場の奥の倉へ向かいます。

持ち上げる前から眠そうな毛布が、そこにありました。

「毛布を見る前に昼食を済ませるなど、人はどこまで毛布に負ける前提で動くのでしょうか」


 昼の食堂車で、私は深めの器を前にして言った。

 中身は、豆と干し肉と赤い根菜のスープである。昨日、ヴィンターの市場で見た大鍋に近いものを、アベルが白銀列車向けに整えてくれた。市場の匂いは残し、埃は入れない。たいへん正しい料理である。


 湯気が、器の縁からゆっくり上がっていた。

 赤い根菜は厚めに切られ、煮崩れる少し手前で止まっている。豆はやわらかく、干し肉の塩気を吸って、スプーンで押すとほろりと割れた。


 アベルは鍋をかき混ぜながら、まったく悪びれなかった。

「空腹で毛布を見ると負ける」

「毛布を見るだけですわ」

「昨日、触っただけで負けかけてただろ」

「……手が沈んだだけです」

「目も沈んでた」


 言い返そうとしたが、少し心当たりがあった。

 昨日の灰白の毛布は危険だった。指先を置いただけなのに、右ソファの午後が一枚ずつ消えていく気がした。もし空腹のまま見ていたら、毛布と鍋と湯気の区別がつかなくなっていたかもしれない。


 ノアは窓側の席で、市場の通りを眺めている。

「昨日より人が多いですね。昼になると、湯気の量も増えるんですか」

「湯気は人を呼びますもの」

「布も人を呼んでましたけど」

「冬支度市場は、布と湯気で人を捕まえる場所ですわ」


 ルークが私の外套を椅子の背に掛け、手袋の内側を確かめた。市場へ行く前から、私の装いは完成している。白銀列車の中は十分に暖かいので、これは防寒というより、外へ少しだけ冬を見に行くための準備だった。

「お嬢様、本日は長居なさいませんよう」

「奥の倉を見るだけですわ」

「昨日も、見るだけの予定で毛布へ手を伸ばされました」

「毛布の方から呼びました」

「では、本日は呼び声を聞きすぎないようお願いいたします」


 スープを一口飲むと、根菜の甘みと干し肉の塩気が舌に残った。外の市場では湯気に混じっていた埃が、ここにはない。暖炉の火が遠くでぱちりと鳴る。食堂車の窓の向こうで、ヴィンターの人々は今日も布を抱えて歩いていた。


 私は器を置いた。

「腹ごしらえは済みました。これで毛布に勝てますわ」

 アベルが短く笑った。

「勝とうとする相手じゃねえ。負け方を選ぶ相手だ」



 ヴィンターの市場は、昨日より少しだけ見慣れていた。

 布の匂い。薪の匂い。蜜蝋の甘い匂い。干し肉と豆を煮る湯気。黒パンを焼き直す焦げ目。人の肩と荷車の車輪。そこまでは同じなのに、今日は昨日ほど圧倒されない。


 たぶん、帰る場所があると分かっているからだ。


 それでも、湯気の屋台の前では足が少し止まる。

 鉄板の上で燻製肉の切れ端が焼かれ、脂が小さく跳ねていた。隣では黒パンに薄くチーズをのせ、火に近づけて表面だけを炙っている。さらに奥では、赤い根菜を皮ごと焼き、割ったところへ塩とバターを落としていた。

「……市場には、市場の誘惑がありますわね」

「食うなよ」

 アベルが先に言った。

「まだ何も」

「顔が食う顔だった」

「顔で読まれすぎではありませんこと?」

「ティアは食う時と寝る時、分かりやすい」


 ノアが小さく笑った。

「今日は毛布です。湯気の続きは、たぶんアベルさんが帰ってからですね」

「湯気の続き」

「市場で匂いだけ見せられて、車内でちゃんと食べるやつです」

「では、白銀列車でやるべきですわね」

「お嬢様、もう完全に帰る前提ですね」


 ルークは人の流れを見て、私を布屋の通りへ導いた。

「こちらです。毛布屋は昨日と同じ角にございます」


 女商人は、店先で大きな灰色の毛布を畳んでいた。赤茶の髪を布でまとめ、腕まくりをしている。私たちを見ると、口の端を上げた。

「来たね。昼飯は食べたかい」

「食べましたわ」

「いい判断だ。腹が空いてる客は、重い毛布を愛と勘違いする」


 すでに怖い話だった。


 女商人は店の奥へ布の暖簾を持ち上げた。

「奥の倉は狭い。全員で入るなら、商品には寄りかからないこと。寄りかかったら寝るよ」

「商品管理として、それはよろしいのですか」

「寝かせるための商品だからね」


 ノアが小声で言った。

「この町の商人、だいたい言葉が強いですね」

「冬を越す商売だからでしょう」


 私は、少しだけ緊張しながら暖簾をくぐった。



 奥の倉は、店先よりずっと静かだった。


 外の声が布に吸われて、くぐもっている。棚には丸めた毛布がぎっしり詰まり、天井近くまで積み上がっていた。木の棚、乾いた羊毛、防虫用の草、少しだけ蜜蝋。市場の埃っぽさとは違う、しまわれていた布の匂いがする。


 女商人が棚の一番下から、太い革紐で巻かれた深緑の毛布を引き出した。

 引き出したというより、床の上を少しずつ動かした。

「これが、一番重いやつだ」

「毛布の動かし方ではありませんわ」

「毛布だよ。冬の真ん中で、暖炉の火が落ちても朝まで逃がさない」


 白銀列車なら、夜中に火が弱まって震えることはない。

 寒さに備えるだけなら、ここまでの毛布は必要ない。


 それでも私は、その深緑から目を離せなかった。


 深緑の布は、畳まれているだけで重い。色が重い。空気が重い。そこだけ冬の底が置かれているようだった。


 ルークが手を伸ばそうとしたが、女商人が止めた。

「まずは端だけ。いきなり抱えると、重さしか分からない」


 私は言われた通り、端に指を置いた。

 昨日の灰白の毛布よりさらに深く、指が沈む。毛足は長すぎず、けれど内側に熱を隠している。触っているだけで、肩から力が抜けそうだった。


「……これは」


 試しに、女商人とルークが両側を持ち上げる。

 毛布は持ち上がった。

 だが、空気まで一緒に重くなった気がした。もし右ソファで膝に掛けられたら、たぶん紅茶のカップを持つ前にまぶたが落ちる。ページをめくるどころではない。夕食の匂いが来ても、起きられるか怪しい。


 私は深緑の毛布を見つめた。


「これは、眠るためではなく、起きないための毛布ですわ」


 アベルが吹き出しかけて、咳払いに変えた。

「朝飯まで消えるな」

「昼も怪しいです」


 ノアが真顔で頷いた。

「右ソファに置いたら、たぶんそこから動かせませんよ」

 ルークだけは真剣に毛布の端を見ていた。

「保温性は申し分ございません。ただ、お嬢様がご自身で払いのけるには重すぎます」

「払いのける必要がありますの?」

「ございます。お茶を飲む時、御本を取る時、夕食の際です」


 なるほど。

 毛布とは、ただ眠れるだけでは駄目らしい。

 白銀列車では、眠りながらもお茶が飲めて、本が取れて、夕食には戻ってこられなければならない。


 女商人は満足そうに頷いた。

「いい護衛だ。重い毛布を見て、まず逃げ道を考えた」

「逃げ道」

「本当に使う毛布には必要だよ。客を寝かせるだけなら簡単だ。起きた時に嫌われない重さにするのが難しい」


 私は深緑の毛布をもう一度見た。

 美しい。

 とても危険。

 だが、今の私には少し強すぎる。


「これは、私にはまだ早いですわ」

「冬の底でまた来な」


 女商人はあっさり言い、次の棚へ向かった。

「なら、右ソファ用だ。寝台用じゃなく、昼寝と読書用。重いけど、逃げられるやつ」

「逃げられる毛布」

「大事だよ。人も毛布も、逃げ道がないと嫌になる」



 次に出されたのは、灰緑色の毛布だった。

 昨日触った灰白より少し深い色で、縁に細い濃茶の布が縫い込まれている。派手ではない。棚に入っていると地味だが、手を置くと温度がゆっくり寄ってくる。


 女商人が低い椅子を出した。

「座ってみな。右ソファじゃないけど、膝に掛ければ分かる」


 ルークが椅子の脚を確かめてから、私を座らせた。そこまでしなくてもいいと思うが、毛布屋の奥の倉では何が起きるか分からない。私は大人しく座る。


 灰緑の毛布が膝に掛けられた。


 重い。

 けれど、押さえ込まれない。


 膝から太ももにかけて、じんわり温度が残る。手を動かすと少し抵抗はあるが、カップを持てないほどではない。本を取るために身を乗り出しても、たぶん戻ってこられる。

「重いのに、邪魔をしませんわ」

「それは当たりだね」


 女商人が指で縁を弾いた。

「中の毛を詰めすぎてない。重さはあるけど、真ん中に寄らない。右ソファってのに使うなら、こっちだ」


 ルークは裏地を撫で、縫い目を確かめ、毛抜けを見た。

「肌触りも問題ございません。端の処理もこちらの方が丁寧です」


 アベルは私の膝の上を見て、少しだけ目を細めた。

「それなら飯の時には戻ってこられそうだな」

「毛布を選ぶ基準が夕食なのですか」

「ティアには重要だろ」

「重要ですわ」


 ノアは倉の棚と毛布の厚みを見比べていた。

「置き場所、考えないといけませんね。右ソファ用にすると、ラウンジから動かなくなりそうです」

「置きっぱなしはいけませんの?」

「ルークさんが毎回たたむ未来が見えます」

「すでに見えています」

 ルークが当然のように答えた。


 私は膝の上の灰緑の毛布を撫でた。


 昨日の毛布のような危険さはある。けれど、これは午後を全部奪うのではなく、午後を少し遅くする毛布だ。右ソファで本を読んで、途中で眠って、起きたらスープがある。そういう重さである。


「これにしますわ」


 女商人は笑わなかった。

 商売人の顔で、毛布の端をもう一度見た。

「すぐ使うなら、店で軽く払ってから持っていきな。倉の匂いが少し残ってる」

「その匂いも悪くありませんわ」

「悪くなくても、客室に入れるなら少し落とした方がいい。良い毛布は、使う場所の匂いに馴染ませるんだよ」


 使う場所の匂い。

 私は白銀列車のラウンジを思い浮かべた。


 暖炉。

 飴色の木。

 少しだけ茶葉。

 右ソファ。

 ラヴェルの小布。

 赤い根菜のスープの湯気。


 これから、この毛布がそこに加わる。


 ルークが支払いを済ませようとした時、女商人は毛布を革紐で巻き直しながら言った。

「一つ忠告。買った日に寝台へ入れるな。まずは昼に使いな」

「なぜですの?」

「夜の毛布にする前に、昼の顔を見ておくんだよ。寝台は逃げ場がない」


 ノアが小声で言う。

「毛布屋さん、たまに怖いこと言いますね」

「冬を相手に商売してるからね」

 女商人は聞こえていたらしく、さらりと返した。


 灰緑の毛布は、ルークが抱えた。

 抱えたというより、両腕で支えた。


 私は持とうとしたが、三人に同時に止められた。

「お嬢様は手袋を」

「ティアは転ぶ」

「毛布に引っ張られますよ」

「毛布に引っ張られる令嬢とは何ですの」


 女商人が声を上げて笑った。

「またおいで。冬の底になったら、深緑の方も見せてやるよ」

「冬の底」


 魅力的だが、危険な響きだった。

 今は、灰緑で十分である。十分、危険である。



 白銀列車へ戻る道で、市場の湯気が何度も足を止めようとした。


 黒パンを焼く匂い。

 燻製肉を炙る匂い。

 根菜にバターを落とす匂い。

 豆の煮込みに香草を散らす匂い。


 毛布を買った直後だからか、どの匂いも「帰ってから食べるとおいしい」と言っているようだった。


 アベルが燻製肉の店で、切り落としと塊を両方買った。

「両方ですの?」

「切り落としはすぐ使う。塊は煮込みにする」

「黒パンは?」

「買う」

「赤い根菜は?」

「買う」

「豆は?」

「ある。だが、市場のも買う」


 ノアがその様子を見て、ぽつりと言った。

「毛布の話のはずなのに、荷物の半分が食べ物ですね」

「冬支度市場の正しい楽しみ方ですわ」

「毛布と食べ物で?」

「布で沈んで、湯気で戻るのです」


 納得していない顔だったが、深く追及されなかった。


 扉が閉まると、市場の音が一気に遠くなった。布を叩く音も、荷車のきしみも、湯気の向こうから聞こえた売り声も、防音ガラスの外へ沈む。

 車内の暖気が頬に触れる。


 帰ってきた。


 ルークは入口で毛布を丁寧に払った。市場の埃と、倉の匂いを少し落とす。全部は消さない。少しだけ外の冬を残す。

「お嬢様、定位置へ」

「毛布も一緒にお願いしますわ」

「もちろんでございます」


 右ソファに座ると、いつもの沈み込みが体を受け止めた。

 ルークが灰緑の毛布を広げる。毛布は空気を含みながら、ゆっくり膝へ落ちた。


 重い。

 でも、嫌ではない。


 体が静かになる重さだった。風干し小布は肘掛けに畳まれている。軽い布と重い毛布が、同じソファの上にいる。


 ノアが窓側から見て、少し笑った。

「消えましたね、足」

「冬支度ですわ」

「そのまま一時間くらい戻ってこなさそうです」

「お茶があれば戻ります」


 アベルが厨房側からカップを置いた。

「戻れるか試せ」


 私は毛布の下から手を出し、カップを持った。

 少し重い。けれど持てる。湯気が顔に当たり、指先が温まる。

「問題ありませんわ」

「じゃあ合格だ」


 ルークが毛布の端を整えた。膝の上で、灰緑の布がきれいに落ち着く。右ソファの革の色とも、暖炉の火とも喧嘩しない。昨日までなかったものなのに、ずっと前からここに置かれる予定だったような顔をしている。


 私はカップを一口飲んだ。


 外で見た一番重い毛布は、まだ奥の倉にある。あれは冬の底で見るものだ。今日の毛布は、冬が来る前に膝へ置くものだった。


 厨房から、燻製肉を切る音が聞こえた。

 黒パンを焼く匂いもする。

 今夜の食堂車は、きっと市場より清潔で、市場より逃げ場がない。


「この毛布、今夜までここに置いてよろしいですか」

 私が聞くと、ルークは少しだけ考えた。

「仮置きとしては可能です。ただ、いつも置くなら専用の箱が必要でございます」

「箱」

「はい。毛布を押し込まず、埃を避け、右ソファから離れすぎない場所に」


 ノアがすぐに言った。

「また市場ですね」

「毛布のためですもの」


 アベルが厨房側から呆れた声を出した。

「明日は箱か」

「毛布には帰る家が必要ですわ」


 私は灰緑の毛布を撫でた。

 その重さは、もう少し白銀列車の匂いに馴染めば、きっと右ソファの一部になる。


 明日は、この毛布の家を探しに行く。


一番重い毛布は、まだ奥の倉に残りました。

白銀列車へ来ることになったのは、右ソファで起きていられる灰緑の毛布です。


毛布にも、帰る場所が必要そうです。

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