065 冬支度の市場で、毛布の山に呼ばれましたわ
白銀列車は、今日も暖かいままです。
けれど窓の外の町は、冬を迎える準備でいっぱいでした。
「町全体が、冬に向かって布団をかぶろうとしていますわ」
窓の外を見て、私はそう言った。
ラヴェルの高原を出てから、車内にはまだ少しだけ風の名残があった。右ソファの肘掛けには、風干しの小布が畳まれている。薄く、軽く、草の匂いがして、触れると眠くなる。あの町の風は、白銀列車の中でずいぶん礼儀正しくなった。
けれど、窓の外はもう違う。
草の色は薄くなり、木々は葉を落とし、遠くの道には薪を積んだ荷馬車がゆっくり進んでいた。雪はまだ降っていない。吹雪でもない。けれど空気の色だけが、先に冬へ傾いている。
白銀列車の中は暖かい。
暖炉は穏やかに燃え、空調は静かに働き、床も壁も、冷えを寄せつけない。右ソファに座っている限り、寒さを我慢する必要などない。
だが、窓の外の町は違った。
町全体が、これから来る冬に備えている。
ノアが窓際で、外気を示す小さな計器をのぞいた。
「外気温、かなり下がっていますね。雪というより、冬支度の気温です」
「冬支度の気温」
「寒いと騒ぐには少し早い。でも油断すると、指先から負けるくらいです」
「それは、たいへん危険ですわ」
「お嬢様、車内では問題ございません」
ルークが当然のように言った。
私は深くうなずいた。
「ええ。白銀列車の中では問題ありません。だからこそ、外の冬支度を見物する余裕があるのです」
「見物」
ノアが小さく笑った。
「つまり、防寒しに行くんじゃなくて、冬っぽいものを見に行くんですね」
「正確には、冬っぽいものを見て、よいものがあれば車内に持ち帰ります」
「それ、買い物って言います」
アベルが厨房側から顔を出した。
「外、薪と干し肉の匂いがするな。市場か」
「食べ物ですの?」
「食べ物もある。だが、主役はたぶん布と燃料だ。冬前の市場は、腹より先に家を満たす」
家を満たす。
なんて魅力的な言葉だろう。
白銀列車はすでに満ちている。暖炉も、湯気も、右ソファもある。けれど、外の町が冬を迎えるために集めているものには、きっと別の楽しさがある。
「行きますわ」
「外套を厚手にいたします」
ルークは、私が立ち上がる前に黒い外套を用意していた。手袋も、首元の巻き布も、足元の靴も、いつもより冬寄りのものになっている。
「まだ雪は降っておりませんわよ」
「降ってからでは遅うございます」
「市場を見る前に、私が布に包まれて完成してしまいそうですわ」
「その場合は、そのままお運びいたします」
ノアが小さく笑った。
「冬支度市場に行く前から、もう冬支度されてますね」
◇
扉が開いた瞬間、乾いた冷気が頬に触れた。
氷港都市ノースガルドのような、肌を刺す寒さではない。温泉渓谷ユノハナの雪のような、足元から染みる寒さでもない。これは、もっと生活に近い冷えだった。
朝起きた時に寝台から出るのを迷わせる冷え。
袖の中へ指先を隠したくなる冷え。
暖かい部屋へ戻る理由を、静かに増やしてくる冷えである。
ヴィンターの市場は、町の広場から長い通りまで続いていた。
厚手の毛布。毛皮の縁取り。二重窓に吊るすための厚布。積まれた薪。蜜蝋の塊。乾いた豆。燻製肉。干し肉。赤い根菜。黒パン。大鍋から立つ湯気。
馬車の車輪が乾いた土をこすり、布を叩く音と、商人たちの声が重なっている。
町全体が、冬を迎えるための品物で膨らんでいた。
「これは……冬を待ち構えている町ですわね」
「逃げるんじゃなく、迎え入れる感じですね」
「迎え入れるのに、こんなに布と食べ物が必要ですの?」
「たぶん必要なんでしょうね。人間、寒いとだいたい布か鍋に頼りますから」
「正しい判断ですわ」
私は深くうなずいた。
無理に寒さへ立ち向かう必要はない。
包まれればいい。
煮込めばいい。
湯気の中へ逃げればいい。
歩き始めてすぐ、私はこの市場が楽しい場所であり、同時に長居に向かない場所だと理解した。
布の匂いは良い。薪の匂いも良い。蜜蝋の甘い匂いも、燻製肉の塩気も、根菜を煮る湯気も良い。
けれど人が多い。
荷物が多い。
通りの左右から毛布の端が迫り、誰かの抱えた薪がこちらへ傾き、足元には紐で束ねた布が置かれている。少し歩くだけで、外套の裾に細かな埃がついた。
「市場とは、冬を買う場所ですわ。住む場所ではありませんわね」
「お嬢様、こちらへ。荷車が通ります」
ルークが私の後ろ斜めから手を添え、通りの端へ寄せた。
荷車には、丸めた分厚い布が山ほど積まれている。
布というより、小さな丘だった。
その丘の向こうから、よく通る声が飛んできた。
「あら、寒がりの顔だね」
声の主は、布の山に半分埋もれるように立っている女商人だった。赤茶の髪を布でまとめ、腕まくりをしている。店先には、毛布、膝掛け、厚手の敷布、窓用の防寒布が、色ごと、厚みごと、用途ごとに積まれていた。
女商人は私の外套を見て、次にルークを見て、最後に私の手袋を見た。
「その巻き方は、守られてる寒がりだ。自分で寒さを我慢する気がない顔をしてる」
「我慢は、体に悪いですわ」
「いい答えだよ。冬支度市場で一番金を使う客の答えだ」
「防寒は間に合っております。欲しいのは、冬を眺めながら沈める布です」
女商人は一瞬だけ黙り、それから楽しそうに笑った。
「なるほど。外で戦う毛布じゃなく、暖かい部屋で負ける毛布か」
「負ける前提なのですか」
「良い毛布は、人を負かすよ」
ルークの目が、ほんのわずかに真剣になった。
「最高のものを」
「待ってくださいまし。まだ何も見ておりません」
「最高のものから見れば、下げる判断ができます」
「下げる予定がない声ですわ」
女商人は店の奥へ顎をしゃくった。
「なら、まず触るだけ触っていきな。買うかどうかは明日でもいい。冬前の毛布は、焦って買うと失敗する。軽すぎると朝方に逃げる。重すぎると起きられない。安いのは端から冷える。高いのは人をだめにする」
「最後のものが気になりますわ」
「だろうね」
店の奥に、毛布の山があった。
色は派手ではない。深い茶、くすんだ赤、灰がかった白、夜の森のような緑。どれも厚く、畳まれているだけなのに、すでに眠そうだった。
私は一番上に置かれた灰白の毛布へ、そっと手を伸ばした。
指が沈んだ。
布なのに、押し返してこない。ふわふわというより、じんわり受け止める。ラヴェルの風干しシーツが軽く眠らせる布なら、これは逃がさず眠らせる布だった。
「寝たら起きられない布ですわ」
アベルが後ろで低く笑った。
「危険物だな」
「危険です。たいへん危険ですわ。右ソファに置いたら、午後が消えます」
ノアが毛布の厚みを横から見て、真顔で言った。
「午後だけで済みますかね。下手すると夕食まで消えますよ」
「夕食は困りますわ」
「そこは困るんですね」
ルークは毛布の端を指先で確かめている。肌触り、縫い目、重さ、毛抜け、匂い。完全に護衛ではなく、寝具係の目だった。
「お嬢様の肌に触れるには、内側の処理が少し粗いものがあります。こちらの灰白と深緑は候補にできます」
「もう選別が始まっていますわ」
「当然でございます」
女商人はルークを見て、満足そうに腕を組んだ。
「いい目だね。贈り物で毛布を買う男は多いが、端の縫い戻しまで見る男は少ない」
「お嬢様の睡眠に関わりますので」
「なるほど。じゃあ奥の倉を開けるのは明日だ」
「奥の倉」
私はその言葉に反応してしまった。
女商人は、わざとらしく声を落とした。
「冬前にしか出さない、一番重いやつがある。持ち上げる前から眠くなる毛布だよ。今日は市場を一回りして、自分がどれくらい布に弱いか確認しておいで。いきなりあれを見ると、他が全部薄布に見える」
「それは……順番が大事ですわね」
「冬支度は順番だ。まず冷える。次に湯気を見る。それから、本当に必要な布が分かる」
妙に説得力があった。
◇
私たちはいったん毛布の山を離れた。
離れた、というより、ルークにそっと離された。
私がもう一度触ろうとしたからである。
その後、市場を少しだけ回った。
蜜蝋を売る店では、木棚用の艶出しと防湿の話を聞いた。
黒パンの店では、焼き直した厚切りに白い湯気が上がっていた。
燻製肉の店では、切り落としを鉄板で炙り、脂が小さく跳ねていた。
赤い根菜の屋台では、蜜のような甘い匂いが湯気に混じっている。
アベルが、そこで足を止めた。
「戻ったら、あれに近いものを作る」
「今すぐではありませんの?」
「市場の鍋は市場で食うからうまい。ただ、埃も一緒に食うことになる」
その言葉で、私は急に自分の鼻先がむずむずしていることに気づいた。
確かに、ここの湯気は魅力的だ。
だが、白銀列車の食堂車なら、同じ湯気をもっと安心して吸える。右ソファなら、同じ冬をもっと静かに味わえる。
「帰りましょう」
「早いですね」
「冬支度の市場は素敵です。でも、私は冬支度をした車内で食べる方が好きですわ」
「結局、帰る場所込みなんですね」
ノアが妙に納得した顔で言った。
アベルは燻製肉の店をもう一度見て、短く言う。
「干し肉と豆と赤い根菜を買って帰る。黒パンもだ」
「買うのですね」
「見たら食いたくなった」
「料理人も市場に負けていますわ」
「味で勝つ」
◇
白銀列車へ戻る頃には、指先が少し冷えていた。足は疲れ、外套には布埃がつき、髪にもどこか薪の匂いが移っている。
扉が閉まる。
外の声が、そこでふっと遠くなった。布を叩く音も、荷車のきしみも、市場の呼び声も、防音ガラスの向こう側へ沈む。
車内の暖気が頬に触れた瞬間、体の力が抜けた。
「お帰りなさいませ。外は冷えたでしょう」
ルークが外套を受け取り、袖についた細かな埃を見て眉を寄せた。
「市場は、布が多いほど埃も多うございます」
「布の国にも弱点がありましたわ」
「すぐ落とします。定位置、空いております」
私はその言葉を聞いて、まっすぐラウンジへ向かった。
右ソファは、いつも通り暖炉の右側にあった。
何も変わっていない。
けれど、さっき触った毛布の重さを知った後だと、今ある膝掛けが少しだけ軽く感じる。
私は沈み込んで、息を吐いた。
ノアは窓側で、外の市場を見ながら肩をすくめる。
「全部買ったら、たぶん一両埋まりますよ」
「一両、毛布と保存食の車両にするのはどうでしょう」
「真剣に検討しないでください」
厨房から、赤い湯気の匂いが来た。
干し肉、豆、赤い根菜、少しの香辛料。
アベルが深めの器を置く。
「市場の鍋より、埃は少ない」
「最高ですわ」
「熱いぞ。急ぐな」
スプーンを入れると、赤いスープの中で豆がほろりと崩れた。赤い根菜はやわらかく煮えて、舌の上で甘くほどける。干し肉の塩気が後から来て、体の内側にゆっくり火が入る。
外で冷えた指が、器の熱を受けて戻っていく。
湯気の向こうに、暖炉の火が揺れる。
ラヴェルの小布は、右ソファの肘掛けで静かに畳まれていた。
「冬は、外で少し見るくらいがちょうどいいのですわ」
アベルが鼻で笑った。
「食うのは中か」
「ええ。湯気も、毛布も、右ソファもある場所で」
「明日は奥の倉だろ」
「もちろんですわ」
ルークが静かに頷いた。
「お嬢様に合う毛布を確認いたします」
「買うとは言っておりません」
「候補を確認するだけでございますね」
ルークの声は、確認ではなく準備の声だった。
アベルが厨房側から言う。
「一番重いやつを見るなら、昼飯の後にしろ。空腹で見たら負ける」
「毛布に負けることがありますの?」
「ある。眠気と腹は、人を簡単に裏切る」
私はスープをもう一口飲んだ。
外はまだ本当の冬ではない。けれど町はもう冬を迎える準備をしている。白銀列車では、冬と戦う必要はない。ただ、外の冬を少しだけ見て、気に入ったものを持ち帰ればいい。
暖炉がぱちりと鳴った。
明日は、持ち上げる前から眠くなる毛布を見に行く。
冬支度市場に到着しました。
毛布の山と、湯気の立つ煮込み。
白銀列車へ持ち帰りたいものが、また増えそうです。




