063 【閑話】高原の洗濯屋は、走る客室が風を畳むのを見ていました
閑話です。
今回は、
風渡る高原ラヴェルの洗濯屋から見た白銀列車。
あの一行は、
高原の風をどう持ち帰ったのでしょう。
白銀列車が去ったあとも、ラヴェルの風は変わらず吹いていた。
草原を渡り、羊の毛を揺らし、石垣の上を抜け、洗濯場の白いシーツをふくらませる。
ぱん、と布が鳴る。
洗濯屋のマイラは、綱にかけたシーツの端を直しながら、遠ざかる銀色の車体を見ていた。
水でもない。
馬でもない。
帆でもない。
白い軌跡の上を、客室ごと走っていく不思議な乗り物。
港町の方では、走るホテルなどと呼ばれているらしい。
けれどマイラには、少し違って見えた。
あれは、宿よりも落ち着いていた。
船よりも静かだった。
ただの列車より、ずっと人の暮らしを積んでいた。
「……走る客室、ってところかね」
マイラが呟くと、手伝いの娘が隣で首を傾げた。
「走るホテルじゃなくてですか」
「ホテルは人を泊めるところだろう。あれは、泊まる人の場所ごと走ってる」
「よく分かりません」
「そのうち分かるよ」
娘は分かったような、分からないような顔をして、濡れた小布を綱にかけた。
風がすぐに布を持ち上げる。
マイラは慣れた手つきで、布の端を留め直した。
「強すぎるね。今日は早めに取り込むよ」
「はい」
風は良い。
けれど、良ければ良いほど、扱いを間違えると布が荒れる。
ラヴェルで洗濯屋をしていれば、それくらいは体で覚える。
だからこそ、あの白銀列車の令嬢が言った言葉を、マイラはまだ覚えていた。
高原の風を、寝台に少し持ち帰りたい。
変な言い方だ。
けれど、悪くなかった。
◇
最初に見た時、白銀列車の一行は、風に少し負けていた。
銀色の車体から降りてきた令嬢は、外套の裾を押さえ、前髪を気にしていた。黒い騎士は、その半歩横で風向きを見ている。若い男は窓の外を見比べるように周囲を眺め、料理人らしき男は風よりも食べ物のことを考えていそうな顔だった。
ラヴェルに来る旅人は、だいたい最初に同じ顔をする。
気持ちいい。
でも思ったより強い。
きれい。
でも長くいると疲れる。
高原の風は、眺めるには軽いが、浴び続けるには少し元気すぎる。
あの令嬢は、まさにその顔をしていた。
「高原の風は、気持ちいいですが、少し礼儀が足りませんわ」
そう言ったと聞いて、マイラは笑った。
風に礼儀。
ラヴェルの人間は、そんな言い方をしない。
けれど、分からなくはない。
風は、帽子を飛ばす。
紙をめくる。
干した布を暴れさせる。
前髪だって乱す。
気持ちいいくせに、こちらの都合はあまり聞かない。
たしかに、礼儀はあまりない。
ただ、風は悪いものではない。
扱い方を覚えれば、食べ物をおいしくもするし、布を軽くもするし、夕方の鈴を遠くまで運んでもくれる。
だからラヴェルの人間は、風と喧嘩しない。
少し笑って、少し避けて、少し使う。
あの令嬢も、それをすぐに覚えたらしい。
◇
草原サンドの日、マイラは洗濯場から石垣の方を見ていた。
白銀列車の一行が、低い石垣の影に腰を下ろしている。
黒い騎士が風上を見て、料理人が籠を開け、令嬢がサンドイッチを両手で持っていた。
浅い籠。
麦色のパン布。
赤い実の刺繍紐。
高原のものではない。
けれど、良い道具だった。
「あの布、どこのだろうね」
手伝いの娘が言った。
「水車町の方じゃないかね」
「どうして分かるんです?」
「色が小麦に近い。パンを包む顔をしてる」
「布にも顔がありますか」
「あるよ。毎日干していれば分かる」
娘は少し怪しい顔をした。
今はそれでいい。
布の顔は、濡れている時、乾いている時、畳まれる時、使われる時で違う。
あの麦色のパン布は、すでに何かを運んだ布だった。
新品の顔ではない。
朝のパンを受けたことがある布。
だから、草原の昼にも落ち着いていた。
ただ、風は容赦しない。
布の端がふわりと持ち上がる。
黒い騎士がすぐに押さえた。
マイラは思わず笑った。
「いい手だね」
「騎士さんのですか」
「そう。布を乱暴に押さえてない。布もパンも潰してない」
手伝いの娘は遠くの黒い騎士を見た。
「そこ、見ます?」
「洗濯屋だからね」
剣の腕は知らない。
身分も知らない。
けれど、布を押さえる手つきで、その人が何を大事にしているかは少し分かる。
あの騎士は、令嬢だけでなく、令嬢の昼食まで守っていた。
少し大げさだ。
でも、悪くなかった。
◇
香草バターの日には、乳屋の娘が話を持ってきた。
「白銀列車の人たち、小さい壺を買っていったよ」
「大きいのじゃなくて?」
「うん。料理人さんが、小さいのでいいって」
「分かってるね」
マイラは頷いた。
良い香りのものは、大きければいいわけではない。
高原の香りは、持ち帰りすぎると重くなる。
少しだけだから、懐かしくなる。
少しだけだから、食べる時に風を思い出す。
乳屋の娘は続けた。
「令嬢さんが、車内で食べる高原ですわ、って言ってた」
マイラは手を止めた。
「車内で食べる高原、か」
「変な言い方だけど、ちょっと良くない?」
「良いね」
あの令嬢は、外のものをそのまま持ち込もうとしない。
風そのものは車内に入れない。
草原そのものも入れない。
けれど、香草バターにして少し持ち帰る。
パン布で包んで少し持ち帰る。
それが上手い。
外を嫌っているのではない。
外に負けたくないだけでもない。
外の良いところを、あの走る客室の中で使いやすい形にしているのだ。
マイラはその時、少し興味を持った。
なら、布はどう見るのだろう。
風を食べ物にすることはできた。
では、風を寝具にすることは。
◇
その翌朝、白銀列車の令嬢は本当に洗濯場へ来た。
黒い騎士が足元を見て、若い男が干し場の布を興味深そうに見比べ、料理人は少し離れて風の匂いを嗅いでいる。
そして令嬢は、干し場のシーツを見上げて言った。
「風を含んだ寝具に興味があります」
マイラは、その言葉でこの客を気に入った。
高い布が欲しいわけではない。
白くて華やかな布を見せびらかしたいわけでもない。
風を含んだ寝具。
つまり、ラヴェルでしか見えないところを見に来たのだ。
「うちは風で乾かすだけじゃない。風で仕上げるんだよ」
そう答えると、令嬢の目が少し明るくなった。
分かる客の顔だった。
マイラは、あえて真っ白なシーツを最初にすすめなかった。
真っ白なものは見栄えがいい。
高級そうにも見える。
けれど、強い日差しの下で乾かした真っ白なシーツは、客室によっては少し目に強い。
あの銀色の客室なら、たぶん違う。
真っ白すぎない方がよい。
少し乳白色で、織り目が細かすぎず、風を含みやすいもの。
見た目では一番ではない。
けれど、眠るには向いている。
令嬢は、その布に触れた瞬間、目を閉じた。
「寝台に敷いたら、窓を開けていないのに高原が少しいますわ」
マイラは笑わなかった。
笑うより先に、少し驚いた。
その通りだったからだ。
窓を開けなくても、高原が少しいる。
風干しの布は、そういうものだ。
だが、それを一度触っただけの旅人に言われるとは思わなかった。
だから、マイラは売ってよいと思った。
大げさな客ではある。
妙な言い方をする。
けれど、布の使い道を見ている。
それなら、良い布を渡してもいい。
◇
夕方に、マイラは仕上げたシーツを白銀列車へ届けた。
展望車の外扉が開いた時、まず感じたのは静けさだった。
外では風が動いている。
草は揺れている。
羊の鈴も少し鳴っている。
けれど扉の内側では、それらが急に遠くなる。
完全に消えるわけではない。
薄い壁の向こうへ置かれる感じだった。
マイラは敷居の外で足を止めた。
黒い騎士が、乳白色のシーツを丁寧に受け取る。
扉の向こうには、右側のソファが見えた。
小卓。
薄い布。
整えられた棚。
小さな壺。
パン籠。
見える範囲だけでも、物の置き場所が決まっているのが分かった。
散らかっていない。
でも、冷たくもない。
誰かが暮らすために整えてある部屋だった。
マイラは、少しだけ感心した。
「仕上がったよ」
黒い騎士が受け取った乳白色のシーツを、扉の内側の灯りへそっと運ぶ。
車内の光を受けると、布は外で見た時よりやわらかく見えた。
ずっと寝台に近い顔をしている。
令嬢は、まるで宝石でも見るように布を見つめた。
黒い騎士が丁寧に広げる。
料理人が香りを確かめる。
若い男が目を丸くする。
その全員が、布をただの布として見ていなかった。
令嬢は言った。
「これは、白銀列車で眠れる高原ですわ」
マイラは、その言葉をしばらく忘れないだろうと思った。
白銀列車で眠れる高原。
つまり、この布はきちんと届いたのだ。
高原の風を、客室の中で使える形にして渡せた。
それは洗濯屋として、かなり嬉しいことだった。
◇
翌朝、白銀列車の一行はまた洗濯場へ来た。
令嬢の顔は、前日より少しやわらかかった。
よく眠れた顔だ。
洗濯屋は、そういう顔も分かる。
寝具が合わなかった客は、朝に少し眉間が硬い。
柔らかすぎた時も、冷えた時も、香りが強すぎた時も、顔に出る。
あの令嬢には、それがなかった。
むしろ、風を少しだけ内側へしまってきたような顔だった。
「昨夜は眠れたかい?」
マイラが聞くと、令嬢は嬉しそうに答えた。
「ええ。とても。外の風より、ずっと礼儀正しい風でした」
マイラは笑った。
風は礼儀知らず。
布にすると礼儀正しい。
その言い方は、やはり変だ。
でも、分かる。
布にすると、風は人の肌へ合わせる。
直接吹きつける風ではなく、眠る人の体を軽くする風になる。
それはたぶん、洗濯屋が毎日している仕事だ。
「布にすると、風も少し丸くなるからね」
マイラが言うと、令嬢はとても納得した顔をした。
良い客だった。
金払いの話ではない。
高価なものを買ったからでもない。
こちらの仕事が、どう使われるのかまで見てくれる客。
そういう客は、職人の気分を少し良くする。
◇
白銀列車が出発する時、マイラは洗濯場から見送った。
令嬢は、最後に草原を見て、羊の方も見て、洗濯場へ少し頭を下げた。
黒い騎士は相変わらず風向きを見ている。
若い男は、銀色の客室と草原を交互に見ていた。
料理人は乳屋から追加の小さな壺を受け取っていた。
荷物は多くない。
あの客室に入っていったものは、どれも軽い。
香草バター。
乾いた香草。
風干しシーツ。
枕元用の小布。
そして、少し風を覚えたパン籠。
けれど、マイラには分かる。
軽いものほど、長く残ることがある。
匂い。
肌触り。
寝る前の空気。
朝に布を畳む手の感覚。
そういうものは、大きな荷物よりも深く暮らしに入る。
白銀列車が、りぃん、と澄んだ音を立てた。
車輪の下に、白い軌跡が静かに生まれる。
草原の向こうへ、列車の行く先だけが細く開いていく。
銀色の客室がゆっくり動き出す。
がたん。
ごとん。
がたん。
ごとん。
風に押されるわけでもなく、風を切るわけでもなく、ただ静かに高原を離れていく。
マイラは、干し場の前で腕を組んだ。
「行ったねえ」
手伝いの娘が隣で言った。
「シーツ、気に入ってましたね」
「気に入ってた。あれは使われるよ」
「どこでですか」
「どこかの夜でさ」
白銀列車は、次の土地へ行く。
その土地には、ラヴェルとは違う風があるのだろう。
雨かもしれない。
森かもしれない。
雪かもしれない。
知らない。
けれど、あの寝台には、ラヴェルで仕上げたシーツが一枚ある。
それは、少し誇らしい。
◇
白銀列車が見えなくなってから、洗濯場にはいつもの風が戻った。
ぱん、とシーツが鳴る。
手伝いの娘が、さっきより少し丁寧に布の端を伸ばしていた。
「どうしたんだい」
マイラが聞くと、娘は少し照れたように言った。
「あの客室で眠れる高原、って言われたの、ちょっと良かったので」
「気に入ったのかい」
「はい。そういうふうに仕上げられたら、いいなって」
マイラは少し笑った。
悪くない。
言葉ひとつで、手つきが少し変わることがある。
白銀列車は、風干しシーツを買っていった。
けれど、それだけではなかった。
布を見る目を、少し置いていった。
「なら、今日は端をよく見るんだよ」
「端ですか」
「端が丸まってると、寝台で気持ち悪い。風を含ませるなら、真ん中だけじゃ駄目だ」
「はい」
娘は、さっきより真剣に布を直した。
風が、またシーツをふくらませる。
今度の布は、白銀列車へは行かない。
近くの宿へ行くかもしれない。
牧場主の家へ戻るかもしれない。
旅人の寝台に敷かれるかもしれない。
それでよい。
どこで使われても、布は布だ。
眠る人の肌に触れ、夜を少し軽くする。
その仕事に変わりはない。
◇
昼前、乳屋の娘が洗濯場へ顔を出した。
「白銀列車、行っちゃったね」
「行ったよ」
「香草バター、追加で買っていった」
「シーツもちゃんと持っていったよ」
「なんだか、風を買いに来たみたいだったね」
マイラは少し考えた。
風を買う。
それは違う気がした。
風は売れない。
高原の風そのものは、誰のものでもない。
ただ、風を受けた布や、風の斜面で育った香草や、風の中で食べた昼の記憶は、人の手で持ち帰れる形になる。
「風を買ったんじゃないよ」
マイラは言った。
「風を畳んでいったんだ」
乳屋の娘は一瞬きょとんとした。
それから笑った。
「それ、いいね」
「だろ」
洗濯屋としては、なかなか良い言い方だった。
白銀列車は、ラヴェルの風をそのまま持っていったわけではない。
シーツに含ませ、香草バターに移し、パン籠の布に少し残し、羊の鈴を記憶に入れて、静かに畳んでいった。
それが、あの走る客室らしい持ち帰り方だった。
◇
午後になると、風がまた強くなった。
マイラは干していたシーツを早めに取り込んだ。
強すぎる風は、仕上げではなく荒らしになる。
そこを見極めるのが仕事だ。
手伝いの娘が、取り込んだ布を抱えながら言った。
「この布も、どこかで眠れる高原になりますかね」
「なるように畳むんだよ」
「畳み方も大事ですか」
「当たり前だろう。干して終わりじゃない。畳んで、渡して、使われるまでが布の仕事だ」
娘は素直に頷いた。
マイラは、乳白色のシーツを一枚持ち上げた。
白銀列車へ渡したものとは別の布だ。
けれど、今日の風を含んでいる。
きちんと畳めば、これもどこかの寝台で軽くなる。
マイラはその布の端を合わせながら、銀色の客室を思い出した。
右側のソファ。
黒い騎士。
周囲をよく見ていた若い男。
香りを確かめる料理人。
そして、風に前髪を乱されながらも、高原の風を気に入っていた令嬢。
変な客だった。
でも、良い客だった。
あの客室は、風を畳んで走っていった。
マイラはそう思いながら、シーツをきれいに重ねた。
ラヴェルの風は、今日も草原を渡っている。
白銀列車はもう見えない。
けれど、どこかの夜で、あの乳白色のシーツが静かに広げられる。
その時、眠る人のそばに、高原の風が少しだけいるのだろう。
洗濯屋としては、それで十分だった。
第7章閑話でした。
高原の洗濯屋から見た白銀列車です。
白銀列車は、
風を買ったのではなく、
風を畳んで持っていきました。
これで第7章完結です。
次章は、
また別の快適へ向かいます。




