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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第7章 草原サンドと風干しシーツ編 ~風渡る高原ラヴェル~

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062 風は、持ち帰ると優しくなりますわ

草原サンド。


香草バター。


風干しシーツ。


夕方の羊の鈴。


ラヴェルで受け取ったものは、

どれも軽くて、

風の匂いがしました。


今日は、

出発前の整理です。

 ラヴェルで迎える最後の朝は、思ったより静かだった。


 窓の外では、草原が朝の光を受けている。

 昨日より風は弱く、羊たちもまだ遠くの柵の近くで固まっていた。洗濯場には、白いシーツが何枚か干され始めている。昼になれば、また風を含んで大きくふくらむのだろう。

 私は右ソファに座り、膝の上に畳まれた風干しシーツを見ていた。

 乳白色の布。

 草の匂いは、昨日より少し薄い。

 けれど、顔を近づけると、まだラヴェルの風が残っている。

「……昨日より、少し白銀列車の匂いになりましたわね」

 ノアが窓側から振り返った。

「シーツの話ですか?」

「ええ。昨日は高原の風そのものでした。今日は、白銀列車の寝台と少し馴染んでいます」

「寝具も馴染むんですね」

「馴染みますわ。道具ですもの」

 ルークが寝台車から戻ってきた。

「お嬢様、風干しシーツの一式目は寝台用として大切に保管いたします。二式目は予備棚へ。枕元用の小布は、右ソファ用と寝台用に分けるのがよろしいかと」

「もう置き場所が決まっていますのね」

「はい。香りが薄くなりましたら、風のよい日に干し直す形で」

「ラヴェル以外でもできますの?」

「完全に同じ香りにはならないかと存じます。ですが、風を通すだけでも布は軽くなります」

 完全に同じではない。

 それは少し寂しい。

 でも、悪いことではない気がした。

 ラヴェルの風は、ここで受け取ったものだ。

 次の土地では、また違う風が入る。

 白銀列車の寝具は、少しずつ旅の空気を覚えていくのかもしれない。

 アベルが厨房側から声をかけた。

「朝は軽くいくぞ。高原パンに、香草バターを少しだけ」

「まあ。今日は使ってよろしいの?」

「最後の朝だからな。ただし、薄くだ」

「分かっています。強すぎると風が騒ぎますものね」

「そこまで言ってねえ」

 でも、たぶん近い。

 香草バターは、高原の風を食べ物にしたようなものだ。

 塗りすぎると、きっと朝が元気になりすぎる。

 最後の朝には、少しだけでよい。



 ラウンジには、ラヴェルのものが場所を分けて置かれていた。

 小卓には、小さな香草バターの壺と乾いた香草の小瓶。

 右ソファの横には、枕元用の小布。

 寝台車へ運ぶために、乳白色の風干しシーツが丁寧に畳まれている。

 そして、ミューレから来たパン籠。

 パン籠だけは前の町のものだ。

 けれど、草原サンドを経て、すっかりラヴェルにも関わっている顔になっていた。

「パン籠も、少し高原を知りましたわね」

 私が言うと、ノアが笑った。

「ミューレ出身、ラヴェル経験ありですね」

「良い経歴ですわ」

「道具に経歴がついてきた」

「旅道具ですもの」

 アベルが高原パンを薄く切り、軽く温めた。

 そこへ、香草バターをほんの少し塗る。

 昨日より薄い。

 けれど、香りはちゃんと立つ。

 高原パンの湯気に乗って、草の青さと乳の丸さが静かに広がった。

「……これくらいが朝ですわね」

「昨日より控えめだろ」

「ええ。昨日は昼の味でした。今日は出発前の朝の味です」

「分かるような、分からねえような」

 アベルはそう言いながらも、何も直さなかった。

 私はひと口食べた。

 軽いパン。

 薄い香草バター。

 草原の香り。

 昨日よりずっと静かだ。

 外で食べた草原サンドのように、風が頬を通るわけではない。羊に見られることもない。けれど、口の奥に高原の名残がほんの少し残る。

「……最後の朝に、ちょうどよいですわ」

 ルークが温かい乳を置く。

「冷えすぎませんように」

「ありがとう」

 温かい乳を飲むと、香草バターの青さが少し丸くなる。

 梟の灯の夜のミルクとは違う。

 ラヴェルの朝のミルク。

 それは、眠るためではなく、出発する前に体を整える味だった。



 朝食を終えたあと、片付けが始まった。

 香草バターの壺は、冷所の小棚へ。

 乾いた香草は、香りが移らないよう蓋つきの陶器へ。

 風干しシーツは、寝台用の棚へ。

 枕元用の小布は、右ソファの近くと寝台車に一枚ずつ。

 パン籠は、麦色のパン布を軽く払ってから、朝食道具の棚へ戻された。

 どれも大きな荷物ではない。

 けれど、ひとつずつ収まっていくと、白銀列車の中にラヴェルの居場所ができていく。

「物が増えているのに、散らかってはいませんわね」

 私が言うと、ルークが静かに頷いた。

「役目のあるものは、置き場所が決まれば散らかりません」

「役目がないものは?」

「お嬢様のお目に触れないところで整理いたします」

「捨てるとは言わないのですね」

「まずは確認いたします」

 さすがである。

 白銀列車に暮らしを増やすには、置き場所が必要だ。

 ただ買って、ただ積むだけでは、快適は増えない。

 ガラス器にも棚があった。

 パン籠にも棚がある。

 香草バターにも、風干しシーツにも、それぞれの場所がいる。

 ノアが小卓の上を見回した。

「ラヴェルの風、あちこちに居場所ができましたね」

「居場所」

「パン籠は昼にも出るようになりましたし、香草バターは冷所に入りました。風干しシーツは寝台へ行って、羊の鈴は窓辺の夕方に残りました」

「並べると、なかなか多いですわね」

「でも、全部小さいです」

「そこが良いのです」

 大きな家具を増やしたわけではない。

 大きな部屋を作ったわけでもない。

 けれど、昼が少し軽くなり、眠りが少し風を含み、朝の味が少し高原になった。

 どれも、白銀列車の暮らしを少し軽くしてくれた。



 出発前に、私はもう一度だけ外へ出た。

 長く歩くつもりはない。

 洗濯場と草原を、少しだけ見ておきたかった。

 ルークが薄い外套を整え、ノアが少し後ろからついてくる。アベルは香草バターの店へ最後の確認に行くと言って、同じ道を歩いていた。

 風は穏やかだった。

 昨日までのように、前髪を乱しに来るほどではない。

 それでも、草を揺らし、シーツをふくらませ、羊の毛を少し動かしている。

「今日は礼儀がありますわね」

 私が言うと、ルークが真面目に頷いた。

「この程度であれば、お嬢様のお髪にも大きな影響はございません」

「風への評価が、完全に髪基準になっていますわ」

「重要な基準でございます」

 否定はしない。

 洗濯場では、あの女がシーツを干していた。

 こちらに気づくと、片手を上げる。

「昨夜は眠れたかい?」

「ええ。とても。外の風より、ずっと礼儀正しい風でした」

 洗濯屋の女は声を出して笑った。

「布にすると、風も少し丸くなるからね」

「また干し直せば、香りは戻りますの?」

「戻るよ。ただし、同じにはならない。次に干した場所の風も混ざる」

「それは、それで良いですわね」

 女は少し意外そうにした。

「同じじゃなくてもいいのかい?」

「同じでなくても、気持ちよく眠れるなら良いです。白銀列車は旅をしていますもの」

「なるほど。寝具も旅をするわけだ」

「ええ」

 寝具も旅をする。

 その言い方は、かなり気に入った。

 風干しシーツは、ラヴェルだけのものでは終わらない。

 次の土地の風にも当たる。

 そのたびに、少しずつ変わる。

 それなら、白銀列車の寝台は、旅の記憶をとても薄く、でも確かに重ねていくのかもしれない。



 草原の方では、牧童が羊を柵の外へ出していた。

 昨日の夕方に聞いた鈴が、朝は少し違う音で鳴っている。

 からん。

 ころん。

 夕方より軽い。

 帰るための音ではない。

 これから出ていく音だ。

「朝の鈴は、少し元気ですわね」

 牧童がこちらを見て笑った。

「朝は草を食いに行く音だからね」

「夕方は帰る音でした」

「そう。朝は出る音。夕方は戻る音」

「分かりやすいですわ」

 私は羊の群れを見た。

 今日は食べ物を持っていないので、羊たちは特にこちらを気にしていない。

 少し寂しいような。

 安全なような。

 たぶん、安全な方がよい。

「もう行くのかい?」

 牧童が聞いた。

「ええ。そろそろ」

「じゃあ、次は風の弱い日に来るといい。昼飯が食いやすい」

「風の弱い日を選べますの?」

「選べない」

「では、どうすれば」

「来た日に風が弱ければ当たり」

 結局、風次第である。

 私は笑ってしまった。

「ラヴェルらしいですわね」

「風の町だからな」

 その答えで、十分だった。



 香草バターの乳屋にも寄った。

 アベルが小さな壺をもうひとつ受け取っている。

「追加ですの?」

「冷所で持つ分だ。今朝の状態を見た。もう一つくらいなら使える」

 店番の女が笑う。

「列車の中でも、香りが逃げなかったかい?」

「ちょうどよかったです。外の草原とは違いますけれど、車内で食べる高原になりました」

「それならよかった」

 女は小さな乾燥香草の束も渡してくれた。

「おまけだよ。風が恋しくなった日に、少しだけ使いな」

「風が恋しくなる日」

「あるよ。風が強い日は文句を言うけど、ない日が続くと寂しくなる」

 少し分かる気がした。

 ラヴェルの風は、初日は前髪を乱した。

 昼食では布を飛ばしかけた。

 でも、出発する朝になると、その風を少し名残惜しく感じている。

 勝手なものだ。

 でも、旅とはたぶんそういうものなのだろう。

「大事に使います」

「使いすぎないようにね」

「アベルにも言われました」

「なら大丈夫だね」

 店番の女は、アベルを見てうなずいた。

 アベルは短く言った。

「使いすぎる前に止める」

「頼もしいですわね」

「お前が止まらない時があるからな」

 失礼である。

 でも、香草バターについては否定しきれない。



 白銀列車へ戻ると、出発の支度はほとんど整っていた。

 風干しシーツは棚へ。

 香草バターは冷所へ。

 乾いた香草は小瓶へ。

 パン籠は朝食道具の棚へ。

 右ソファには、枕元用の小布が一枚だけ置かれている。

 その小布に触れると、草の匂いがほんの少しした。

 私は右ソファに座り、外を見た。

 ラヴェルの草原。

 羊。

 石垣。

 洗濯場の白いシーツ。

 風に回る小さな風車。

 どれも、初日に見た時より少し近く感じる。

 もう少しいてもよい。

 けれど、ちょうど良いところで出るのも大事だ。

 風は、浴びすぎると疲れる。

 香草バターは、塗りすぎると強い。

 羊の鈴も、外で長く聞くと冷える。

 ラヴェルは、少し持ち帰るくらいが一番よい場所なのだと思う。

「白銀列車を走らせます」

 私が言うと、ルークが頷いた。

「承知いたしました」

「次の行き先は、まだ決めません」

 ノアが少し笑う。

「また感覚で?」

「ええ。今は風を畳んだばかりですもの。次の気分は、走りながら考えます」

 私は運転室へ向かった。

 水晶盤に手を置く。

 淡い光が広がり、車輪の下で白い軌跡が静かにほどけた。

 草原の向こうへ、列車の行く先だけが細く開いていく。



 白銀列車が動き出した。

 がたん。

 ごとん。

 がたん。

 ごとん。

 ラヴェルの風が、窓の外を流れていく。

 草原が後ろへ下がる。

 羊の群れが小さくなる。

 洗濯場の白いシーツが、遠くで一度大きくふくらんだ。

 まるで見送るようだった。

 私は右ソファへ戻り、枕元用の小布を膝に置いた。

 直接風を浴びるわけではない。

 でも、小布には高原の匂いが少し残っている。

 香草バターは棚にある。

 風干しシーツもある。

 パン籠は昼にも働けるようになった。

 夕方の羊の鈴は、まだ耳の奥に少し残っている。

 ラヴェルは、強い風の町だった。

 けれど、白銀列車に残ったものは、どれもやわらかい。

「風は、持ち帰ると優しくなりますわね」

 私が言うと、ノアが窓の外を見ながら頷いた。

「直接だと前髪を乱すのに」

「そこは忘れません」

「ですよね」

 アベルが厨房側から声をかける。

「次に香草バターを使うのは、少し間を空けるぞ」

「分かっています」

「本当に?」

「……少しだけなら」

「駄目だな」

 私は小さく笑った。

 ルークが右ソファの横に立ち、枕元用の小布を見た。

「お嬢様、こちらは本日のお昼寝時にお使いになりますか」

「使います」

「承知いたしました」

 もう、次の使い道が決まっている。

 旅の道具は、こうして白銀列車の暮らしに入っていく。


 外の風を、内側で優しく使えるようになった。


 窓の外で、草原の緑が遠ざかる。

 白いシーツの影はもう見えない。

 羊の鈴も聞こえない。


 それでも、白銀列車の寝台には風干しシーツがあり、小さな棚には香草バターの壺がある。


 風渡る高原ラヴェルは、白銀列車の中で、少しだけ眠れる風になった。

第7章本編完結です。


草原サンド。

香草バター。

風干しシーツ。

羊の鈴。


ラヴェルの風は、

外では少し元気すぎました。


けれど、

白銀列車に持ち帰ると、

昼食にも寝台にも使える、

やさしい風になりました。


次回は閑話です。

高原の洗濯屋から見た白銀列車です。

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