062 風は、持ち帰ると優しくなりますわ
草原サンド。
香草バター。
風干しシーツ。
夕方の羊の鈴。
ラヴェルで受け取ったものは、
どれも軽くて、
風の匂いがしました。
今日は、
出発前の整理です。
ラヴェルで迎える最後の朝は、思ったより静かだった。
窓の外では、草原が朝の光を受けている。
昨日より風は弱く、羊たちもまだ遠くの柵の近くで固まっていた。洗濯場には、白いシーツが何枚か干され始めている。昼になれば、また風を含んで大きくふくらむのだろう。
私は右ソファに座り、膝の上に畳まれた風干しシーツを見ていた。
乳白色の布。
草の匂いは、昨日より少し薄い。
けれど、顔を近づけると、まだラヴェルの風が残っている。
「……昨日より、少し白銀列車の匂いになりましたわね」
ノアが窓側から振り返った。
「シーツの話ですか?」
「ええ。昨日は高原の風そのものでした。今日は、白銀列車の寝台と少し馴染んでいます」
「寝具も馴染むんですね」
「馴染みますわ。道具ですもの」
ルークが寝台車から戻ってきた。
「お嬢様、風干しシーツの一式目は寝台用として大切に保管いたします。二式目は予備棚へ。枕元用の小布は、右ソファ用と寝台用に分けるのがよろしいかと」
「もう置き場所が決まっていますのね」
「はい。香りが薄くなりましたら、風のよい日に干し直す形で」
「ラヴェル以外でもできますの?」
「完全に同じ香りにはならないかと存じます。ですが、風を通すだけでも布は軽くなります」
完全に同じではない。
それは少し寂しい。
でも、悪いことではない気がした。
ラヴェルの風は、ここで受け取ったものだ。
次の土地では、また違う風が入る。
白銀列車の寝具は、少しずつ旅の空気を覚えていくのかもしれない。
アベルが厨房側から声をかけた。
「朝は軽くいくぞ。高原パンに、香草バターを少しだけ」
「まあ。今日は使ってよろしいの?」
「最後の朝だからな。ただし、薄くだ」
「分かっています。強すぎると風が騒ぎますものね」
「そこまで言ってねえ」
でも、たぶん近い。
香草バターは、高原の風を食べ物にしたようなものだ。
塗りすぎると、きっと朝が元気になりすぎる。
最後の朝には、少しだけでよい。
◇
ラウンジには、ラヴェルのものが場所を分けて置かれていた。
小卓には、小さな香草バターの壺と乾いた香草の小瓶。
右ソファの横には、枕元用の小布。
寝台車へ運ぶために、乳白色の風干しシーツが丁寧に畳まれている。
そして、ミューレから来たパン籠。
パン籠だけは前の町のものだ。
けれど、草原サンドを経て、すっかりラヴェルにも関わっている顔になっていた。
「パン籠も、少し高原を知りましたわね」
私が言うと、ノアが笑った。
「ミューレ出身、ラヴェル経験ありですね」
「良い経歴ですわ」
「道具に経歴がついてきた」
「旅道具ですもの」
アベルが高原パンを薄く切り、軽く温めた。
そこへ、香草バターをほんの少し塗る。
昨日より薄い。
けれど、香りはちゃんと立つ。
高原パンの湯気に乗って、草の青さと乳の丸さが静かに広がった。
「……これくらいが朝ですわね」
「昨日より控えめだろ」
「ええ。昨日は昼の味でした。今日は出発前の朝の味です」
「分かるような、分からねえような」
アベルはそう言いながらも、何も直さなかった。
私はひと口食べた。
軽いパン。
薄い香草バター。
草原の香り。
昨日よりずっと静かだ。
外で食べた草原サンドのように、風が頬を通るわけではない。羊に見られることもない。けれど、口の奥に高原の名残がほんの少し残る。
「……最後の朝に、ちょうどよいですわ」
ルークが温かい乳を置く。
「冷えすぎませんように」
「ありがとう」
温かい乳を飲むと、香草バターの青さが少し丸くなる。
梟の灯の夜のミルクとは違う。
ラヴェルの朝のミルク。
それは、眠るためではなく、出発する前に体を整える味だった。
◇
朝食を終えたあと、片付けが始まった。
香草バターの壺は、冷所の小棚へ。
乾いた香草は、香りが移らないよう蓋つきの陶器へ。
風干しシーツは、寝台用の棚へ。
枕元用の小布は、右ソファの近くと寝台車に一枚ずつ。
パン籠は、麦色のパン布を軽く払ってから、朝食道具の棚へ戻された。
どれも大きな荷物ではない。
けれど、ひとつずつ収まっていくと、白銀列車の中にラヴェルの居場所ができていく。
「物が増えているのに、散らかってはいませんわね」
私が言うと、ルークが静かに頷いた。
「役目のあるものは、置き場所が決まれば散らかりません」
「役目がないものは?」
「お嬢様のお目に触れないところで整理いたします」
「捨てるとは言わないのですね」
「まずは確認いたします」
さすがである。
白銀列車に暮らしを増やすには、置き場所が必要だ。
ただ買って、ただ積むだけでは、快適は増えない。
ガラス器にも棚があった。
パン籠にも棚がある。
香草バターにも、風干しシーツにも、それぞれの場所がいる。
ノアが小卓の上を見回した。
「ラヴェルの風、あちこちに居場所ができましたね」
「居場所」
「パン籠は昼にも出るようになりましたし、香草バターは冷所に入りました。風干しシーツは寝台へ行って、羊の鈴は窓辺の夕方に残りました」
「並べると、なかなか多いですわね」
「でも、全部小さいです」
「そこが良いのです」
大きな家具を増やしたわけではない。
大きな部屋を作ったわけでもない。
けれど、昼が少し軽くなり、眠りが少し風を含み、朝の味が少し高原になった。
どれも、白銀列車の暮らしを少し軽くしてくれた。
◇
出発前に、私はもう一度だけ外へ出た。
長く歩くつもりはない。
洗濯場と草原を、少しだけ見ておきたかった。
ルークが薄い外套を整え、ノアが少し後ろからついてくる。アベルは香草バターの店へ最後の確認に行くと言って、同じ道を歩いていた。
風は穏やかだった。
昨日までのように、前髪を乱しに来るほどではない。
それでも、草を揺らし、シーツをふくらませ、羊の毛を少し動かしている。
「今日は礼儀がありますわね」
私が言うと、ルークが真面目に頷いた。
「この程度であれば、お嬢様のお髪にも大きな影響はございません」
「風への評価が、完全に髪基準になっていますわ」
「重要な基準でございます」
否定はしない。
洗濯場では、あの女がシーツを干していた。
こちらに気づくと、片手を上げる。
「昨夜は眠れたかい?」
「ええ。とても。外の風より、ずっと礼儀正しい風でした」
洗濯屋の女は声を出して笑った。
「布にすると、風も少し丸くなるからね」
「また干し直せば、香りは戻りますの?」
「戻るよ。ただし、同じにはならない。次に干した場所の風も混ざる」
「それは、それで良いですわね」
女は少し意外そうにした。
「同じじゃなくてもいいのかい?」
「同じでなくても、気持ちよく眠れるなら良いです。白銀列車は旅をしていますもの」
「なるほど。寝具も旅をするわけだ」
「ええ」
寝具も旅をする。
その言い方は、かなり気に入った。
風干しシーツは、ラヴェルだけのものでは終わらない。
次の土地の風にも当たる。
そのたびに、少しずつ変わる。
それなら、白銀列車の寝台は、旅の記憶をとても薄く、でも確かに重ねていくのかもしれない。
◇
草原の方では、牧童が羊を柵の外へ出していた。
昨日の夕方に聞いた鈴が、朝は少し違う音で鳴っている。
からん。
ころん。
夕方より軽い。
帰るための音ではない。
これから出ていく音だ。
「朝の鈴は、少し元気ですわね」
牧童がこちらを見て笑った。
「朝は草を食いに行く音だからね」
「夕方は帰る音でした」
「そう。朝は出る音。夕方は戻る音」
「分かりやすいですわ」
私は羊の群れを見た。
今日は食べ物を持っていないので、羊たちは特にこちらを気にしていない。
少し寂しいような。
安全なような。
たぶん、安全な方がよい。
「もう行くのかい?」
牧童が聞いた。
「ええ。そろそろ」
「じゃあ、次は風の弱い日に来るといい。昼飯が食いやすい」
「風の弱い日を選べますの?」
「選べない」
「では、どうすれば」
「来た日に風が弱ければ当たり」
結局、風次第である。
私は笑ってしまった。
「ラヴェルらしいですわね」
「風の町だからな」
その答えで、十分だった。
◇
香草バターの乳屋にも寄った。
アベルが小さな壺をもうひとつ受け取っている。
「追加ですの?」
「冷所で持つ分だ。今朝の状態を見た。もう一つくらいなら使える」
店番の女が笑う。
「列車の中でも、香りが逃げなかったかい?」
「ちょうどよかったです。外の草原とは違いますけれど、車内で食べる高原になりました」
「それならよかった」
女は小さな乾燥香草の束も渡してくれた。
「おまけだよ。風が恋しくなった日に、少しだけ使いな」
「風が恋しくなる日」
「あるよ。風が強い日は文句を言うけど、ない日が続くと寂しくなる」
少し分かる気がした。
ラヴェルの風は、初日は前髪を乱した。
昼食では布を飛ばしかけた。
でも、出発する朝になると、その風を少し名残惜しく感じている。
勝手なものだ。
でも、旅とはたぶんそういうものなのだろう。
「大事に使います」
「使いすぎないようにね」
「アベルにも言われました」
「なら大丈夫だね」
店番の女は、アベルを見てうなずいた。
アベルは短く言った。
「使いすぎる前に止める」
「頼もしいですわね」
「お前が止まらない時があるからな」
失礼である。
でも、香草バターについては否定しきれない。
◇
白銀列車へ戻ると、出発の支度はほとんど整っていた。
風干しシーツは棚へ。
香草バターは冷所へ。
乾いた香草は小瓶へ。
パン籠は朝食道具の棚へ。
右ソファには、枕元用の小布が一枚だけ置かれている。
その小布に触れると、草の匂いがほんの少しした。
私は右ソファに座り、外を見た。
ラヴェルの草原。
羊。
石垣。
洗濯場の白いシーツ。
風に回る小さな風車。
どれも、初日に見た時より少し近く感じる。
もう少しいてもよい。
けれど、ちょうど良いところで出るのも大事だ。
風は、浴びすぎると疲れる。
香草バターは、塗りすぎると強い。
羊の鈴も、外で長く聞くと冷える。
ラヴェルは、少し持ち帰るくらいが一番よい場所なのだと思う。
「白銀列車を走らせます」
私が言うと、ルークが頷いた。
「承知いたしました」
「次の行き先は、まだ決めません」
ノアが少し笑う。
「また感覚で?」
「ええ。今は風を畳んだばかりですもの。次の気分は、走りながら考えます」
私は運転室へ向かった。
水晶盤に手を置く。
淡い光が広がり、車輪の下で白い軌跡が静かにほどけた。
草原の向こうへ、列車の行く先だけが細く開いていく。
◇
白銀列車が動き出した。
がたん。
ごとん。
がたん。
ごとん。
ラヴェルの風が、窓の外を流れていく。
草原が後ろへ下がる。
羊の群れが小さくなる。
洗濯場の白いシーツが、遠くで一度大きくふくらんだ。
まるで見送るようだった。
私は右ソファへ戻り、枕元用の小布を膝に置いた。
直接風を浴びるわけではない。
でも、小布には高原の匂いが少し残っている。
香草バターは棚にある。
風干しシーツもある。
パン籠は昼にも働けるようになった。
夕方の羊の鈴は、まだ耳の奥に少し残っている。
ラヴェルは、強い風の町だった。
けれど、白銀列車に残ったものは、どれもやわらかい。
「風は、持ち帰ると優しくなりますわね」
私が言うと、ノアが窓の外を見ながら頷いた。
「直接だと前髪を乱すのに」
「そこは忘れません」
「ですよね」
アベルが厨房側から声をかける。
「次に香草バターを使うのは、少し間を空けるぞ」
「分かっています」
「本当に?」
「……少しだけなら」
「駄目だな」
私は小さく笑った。
ルークが右ソファの横に立ち、枕元用の小布を見た。
「お嬢様、こちらは本日のお昼寝時にお使いになりますか」
「使います」
「承知いたしました」
もう、次の使い道が決まっている。
旅の道具は、こうして白銀列車の暮らしに入っていく。
外の風を、内側で優しく使えるようになった。
窓の外で、草原の緑が遠ざかる。
白いシーツの影はもう見えない。
羊の鈴も聞こえない。
それでも、白銀列車の寝台には風干しシーツがあり、小さな棚には香草バターの壺がある。
風渡る高原ラヴェルは、白銀列車の中で、少しだけ眠れる風になった。
第7章本編完結です。
草原サンド。
香草バター。
風干しシーツ。
羊の鈴。
ラヴェルの風は、
外では少し元気すぎました。
けれど、
白銀列車に持ち帰ると、
昼食にも寝台にも使える、
やさしい風になりました。
次回は閑話です。
高原の洗濯屋から見た白銀列車です。




