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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第7章 草原サンドと風干しシーツ編 ~風渡る高原ラヴェル~

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061 夕方の羊の鈴は、窓越しに聞くくらいがよろしいですわ

風干しシーツを手に入れました。


高原の風は、

寝台に敷くと、

たいへん礼儀正しくなります。


では夕方。


今度は、

羊の鈴を少し聞いてみます。

 夕方のラヴェルは、昼よりも音が少なかった。


 風はまだ吹いている。草も揺れている。けれど、昼間のように白いシーツを大きくふくらませるほどではない。

 高原全体が、少しずつ夜へ向けて声を落としているようだった。

 私は右ソファに座り、窓の外を見ていた。

 草原の向こうから、羊たちが戻ってくる。

 白い背中。

 茶色い耳。

 ときどきこちらを見る丸い顔。

 そして、首元の小さな鈴。

 からん。

 ころん。

 音は、昼より近く聞こえた。

 窓越しだから、強くはない。

 けれど、遠すぎもしない。

 草原の夕方にちょうどよい小さな音として、車内まで届いてくる。

「……この音、よろしいですわね」

 私が言うと、ノアが窓側で頷いた。

「昼より落ち着いて聞こえますね」

「ええ。昼は風と一緒に来ましたけれど、夕方は鈴だけが少し残ります」

「外で聞きます?」

「少しだけ迷います」

 迷う。

 かなり迷う。

 外で聞けば、もっとはっきり聞こえるだろう。草の匂いも濃いはずだ。夕方の光も、羊の背中も、きっと近くで見ると美しい。

 ただし、外には風がある。

 そして羊もいる。

 昨日の昼食防衛戦を思い出すと、私は少しだけ慎重になる。

「ルーク」

「はい」

「夕方の外は、どうでしょう」

 ルークは窓の外を見た。

「風は昼より落ち着いております。ですが、気温が少し下がっております。長く外にいらっしゃるには、薄い肩掛けが必要かと」

「羊は?」

「近づきすぎなければ問題ないかと存じます。ただし、食べ物をお持ちにならない方がよろしいでしょう」

「食べ物は持ちません」

 そこは学んだ。

 羊は見ているだけだと聞いた。

 だが、たぶんがつく生き物である。

 こちらも油断してはいけない。

 アベルが厨房側から声をかけた。

「夕方に外で食うなよ」

「食べません。今日は聞くだけです」

「ならいい。戻ったら温かい乳でも出す」

「羊の鈴を聞いたあとに?」

「ああ。冷えすぎないように」

 たいへん良い。

 夕方の羊の鈴。

 そのあとに、温かい乳。

 ラヴェルらしい流れである。



 外へ出ると、夕方の風は確かに昼よりやわらかかった。

 強くない。

 でも、しっかり涼しい。

 高原の空気は、日が傾くと急に軽さの中へ冷たさを混ぜてくるらしい。

 ルークが肩掛けを整えてくれる。

「お嬢様、首元を少しお守りいたします」

「お願いします。昼の風とは違いますわね」

「夕方の風でございますので」

「風にも時間帯がありますのね」

「ラヴェルでは、あるようでございます」

 草地は、金色に近づいていた。

 昼は明るい緑だった草が、夕方の光で少し深くなる。

 低い石垣の影も長い。

 羊たちは牧童に追われるわけでもなく、ゆっくりと柵の方へ戻っていた。

 からん。

 ころん。

 鈴の音が、近づいたり遠ざかったりする。

 ノアが少し後ろで言った。

「思ったより静かですね」

「羊が落ち着いていますもの」

「昼食を見ていた時より、ずっと穏やかです」

「食べ物を持っていないからかもしれません」

 羊は、こちらを一度見た。

 それから、草へ目を戻した。

 今日は、敵ではないらしい。

 ありがたいことである。

 昨日の牧童が、石垣の向こうから手を上げた。

「夕方の鈴を聞きに来たのかい?」

「ええ。昼より静かで、気になりました」

「この時間はいいよ。羊も人も腹が決まってるからね」

「腹が決まっている?」

「もう帰るだけってこと」

 なるほど。

 腹が決まるとは、そういう意味なのか。

 たしかに、昼の羊は食べ物を探していた気がする。

 夕方の羊は、もう帰る場所へ向かっている。

 だから鈴の音まで落ち着いているのだろう。


「帰るための鈴ですのね」


 私が言うと、牧童は少し笑った。

「そうだな。どこにいるか分かるように鳴ってる」

「迷子にならないため?」

「羊も、人も」

 その答えは、少しだけ胸に残った。



 柵のそばには、小さな木の腰掛けがあった。

 牧童が使うものらしい。

 ルークが許可を確認し、薄い布を敷いてくれた。

 私はそこへ腰を下ろす。

 草原が、昼より近く見える。

 羊たちの背中が、夕方の光でやわらかく光っていた。

 鈴の音は、ひとつではない。

 少し高い音。

 少し低い音。

 近い音。

 遠い音。

 ばらばらに鳴っているのに、不思議とうるさくない。

「……合奏ではありませんのに、まとまっていますわね」

 ノアが隣で耳を澄ます。

「みんな同じ方へ帰っているからですかね」

「同じ方へ帰る音」

「たぶん」

 たぶん。

 また出た。

 けれど、今のたぶんは悪くない。

 羊たちは、それぞれ草を食べたり、歩いたり、立ち止まったりしている。

 それでも少しずつ同じ方向へ進んでいる。

 鈴の音も、それに合わせてゆっくり動いている。

 私はその音を聞きながら、白銀列車のことを考えた。

 白銀列車は、次の場所へ行ける。

 どこへ向かっても、帰る場所ごと走っている。

 右ソファがある。

 寝台がある。

 パン籠がある。

 ガラス器がある。

 眠り草ミルクティーも、香草バターも、風干しシーツもある。

 帰る場所ごと走っているから、私は外へ出られるのかもしれない。

「羊の鈴は」

 私は小さく言った。


「帰る場所がある音ですわね」


 牧童が少しだけこちらを見た。

 それから、頷いた。

「いい言い方だな」

 私は羊を見ていた。

 夕方の鈴は、昼の音とは違う。

 見つけるための音。

 帰るための音。

 迷わないための音。

 それなら、窓越しに聞いても、十分に届く気がした。



 しばらく聞いていると、体が少し冷えてきた。

 寒いほどではない。

 けれど、肩掛けの内側へもう少し入りたくなる。

 ルークがすぐに気づいた。

「お嬢様、そろそろ車内へお戻りください」

「もう少しだけ」

「もう少しであれば、こちらで」

 ルークは肩掛けを少し深くかけ直した。

 風が首元へ入りにくくなる。

 それだけで、少し楽になった。

 私はもう一度、鈴の音へ耳を澄ませる。

 からん。

 ころん。

 からん。

 音が少しずつ遠くなる。

 羊たちは柵の奥へ入っていく。

 牧童が門を開け、最後の一頭がのんびりと入った。

 その一頭だけ、こちらを見た。

 昨日、私のサンドイッチを見ていた羊かもしれない。

 確証はない。

 でも、少しそう思った。

「今日は見ているだけでしたわね」

 私が言うと、ノアが笑った。

「サンドイッチがなかったので」

「やはり食べ物目当てでしたのね」

「たぶん」

「便利なたぶんですわ」

 牧童が門を閉めた。

 鈴の音は、柵の中へ収まっていく。

 外の草原は、急に少し広くなったように見えた。

 羊がいないと、風の音が増える。

 逆に言えば、羊の鈴は、風の中に小さな居場所を作っていたのかもしれない。

「戻りましょう」

 私は立ち上がった。

「今のままが、ちょうどよいです」

 ルークがすぐに手を差し出す。

「お手を」

「ありがとう」

 長居しすぎない。

 良い音を、良いところで切り上げる。

 それもたぶん、快適の一部である。



 白銀列車へ戻ると、車内の灯りが少し暖かく見えた。

 外の夕方を見たあとだからだろう。

 扉が閉まる。

 風が遠くなる。

 羊の匂いも、草の冷えも、外に残る。

 けれど、鈴の音だけは、窓越しにまだ少し届いていた。

 からん。

 ころん。

 とても小さい。

 さっきよりずっと遠い。

 でも、車内で聞くと、これはこれで良かった。

「窓越しの方が、少し眠くなりますわね」

 ノアが頷く。

「外だと、風とか寒さも一緒に来ますからね」

「ええ。音だけ少し来るのが、今はちょうどよいです」

 アベルが温かい乳を持ってきた。

 白い陶器のカップ。

 湯気は細く、香りはやわらかい。

 今日はミルクティーではない。

 香草も入っていない。

 ただの温かい乳。

 それが、夕方の鈴のあとにはちょうどよかった。

「甘くしますの?」

「ほんの少しだけな」

 アベルが蜂蜜をほんの少し落とした。

 混ぜすぎない。

 甘すぎない。

 口に含むと、体の冷えがゆっくりほどけた。

「……これは、羊の鈴の後味ですわね」

「飲み物に後味を背負わせるな」

「でも、そうです。夕方の外から戻った体に、ちょうどよいです」

 アベルは反論しなかった。

 窓の外では、羊の群れが小屋の方へ入っていく。

 牧童の影も、少しずつ遠くなる。

 鈴の音は、さらに小さくなった。

 ルークが窓の側に立ち、カーテンを少しだけ調整した。

「閉じますか?」

 私が尋ねると、ルークは首を横に振った。

「まだ少しだけ、鈴の音がございますので」

「分かってくださるのね」

「はい。今は、完全に閉じるより、少し残す方がよろしいかと」

 その通りだった。

 外を閉じ切るには、まだ早い。

 でも、開きすぎる必要もない。

 夕方の羊の鈴は、窓越しに聞くくらいがちょうどよい。



 夜が近づくにつれて、ラヴェルの草原は暗くなっていった。

 羊小屋の方に小さな灯りがつく。

 洗濯場の白いシーツはもう取り込まれている。

 草原を渡る風だけが、まだ窓の外で動いている。

 私は右ソファで、温かい乳を飲み終えた。

 今日の寝台には、風干しシーツが敷かれている。

 草原サンドがあり、香草バターがあり、風干しシーツがある。

 そして夕方には、羊の鈴を聞いた。

 高原のものが、少しずつ時間ごとに分かれてきた。

 昼は風と草の味。

 夕方は帰る鈴。

 夜は風干しシーツ。

 ラヴェルは、ただ風が気持ちいい場所ではない。

 風が強すぎる時もある。

 羊に見られる時もある。

 外は少し冷える。

 でも、それぞれの時間に、ちょうどよく受け取る方法がある。

「……この町は、時間で音が変わりますわね」

 ノアが窓の外へ目を戻した。

「昼は風。夕方は鈴。夜は布の匂いですか」

「ええ。明日の朝は、何でしょう」

「出発前なら、草の朝露とか?」

「朝露」

 少し惹かれる。

 ただし、濡れるのは困る。

 ルークが即座に言った。

「お嬢様、朝露の草地へ入るのはおすすめいたしません」

「まだ何も言っていませんわ」

「お顔に少し出ておりました」

「私の顔は、今日も働きすぎです」

 朝露。

 風干しシーツ。

 香草バター。

 羊の鈴。

 ラヴェルには、まだ少し気になるものがある。

 けれど、だらだら試し続けるのは違う。

 二泊三日。

 この高原を楽しむには、それくらいがきっとよい。

 明日は、風干しシーツを整え、香草バターをしまい、パン籠を確認して、次へ向かう日だろう。



 その夜、寝台に入ると、風干しシーツは昨日より少し白銀列車になじんでいた。

 草の匂いは、まだ少しだけ残っている。

 強くはない。

 枕元の小布にも、同じ匂いが薄くある。

 私は目を閉じた。

 遠くで、羊の鈴が一度だけ鳴った気がした。

 実際に聞こえたのか、夕方の記憶だったのかは分からない。

 でも、どちらでもよかった。

 あの音は、帰る場所がある音だった。

 白銀列車には、右ソファがある。

 寝台がある。

 風干しシーツがある。

 パン籠がある。


 帰る場所が、次の場所まで一緒に来てくれる。


 だから、私はまた外へ出られるのですわ。


 そう思うと、夜の高原が少しだけ近くなった。

 外では風が草原を渡っている。

 中では、風干しシーツが静かに体を受け止めている。

 夕方の羊の鈴は、もう聞こえない。

 けれど、その小さな音は、眠る前の白銀列車に、しばらく残っていた。

夕方の羊の鈴回でした。


昼の高原は風。

夕方の高原は鈴。

夜の高原は風干しシーツ。


羊の鈴は、

外で聞くと少し冷えますが、

窓越しに聞くと、

かなり眠れます。


次回、

ラヴェルを出る前に、

風干しシーツと香草バターを整えます。

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