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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第7章 草原サンドと風干しシーツ編 ~風渡る高原ラヴェル~

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59/84

059 香草バターは、風を塗るためのものですわ

草原サンドは、

風との勝負でした。


パン籠は、

朝だけでなく昼にも働けると分かりました。


ただ、

高原の味を白銀列車へ持ち帰るには、

もうひとつ必要なものがあります。

 草原サンドの匂いは、まだパン籠に少しだけ残っていた。


 麦色のパン布を軽く払っても、草の香りが全部消えるわけではない。

 香草バターと、高原パンと、風に揺れた草の匂い。

 それらがほんの少しだけ混ざって、籠の内側に残っている。

 私は右ソファに座り、その籠を見つめていた。

「……これは、昨日より働いた顔をしていますわね」

 ノアが窓側から振り返る。

「朝食道具から昼食道具になりましたからね」

「ええ。風対策も覚えました」

「籠が経験値を積んでますね」

「良い道具とは、使われながら賢くなるものですわ」

 アベルが厨房側で、昨日の残りの高原パンを見ていた。

 草原で食べた時と同じパンである。

 けれど、車内で見ると少し落ち着いて見える。外の風と羊の視線がないだけで、ずいぶん穏やかな食材になるらしい。

「今日は外には出ないのですか?」

 私が尋ねると、アベルはパンを軽く叩いた。

「午前は出る。ただし、今日はサンドを食いに行くんじゃない。香草バターを買いに行く」

「昨日の、あの良い香りのものですわね」

「あれがないと、ただの高原パンになる」

「ただの高原パンでも美味しいのでは?」

「美味い。でも、昨日の味にはならない」

 なるほど。

 パンは大事。

 籠も大事。

 布も大事。

 けれど、ラヴェルの高原らしさを舌に残していたのは、たしかにあの香草バターだった。

 ルークが静かに言った。

「お嬢様、本日は風が昨日より強いようでございます」

「また前髪への礼儀が足りない日ですの?」

「その可能性がございます」

「では、短時間ですわね」

「はい。香草バターを求め、速やかに戻るのがよろしいかと」

 短時間で買う。

 車内へ戻る。

 高原の味を、白銀列車で確かめる。

 それはとても正しい。

 昨日、外で食べた草原サンドは素晴らしかった。けれど、風に布を押さえ、羊の視線を受け、前髪を守りながら食べる昼食は、少し忙しい。


 今日は、高原の味だけを車内へ持ち帰る日である。


   ◇


 ラヴェルの午前の風は、昨日より元気だった。

 草原は大きく揺れている。羊たちは低い場所へ集まり、白いシーツは干し場でぱん、と音を立ててふくらんでいた。

 白銀列車の扉を開けた瞬間、風が外套の裾を持ち上げる。

「……今日は、かなり元気ですわね」

 私は片手で前髪を押さえた。

 ルークがすぐに風上へ立つ。

「お嬢様、こちら側を」

「ルークが風よけになっていますわ」

「必要であれば」

 必要である。

 私はルークの陰に少し入りながら、集落の方へ歩いた。

 香草バターを売っているのは、牧草地の端にある小さな乳屋だとノアが調べてくれていた。羊乳チーズや、温めた乳、干し草の香りがするバターを扱っているらしい。

「乳屋という響きだけで、かなり高原ですわね」

「前に、夜の駅で甘いホットミルクを飲みましたけど、あれとはだいぶ方向が違いますね」

「あれは眠るためのものですわ。こちらは、パンをおいしくするためのものです」

「飲む方じゃなくて、塗る方ですしね」

「同じ乳でも、夜と昼で役目が変わるのですわ」

 梟の灯で飲んだ甘いミルクは、夜を静かにする味だった。

 ラヴェルの乳は、昼のパンを高原の味にするためのものらしい。

 そういう違いは、悪くない。

 乳屋の前には、小さな木の看板が出ていた。丸い壺の絵と、草の束の絵が描かれている。扉の横には、風で乾かしたらしい布袋が並び、店の中からは、乳の甘い匂いと香草の青い匂いが流れてきた。

 これは、当たりである。


   ◇


 店の中は、外よりずっと静かだった。

 厚い木の壁のおかげで、風の音が少し遠くなる。棚には小さな壺が並び、白いチーズ、黄色みのあるバター、乾いた香草の束が置かれていた。

 店番は、丸い頬をした若い女だった。

 手には木べらを持っている。こちらを見ると、すぐにアベルの方を見た。

「料理人さんかい?」

「まあな。昨日、草原サンドに使った香草バターを見たい」

「ああ、石垣の影で食べてた人たちだね。羊が見てた」

「見られていましたわ」

 私は思わず言った。

 女は笑った。

「あの子たちは、食べ物があると見るんだよ。取らないけどね。たぶん」

「ラヴェルの人は、羊について必ず『たぶん』をつけますのね」

「羊だからね」

「理由になっています?」

「だいたい」

 だいたい。

 この高原の人々は、風と羊に対して少し寛容すぎる。

 アベルは棚の壺を見ていた。

「昨日のは、どれだ」

「これ。朝に練ったやつ。山芹と風草を少し入れてある」

「風草?」

「風が強い斜面に生える草だよ。香りは軽いけど、入れすぎると青くなる」

「昨日のは、入れすぎてない」

「でしょう?」

 女は少し得意そうに笑った。

 アベルが壺の蓋を開ける。

 香りが、ふわりと広がった。

 乳の甘さ。

 バターの丸さ。

 香草の青さ。

 けれど、梟の灯の眠り草茶のような真面目な青さではない。もっと明るく、草原に近い青さだった。

「……昨日の草原ですわ」

 私は小さく言った。

 店番の女が目を丸くする。

「食べる前から?」

「香りで分かります。昨日、サンドイッチを食べた時、風の中でこの匂いがしました」

「それは嬉しいね」

 アベルは短く頷いた。

「買う」

「早いですわ」

「迷う理由がない」

 この返事は、どこかで聞いたことがある。

 マリーノの牡蠣の時だ。

 良いものを見つけた時のアベルは、とても早い。


   ◇


 ただ、今回は壺の大きさで少し迷った。

 大きな壺。

 中くらいの壺。

 小さな壺。

 どれも同じ香草バターらしいが、白銀列車で使うには量が大事である。

「大きいものは駄目ですの?」

 私が言うと、アベルは首を横に振った。

「香りが飛ぶ。毎日食うもんじゃない。小さい壺でいい」

「毎日食べても良い香りですのに」

「毎日だと飽きる」

「そんな」

「いいものほど、使う時を選べ」

 厳しい。

 でも正しい気もする。

 香草バターは、ただの常備品ではなく、高原の味を思い出すためのものだ。毎朝なんとなく塗っていたら、たぶん特別さが薄れてしまう。

 店番の女も頷いた。

「小さい壺がいいよ。風の強い昼とか、草の匂いが欲しい朝に少しだけ使うといい」

「草の匂いが欲しい朝」

「列車の中にいると、たまに外の匂いが欲しくなるんじゃない?」

 私は少し驚いた。

 この人は、かなり分かっている。

 白銀列車は快適だ。

 けれど、窓の外を全部いらないと思ったことはない。

 海の匂いも、水車の音も、高原の風も、少しだけなら車内にあっていい。

「ええ。外の良いところを、少しだけ欲しいのです」

 私が答えると、店番の女は笑った。


「なら、小さい壺だね。大きい壺は、店の味になる。小さい壺は、旅の味になる」


 その言葉は、かなり良かった。

 アベルも反論しなかった。

「小さいのを二つだな。一つはすぐ使う。もう一つは冷やして持つ」

「パン籠に入れる?」

「いや、バターは別だ。籠が香りすぎる」

 パン籠が香りすぎる。

 それは少し困る。

 麦色のパン布には、草原サンドの名残が少しだけあればいい。壺ごと入れて、ずっと香草バターの匂いになってしまうのは違う。

 生活道具には、距離感が必要である。


   ◇


 支払いを済ませると、店番の女が小さな布袋を出してくれた。

 薄い緑の紐で結ばれている。

「壺が転がらないようにね。列車なら揺れないかもしれないけど、風の町の品だから、一応」

「風の町の品は、転がりやすいのですか」

「気分としてね」

「少し分かる気がしますわ」

 風の町で買ったものは、少し動きたがる。

 そんな気がする。

 ルークが布袋を受け取り、傾かないように持った。

「車内では冷所に保管いたします」

「冷やしすぎると硬くなるよ」

「承知いたしました。使う前に戻します」

「番犬さん、バターにも丁寧だね」

「お嬢様の昼食に関わりますので」

 店番の女は、にこにこと笑った。

「白銀列車の人たちは、食べ物を大事にするんだね」

「食べ物だけではありませんわ」

「そうなの?」

「食べ物が気持ちよくあるための器や布や籠も大事です」

「なるほど。昨日のパン籠の話、聞いたよ」

「もうですの?」

「高原は風で話が早く飛ぶからね」

 それは噂という意味なのか、本当に風が運ぶという意味なのか。

 少し迷ったが、聞かないことにした。

 ノアが店の棚を見ながら言う。

「この香草、乾燥させたものもあります?」

「あるよ。バターほど強くないけど、スープや卵に少し入れると高原っぽくなる」

「買っておきます?」

「買う」

 アベルが即答した。

 香草バターだけでなく、乾いた香草も少し。

 これで、高原の味を車内で再現しやすくなる。

 ただし、やりすぎると香りが強くなりすぎる。そこはきっとアベルが調整してくれる。

「港で買ったガラス器は、棚に置くと重みがありました」

 私は棚の香草を見て言った。

「麦町のパン籠は、朝食の場所を決めてくれました」

「今回は香りですか」

「ええ。ラヴェルで持ち帰るものは、軽いのですわ」

 けれど、香りがある。

 風の町らしい持ち帰り方だった。


   ◇


 店を出ると、風がまた前髪に触れてきた。

 今度は、行きより少し強い。

 ルークが即座に立ち位置を変え、私の正面へ風が当たりすぎないようにする。

「お嬢様、戻りましょう」

「ええ。香草バターは手に入りましたもの」

 草原では、羊が昨日と同じように草を食べている。

 遠くの石垣の影が見えた。

 昨日、草原サンドを食べた場所である。

 今日はそこへは行かない。

 少し名残惜しい。

 でも、今日は外で食べる日ではない。

 香草バターを持ち帰って、車内で高原の味を確かめる日だ。

 白銀列車へ戻る道で、洗濯屋らしき女が白いシーツを干していた。

 風が布の中へ入り、ぱん、と広がる。

 その布が、昨日より気になって見えた。

「明日は、あちらですわね」

 私が言うと、ノアが頷く。

「風干しシーツですね」

「香草バターは味。あのシーツは、眠りですわ」

「高原の風、だいぶ持ち帰られそうですね」

「直接浴びると前髪が乱れますから」

「やっぱりそこなんですね」

 そこは大事である。

 風そのものは気持ちいい。

 けれど、持ち帰るなら、味や布に移しておく方が扱いやすい。

 ラヴェルの風は、外で浴びるより、白銀列車の中でほどよく使う方が合っている気がした。


   ◇


 車内へ戻ると、すぐに香草バターの試しが始まった。

 アベルは昨日の高原パンを軽く温め、薄く切った。

 香草バターの壺を開ける。

 車内で嗅ぐと、外で嗅いだ時より香りがはっきり分かる。風に流されない分、乳の甘さと草の青さが静かに立つ。

 小さなナイフで、ほんの少しだけ塗る。

 薄く。

 広げすぎない。

 パンの熱でバターが少し溶け、香草の匂いがふわりと上がった。

「……もう美味しそうですわ」

「食ってから言え」

「香りで半分始まっています」

「昨日も似たようなこと言ってたな」

 私は小さな一切れを受け取り、口に入れた。

 高原パンの軽さ。

 バターの丸さ。

 香草の青さ。

 昨日の草原サンドより、ずっと単純な味である。卵も鶏肉もチーズもない。けれど、そのぶん香草バターがよく分かる。

 外で食べた時のように、草の匂いが周りから来るわけではない。

 でも、香草バターの中に、高原の風が少し閉じ込められている。

「……これは、車内で食べる高原ですわ」

 アベルが満足そうに笑った。

「だろ」

「外の草原サンドとは違います。でも、これはこれで良いです」

「風がない分、味が逃げない」

「ええ。昨日は風が調味料でした。今日は香草バターが風の代わりです」

 ノアが自分の分を食べながら頷く。

「これ、朝の丸パンに塗ったら強いですね。卵にも合いそうですし」

「合うだろうな。軽く焼いて、少しだけ塗る」

「でも使いすぎたら、たぶん全部ラヴェル味になりますね」

「そうだ。塗りすぎるなよ」

 塗りすぎるな。

 今日もまた、加減の話である。

 良いものほど、少し。

 香りが強いものほど、控えめに。

 その方が、次も楽しめる。


   ◇


 ルークが小さな冷所の棚を整えた。

 香草バターの壺は布袋に入れられ、倒れないように固定される。乾いた香草は、小さな陶器の容器へ移された。強い香りが広がりすぎないよう、蓋はしっかり閉められる。

「お嬢様、香草類はこちらへ」

「ガラス器の棚とも、パン籠の棚とも違う場所ですのね」

「香りが移りますので」

「生活道具同士にも距離が必要なのですわね」

「はい」

 なるほど。

 香草バターは良い匂いだ。

 けれど、ガラス器が香草の匂いになっては困る。

 パン布も、毎回高原の匂いでは困る。

 良いものは、良い場所に置く必要がある。

 私は棚に収まった小さな壺を見た。

 目立たない。

 けれど、あれがあるだけで、いつかの昼が高原になる。

 白銀列車の暮らしに、また小さな引き出しが増えた。

「香草バター、正式採用ですわね」

「採用ですね。朝に少し、昼に少し。夜は……少し元気すぎるかも」

 ノアが言うと、アベルも頷いた。

「夜に香草は少し元気すぎる」

「それもそうですわね」

 夜には、梟の灯のミルクティーがある。

 朝には、麦町のパン籠がある。

 昼には、ラヴェルの香草バターが入ってきた。

 時間ごとに似合う味が、少しずつ増えていく。


   ◇


 午後、風はさらに強くなった。

 草原は波のように揺れ、羊たちは低い石垣の近くで固まっている。

 白いシーツは、洗濯屋の干し場で大きくふくらんでいた。

 ぱん、と音が聞こえそうなほどだった。

 私は右ソファからそれを眺めながら、香草バターを塗った高原パンの余韻を思い出していた。

 外の風は、強すぎると食事を散らす。

 けれど、香草バターになると、風は口の中でちょうどよくほどける。

 ならば、あのシーツはどうだろう。

 風を含んだ布で眠ると、直接風を浴びるより、ずっとやさしいはずだ。

「明日は、風を寝台に持ち帰りましょう」

 私が言うと、ルークがすぐに頷いた。

「洗濯屋へ伺います。風が弱い時間を選びましょう」

「風干しなのに、風が弱い時間に行くのですか」

「お嬢様が飛ばされては困りますので」

「飛びませんわ」

「万一でございます」

「高原の風、信用されていませんわね」

「お嬢様のお髪を乱しましたので」

 ルークは根に持っている。

 とても頼もしい。

 ノアが窓の外を見ながら言った。

「洗濯屋、午後が一番忙しそうですね。午前に話を聞いて、午後に取り込みを見るのが良さそうです」

「シーツにも時間があるのですね」

「風を入れる時間と、取り込む時間は違うと思います」

「楽しみですわ」

 香草バターは、味で高原を持ち帰った。

 次は、布で高原を持ち帰る。

 高原の風は、直接浴びると強い。

 でも、バターやシーツに移すと、きっとちょうどよくなる。


 風は、持ち帰り方を選ぶものですわ。


 私は窓の外の白いシーツを見ながら、そう思った。

 棚の中では、小さな香草バターの壺が静かに冷えている。

 外では、ラヴェルの風が今日も草原を渡っていた。

香草バター回でした。

外で食べる高原と、車内で食べる高原。

どちらも違って、どちらも良いです。


次は、風干しシーツを見に行きます。

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