059 香草バターは、風を塗るためのものですわ
草原サンドは、
風との勝負でした。
パン籠は、
朝だけでなく昼にも働けると分かりました。
ただ、
高原の味を白銀列車へ持ち帰るには、
もうひとつ必要なものがあります。
草原サンドの匂いは、まだパン籠に少しだけ残っていた。
麦色のパン布を軽く払っても、草の香りが全部消えるわけではない。
香草バターと、高原パンと、風に揺れた草の匂い。
それらがほんの少しだけ混ざって、籠の内側に残っている。
私は右ソファに座り、その籠を見つめていた。
「……これは、昨日より働いた顔をしていますわね」
ノアが窓側から振り返る。
「朝食道具から昼食道具になりましたからね」
「ええ。風対策も覚えました」
「籠が経験値を積んでますね」
「良い道具とは、使われながら賢くなるものですわ」
アベルが厨房側で、昨日の残りの高原パンを見ていた。
草原で食べた時と同じパンである。
けれど、車内で見ると少し落ち着いて見える。外の風と羊の視線がないだけで、ずいぶん穏やかな食材になるらしい。
「今日は外には出ないのですか?」
私が尋ねると、アベルはパンを軽く叩いた。
「午前は出る。ただし、今日はサンドを食いに行くんじゃない。香草バターを買いに行く」
「昨日の、あの良い香りのものですわね」
「あれがないと、ただの高原パンになる」
「ただの高原パンでも美味しいのでは?」
「美味い。でも、昨日の味にはならない」
なるほど。
パンは大事。
籠も大事。
布も大事。
けれど、ラヴェルの高原らしさを舌に残していたのは、たしかにあの香草バターだった。
ルークが静かに言った。
「お嬢様、本日は風が昨日より強いようでございます」
「また前髪への礼儀が足りない日ですの?」
「その可能性がございます」
「では、短時間ですわね」
「はい。香草バターを求め、速やかに戻るのがよろしいかと」
短時間で買う。
車内へ戻る。
高原の味を、白銀列車で確かめる。
それはとても正しい。
昨日、外で食べた草原サンドは素晴らしかった。けれど、風に布を押さえ、羊の視線を受け、前髪を守りながら食べる昼食は、少し忙しい。
今日は、高原の味だけを車内へ持ち帰る日である。
◇
ラヴェルの午前の風は、昨日より元気だった。
草原は大きく揺れている。羊たちは低い場所へ集まり、白いシーツは干し場でぱん、と音を立ててふくらんでいた。
白銀列車の扉を開けた瞬間、風が外套の裾を持ち上げる。
「……今日は、かなり元気ですわね」
私は片手で前髪を押さえた。
ルークがすぐに風上へ立つ。
「お嬢様、こちら側を」
「ルークが風よけになっていますわ」
「必要であれば」
必要である。
私はルークの陰に少し入りながら、集落の方へ歩いた。
香草バターを売っているのは、牧草地の端にある小さな乳屋だとノアが調べてくれていた。羊乳チーズや、温めた乳、干し草の香りがするバターを扱っているらしい。
「乳屋という響きだけで、かなり高原ですわね」
「前に、夜の駅で甘いホットミルクを飲みましたけど、あれとはだいぶ方向が違いますね」
「あれは眠るためのものですわ。こちらは、パンをおいしくするためのものです」
「飲む方じゃなくて、塗る方ですしね」
「同じ乳でも、夜と昼で役目が変わるのですわ」
梟の灯で飲んだ甘いミルクは、夜を静かにする味だった。
ラヴェルの乳は、昼のパンを高原の味にするためのものらしい。
そういう違いは、悪くない。
乳屋の前には、小さな木の看板が出ていた。丸い壺の絵と、草の束の絵が描かれている。扉の横には、風で乾かしたらしい布袋が並び、店の中からは、乳の甘い匂いと香草の青い匂いが流れてきた。
これは、当たりである。
◇
店の中は、外よりずっと静かだった。
厚い木の壁のおかげで、風の音が少し遠くなる。棚には小さな壺が並び、白いチーズ、黄色みのあるバター、乾いた香草の束が置かれていた。
店番は、丸い頬をした若い女だった。
手には木べらを持っている。こちらを見ると、すぐにアベルの方を見た。
「料理人さんかい?」
「まあな。昨日、草原サンドに使った香草バターを見たい」
「ああ、石垣の影で食べてた人たちだね。羊が見てた」
「見られていましたわ」
私は思わず言った。
女は笑った。
「あの子たちは、食べ物があると見るんだよ。取らないけどね。たぶん」
「ラヴェルの人は、羊について必ず『たぶん』をつけますのね」
「羊だからね」
「理由になっています?」
「だいたい」
だいたい。
この高原の人々は、風と羊に対して少し寛容すぎる。
アベルは棚の壺を見ていた。
「昨日のは、どれだ」
「これ。朝に練ったやつ。山芹と風草を少し入れてある」
「風草?」
「風が強い斜面に生える草だよ。香りは軽いけど、入れすぎると青くなる」
「昨日のは、入れすぎてない」
「でしょう?」
女は少し得意そうに笑った。
アベルが壺の蓋を開ける。
香りが、ふわりと広がった。
乳の甘さ。
バターの丸さ。
香草の青さ。
けれど、梟の灯の眠り草茶のような真面目な青さではない。もっと明るく、草原に近い青さだった。
「……昨日の草原ですわ」
私は小さく言った。
店番の女が目を丸くする。
「食べる前から?」
「香りで分かります。昨日、サンドイッチを食べた時、風の中でこの匂いがしました」
「それは嬉しいね」
アベルは短く頷いた。
「買う」
「早いですわ」
「迷う理由がない」
この返事は、どこかで聞いたことがある。
マリーノの牡蠣の時だ。
良いものを見つけた時のアベルは、とても早い。
◇
ただ、今回は壺の大きさで少し迷った。
大きな壺。
中くらいの壺。
小さな壺。
どれも同じ香草バターらしいが、白銀列車で使うには量が大事である。
「大きいものは駄目ですの?」
私が言うと、アベルは首を横に振った。
「香りが飛ぶ。毎日食うもんじゃない。小さい壺でいい」
「毎日食べても良い香りですのに」
「毎日だと飽きる」
「そんな」
「いいものほど、使う時を選べ」
厳しい。
でも正しい気もする。
香草バターは、ただの常備品ではなく、高原の味を思い出すためのものだ。毎朝なんとなく塗っていたら、たぶん特別さが薄れてしまう。
店番の女も頷いた。
「小さい壺がいいよ。風の強い昼とか、草の匂いが欲しい朝に少しだけ使うといい」
「草の匂いが欲しい朝」
「列車の中にいると、たまに外の匂いが欲しくなるんじゃない?」
私は少し驚いた。
この人は、かなり分かっている。
白銀列車は快適だ。
けれど、窓の外を全部いらないと思ったことはない。
海の匂いも、水車の音も、高原の風も、少しだけなら車内にあっていい。
「ええ。外の良いところを、少しだけ欲しいのです」
私が答えると、店番の女は笑った。
「なら、小さい壺だね。大きい壺は、店の味になる。小さい壺は、旅の味になる」
その言葉は、かなり良かった。
アベルも反論しなかった。
「小さいのを二つだな。一つはすぐ使う。もう一つは冷やして持つ」
「パン籠に入れる?」
「いや、バターは別だ。籠が香りすぎる」
パン籠が香りすぎる。
それは少し困る。
麦色のパン布には、草原サンドの名残が少しだけあればいい。壺ごと入れて、ずっと香草バターの匂いになってしまうのは違う。
生活道具には、距離感が必要である。
◇
支払いを済ませると、店番の女が小さな布袋を出してくれた。
薄い緑の紐で結ばれている。
「壺が転がらないようにね。列車なら揺れないかもしれないけど、風の町の品だから、一応」
「風の町の品は、転がりやすいのですか」
「気分としてね」
「少し分かる気がしますわ」
風の町で買ったものは、少し動きたがる。
そんな気がする。
ルークが布袋を受け取り、傾かないように持った。
「車内では冷所に保管いたします」
「冷やしすぎると硬くなるよ」
「承知いたしました。使う前に戻します」
「番犬さん、バターにも丁寧だね」
「お嬢様の昼食に関わりますので」
店番の女は、にこにこと笑った。
「白銀列車の人たちは、食べ物を大事にするんだね」
「食べ物だけではありませんわ」
「そうなの?」
「食べ物が気持ちよくあるための器や布や籠も大事です」
「なるほど。昨日のパン籠の話、聞いたよ」
「もうですの?」
「高原は風で話が早く飛ぶからね」
それは噂という意味なのか、本当に風が運ぶという意味なのか。
少し迷ったが、聞かないことにした。
ノアが店の棚を見ながら言う。
「この香草、乾燥させたものもあります?」
「あるよ。バターほど強くないけど、スープや卵に少し入れると高原っぽくなる」
「買っておきます?」
「買う」
アベルが即答した。
香草バターだけでなく、乾いた香草も少し。
これで、高原の味を車内で再現しやすくなる。
ただし、やりすぎると香りが強くなりすぎる。そこはきっとアベルが調整してくれる。
「港で買ったガラス器は、棚に置くと重みがありました」
私は棚の香草を見て言った。
「麦町のパン籠は、朝食の場所を決めてくれました」
「今回は香りですか」
「ええ。ラヴェルで持ち帰るものは、軽いのですわ」
けれど、香りがある。
風の町らしい持ち帰り方だった。
◇
店を出ると、風がまた前髪に触れてきた。
今度は、行きより少し強い。
ルークが即座に立ち位置を変え、私の正面へ風が当たりすぎないようにする。
「お嬢様、戻りましょう」
「ええ。香草バターは手に入りましたもの」
草原では、羊が昨日と同じように草を食べている。
遠くの石垣の影が見えた。
昨日、草原サンドを食べた場所である。
今日はそこへは行かない。
少し名残惜しい。
でも、今日は外で食べる日ではない。
香草バターを持ち帰って、車内で高原の味を確かめる日だ。
白銀列車へ戻る道で、洗濯屋らしき女が白いシーツを干していた。
風が布の中へ入り、ぱん、と広がる。
その布が、昨日より気になって見えた。
「明日は、あちらですわね」
私が言うと、ノアが頷く。
「風干しシーツですね」
「香草バターは味。あのシーツは、眠りですわ」
「高原の風、だいぶ持ち帰られそうですね」
「直接浴びると前髪が乱れますから」
「やっぱりそこなんですね」
そこは大事である。
風そのものは気持ちいい。
けれど、持ち帰るなら、味や布に移しておく方が扱いやすい。
ラヴェルの風は、外で浴びるより、白銀列車の中でほどよく使う方が合っている気がした。
◇
車内へ戻ると、すぐに香草バターの試しが始まった。
アベルは昨日の高原パンを軽く温め、薄く切った。
香草バターの壺を開ける。
車内で嗅ぐと、外で嗅いだ時より香りがはっきり分かる。風に流されない分、乳の甘さと草の青さが静かに立つ。
小さなナイフで、ほんの少しだけ塗る。
薄く。
広げすぎない。
パンの熱でバターが少し溶け、香草の匂いがふわりと上がった。
「……もう美味しそうですわ」
「食ってから言え」
「香りで半分始まっています」
「昨日も似たようなこと言ってたな」
私は小さな一切れを受け取り、口に入れた。
高原パンの軽さ。
バターの丸さ。
香草の青さ。
昨日の草原サンドより、ずっと単純な味である。卵も鶏肉もチーズもない。けれど、そのぶん香草バターがよく分かる。
外で食べた時のように、草の匂いが周りから来るわけではない。
でも、香草バターの中に、高原の風が少し閉じ込められている。
「……これは、車内で食べる高原ですわ」
アベルが満足そうに笑った。
「だろ」
「外の草原サンドとは違います。でも、これはこれで良いです」
「風がない分、味が逃げない」
「ええ。昨日は風が調味料でした。今日は香草バターが風の代わりです」
ノアが自分の分を食べながら頷く。
「これ、朝の丸パンに塗ったら強いですね。卵にも合いそうですし」
「合うだろうな。軽く焼いて、少しだけ塗る」
「でも使いすぎたら、たぶん全部ラヴェル味になりますね」
「そうだ。塗りすぎるなよ」
塗りすぎるな。
今日もまた、加減の話である。
良いものほど、少し。
香りが強いものほど、控えめに。
その方が、次も楽しめる。
◇
ルークが小さな冷所の棚を整えた。
香草バターの壺は布袋に入れられ、倒れないように固定される。乾いた香草は、小さな陶器の容器へ移された。強い香りが広がりすぎないよう、蓋はしっかり閉められる。
「お嬢様、香草類はこちらへ」
「ガラス器の棚とも、パン籠の棚とも違う場所ですのね」
「香りが移りますので」
「生活道具同士にも距離が必要なのですわね」
「はい」
なるほど。
香草バターは良い匂いだ。
けれど、ガラス器が香草の匂いになっては困る。
パン布も、毎回高原の匂いでは困る。
良いものは、良い場所に置く必要がある。
私は棚に収まった小さな壺を見た。
目立たない。
けれど、あれがあるだけで、いつかの昼が高原になる。
白銀列車の暮らしに、また小さな引き出しが増えた。
「香草バター、正式採用ですわね」
「採用ですね。朝に少し、昼に少し。夜は……少し元気すぎるかも」
ノアが言うと、アベルも頷いた。
「夜に香草は少し元気すぎる」
「それもそうですわね」
夜には、梟の灯のミルクティーがある。
朝には、麦町のパン籠がある。
昼には、ラヴェルの香草バターが入ってきた。
時間ごとに似合う味が、少しずつ増えていく。
◇
午後、風はさらに強くなった。
草原は波のように揺れ、羊たちは低い石垣の近くで固まっている。
白いシーツは、洗濯屋の干し場で大きくふくらんでいた。
ぱん、と音が聞こえそうなほどだった。
私は右ソファからそれを眺めながら、香草バターを塗った高原パンの余韻を思い出していた。
外の風は、強すぎると食事を散らす。
けれど、香草バターになると、風は口の中でちょうどよくほどける。
ならば、あのシーツはどうだろう。
風を含んだ布で眠ると、直接風を浴びるより、ずっとやさしいはずだ。
「明日は、風を寝台に持ち帰りましょう」
私が言うと、ルークがすぐに頷いた。
「洗濯屋へ伺います。風が弱い時間を選びましょう」
「風干しなのに、風が弱い時間に行くのですか」
「お嬢様が飛ばされては困りますので」
「飛びませんわ」
「万一でございます」
「高原の風、信用されていませんわね」
「お嬢様のお髪を乱しましたので」
ルークは根に持っている。
とても頼もしい。
ノアが窓の外を見ながら言った。
「洗濯屋、午後が一番忙しそうですね。午前に話を聞いて、午後に取り込みを見るのが良さそうです」
「シーツにも時間があるのですね」
「風を入れる時間と、取り込む時間は違うと思います」
「楽しみですわ」
香草バターは、味で高原を持ち帰った。
次は、布で高原を持ち帰る。
高原の風は、直接浴びると強い。
でも、バターやシーツに移すと、きっとちょうどよくなる。
風は、持ち帰り方を選ぶものですわ。
私は窓の外の白いシーツを見ながら、そう思った。
棚の中では、小さな香草バターの壺が静かに冷えている。
外では、ラヴェルの風が今日も草原を渡っていた。
香草バター回でした。
外で食べる高原と、車内で食べる高原。
どちらも違って、どちらも良いです。
次は、風干しシーツを見に行きます。




