058 草原で食べるサンドイッチは、風との勝負ですわ
風渡る高原ラヴェルに着きました。
草原。
羊の鈴。
白いシーツ。
元気すぎる風。
今日は、パン籠を持って、
草原で昼食を試します。
翌日のラヴェルは、朝からよく風が通っていた。
窓の外の草は、まだ日差しがやわらかい時間から、ずっと同じ方向へ揺れている。羊たちは気にしていない。むしろ風込みで高原だと言わんばかりに、もこもこした背中を揺らしながら草を食べている。
私は右ソファに座り、棚から下ろされたパン籠を見つめていた。
浅い籠。
麦色のパン布。
赤い実の刺繍紐。
ミューレでは、朝の丸パンを守っていた。今日は、草原の昼食を守ることになる。
「……パン籠、いよいよ昼の仕事ですわね」
ノアが窓側から笑う。
「朝食道具から旅昼食道具へ進出ですね」
「出世ですわ」
「籠の出世」
「良い道具は、使われる場所が増えるものです」
アベルは厨房側で、平たい高原パンを横に切っていた。
昨日のミューレのパンではない。ラヴェルの集落で朝に買った、少し平たいパンである。丸パンより軽く、外側は薄く香ばしい。中はやわらかいが、風の中でも崩れにくそうだった。
「今日は何を挟みますの?」
私が尋ねると、アベルは小さな木皿を並べた。
「香草バター、薄く焼いた卵、軽い塩の鶏肉、青菜を少し。あと、羊乳チーズを薄く」
「まあ。もう勝ちでは?」
「外で食うなら、勝ちすぎるな」
「勝ちすぎると困りますの?」
「具が多いと落ちる。香りが強すぎると風で散る。汁気があるとパンが負ける」
外の昼食は、なかなか厳しい。
白銀列車の中なら、具が多いほど楽しい。皿もある。手も洗える。落としても床が受け止める。けれど草原では、風と草と羊がいる。
ルークが麦色のパン布を広げ、刺繍紐の位置を確かめていた。
「お嬢様、本日は籠の布を軽く結びます。風で上掛けが飛ばぬようにいたします」
「パン布まで風対策ですのね」
「はい。昨日の風は、お嬢様のお髪にも触れましたので」
「あれは礼儀が足りない風でした」
「本日も同じ風でございます」
同じ風。
それは少し困る。
でも、草原サンドは食べたい。
私は窓の外を見た。低い石垣の向こうで、昨日の牧童が羊を動かしている。こちらに気づいたのか、大きく手を振った。
たぶん、あのあたりが石垣の影なのだろう。
「では、短時間決戦ですわね」
アベルがサンドイッチを包みながら頷いた。
「外で味を見る。長居しない。戻ってから足りなければ車内で食う」
「最初から車内で食べる選択肢は?」
「ある。だが、今日は草の匂い込みで試す日だろ」
アベルに先に言われてしまった。
その通りである。
草原で食べる昼食がどういうものか、少しだけ知りたい。ただし、風にすべてを奪われるつもりはない。
パン籠の中へ、サンドイッチが二つ、丁寧に置かれた。麦色のパン布が下に敷かれ、上からふわりとかけられる。赤い実の刺繍紐が、持ち手の根元で軽く結ばれた。
朝を持ち帰った籠が、昼を外へ連れていく顔になった。
◇
外へ出ると、風は昨日より少しだけ落ち着いていた。
少なくとも、扉を開けた瞬間に前髪を奪いに来るほどではない。草の匂いと、乾いた土の匂いと、遠くの羊の匂いが、軽く混ざって届いた。
「今日は、まだ礼儀がありますわね」
私が言うと、ノアが笑った。
「風の評価基準ができてる」
「前髪を乱すかどうかは、重要です」
「今のところ、合格ですね」
ルークは私の横に立ち、風の向きを見ている。
「石垣の影へ参りましょう。正面から風を受けるより、少し楽になるかと」
「パン籠は?」
「私が支えます」
「自分で持ちたいですわ」
「では、お嬢様がお持ちください。下から私が補助いたします」
パン籠を両手で持つ。
空の籠より、少し重い。
中にはサンドイッチがある。朝食ではない。昼食である。そう思うだけで、昨日より籠が少し頼もしく感じた。
草地へ続く道は、柔らかい土と短い草でできていた。石畳ではないので歩きやすいかと思ったが、足元が少しふわふわする。踏むたびに、草の匂いが上がる。
「これは、足元まで高原ですわね」
「舗装されてないですからね」
「嫌ではありません。ただ、靴に草がつきそうです」
「つきますね」
「即答ですのね」
「高原なので」
高原なので。
なんでも許される言葉ではないと思う。
それでも、道は気持ちよかった。
空が広い。草が揺れる。羊の鈴が、からん、ころん、と少し遠くで鳴る。白銀列車の車内から聞く音よりも、少しだけ生々しい。風と一緒に届くからだろう。
石垣のそばに着くと、昨日の牧童が柵に腰をかけていた。
「来たな、列車の人たち」
「石垣の影が良いと聞きました」
「今日は悪くない。昼飯が飛ぶほどじゃないよ。たぶん」
「たぶんが多いですわね」
「風のことは、風に聞かないと分からないからな」
たいへん困る考え方である。
けれど、少しだけ納得もした。
◇
石垣の影は、確かに風が弱かった。
弱いと言っても、無風ではない。草は揺れるし、外套の端も動く。けれど、正面から押される感じではなかった。風が石垣に当たり、少し丸くなってこちらへ届く。
「……ここなら、いけそうですわ」
私は小さく頷いた。
ルークが薄い敷き布を石の上に置く。
「お嬢様、こちらへ」
「石に直接座らないのですね」
「高原の石は、見た目より冷えております」
「さすがですわ」
座ると、草原が少し近くなった。
目の高さが下がり、羊の背中が大きく見える。石垣の向こうで、白い羊が何頭かこちらを見ていた。こちらを見るだけならよい。近づいてこないでほしい。
アベルがパン籠を開けた。
麦色のパン布が、風で少し動く。
ルークがすぐに端を押さえた。
「やはり、布は飛びますわね」
「軽いからな」
「重い布では駄目なのですか」
「パンが湿る。あと、朝の顔じゃなくなる」
「顔が大事なのは、アベルも分かってきましたわね」
「お前の言い方に慣れただけだ」
アベルはサンドイッチを一つ取り出し、私へ渡した。
高原パンの間に、香草バターが薄く塗られている。卵、鶏肉、青菜、羊乳チーズ。具はきちんと収まっていて、こぼれそうなものは少ない。
見た目は、かなり素朴だ。
けれど、風の中で食べるには、それが良かった。
「いただきます」
私は両手で持って、ひと口食べた。
最初に来たのは、パンの軽さだった。
ミューレの丸パンより、少し乾いていて、歯切れがよい。そこへ香草バターの匂いがふわりと広がる。卵はやさしく、鶏肉は薄い塩味。羊乳チーズは、思ったより癖が少なく、青菜が少しだけ草原に近い香りを足していた。
そして、風が来た。
サンドイッチを食べた直後に、草の匂いを含んだ風が頬を通る。
味が、外へ広がった気がした。
「……これは」
私は少しだけ目を閉じた。
「車内では出ませんわね」
アベルが満足そうに頷く。
「だろ」
「草の匂いが、食べ物の外側にあります」
「外で食ってるからな」
「当たり前のように言いますけれど、かなり大事です。口の中だけではなく、周りまで昼食ですわ」
ノアも自分の分を食べて、目を細めた。
「あ、これ分かります。風が調味料みたいですね」
「そうです。それですわ」
「でも、風が強すぎると台無しですね」
「礼儀が必要です」
「また風の礼儀」
私はもう一口食べた。
香草バターが、今度は少し強く感じる。草原の匂いと重なるせいだろう。白銀列車の中で食べたら、美味しいサンドイッチ。ここで食べると、草原サンドになる。
場所が、味を変えている。
◇
ただし、草原は甘くなかった。
半分ほど食べたところで、風が少し強くなった。
麦色のパン布の端がふわりと持ち上がる。
「おっと」
アベルが押さえるより早く、ルークの手が布を止めた。
「お嬢様、サンドイッチを少し低くお持ちください」
「こうですの?」
「はい。風を受けにくくなります」
「食べ物にも姿勢がありますのね」
「ございます」
ルークが言うと、本当にありそうに聞こえる。
私はサンドイッチを少し低く持ち、石垣を風除けにするように座り直した。
その時、石垣の向こうから白い顔がぬっと出た。
「……羊」
羊だった。
大きな目で、こちらを見ている。
口は動いていない。
だが、私のサンドイッチを見ている気がする。
牧童が笑った。
「見てるだけだよ」
「本当に?」
「たぶん」
「また、たぶんですわ」
羊はもう一歩近づいた。
ルークが静かに前へ出る。
「お嬢様の昼食です」
「ルーク、羊に言葉は」
「伝わらなくとも、姿勢は伝わります」
羊はルークを見た。
ルークは羊を見た。
しばらく、黒い騎士と白い羊が見つめ合った。
ノアが小声で言う。
「なんの対決ですか、これ」
「昼食防衛戦ですわ」
羊は、ふいと顔をそらして草を食べ始めた。
勝った。
たぶん。
私はサンドイッチを大事に持ち直した。
「高原の昼食は、思ったより忙しいですわね」
「風と羊がいるからな」
「食事に参加者が多すぎます」
「外だからな」
アベルは平然としている。
私はもう一口食べた。
少し忙しい。
でも、悪くない。
むしろ、風を避け、布を押さえ、羊に見られながら食べることで、高原の昼食としての記憶が強くなっている。
ただし、長居は不要である。
◇
サンドイッチを食べ終える頃には、私はかなり満足していた。
量は多くない。
けれど、風と草の匂いと羊の視線が加わると、思ったより濃い昼食になる。
アベルはパン籠の中を確認した。
「残りは車内だな」
「まだ食べられますけれど」
「風が上がってきた。ここからは車内の方がうまい」
「風が強くなると、外の方が不味くなりますの?」
「落ち着かねえ飯は、味が散る」
「なるほど」
とても分かりやすい。
高原の風は、うまく当たれば調味料になる。
強すぎると、食事の邪魔になる。
やはり、礼儀が必要なのだ。
ルークが敷き布を畳み、私の外套を直した。
「お嬢様、戻りましょう。お髪も少し乱れております」
「またですの?」
「本日は軽微でございます」
「軽微なら、まだよいです」
ノアがパン籠の紐を結び直す。
「麦色のパン布、かなり働きましたね」
「ええ。飛びかけましたけれど」
「飛ばなかったので勝ちです」
「パン布も経験を積みましたわ」
朝食道具から昼食道具へ。
そして、風対策まで覚えた。
パン籠は、思っていたよりずっと頼もしい。
牧童が石垣の向こうから手を振った。
「また昼に来な。今度はもっと風の弱い日がいい」
「風の弱い日もありますの?」
「あるよ。たまに」
「では、その日に教えてください」
「風が教えてくれたらな」
結局、風次第らしい。
ラヴェルという場所は、かなり風に任せている。
私は白銀列車へ戻りながら、もう一度だけ草原を振り返った。
石垣。
羊。
草の匂い。
風にふくらむ白いシーツ。
そして、サンドイッチを食べた場所。
短い時間だった。
けれど、ちゃんと高原で昼食をした気がした。
◇
車内へ戻ると、落ち着いた空気が体を包んだ。
風はない。
羊もいない。
パン布は飛ばない。
前髪もこれ以上乱れない。
私は右ソファに座り、少しだけ息を吐いた。
「……戻ると、急に安全ですわね」
ノアが笑った。
「外、そんなに危険でした?」
「サンドイッチが見られていました」
「羊に」
「ええ。かなり真剣な目でした」
ルークが櫛を用意しながら言う。
「お嬢様の昼食は無事でございました」
「ルークのおかげです」
「当然のことをしたまででございます」
黒い騎士が羊から昼食を守る。
普通に考えると少しおかしい。
でも、白銀列車では必要な仕事だった。
アベルが残りのサンドイッチを小皿に置いた。
「食べるか?」
「少しだけ」
「車内だと、味が変わるぞ」
「確かめます」
私は同じサンドイッチを、今度はラウンジで食べた。
高原パン。
香草バター。
卵。
鶏肉。
羊乳チーズ。
青菜。
材料は同じである。
でも、違う。
車内で食べると、味がまとまっている。落ち着いている。風で香りが散らないので、香草バターとチーズがゆっくり分かる。
外では、草の匂いと風が味を広げた。
中では、具材が静かにまとまる。
「……どちらも良いですわね」
アベルが頷く。
「外は一口目が強い。中は最後まで落ち着く」
「では、正解は」
「両方だな。ただし、外は短く」
完璧な答えだった。
私はパン籠を見た。
麦色のパン布は、少し草の匂いをまとっている気がした。気のせいかもしれない。けれど、そう思うと嬉しかった。
「パン籠は、昼にも働けますわね」
ノアが頷く。
「風対策込みで、実績ありです」
「朝食用から、旅昼食用へ昇格です」
「正式採用ですね」
私は小さく頷いた。
白銀列車の棚に、またひとつ役割が増えた気がする。
◇
午後になると、風はさらに強くなった。
窓の外で草が大きく揺れている。
羊たちは、少し低い場所へ移動していた。
白いシーツは、まだ干されている。けれど、午前よりも強くふくらみ、洗濯屋らしき女が時々布の端を確かめていた。
「昼食、早めにして正解でしたわね」
私は右ソファから外を眺めた。
ノアが帳面に何かを書いている。
「外食は風が弱い時間。石垣の影。布は軽く結ぶ。羊は見るだけとは限らない」
「最後、少し不穏ですわ」
「一応です」
ルークはパン籠の状態を確認していた。
「麦色のパン布は、風に当たったため、使用後に軽く払って干すのがよろしいかと」
「草の匂いは残しますの?」
「強く残すと食事に影響いたします。ですが、わずかであれば」
「わずかに残しましょう」
「承知いたしました」
アベルが厨房側から言う。
「香草バターは買い足したいな」
「今日の味の要ですの?」
「ああ。高原パンにも合うし、ミューレの丸パンに塗っても悪くない」
「丸パンが高原味になりますわね」
「次はそれだな」
次。
もう次がある。
草原サンドは成功した。
外で少し食べ、車内で続きを食べる。
パン籠は昼にも使える。
香草バターは持ち帰る価値がある。
そして、あの白いシーツ。
私は窓の外で大きく膨らむ布を見た。
風は直接浴びると少し強い。
昼食に使うと、短時間なら楽しい。
なら、寝具に含ませたらどうなるだろう。
きっと、もっと長く楽しめる。
「明日は、風干しシーツですわね」
私が言うと、ルークが静かに頷いた。
「洗濯屋へ伺いましょう」
ノアも帳面を閉じる。
「風を寝台に持ち帰る回ですね」
風を寝台に持ち帰る。
その言い方は、とても良かった。
高原の風は、外で全部浴びるより、少し持ち帰るくらいがちょうどよい。
私は窓の外を眺めながら、そう思った。
草原では、羊の鈴がからん、ころんと鳴っている。
白銀列車の棚では、パン籠が静かに休んでいる。
その麦色のパン布には、今日の草原サンドの匂いが、ほんの少しだけ残っていた。
草原サンド回でした。
高原の風は、
うまく当たれば調味料。
でも強すぎると、
パンも布も気持ちも散ります。
パン籠は、
朝食だけでなく昼食にも働けることが分かりました。




