057 高原の風は気持ちいいですが、前髪が少し乱れますわ
水車町ミューレを出ました。
白銀列車には、
朝食用のパン籠が増えました。
麦色のパン布も、
赤い実の刺繍紐も、
ちゃんと棚に収まっています。
次は、
少し風の通る場所へ向かいます。
ミューレの水車の音が、少しずつ遠ざかっていった。
ごとん、ことん、ごとん。
そこへ、白銀列車の車輪が重なる。
がたん、ごとん、がたん、ごとん。
窓の外では、小川と木組みの家が後ろへ流れていく。石窯パン屋の煙突も、粉挽き小屋も、石橋も、朝霧の向こうへ小さくなった。
私は右ソファに座り、棚の方を見た。
浅いパン籠。
麦色のパン布。
赤い実の刺繍紐。
昨日まで白銀列車になかったものが、今は当然の顔で収まっている。
「……朝が少し上手になりましたわね」
私が言うと、ノアが窓側で頷いた。
「パン籠、もう完全に白銀列車の道具ですね」
「ええ。次の町でも使えそうです」
「朝だけですか?」
私は少し考えた。
朝食用のパン籠。
そう決めたばかりだ。
けれど、パンを運べるなら、昼にも使えるのではないか。丸パンだけでなく、何かを挟んだパンも入るのではないか。
「……昼にも、働くかもしれませんわね」
アベルが厨房側から顔を出した。
「働かせる気だな」
「良い道具は、働き場所が増えますもの」
「壊すなよ」
「壊しません。たぶん」
「たぶんをつけるな」
アベルは呆れたように笑い、棚のパン籠を一度だけ見た。
「次の場所に、何があるかだな」
「まだ決めていません」
私は運転室へ目を向けた。
水晶盤は、淡く光っている。
白銀列車は、私が望む場所へ向かう。はっきりした地名を指定しなくてもよい。むしろ、最近はそういう旅の方が楽しい。
冷たいものが欲しいと言えば海へ。
静かな夜が欲しいと言えば梟の灯へ。
朝を整えたいと思えば、ミューレへ。
ならば、今欲しいものは何か。
ミューレの朝を終えた体は、少しだけ軽い場所を求めていた。粉の匂いではない。石窯の熱でもない。もっと開けていて、空気が流れていて、昼が軽くなる場所。
「次は」
私は水晶盤へ手を置いた。
「風が通って、昼が軽くなる場所がよろしいですわ」
水晶盤が、りぃん、と鳴った。
白い神の線路が、窓の外で静かに向きを変える。丘を越え、森を抜け、空の方へ上がっていくような線路だった。
ノアが窓に近づく。
「高度、少し上がってますね」
「高い場所ですの?」
「たぶん。高原っぽいです」
高原。
その響きは、かなり良かった。
◇
最初に変わったのは、空の広さだった。
窓の外から、森の影が減っていく。代わりに、ゆるやかな草地が広がり始めた。低い石垣、白い柵、ぽつぽつと立つ木、遠くに見える小さな家々。
草の上には、白いものがいくつも動いている。
「羊ですわ」
私は思わず身を乗り出した。
羊がいる。丸い。白い。少し茶色いものもいる。草を食べているのか、風に流されているのか、のんびりした動きだった。
遠くから、小さな鈴の音が聞こえた。
からん、ころん。
白銀列車の防音越しなので、音はやわらかい。けれど、確かに羊の鈴だった。
「まあ。昼寝に向いていそうな音ですわね」
「早いですね。まだ着いてませんよ」
「音で分かります。これは眠くなる鈴です」
「高原に来て最初の評価がそれなんですね」
「大事ですわ」
羊の向こうには、白い布が何枚も干されていた。
家の裏手に渡した長い綱に、シーツらしき布が風を受けている。ふくらんで、しぼんで、またふくらむ。布が風と会話しているようだった。
「……あの白い布」
私は少し目を細めた。
「とても気持ちよさそうですわね」
ルークが後ろ斜めから窓の外を見る。
「洗濯物でございましょうか」
「干されているだけなのに、すでに眠れそうです」
「まだ寝台に敷かれておりません」
「ですが、あの風を含んでいるのでしょう?」
「おそらくは」
それは、かなり気になる。
白銀列車の寝台は十分に快適だ。
けれど、あの高原の風を含んだ布で眠ったら、また違うのではないか。
私はその白い布を見ながら、少しだけ考えた。
マリーノでは、海風そのものではなく、冷たいものを車内へ持ち帰った。
梟の灯では、夜そのものではなく、眠るためのお茶を持ち帰った。
ミューレでは、朝そのものではなく、パン籠を持ち帰った。
ならば、この高原では。
風を、どう持ち帰るのか。
それがたぶん、大事なのだ。
◇
白銀列車は、草地の外れに静かに停まった。
町というより、小さな高原集落だった。低い石垣に囲まれた牧草地、斜面に並ぶ家、干し草を積んだ小屋、羊の放牧地。遠くには、風を受けてゆっくり回る小さな粉挽き風車のようなものも見える。
水車町のミューレとは違う。
ここは、水ではなく風で動いている場所だった。
ノアが帳面を見ながら言った。
「名前は、ラヴェル。風渡る高原ラヴェル、って呼ばれてるみたいです」
「風渡る高原」
私はその言葉を繰り返した。
「たいへん良い名前ですわ」
「風が強い場所でもありますね」
「良い風と、強い風は違いますの?」
「体感によります」
それは少し不穏である。
ルークはすでに外套を持っていた。
冬用ではなく、軽くて、風を通しすぎない薄いもの。
「お嬢様、外へ出られるのであれば、こちらを」
「寒いのですか?」
「寒いというより、風がございます」
「風は本日の主役では?」
「主役でも、直接浴びすぎる必要はございません」
その通りかもしれない。
私は外套を受け取り、立ち上がった。
高原は見たい。羊も見たい。白い布も見たい。ただし、初手から長く歩き回るつもりはない。高原の風がどの程度のものか、まずは確認である。
アベルが厨房側から声をかけた。
「昼は、軽めにするぞ」
「高原らしいものですの?」
「パン籠があるからな。何か挟んで外へ持っていける」
「まあ」
パン籠が、さっそく昼に働きそうである。
しかし、外の風がどのくらいか分からない。私は少しだけ慎重に頷いた。
「まずは、風を見てからですわね」
「見るもんか?」
「体で見ます」
「変な言い方だが、まあ合ってるか」
◇
扉が開いた。
高原の風が、すぐに入ってきた。
草の匂い。
乾いた土の匂い。
少しだけ羊の匂い。
それから、日に干された布のような匂い。
ミューレの粉とはまったく違う。マリーノの潮とも違う。梟の灯の夜の煤とも違う。もっと軽くて、明るくて、どこかさらりとしている。
「……良い匂いですわね」
私は一歩、外へ出た。
その瞬間だった。
風が来た。
ふわり、ではない。
すうっと横から入ってきて、私の前髪を持ち上げた。
「……っ」
思わず片手で額を押さえる。外套の裾も、少し後ろへ流れた。草が揺れる。遠くの白いシーツが大きくふくらむ。羊の毛も、少しだけ風に揺れている。
ルークがすぐに私の横へ立った。
「お嬢様、風上を避けます」
「これは」
私は前髪を押さえながら、ゆっくり言った。
「思ったより、主張のある風ですわね」
ノアが後ろで笑いをこらえている。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ただ、髪が少しだけ高原に持っていかれそうになりました」
「持っていかれはしないと思います」
「今、かなり危なかったです」
風は気持ちいい。
それは間違いない。頬に当たると、少し冷たくて、草の匂いがして、体が軽くなる。
けれど、髪も軽くなる。
外套も軽くなる。
つまり、いろいろ持っていかれそうになる。
「高原の風は、気持ちいいですが、少し礼儀が足りませんわ」
ノアがとうとう笑った。
「風に礼儀を求める人、初めて見ました」
「人の前髪へ急に触れるのは失礼です」
「それは、まあ」
ルークは真面目に頷いた。
「お嬢様のお髪を乱す風であれば、警戒対象でございます」
「さすがルークです」
「風下側へ移動いたしましょう」
ルークに促され、私は白銀列車の車体を風除けにするように立った。すると、風の当たり方が少しやわらいだ。
草の匂いは届く。
羊の鈴も聞こえる。
でも、前髪は持っていかれない。
かなり良い。
「……これくらいなら、たいへん素敵ですわ」
「条件付きですね」
「条件は生活を守るために必要です」
「マリーノでも言ってました」
「真理は場所を選びません」
高原の景色は、確かに美しかった。
青い空。緑の草。白い羊。低い石垣。遠くで風を受ける洗濯物。
どれも広々としている。
海とは違う開放感だった。
ただし、開放されすぎると髪が乱れる。
これは覚えておくべきである。
◇
少し歩くと、羊の鈴がはっきり聞こえる場所へ出た。
からん、ころん。
草を食べる羊たちは、私たちを少しだけ見て、すぐに草へ戻った。高原の住人として、かなり落ち着いている。
近くの柵の向こうで、若い牧童が手を振った。
「列車の客かい?」
声は明るい。
けれど、風に少し流されて届く。
「ええ。少し見せていただいています」
私が答えると、牧童は羊の群れを見ながら笑った。
「風に気をつけな。軽い帽子は飛ぶし、紙も飛ぶし、昼飯も飛ぶ」
「昼飯も?」
「包み方が悪いと、パンが草の上を転がる」
それは大事件である。
私は思わずアベルを見た。アベルは腕を組んで、草地と風を見ていた。
「外で食うなら、工夫がいるな」
「パンが転がるのは困りますわ」
「困るどころじゃねえ。食えなくなる」
「高原の風、急に危険になりました」
牧童は楽しそうに笑った。
「でも、風のない日に食べるよりうまいよ。草の匂いがするから」
「草の匂いのする昼食」
私は草地を見た。
それは、かなり良さそうだった。
白銀列車の中で食べるのも良い。窓越しに草原を見るのも良い。でも、少しだけ外で食べる昼食には、たしかに魅力がある。
ただし、パンが転がるのは困る。
前髪も乱れる。
布も飛ぶ。
紙も飛ぶ。
つまり、準備がいる。
私は棚に置かれたパン籠を思い浮かべた。浅い籠。麦色のパン布。赤い実の刺繍紐。もしかすると、あれはこの高原でも働くのではないか。
「パン籠は」
私はぽつりと言った。
「風にも負けないようにできますかしら」
アベルが答える。
「布を軽く結べばいける。中身を詰めすぎなきゃな」
「では、昼食に使えますのね」
「使える」
それは、たいへん良い知らせだった。
朝食用のパン籠が、昼の高原へ出る。
ミューレの朝が、ラヴェルの昼へつながる。
旅の道具が、次の土地でまた働く。
そういうのは、かなり好きだ。
◇
風がもう一度吹いた。
今度は少し強かった。
遠くの白いシーツが、大きくふくらむ。まるで、空へ行きたいと言っているようだった。
私はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「あの布、気になりますわ」
ノアが視線を追う。
「洗濯物ですか?」
「ええ。あの風を含んだ寝具で眠ると、かなり良さそうです」
「シーツですね」
「白銀列車の寝台にも、ああいう風を少し持ち帰れないかしら」
ノアは帳面を開いた。
「干し場を使わせてもらうか、風干ししたものを買うかですね」
「買えるものですの?」
「洗濯屋があれば、たぶん」
洗濯屋。
風干しシーツ。
高原の匂い。
かなり心惹かれる言葉が並んだ。
ただし、今日はまだ初日である。
まずは風を知る。
風が気持ちいいこと。
風が前髪を乱すこと。
昼飯が飛ぶこと。
シーツがとても気持ちよさそうに膨らむこと。
それだけで、十分な情報量だった。
ルークが静かに言った。
「お嬢様、そろそろ車内へ戻られた方がよろしいかと。風を受け続けると、お疲れになる可能性がございます」
「そうですわね」
名残惜しい。
けれど、前髪はすでに少し乱れている。外套の裾も、何度か勝手に動いた。初日の高原としては、十分に浴びたと思う。
「戻りましょう。風は、少しずつ受け取るのがよろしいですわ」
牧童が笑った。
「また来な。昼飯を食うなら、石垣の影がいい」
「石垣の影?」
「風が少し弱い。羊は寄ってくるけど」
「羊も昼食に参加しますの?」
「見てるだけだよ。たぶん」
たぶん。
少し信用できない。
けれど、明日の昼食場所として覚えておく価値はありそうだった。
◇
白銀列車へ戻ると、車内の空気が急に落ち着いて感じられた。
風は入ってこない。
前髪も持っていかれない。
外套の裾も静かである。
私は右ソファに座り、ほっと息を吐いた。
「……外は良いですわね」
ノアが笑う。
「疲れた顔で言います?」
「良いのです。ただ、風が元気でした」
「元気な風」
「ええ。こちらの都合をあまり聞かないタイプです」
ルークが薄い櫛を用意してくれた。
「お嬢様、お髪を少し整えます」
「お願いします」
風で少し乱れた前髪を直してもらう。
それだけで、かなり落ち着く。
窓の外では、高原の草がずっと揺れている。白いシーツも、相変わらずふくらんでは戻っていた。
アベルが厨房側から言う。
「昼は、外用の軽いサンドにするか」
「明日ですの?」
「今日は風を見ただけで十分だろ。明日、石垣の影で試す」
「パン籠を使います?」
「使う。麦色のパン布もな。風で飛ばないよう、少し結び方を変える」
パン籠が、また働く。
私は棚の方を見た。
ミューレで手に入れた朝食道具が、高原で昼食道具になろうとしている。
なんて頼もしいのだろう。
「では、明日は草原サンドですわね」
ノアが帳面に書き込む。
「草原サンド。石垣の影。風対策。羊注意」
「羊注意が入るのですか」
「一応」
「大事かもしれませんわね」
窓の外では、羊がこちらを見ていた。
気のせいかもしれない。
でも、昼食を見られる予感がした。
◇
夕方に近づくと、高原の光は少し金色になった。
草の色が深くなり、羊の背中が柔らかく光る。遠くの白いシーツは取り込まれ始めていた。洗濯屋らしき女が、風を含んだ布を腕いっぱいに抱えている。
その布は、たぶん、とても良い匂いがする。
私は右ソファでそれを眺めながら、静かに言った。
「明日は、あの布も見に行きたいですわ」
ルークが頷く。
「風干しの寝具でございますね」
「ええ。高原の風を、寝台に少し持ち帰りたいのです」
ノアが笑った。
「風を持ち帰るって、いいですね」
「外で浴び続けると前髪が乱れますから」
「理由が現実的」
「大事です」
外の風は気持ちいい。
でも、ずっと外にいると疲れる。
だから、風の良いところだけを、布や昼食や寝具に移して白銀列車へ持ち帰る。
たぶん、この高原ラヴェルは、そういう場所なのだ。
私は窓の外を見た。
草原、羊、石垣、白いシーツ、そして遠くまで抜ける風。
明日は、パン籠に昼食を入れて外へ出る。石垣の影で、風と草の匂いを少しだけ受け取る。そのあとは、きっと車内に戻る。
高原の風は気持ちいい。
でも、前髪が少し乱れる。
だからこそ、白銀列車の中で整え直す時間まで含めて、きっと楽しい。
「ラヴェル、良い場所ですわね」
私は前髪を直してもらいながら、そう言った。
窓の外で、羊の鈴が小さく鳴った。
からん、ころん。
高原の一日目は、風の匂いと少し乱れた前髪から始まった。
第7章開始です。
風渡る高原ラヴェルに着きました。
草原、
羊の鈴、
白いシーツ、
そして思ったより元気な風。
高原の風は気持ちいいですが、
髪と布と昼食には注意が必要そうです。
次回、
草原サンドです。




