056 【閑話】石窯パン屋の職人は、走る客室が朝を持ち帰るのを見ていました
ミューレの石窯パン屋から見た白銀列車です。
朝を大事にする客は、パン屋から見ると少し変わっていました。
白銀列車が去ったあとも、ミューレの朝は続いていた。
小川は流れる。
水車は回る。
ごとん。
ことん。
ごとん。
石窯の火は、まだ落とさない。
朝の客が一通り帰っても、昼前に持っていく者がいる。荷車で村の外へ運ぶ者もいる。粉挽き小屋へ渡す試し焼きも、まだ残っている。
石窯パン屋の職人ベルトは、木の棚に残った丸パンを並べ直しながら、窓の外を見た。
水車小屋の裏手にあった白銀の列車は、もういない。
昨日までは、銀色の客室みたいなものが、朝霧の中に静かに停まっていた。
最初に見た時は、正直、妙なものが来たと思った。
線路などなかった場所に、白い線路が伸びていた。そこへ銀色の列車が停まり、窓の向こうには貴族らしい令嬢が右側のソファに座っていた。
港町マリーノで噂になった、走るホテル。
粉挽きがそんなことを言っていた。
だが、ベルトから見ると、あれは少し違った。
ホテルというには、客が一人の場所に落ち着きすぎていた。宿というには、動き出す気配がありすぎた。船というには、揺れなさすぎた。
そして、ただの列車というには、朝食の支度を大事にしすぎていた。
「……変な客だったな」
ベルトが呟くと、店の奥から若い見習いが顔を出した。
「白銀列車の人たちですか」
「ほかに変な客がいたか」
「昨日、粉袋を枕にして寝ようとした旅人がいました」
「あれはただの馬鹿だ」
見習いは少し笑い、焼き台の上に布を広げた。
「でも、白銀列車の方々は、上品でしたよね」
「上品というか、妙に真剣だった」
「パンにですか」
「パンにだ」
ベルトは、昨日の朝を思い出した。
◇
最初に来た時、令嬢はまだ町の朝に慣れていなかった。
黒ずくめの騎士が半歩後ろに立ち、足元の石を見ていた。若い男は窓や水車の方を見て、何かを覚えるような顔をしていた。料理人らしき男だけは、最初からパンを見ていた。
あの料理人は、目が違った。
棚の上の丸パンを、飾りとして見ない。
大きさ。
皮。
割れ目。
湯気。
焼き色。
香りの立ち方。
それらを、短い間で見ていた。
ベルトは、そういう目が嫌いではない。
「小さいやつがいい」
料理人は言った。
「列車で食うのか」
「そうだ」
「なら、冷める前に戻れ」
「分かってる」
言葉は少ない。
だが、分かっている者の言葉だった。
パンは、買えば終わりではない。
持ち帰る。
置く。
割る。
食べる。
その間に、良くも悪くもなる。
ただ高い金を出して買う客より、その途中を分かっている客の方が、パンにとってはありがたい。
令嬢は、棚の丸パンを見て目を輝かせていた。
派手な菓子でも、砂糖をかけた祝いパンでもない。
小さな丸パンである。
それを、かなり真剣に見ていた。
「これを白銀列車でいただくと、朝がかなり良くなりそうですわ」
そう言った時、ベルトは少しだけ手を止めた。
朝が良くなる。
それは、パン屋にとって悪くない褒め言葉だった。
うまいと言われるのもいい。
香ばしいと言われるのもいい。
けれど、朝が良くなると言われるのは、もう少し広い。
自分のパンが、誰かの朝の中へ入っていく感じがした。
だから、ベルトはその令嬢を少し覚えた。
◇
次に気になったのは、布だった。
朝市の端で、布商人が麦色のパン布を売ったと聞いた。
その話を聞いて、ベルトは少し意外だった。
白銀列車の客なら、もっと白い布や、刺繍の多い布を選ぶと思った。
見た目で選ぶなら、そちらの方が映える。窓の向こうで広げても、客室の中が華やかに見えるだろう。
けれど、あの令嬢は麦色のパン布を選んだらしい。
亜麻で織られた、小麦粉と丸パンの間くらいの色の布。
パンを蒸れさせず、粉も払いよく、籠にも敷きやすい。
華やかではない。
だが、朝の丸パンには合う。
「白銀列車の客が、あの布をねえ」
ベルトが言うと、布商人は少し嬉しそうに笑った。
「パンが気持ちよくいられる方が先だとおっしゃっていました」
「パンが?」
「ええ。パンが気持ちよくいられる布、と」
ベルトは、その時は少し笑った。
パンが気持ちよくいられる。
変な言い方だ。
しかし、悪くない。
パンは喋らない。
だが、雑に積まれれば潰れるし、包みすぎれば湿るし、放っておかれれば乾く。
気持ちよくいられる状態というものは、たしかにある。
それを、あの令嬢は妙な言葉で言い当てたのだろう。
次の朝、彼女たちは本当に麦色のパン布を持ってやってきた。
ベルトは、棚に丸パンを並べながら、その布を見た。
白すぎない。
黄色すぎない。
丸パンの皮が落ち着いて見える。
そして、料理人はその布を下に敷き、上からもう一枚をふわりとかけた。
閉じない。
押さえない。
湯気を逃がす。
その手順を見て、ベルトは思った。
ああ、これは大丈夫だ。
パンはちゃんと戻れる。
銀色の列車の中へ。
あの大きな窓の向こうへ。
右側のソファで待っている令嬢の朝へ。
◇
三度目の朝、彼女たちはパン籠を持ってきた。
浅い籠。
底が安定している。
見た目だけなら、もっと品のいい籠もあっただろう。
だが、丸パンを運ぶなら、あれでいい。
麦色のパン布を敷けば、パンが寄りにくい。
熱もこもりにくい。
何より、持つ者がパンを大事にしていることが分かる。
令嬢は、籠をとても真剣に持っていた。
黒い騎士が横から手を添えている。
料理人が中のパンを見ている。
若い男が何かを見て笑っている。
おかしな光景だった。
たかが丸パンを三つ持ち帰るだけで、なぜあそこまで真剣なのか。
しかし、ベルトは笑わなかった。
笑う気にならなかった。
ああいう持ち方をされたパンは、たぶんうまく食べられる。
職人は、そこを見てしまう。
誰に買われたかより、どう持っていかれるか。
高い客かどうかより、雑にされないか。
自分が焼いたものは、店を出たあとにも続いている。
それを、職人は知っている。
「今日は、籠も分かっている顔ですわ」
令嬢がそんなことを言った。
ベルトは、思わず口元を動かした。
籠が分かっている顔。
やはり変な言い方だ。
けれど、二度目の仕事道具には、少しそういう顔がある。
新品の籠は、まだ籠でしかない。
一度パンを受けて、湯気を逃がし、布と一緒に棚へ戻った籠は、少しだけ仕事を知る。
たぶん、そういうことなのだろう。
あの令嬢は、変な言葉で物の働きを見る。
だから面白かった。
◇
白銀列車が出発する前、令嬢はもう一度だけ外に出てきた。
長く歩く様子ではなかった。
水車小屋の前に立ち、小川と町を見ていた。
黒い騎士が隣に立ち、料理人と若い男が少し後ろにいる。
ベルトは店先から軽く手を上げた。
令嬢は、こちらへ少し深く頭を下げた。
「良い朝をありがとう」
その言葉は、少し妙だった。
普通なら、良いパンをありがとう、だろう。
うまいパンをありがとう、でもいい。
けれど彼女は、良い朝と言った。
ベルトは短く返した。
「良い朝にしてくれたなら、それでいい」
言ってから、自分でも悪くない返しだと思った。
パンは朝のためにある。
少なくとも、ミューレの丸パンはそうだ。
腹を満たすだけなら、硬い保存食でもいい。
だが、朝に水車の音を聞き、石窯の煙を見て、まだ少し温かい丸パンを割る。
それには、保存食とは違う役目がある。
白銀列車の一行は、その役目ごと持っていった。
パンだけではない。
麦色のパン布。
浅い籠。
赤い実の刺繍紐。
粉の匂い。
水車の音。
そういうものを、あの走る客室の中へ入れていった。
それでいい。
ミューレの朝は、少しだけ遠くへ行った。
◇
りぃん、と澄んだ音がした。
白銀列車が動き始める合図だった。
町の外れに、白い神の線路が伸びていく。
水車小屋の裏手から、小川沿いを離れ、朝霧の向こうへ。
銀色の客室が、ゆっくり進み出した。
がたん。
ごとん。
水車の音とは違う。
だが、邪魔ではなかった。
ごとん。
ことん。
水車が町に残る音を立てる。
がたん。
ごとん。
白銀列車が町を出ていく音を立てる。
二つの音が、少しだけ重なった。
ベルトはその音を聞きながら、窓の向こうを見た。
令嬢は右側のソファに座っていた。
いつもの場所なのだろう。
その奥に、棚が見えた。
はっきりではない。
しかし、浅いパン籠がそこに収まっているように見えた。
麦色のパン布も、たぶん一緒だ。
丸パンはもう食べられただろう。
それでも、籠と布は残る。
次の町でも使われる。
次の朝にも、何かを受け止める。
そう思うと、ベルトは少し不思議な気分になった。
自分のパンは食べられて消える。
それでよい。
だが、そのパンをきっかけに、あの列車の朝食道具が増えた。
それは、少し残る。
「親方」
見習いが横に来た。
「なんだ」
「あの籠、次の町でも使うんですかね」
「使うだろう」
「うちのパンじゃなくても?」
「朝食用になったなら、そういうものだ」
見習いは少し考えた。
「なんか、いいですね」
「いいか」
「はい。パンはなくなるけど、朝の支度は残る感じがします」
ベルトは見習いを見た。
思ったより、まともなことを言った。
「なら、覚えとけ」
「何をですか」
「パンは腹に入る。けど、いい朝は人の癖になる」
見習いは、分かったような、分からないような顔をした。
今はそれでいい。
毎朝焼いていれば、そのうち少しは分かる。
◇
白銀列車が見えなくなってから、粉挽きの男が店先へやってきた。
肩には粉袋を担いでいる。
「行ったな」
「ああ」
「白銀列車印の丸パン、とか言い出すやつが出ると思うか」
ベルトは眉をひそめた。
「出たら、焼かん」
粉挽きの男は声を出して笑った。
「だろうな」
「名前を貼ったら、パンがうまくなるのか」
「ならんな」
「じゃあ、いらん」
ベルトは棚の上の丸パンを整えた。
少し焼き色が濃いものを奥へ。
軽いものを手前へ。
朝の客が減っても、まだパンは仕事をしている。
「ただ」
ベルトは言った。
「今日の小さい丸パンは、少し早くなくなるかもしれん」
「なぜ」
「見てたやつがいた。あの列車が何を持っていったか」
粉挽きの男は小さく頷いた。
「麦色のパン布と、浅い籠と、小さい丸パンか」
「そうだ」
「白銀列車印は要らんが、あれと同じ朝が欲しい客は出るかもな」
「それなら焼く」
ベルトは即答した。
名前で売るなら、断る。
だが、同じように朝を整えたいと言うなら、悪くない。
麦色のパン布を敷いた浅い籠に、小さな丸パンを入れて持ち帰る。
それを自分の家で割って、バターを塗り、ジャムを添える。
その朝が増えるなら、パン屋としては嬉しい。
白銀列車が残したものがあるとすれば、たぶんそういうことだ。
看板ではない。
流行でもない。
少し丁寧に朝を持ち帰る、というやり方。
「なら、今日は少し多めに小さいやつを焼くか」
粉挽きの男が言った。
「粉はあるのか」
「ある。夜の湿りが少なかったから、悪くない」
「なら、少しだけだ」
「急に増やさないんだな」
「朝のパンは、増やしすぎると顔が荒れる」
粉挽きの男は、肩を揺らして笑った。
「あんたもパンの顔を見るのか」
「職人だからな」
ベルトは、石窯の方へ戻った。
火はまだ落ちていない。
小さな丸パンをもう少し焼くには、ちょうどよい。
◇
昼前になると、布商人が店の前を通った。
手には、麦色のパン布が数枚ある。
「追加で畳んでおきます」
「売れそうか」
「少しだけ」
「刺繍布じゃなくていいのか」
「今日は、パン布の方を見られますね」
布商人は、少し楽しそうだった。
「白銀列車の方は、派手な布を選ばなかったでしょう。あれを見ていた人たちが、今朝は少し真面目に布を触っています」
「パンが気持ちよくいられる布、か」
「ええ。それを言ったら、何人か笑いました。でも、そのあと考えていました」
「なら、悪くない」
ベルトは、焼き台へ新しい丸パンを並べた。
小さめ。
朝用。
籠に入れやすい大きさ。
食卓で割りやすく、バターを少し塗るのにちょうどいい。
特別なパンではない。
けれど、朝には向いている。
白銀列車のために焼くのではない。
町の朝のために焼く。
たまたま、その朝の使い方を、白銀列車の客が少し目立つ形で見せていっただけだ。
それなら、良い。
ベルトは石窯の前に立った。
水車の音が聞こえる。
ごとん。
ことん.
ごとん。
列車の音は、もう遠い。
けれど、今朝の銀色の客室と、そこへ運ばれていったパン籠の景色は、まだ少し残っている。
ベルトは新しい丸パンを窯へ入れた。
小さな丸パンは、すぐに香りを立て始める。
粉と水と火と時間。
それだけで、また朝に近いものができていく。
「親方、これ、何用ですか」
見習いが聞いた。
ベルトは少し考えてから答えた。
「持ち帰る朝用だ」
「新しい言い方ですね」
「今日からそういう客が少し増える」
見習いは窓の外を見た。
そこにはもう、白銀列車はいない。
ただ、小川が流れ、水車が回り、町の人々がそれぞれの朝を続けている。
それでよかった。
白銀列車は去った。
けれど、麦色のパン布と浅い籠を抱えた朝は、ミューレに少し残った。
ベルトは石窯の火を見ながら、小さく頷いた。
「良い朝にしてくれたなら、それでいい」
さっき令嬢へ返した言葉を、もう一度だけ心の中で繰り返す。
窯の中で、小さな丸パンがふくらみ始めていた。
石窯の町から見た白銀列車でした。
焼きたての丸パンとパン籠は、これから何度も車内の朝に出てきます。




