表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第6章 丸パンとパン籠編 ~水車と石窯の町ミューレ~

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/84

056 【閑話】石窯パン屋の職人は、走る客室が朝を持ち帰るのを見ていました

ミューレの石窯パン屋から見た白銀列車です。

朝を大事にする客は、パン屋から見ると少し変わっていました。

 白銀列車が去ったあとも、ミューレの朝は続いていた。


 小川は流れる。

 水車は回る。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 石窯の火は、まだ落とさない。

 朝の客が一通り帰っても、昼前に持っていく者がいる。荷車で村の外へ運ぶ者もいる。粉挽き小屋へ渡す試し焼きも、まだ残っている。

 石窯パン屋の職人ベルトは、木の棚に残った丸パンを並べ直しながら、窓の外を見た。

 水車小屋の裏手にあった白銀の列車は、もういない。

 昨日までは、銀色の客室みたいなものが、朝霧の中に静かに停まっていた。

 最初に見た時は、正直、妙なものが来たと思った。

 線路などなかった場所に、白い線路が伸びていた。そこへ銀色の列車が停まり、窓の向こうには貴族らしい令嬢が右側のソファに座っていた。

 港町マリーノで噂になった、走るホテル。

 粉挽きがそんなことを言っていた。

 だが、ベルトから見ると、あれは少し違った。

 ホテルというには、客が一人の場所に落ち着きすぎていた。宿というには、動き出す気配がありすぎた。船というには、揺れなさすぎた。

 そして、ただの列車というには、朝食の支度を大事にしすぎていた。

「……変な客だったな」

 ベルトが呟くと、店の奥から若い見習いが顔を出した。

「白銀列車の人たちですか」

「ほかに変な客がいたか」

「昨日、粉袋を枕にして寝ようとした旅人がいました」

「あれはただの馬鹿だ」

 見習いは少し笑い、焼き台の上に布を広げた。

「でも、白銀列車の方々は、上品でしたよね」

「上品というか、妙に真剣だった」

「パンにですか」


「パンにだ」


 ベルトは、昨日の朝を思い出した。


   ◇


 最初に来た時、令嬢はまだ町の朝に慣れていなかった。

 黒ずくめの騎士が半歩後ろに立ち、足元の石を見ていた。若い男は窓や水車の方を見て、何かを覚えるような顔をしていた。料理人らしき男だけは、最初からパンを見ていた。

 あの料理人は、目が違った。

 棚の上の丸パンを、飾りとして見ない。

 大きさ。

 皮。

 割れ目。

 湯気。

 焼き色。

 香りの立ち方。

 それらを、短い間で見ていた。

 ベルトは、そういう目が嫌いではない。

「小さいやつがいい」

 料理人は言った。

「列車で食うのか」

「そうだ」

「なら、冷める前に戻れ」

「分かってる」

 言葉は少ない。

 だが、分かっている者の言葉だった。

 パンは、買えば終わりではない。

 持ち帰る。

 置く。

 割る。

 食べる。

 その間に、良くも悪くもなる。

 ただ高い金を出して買う客より、その途中を分かっている客の方が、パンにとってはありがたい。

 令嬢は、棚の丸パンを見て目を輝かせていた。

 派手な菓子でも、砂糖をかけた祝いパンでもない。

 小さな丸パンである。

 それを、かなり真剣に見ていた。

「これを白銀列車でいただくと、朝がかなり良くなりそうですわ」

 そう言った時、ベルトは少しだけ手を止めた。

 朝が良くなる。

 それは、パン屋にとって悪くない褒め言葉だった。

 うまいと言われるのもいい。

 香ばしいと言われるのもいい。

 けれど、朝が良くなると言われるのは、もう少し広い。


 自分のパンが、誰かの朝の中へ入っていく感じがした。


 だから、ベルトはその令嬢を少し覚えた。


   ◇


 次に気になったのは、布だった。

 朝市の端で、布商人が麦色のパン布を売ったと聞いた。

 その話を聞いて、ベルトは少し意外だった。

 白銀列車の客なら、もっと白い布や、刺繍の多い布を選ぶと思った。

 見た目で選ぶなら、そちらの方が映える。窓の向こうで広げても、客室の中が華やかに見えるだろう。

 けれど、あの令嬢は麦色のパン布を選んだらしい。

 亜麻で織られた、小麦粉と丸パンの間くらいの色の布。

 パンを蒸れさせず、粉も払いよく、籠にも敷きやすい。

 華やかではない。

 だが、朝の丸パンには合う。

「白銀列車の客が、あの布をねえ」

 ベルトが言うと、布商人は少し嬉しそうに笑った。

「パンが気持ちよくいられる方が先だとおっしゃっていました」

「パンが?」

「ええ。パンが気持ちよくいられる布、と」

 ベルトは、その時は少し笑った。

 パンが気持ちよくいられる。

 変な言い方だ。

 しかし、悪くない。

 パンは喋らない。

 だが、雑に積まれれば潰れるし、包みすぎれば湿るし、放っておかれれば乾く。

 気持ちよくいられる状態というものは、たしかにある。

 それを、あの令嬢は妙な言葉で言い当てたのだろう。

 次の朝、彼女たちは本当に麦色のパン布を持ってやってきた。

 ベルトは、棚に丸パンを並べながら、その布を見た。

 白すぎない。

 黄色すぎない。

 丸パンの皮が落ち着いて見える。

 そして、料理人はその布を下に敷き、上からもう一枚をふわりとかけた。

 閉じない。

 押さえない。

 湯気を逃がす。

 その手順を見て、ベルトは思った。

 ああ、これは大丈夫だ。


 パンはちゃんと戻れる。


 銀色の列車の中へ。

 あの大きな窓の向こうへ。

 右側のソファで待っている令嬢の朝へ。


   ◇


 三度目の朝、彼女たちはパン籠を持ってきた。

 浅い籠。

 底が安定している。

 見た目だけなら、もっと品のいい籠もあっただろう。

 だが、丸パンを運ぶなら、あれでいい。

 麦色のパン布を敷けば、パンが寄りにくい。

 熱もこもりにくい。

 何より、持つ者がパンを大事にしていることが分かる。

 令嬢は、籠をとても真剣に持っていた。

 黒い騎士が横から手を添えている。

 料理人が中のパンを見ている。

 若い男が何かを見て笑っている。

 おかしな光景だった。

 たかが丸パンを三つ持ち帰るだけで、なぜあそこまで真剣なのか。

 しかし、ベルトは笑わなかった。

 笑う気にならなかった。

 ああいう持ち方をされたパンは、たぶんうまく食べられる。


 職人は、そこを見てしまう。


 誰に買われたかより、どう持っていかれるか。

 高い客かどうかより、雑にされないか。

 自分が焼いたものは、店を出たあとにも続いている。

 それを、職人は知っている。

「今日は、籠も分かっている顔ですわ」

 令嬢がそんなことを言った。

 ベルトは、思わず口元を動かした。

 籠が分かっている顔。

 やはり変な言い方だ。

 けれど、二度目の仕事道具には、少しそういう顔がある。

 新品の籠は、まだ籠でしかない。

 一度パンを受けて、湯気を逃がし、布と一緒に棚へ戻った籠は、少しだけ仕事を知る。

 たぶん、そういうことなのだろう。

 あの令嬢は、変な言葉で物の働きを見る。

 だから面白かった。


   ◇


 白銀列車が出発する前、令嬢はもう一度だけ外に出てきた。

 長く歩く様子ではなかった。

 水車小屋の前に立ち、小川と町を見ていた。

 黒い騎士が隣に立ち、料理人と若い男が少し後ろにいる。

 ベルトは店先から軽く手を上げた。

 令嬢は、こちらへ少し深く頭を下げた。

「良い朝をありがとう」

 その言葉は、少し妙だった。

 普通なら、良いパンをありがとう、だろう。

 うまいパンをありがとう、でもいい。

 けれど彼女は、良い朝と言った。

 ベルトは短く返した。

「良い朝にしてくれたなら、それでいい」

 言ってから、自分でも悪くない返しだと思った。

 パンは朝のためにある。

 少なくとも、ミューレの丸パンはそうだ。

 腹を満たすだけなら、硬い保存食でもいい。

 だが、朝に水車の音を聞き、石窯の煙を見て、まだ少し温かい丸パンを割る。

 それには、保存食とは違う役目がある。

 白銀列車の一行は、その役目ごと持っていった。

 パンだけではない。

 麦色のパン布。

 浅い籠。

 赤い実の刺繍紐。

 粉の匂い。

 水車の音。

 そういうものを、あの走る客室の中へ入れていった。

 それでいい。


 ミューレの朝は、少しだけ遠くへ行った。


   ◇


 りぃん、と澄んだ音がした。

 白銀列車が動き始める合図だった。

 町の外れに、白い神の線路が伸びていく。

 水車小屋の裏手から、小川沿いを離れ、朝霧の向こうへ。

 銀色の客室が、ゆっくり進み出した。

 がたん。

 ごとん。

 水車の音とは違う。

 だが、邪魔ではなかった。

 ごとん。

 ことん。

 水車が町に残る音を立てる。

 がたん。

 ごとん。

 白銀列車が町を出ていく音を立てる。

 二つの音が、少しだけ重なった。

 ベルトはその音を聞きながら、窓の向こうを見た。

 令嬢は右側のソファに座っていた。

 いつもの場所なのだろう。

 その奥に、棚が見えた。

 はっきりではない。

 しかし、浅いパン籠がそこに収まっているように見えた。

 麦色のパン布も、たぶん一緒だ。

 丸パンはもう食べられただろう。

 それでも、籠と布は残る。

 次の町でも使われる。

 次の朝にも、何かを受け止める。

 そう思うと、ベルトは少し不思議な気分になった。

 自分のパンは食べられて消える。

 それでよい。

 だが、そのパンをきっかけに、あの列車の朝食道具が増えた。

 それは、少し残る。

「親方」

 見習いが横に来た。

「なんだ」

「あの籠、次の町でも使うんですかね」

「使うだろう」

「うちのパンじゃなくても?」

「朝食用になったなら、そういうものだ」

 見習いは少し考えた。

「なんか、いいですね」

「いいか」

「はい。パンはなくなるけど、朝の支度は残る感じがします」

 ベルトは見習いを見た。

 思ったより、まともなことを言った。

「なら、覚えとけ」

「何をですか」


「パンは腹に入る。けど、いい朝は人の癖になる」


 見習いは、分かったような、分からないような顔をした。

 今はそれでいい。

 毎朝焼いていれば、そのうち少しは分かる。


   ◇


 白銀列車が見えなくなってから、粉挽きの男が店先へやってきた。

 肩には粉袋を担いでいる。

「行ったな」

「ああ」

「白銀列車印の丸パン、とか言い出すやつが出ると思うか」

 ベルトは眉をひそめた。

「出たら、焼かん」

 粉挽きの男は声を出して笑った。

「だろうな」

「名前を貼ったら、パンがうまくなるのか」

「ならんな」

「じゃあ、いらん」

 ベルトは棚の上の丸パンを整えた。

 少し焼き色が濃いものを奥へ。

 軽いものを手前へ。

 朝の客が減っても、まだパンは仕事をしている。

「ただ」

 ベルトは言った。

「今日の小さい丸パンは、少し早くなくなるかもしれん」

「なぜ」

「見てたやつがいた。あの列車が何を持っていったか」

 粉挽きの男は小さく頷いた。

「麦色のパン布と、浅い籠と、小さい丸パンか」

「そうだ」

「白銀列車印は要らんが、あれと同じ朝が欲しい客は出るかもな」

「それなら焼く」

 ベルトは即答した。

 名前で売るなら、断る。

 だが、同じように朝を整えたいと言うなら、悪くない。

 麦色のパン布を敷いた浅い籠に、小さな丸パンを入れて持ち帰る。

 それを自分の家で割って、バターを塗り、ジャムを添える。

 その朝が増えるなら、パン屋としては嬉しい。

 白銀列車が残したものがあるとすれば、たぶんそういうことだ。

 看板ではない。

 流行でもない。


 少し丁寧に朝を持ち帰る、というやり方。


「なら、今日は少し多めに小さいやつを焼くか」

 粉挽きの男が言った。

「粉はあるのか」

「ある。夜の湿りが少なかったから、悪くない」

「なら、少しだけだ」

「急に増やさないんだな」

「朝のパンは、増やしすぎると顔が荒れる」

 粉挽きの男は、肩を揺らして笑った。

「あんたもパンの顔を見るのか」

「職人だからな」

 ベルトは、石窯の方へ戻った。

 火はまだ落ちていない。

 小さな丸パンをもう少し焼くには、ちょうどよい。


   ◇


 昼前になると、布商人が店の前を通った。

 手には、麦色のパン布が数枚ある。

「追加で畳んでおきます」

「売れそうか」

「少しだけ」

「刺繍布じゃなくていいのか」

「今日は、パン布の方を見られますね」

 布商人は、少し楽しそうだった。

「白銀列車の方は、派手な布を選ばなかったでしょう。あれを見ていた人たちが、今朝は少し真面目に布を触っています」

「パンが気持ちよくいられる布、か」

「ええ。それを言ったら、何人か笑いました。でも、そのあと考えていました」

「なら、悪くない」

 ベルトは、焼き台へ新しい丸パンを並べた。

 小さめ。

 朝用。

 籠に入れやすい大きさ。

 食卓で割りやすく、バターを少し塗るのにちょうどいい。

 特別なパンではない。

 けれど、朝には向いている。

 白銀列車のために焼くのではない。

 町の朝のために焼く。

 たまたま、その朝の使い方を、白銀列車の客が少し目立つ形で見せていっただけだ。

 それなら、良い。

 ベルトは石窯の前に立った。

 水車の音が聞こえる。

 ごとん。

 ことん.

 ごとん。

 列車の音は、もう遠い。

 けれど、今朝の銀色の客室と、そこへ運ばれていったパン籠の景色は、まだ少し残っている。

 ベルトは新しい丸パンを窯へ入れた。

 小さな丸パンは、すぐに香りを立て始める。

 粉と水と火と時間。

 それだけで、また朝に近いものができていく。

「親方、これ、何用ですか」

 見習いが聞いた。

 ベルトは少し考えてから答えた。


「持ち帰る朝用だ」


「新しい言い方ですね」

「今日からそういう客が少し増える」

 見習いは窓の外を見た。

 そこにはもう、白銀列車はいない。

 ただ、小川が流れ、水車が回り、町の人々がそれぞれの朝を続けている。

 それでよかった。

 白銀列車は去った。

 けれど、麦色のパン布と浅い籠を抱えた朝は、ミューレに少し残った。

 ベルトは石窯の火を見ながら、小さく頷いた。

「良い朝にしてくれたなら、それでいい」

 さっき令嬢へ返した言葉を、もう一度だけ心の中で繰り返す。

 窯の中で、小さな丸パンがふくらみ始めていた。

石窯の町から見た白銀列車でした。

焼きたての丸パンとパン籠は、これから何度も車内の朝に出てきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ