055 最後の朝、パン籠を抱えてミューレを出ますわ
麦色のパン布を選び、
浅いパン籠も手に入れました。
ミューレで迎える、
三度目の朝です。
今日は最後にもう一度、
丸パンを買いに行きます。
ミューレで迎える三度目の朝は、いちばん静かだった。
窓の外では、小川がいつも通り流れている。水車も、いつも通り回っている。
ごとん。
ことん。
ごとん。
昨日より特別な音がするわけではない。
町が盛大に見送ってくれるわけでもない。
けれど、その変わらなさが、少しだけ名残惜しかった。
私は右ソファに座り、膝の上に置いたパン籠を見下ろしていた。
浅い籠。
麦色のパン布。
持ち手の根元には、小さな赤い実の刺繍紐。
昨日の朝、パンを入れて持ち帰ったばかりなのに、もう前から白銀列車にあったような顔をしている。
「……馴染むのが早いですわね」
私が呟くと、ノアが窓側で笑った。
「良い道具ほど、すぐ居場所を見つけますね」
「それは、かなり正しいですわ」
マリーノのガラス器もそうだった。
最初は新しい買い物だったのに、果実水を入れ、冷製スープを入れるうちに、すぐ白銀列車の夏用食器になった。
このパン籠も同じだ。
丸パンを入れた瞬間から、ただの籠ではなくなった。
朝食の支度になった。
アベルが厨房側から顔を出す。
「最後にもう一度、買いに行くんだろ」
「ええ。今日はこの籠で」
「なら、早めに行く。昨日より少し窯が早い匂いだ」
「匂いで分かるの、やはりずるいですわ」
「食い物に関しては仕事だ」
アベルは短く言って、支度を始めた。
ルークはすでに外套を手にしている。
「お嬢様、今朝は霧が薄うございます。足元は昨日より歩きやすいかと」
「三度目の朝ですもの。私も少し慣れましたわ」
「はい。水気のある石を避ける判断も、かなり安定されております」
「評価が実務的ですわね」
「お嬢様が快適に歩かれるためでございますので」
たいへん正しい。
私はパン籠を両手で持って立ち上がった。
空の籠は軽い。
けれど、これから朝を入れて帰ると思うと、少しだけ背筋が伸びた。
◇
白銀列車の扉が開くと、朝の空気が入ってきた。
小川の冷たさ。
粉挽き小屋の乾いた匂い。
石窯の煙。
木組みの家の窓辺に差す、薄い朝日。
昨日までと同じなのに、今日だけは少し遠く感じる。
出発する朝だからだろう。
白い神の線路は、水車小屋の裏手から白銀列車の足元へ伸びている。
昨日までなかった線路に、町の人々はもう大きく驚かない。
粉挽きの男は水車小屋の前で袋を積みながら、こちらへ帽子のつばを上げた。
「最後の朝かい」
私は少し驚いた。
「分かりますの?」
「あんたらの列車が、今朝は少し出発する顔をしてる」
「列車にも顔がありますのね」
「あるさ。停まる顔と、行く顔は違う」
そう言われて、私は白銀列車を振り返った。
白い車体。
大きな窓。
水車町の朝霧をまとった銀色の客室。
昨日までは、この小川沿いに腰を下ろしているように見えた。
今朝は、たしかに少しだけ、次の線路を待っているようにも見える。
「……本当ですわね」
私は小さく言った。
粉挽きの男は、パン籠へ目を落とした。
「籠も持ったな」
「ええ。昨日、選びました」
「良い籠だ。パンが暴れない」
「パンは暴れますの?」
「悪い籠だと、帰るまでに寄る。寄ったパンは、少し機嫌が悪い」
私は思わず籠を見た。
「それは困りますわ」
「だから、水平に持つんだ」
横からルークが静かに手を添えた。
「その点は、私が補助いたします」
粉挽きの男は、黒い騎士とパン籠を交互に見て、低く笑った。
「パンまで守られるのか」
「お嬢様の朝食でございますので」
「そりゃ、大事だ」
この町の人は、そういうことを笑い飛ばさない。
そこが少し好きだった。
◇
石窯パン屋の前には、昨日より少しだけ人が多かった。
けれど、騒がしくはない。
子どもは籠を抱え、女たちは布の端をめくって焼き上がりを見ている。
職人はいつものように、石窯の前で黙々と動いていた。
私たちを見ると、職人は棚の上へ小さな丸パンを三つ置いた。
「今朝の分だ」
まだ注文していない。
けれど、もう分かっているらしい。
アベルが丸パンを見る。
「昨日より軽いな」
「朝霧が薄かったからな。今日は皮が少し軽い」
「いい」
「持っていけ」
短い。
けれど、たぶんこの町では十分なのだ。
私はパン籠を差し出した。
麦色のパン布を広げ、底へふわりと敷く。
アベルが丸パンを一つずつ置いた。
熱い。
けれど、布が受け止めてくれる。
湯気が、パン布の端から細く逃げる。
上からもう一枚の布をかける。
閉じ込めない。
押さえつけない。
昨日より、手順が自然だった。
「……今日は、籠も分かっている顔ですわ」
職人が手を止めた。
「昨日は分かってなかったのか」
「昨日は初仕事でしたもの」
「今日は二度目か」
「ええ。白銀列車の朝食用パン籠としては、二度目です」
職人は、少しだけ口元を動かした。
「なら、もう仕事道具だな」
仕事道具。
生活道具。
朝食道具。
どれでもよい。
この籠が、白銀列車の朝にちゃんと加わったことだけは分かった。
店の横にいた布商人が、籠に敷かれた麦色のパン布を見て、小さく頷いた。
木工屋の老人も、軒先で手を止めている。
誰も大声では褒めない。
白銀列車の名を口にして騒ぐこともない。
けれど、パンと布と籠がどう使われたのかを、静かに見届けている。
私は籠を抱えたまま、少しだけ頭を下げた。
「良い朝をありがとう」
職人は短く言った。
「良い朝にしてくれたなら、それでいい」
その言葉は、焼きたてのパンのように素朴で、かなり温かかった。
◇
白銀列車へ戻る道は、昨日よりゆっくり歩いた。
急いでいるわけではない。
むしろ、急ぎたくなかった。
小川沿いの草。
石橋。
木組みの家の窓。
粉袋を積む音。
水車の、ごとん、ことん、という音。
それらを、少しずつ籠の中のパンと一緒に持ち帰るような気分だった。
ノアが隣で言った。
「完全に町の朝食を持ち帰ってますね」
「ええ。パンだけではありませんもの」
「粉と水車と石窯と布と籠ですか」
「あと、小川の匂いと、朝霧も少し」
「持ち帰れるものが増えてますね」
「気持ちの問題ですわ」
気持ちの問題。
でも、かなり大事な問題だ。
丸パンだけを紙に包んで急いで帰るのと、麦色のパン布を敷いた籠で水平に持ち帰るのでは、朝の残り方が違う。
それは食べる前から分かる。
小川沿いで、パン籠を持った子どもがこちらを見た。
昨日の子かもしれない。
私は今度こそ、籠を傾けすぎないように、ほんの少しだけ持ち上げた。
ルークの手がすぐ下に添えられる。
子どもも自分の籠を少し持ち上げて笑った。
小さな挨拶。
パン籠同士の挨拶である。
「今度は成功しましたわ」
ルークが静かに頷く。
「大変よろしゅうございました」
「やはり褒め方が幼い子向けですわ」
「パンが無事でございますので」
それなら、よい。
◇
白銀列車へ戻り、私は籠を持ったままラウンジへ入った。
右ソファ。
小卓。
麻ラグ。
窓の外の水車。
そこへ、パン籠が加わる。
麦色のパン布を敷いた籠が小卓に置かれると、最後の朝の場所がはっきりした。
パンがある。
布がある。
籠がある。
そして、窓の外には水車がある。
「……できましたわね」
私は小さく言った。
アベルが丸パンを割る。
ぱり、と皮が鳴った。
「できたな」
ルークがカップを置く。
「朝食用の支度として、今後も整えられます」
ノアが籠を見ながら言う。
「棚の場所、決めましょう。パン布は乾かしてから、籠の中に畳んでおけば次に使いやすいです」
「白銀列車の朝食道具ですわね」
私はパン籠を見つめた。
ただの籠ではない。
ただの布でもない。
この町で、朝に気持ちよく使えるものを選んだ結果、白銀列車の朝が少し上手になった。
それが、とても嬉しかった。
私は丸パンを受け取った。
今日は、最初のひと口に木苺ジャムを少しだけ添えた。
食べる。
皮は軽い。
中は柔らかい。
バターの塩気と、木苺の甘酸っぱさ。
昨日より派手ではない。
けれど、今朝の方が落ち着いている。
たぶん、支度が整っているからだ。
「……最後の朝に、ちょうどよい味ですわ」
アベルが頷いた。
「食い納めにするには軽いが、朝にはそれでいい」
「食い納めという言い方は、少し重いですわ」
「じゃあ、次の朝へ持っていく味だ」
「それは良いです」
私はもう一口食べた。
次の町でも、この籠を使える。
ミューレの水車の音はなくても、麦色のパン布と浅い籠があれば、朝食の支度は少し整う。
旅の道具とは、そういうものなのかもしれない。
◇
朝食を終えると、白銀列車の中に小さな片付けの時間が流れた。
パン籠の中の布を広げて、湯気を逃がす。
残った粉を軽く払う。
刺繍紐をほどいて、持ち手に結び直す。
籠は小卓の下ではなく、専用の棚へ置くことになった。
ルークが棚の位置を確かめる。
「こちらであれば、型崩れせず、取り出しやすいかと」
ノアが頷く。
「朝食道具の棚ですね。ガラス器の棚とは分けた方がいいです」
アベルが厨房側から言う。
「バター壺とジャム匙も近くに置けるといい」
「もう一式ですわね」
「朝に探すもんじゃねえからな」
その言葉は、かなり正しい。
朝に必要なものは、朝に探してはいけない。
眠る前のお茶と同じだ。
必要な時に、迷わず出てくること。
それが快適なのだろう。
「夜には眠る支度」
私は棚へ収まるパン籠を見ながら言った。
「朝には朝食の支度ですわね」
ルークが静かに頷く。
「どちらも、白銀列車の暮らしに必要なものでございます」
暮らし。
旅なのに、暮らしが増えていく。
それが、白銀列車らしい。
◇
出発の前に、私はもう一度だけ外へ出た。
長く歩くつもりはない。
水車小屋の前から、小川と町を見るだけである。
ルークが隣に立ち、アベルとノアも少し後ろにいる。
水車は、やはり同じ音で回っていた。
ごとん。
ことん。
ごとん。
粉挽きの男が、袋を積む手を止めてこちらを見た。
石窯パン屋の職人は、店先から軽く手を上げた。
布商人は、朝市の台の上で麦色のパン布を畳んでいる。
木工屋の老人は、新しい籠を軒先へ吊るしていた。
町は、いつも通りの朝を続けている。
白銀列車が来たからといって、大騒ぎにはならない。
出ていくからといって、盛大に見送るわけでもない。
それがよかった。
ミューレは、朝を大事にしている町なのだ。
「良い町でしたわ」
私は言った。
粉挽きの男が笑う。
「パン籠を持っていくなら、少しはうちの朝も持っていくことになる」
「大事に使います」
「それでいい」
石窯パン屋の職人が、短く付け加えた。
「次に来たら、また小さいやつを焼く」
「お願いします」
私は思わず、少し深く頭を下げた。
次に来るかどうかは分からない。
白銀列車は、気まぐれで、神の線路は少し不思議だ。
けれど、もしまた朝においしいものがある場所を望んだら。
この水車町へ戻ってくることもあるのかもしれない。
◇
白銀列車へ戻り、私は運転室の水晶盤に手を置いた。
指先の下で、水晶が淡く光る。
昨夜とは違う。
今は眠る前ではない。
朝食を終えたあとの、少し満ちた時間だ。
「次は……」
私は少し考えた。
まだ、はっきりした行き先はいらない。
目的のない旅でよい。
けれど、今朝のパン籠のように、次の土地でも何かが白銀列車の暮らしに増えるといい。
「次も、暮らしが少し上手になる場所がよろしいですわ」
水晶盤が、りぃん、と鳴った。
窓の外で、白い神の線路が静かに伸び始める。
水車小屋の裏手から、小川沿いを離れて、朝霧の向こうへ。
白銀列車がゆっくり動き出した。
がたん。
ごとん。
がたん。
ごとん。
水車の音が、少しずつ遠ざかる。
ごとん。
ことん。
ごとん。
車輪の音が、代わりに近くなる。
私は右ソファへ戻り、窓の外を見た。
ミューレの木組みの家。
石橋。
石窯パン屋の煙突。
水車小屋。
小川。
そして、白銀列車を見送る人々。
どれも少しずつ後ろへ流れていく。
棚の中では、パン籠が静かに揺れている。
麦色のパン布も、赤い実の刺繍紐も、ちゃんとそこにある。
朝に目を覚ますための支度を、白銀列車は手に入れた。
私はそれを思って、少しだけ笑った。
「次の朝も、きっと少し上手ですわ」
白銀列車は、水車と石窯の町を離れ、白い線路の先へ進んでいった。
水車と石窯の町ミューレで、
白銀列車に朝食用のパン籠が増えました。
麦色のパン布。
赤い実の刺繍紐。
浅い籠。
焼きたての丸パン。
夜に眠るための一杯の次は、
朝に目を覚ますための支度でした。




