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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第6章 丸パンとパン籠編 ~水車と石窯の町ミューレ~

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55/84

055 最後の朝、パン籠を抱えてミューレを出ますわ

麦色のパン布を選び、

浅いパン籠も手に入れました。


ミューレで迎える、

三度目の朝です。


今日は最後にもう一度、

丸パンを買いに行きます。

 ミューレで迎える三度目の朝は、いちばん静かだった。


 窓の外では、小川がいつも通り流れている。水車も、いつも通り回っている。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 昨日より特別な音がするわけではない。

 町が盛大に見送ってくれるわけでもない。

 けれど、その変わらなさが、少しだけ名残惜しかった。

 私は右ソファに座り、膝の上に置いたパン籠を見下ろしていた。

 浅い籠。

 麦色のパン布。

 持ち手の根元には、小さな赤い実の刺繍紐。

 昨日の朝、パンを入れて持ち帰ったばかりなのに、もう前から白銀列車にあったような顔をしている。

「……馴染むのが早いですわね」

 私が呟くと、ノアが窓側で笑った。

「良い道具ほど、すぐ居場所を見つけますね」

「それは、かなり正しいですわ」

 マリーノのガラス器もそうだった。

 最初は新しい買い物だったのに、果実水を入れ、冷製スープを入れるうちに、すぐ白銀列車の夏用食器になった。

 このパン籠も同じだ。

 丸パンを入れた瞬間から、ただの籠ではなくなった。

 朝食の支度になった。

 アベルが厨房側から顔を出す。

「最後にもう一度、買いに行くんだろ」

「ええ。今日はこの籠で」

「なら、早めに行く。昨日より少し窯が早い匂いだ」

「匂いで分かるの、やはりずるいですわ」

「食い物に関しては仕事だ」

 アベルは短く言って、支度を始めた。

 ルークはすでに外套を手にしている。

「お嬢様、今朝は霧が薄うございます。足元は昨日より歩きやすいかと」

「三度目の朝ですもの。私も少し慣れましたわ」

「はい。水気のある石を避ける判断も、かなり安定されております」

「評価が実務的ですわね」

「お嬢様が快適に歩かれるためでございますので」

 たいへん正しい。

 私はパン籠を両手で持って立ち上がった。

 空の籠は軽い。

 けれど、これから朝を入れて帰ると思うと、少しだけ背筋が伸びた。


   ◇


 白銀列車の扉が開くと、朝の空気が入ってきた。

 小川の冷たさ。

 粉挽き小屋の乾いた匂い。

 石窯の煙。

 木組みの家の窓辺に差す、薄い朝日。

 昨日までと同じなのに、今日だけは少し遠く感じる。

 出発する朝だからだろう。

 白い神の線路は、水車小屋の裏手から白銀列車の足元へ伸びている。

 昨日までなかった線路に、町の人々はもう大きく驚かない。

 粉挽きの男は水車小屋の前で袋を積みながら、こちらへ帽子のつばを上げた。

「最後の朝かい」

 私は少し驚いた。

「分かりますの?」

「あんたらの列車が、今朝は少し出発する顔をしてる」

「列車にも顔がありますのね」

「あるさ。停まる顔と、行く顔は違う」

 そう言われて、私は白銀列車を振り返った。

 白い車体。

 大きな窓。

 水車町の朝霧をまとった銀色の客室。

 昨日までは、この小川沿いに腰を下ろしているように見えた。

 今朝は、たしかに少しだけ、次の線路を待っているようにも見える。

「……本当ですわね」

 私は小さく言った。

 粉挽きの男は、パン籠へ目を落とした。

「籠も持ったな」

「ええ。昨日、選びました」

「良い籠だ。パンが暴れない」

「パンは暴れますの?」

「悪い籠だと、帰るまでに寄る。寄ったパンは、少し機嫌が悪い」

 私は思わず籠を見た。

「それは困りますわ」

「だから、水平に持つんだ」

 横からルークが静かに手を添えた。

「その点は、私が補助いたします」

 粉挽きの男は、黒い騎士とパン籠を交互に見て、低く笑った。

「パンまで守られるのか」

「お嬢様の朝食でございますので」

「そりゃ、大事だ」

 この町の人は、そういうことを笑い飛ばさない。

 そこが少し好きだった。


   ◇


 石窯パン屋の前には、昨日より少しだけ人が多かった。

 けれど、騒がしくはない。

 子どもは籠を抱え、女たちは布の端をめくって焼き上がりを見ている。

 職人はいつものように、石窯の前で黙々と動いていた。

 私たちを見ると、職人は棚の上へ小さな丸パンを三つ置いた。

「今朝の分だ」

 まだ注文していない。

 けれど、もう分かっているらしい。

 アベルが丸パンを見る。

「昨日より軽いな」

「朝霧が薄かったからな。今日は皮が少し軽い」

「いい」

「持っていけ」

 短い。

 けれど、たぶんこの町では十分なのだ。

 私はパン籠を差し出した。

 麦色のパン布を広げ、底へふわりと敷く。

 アベルが丸パンを一つずつ置いた。

 熱い。

 けれど、布が受け止めてくれる。

 湯気が、パン布の端から細く逃げる。

 上からもう一枚の布をかける。

 閉じ込めない。

 押さえつけない。

 昨日より、手順が自然だった。

「……今日は、籠も分かっている顔ですわ」

 職人が手を止めた。

「昨日は分かってなかったのか」

「昨日は初仕事でしたもの」

「今日は二度目か」

「ええ。白銀列車の朝食用パン籠としては、二度目です」

 職人は、少しだけ口元を動かした。

「なら、もう仕事道具だな」

 仕事道具。

 生活道具。

 朝食道具。

 どれでもよい。

 この籠が、白銀列車の朝にちゃんと加わったことだけは分かった。

 店の横にいた布商人が、籠に敷かれた麦色のパン布を見て、小さく頷いた。

 木工屋の老人も、軒先で手を止めている。

 誰も大声では褒めない。

 白銀列車の名を口にして騒ぐこともない。

 けれど、パンと布と籠がどう使われたのかを、静かに見届けている。

 私は籠を抱えたまま、少しだけ頭を下げた。

「良い朝をありがとう」

 職人は短く言った。

「良い朝にしてくれたなら、それでいい」

 その言葉は、焼きたてのパンのように素朴で、かなり温かかった。


   ◇


 白銀列車へ戻る道は、昨日よりゆっくり歩いた。

 急いでいるわけではない。

 むしろ、急ぎたくなかった。

 小川沿いの草。

 石橋。

 木組みの家の窓。

 粉袋を積む音。

 水車の、ごとん、ことん、という音。

 それらを、少しずつ籠の中のパンと一緒に持ち帰るような気分だった。

 ノアが隣で言った。

「完全に町の朝食を持ち帰ってますね」

「ええ。パンだけではありませんもの」

「粉と水車と石窯と布と籠ですか」

「あと、小川の匂いと、朝霧も少し」

「持ち帰れるものが増えてますね」

「気持ちの問題ですわ」

 気持ちの問題。

 でも、かなり大事な問題だ。

 丸パンだけを紙に包んで急いで帰るのと、麦色のパン布を敷いた籠で水平に持ち帰るのでは、朝の残り方が違う。

 それは食べる前から分かる。

 小川沿いで、パン籠を持った子どもがこちらを見た。

 昨日の子かもしれない。

 私は今度こそ、籠を傾けすぎないように、ほんの少しだけ持ち上げた。

 ルークの手がすぐ下に添えられる。

 子どもも自分の籠を少し持ち上げて笑った。

 小さな挨拶。

 パン籠同士の挨拶である。

「今度は成功しましたわ」

 ルークが静かに頷く。

「大変よろしゅうございました」

「やはり褒め方が幼い子向けですわ」

「パンが無事でございますので」

 それなら、よい。


   ◇


 白銀列車へ戻り、私は籠を持ったままラウンジへ入った。

 右ソファ。

 小卓。

 麻ラグ。

 窓の外の水車。

 そこへ、パン籠が加わる。

 麦色のパン布を敷いた籠が小卓に置かれると、最後の朝の場所がはっきりした。

 パンがある。

 布がある。

 籠がある。

 そして、窓の外には水車がある。

「……できましたわね」

 私は小さく言った。

 アベルが丸パンを割る。

 ぱり、と皮が鳴った。

「できたな」

 ルークがカップを置く。

「朝食用の支度として、今後も整えられます」

 ノアが籠を見ながら言う。

「棚の場所、決めましょう。パン布は乾かしてから、籠の中に畳んでおけば次に使いやすいです」

「白銀列車の朝食道具ですわね」

 私はパン籠を見つめた。

 ただの籠ではない。

 ただの布でもない。

 この町で、朝に気持ちよく使えるものを選んだ結果、白銀列車の朝が少し上手になった。

 それが、とても嬉しかった。

 私は丸パンを受け取った。

 今日は、最初のひと口に木苺ジャムを少しだけ添えた。

 食べる。

 皮は軽い。

 中は柔らかい。

 バターの塩気と、木苺の甘酸っぱさ。

 昨日より派手ではない。

 けれど、今朝の方が落ち着いている。

 たぶん、支度が整っているからだ。

「……最後の朝に、ちょうどよい味ですわ」

 アベルが頷いた。

「食い納めにするには軽いが、朝にはそれでいい」

「食い納めという言い方は、少し重いですわ」

「じゃあ、次の朝へ持っていく味だ」

「それは良いです」

 私はもう一口食べた。

 次の町でも、この籠を使える。

 ミューレの水車の音はなくても、麦色のパン布と浅い籠があれば、朝食の支度は少し整う。

 旅の道具とは、そういうものなのかもしれない。


   ◇


 朝食を終えると、白銀列車の中に小さな片付けの時間が流れた。

 パン籠の中の布を広げて、湯気を逃がす。

 残った粉を軽く払う。

 刺繍紐をほどいて、持ち手に結び直す。

 籠は小卓の下ではなく、専用の棚へ置くことになった。

 ルークが棚の位置を確かめる。

「こちらであれば、型崩れせず、取り出しやすいかと」

 ノアが頷く。

「朝食道具の棚ですね。ガラス器の棚とは分けた方がいいです」

 アベルが厨房側から言う。

「バター壺とジャム匙も近くに置けるといい」

「もう一式ですわね」

「朝に探すもんじゃねえからな」

 その言葉は、かなり正しい。

 朝に必要なものは、朝に探してはいけない。

 眠る前のお茶と同じだ。

 必要な時に、迷わず出てくること。

 それが快適なのだろう。

「夜には眠る支度」

 私は棚へ収まるパン籠を見ながら言った。

「朝には朝食の支度ですわね」

 ルークが静かに頷く。

「どちらも、白銀列車の暮らしに必要なものでございます」

 暮らし。

 旅なのに、暮らしが増えていく。

 それが、白銀列車らしい。


   ◇


 出発の前に、私はもう一度だけ外へ出た。

 長く歩くつもりはない。

 水車小屋の前から、小川と町を見るだけである。

 ルークが隣に立ち、アベルとノアも少し後ろにいる。

 水車は、やはり同じ音で回っていた。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 粉挽きの男が、袋を積む手を止めてこちらを見た。

 石窯パン屋の職人は、店先から軽く手を上げた。

 布商人は、朝市の台の上で麦色のパン布を畳んでいる。

 木工屋の老人は、新しい籠を軒先へ吊るしていた。

 町は、いつも通りの朝を続けている。

 白銀列車が来たからといって、大騒ぎにはならない。

 出ていくからといって、盛大に見送るわけでもない。

 それがよかった。

 ミューレは、朝を大事にしている町なのだ。

「良い町でしたわ」

 私は言った。

 粉挽きの男が笑う。

「パン籠を持っていくなら、少しはうちの朝も持っていくことになる」

「大事に使います」

「それでいい」

 石窯パン屋の職人が、短く付け加えた。

「次に来たら、また小さいやつを焼く」

「お願いします」

 私は思わず、少し深く頭を下げた。

 次に来るかどうかは分からない。

 白銀列車は、気まぐれで、神の線路は少し不思議だ。

 けれど、もしまた朝においしいものがある場所を望んだら。

 この水車町へ戻ってくることもあるのかもしれない。


   ◇


 白銀列車へ戻り、私は運転室の水晶盤に手を置いた。

 指先の下で、水晶が淡く光る。

 昨夜とは違う。

 今は眠る前ではない。

 朝食を終えたあとの、少し満ちた時間だ。

「次は……」

 私は少し考えた。

 まだ、はっきりした行き先はいらない。

 目的のない旅でよい。

 けれど、今朝のパン籠のように、次の土地でも何かが白銀列車の暮らしに増えるといい。


「次も、暮らしが少し上手になる場所がよろしいですわ」


 水晶盤が、りぃん、と鳴った。

 窓の外で、白い神の線路が静かに伸び始める。

 水車小屋の裏手から、小川沿いを離れて、朝霧の向こうへ。

 白銀列車がゆっくり動き出した。

 がたん。

 ごとん。

 がたん。

 ごとん。

 水車の音が、少しずつ遠ざかる。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 車輪の音が、代わりに近くなる。

 私は右ソファへ戻り、窓の外を見た。

 ミューレの木組みの家。

 石橋。

 石窯パン屋の煙突。

 水車小屋。

 小川。

 そして、白銀列車を見送る人々。

 どれも少しずつ後ろへ流れていく。

 棚の中では、パン籠が静かに揺れている。

 麦色のパン布も、赤い実の刺繍紐も、ちゃんとそこにある。

 朝に目を覚ますための支度を、白銀列車は手に入れた。

 私はそれを思って、少しだけ笑った。

「次の朝も、きっと少し上手ですわ」

 白銀列車は、水車と石窯の町を離れ、白い線路の先へ進んでいった。

水車と石窯の町ミューレで、

白銀列車に朝食用のパン籠が増えました。


麦色のパン布。

赤い実の刺繍紐。

浅い籠。

焼きたての丸パン。


夜に眠るための一杯の次は、

朝に目を覚ますための支度でした。

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