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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第6章 丸パンとパン籠編 ~水車と石窯の町ミューレ~

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053 午後の水車小屋は、粉の匂いまでゆっくりしていますわ

焼きたて丸パンを食べ、

パン籠用の麦色のパン布も選びました。


けれど、

ミューレは朝だけの町ではありません。


午後の水車小屋も、

少し見てみることにしました。

 昼を過ぎると、ミューレの町は少しだけ速度を落とした。

 朝は、水車も人もパンも、きちんと目を覚ましていた。粉袋を運ぶ足音。石窯パン屋の煙。パン籠を抱えた子どもたち。麦色のパン布を畳む布商人。

 どれも朝のものだった。

 けれど午後になると、同じ町なのに空気が変わる。

 小川の光は少しやわらかくなり、木組みの家の影が石畳へ伸びていた。水車は相変わらず回っているのに、その音も朝より少しゆっくり聞こえる。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 白銀列車の窓越しに聞くと、なおさらだった。

「……午後の水車は、少し眠そうですわね」

 私は右ソファで、麦色のパン布を膝に乗せながら言った。

 買ってきたばかりのパン布は、もう一度広げられ、折り目を確かめられている。

 亜麻で織られた、小麦粉と丸パンの間くらいの色をした布。

 朝に見た時は、焼きたてパンを守るための色に見えた。

 午後に見ると、少し落ち着いた小麦畑の色にも見える。

 アベルは残った丸パンを見ながら、布の通気を確認していた。

「水車が眠いかは知らねえが、パンは落ち着いたな」

「焼きたての勢いはなくなりましたものね」

「午後に食うなら、少し焼き直す。朝のパンとは別の扱いだ」

「同じパンなのに?」

「時間が違う」


 時間が違う。


 アベルの答えは短いが、かなり重い。

 それだけで、食べ物の正解が変わるらしい。

 ノアが窓の外を見ていた。

「水車小屋、午後でも動いてますね。粉を挽く量は朝より少なそうですけど」

「見に行けますの?」

「小川沿いに道があります。白銀列車から遠くはないです」

 私は少し考えた。

 朝はパンを探した。

 午前は布を選んだ。

 午後は、なにかを買う時間ではなく、この町の音を見る時間でもよい気がした。

「少しだけ、歩きましょうか」

 ルークがすぐに薄手の外套を手に取った。

「午後は朝より足元が乾いております。ただし、小川沿いは水気がございます」

「水車の町ですもの。そこは受け入れます」

「人通りは朝より少なめです。お嬢様には歩きやすいかと」

「それは良い知らせですわ」

 ミューレは、急ぐ町ではない。

 朝に焼きたてを受け取り、昼にパン布を畳み、午後に水車の音を見に行く。

 それくらいの速さが、たぶん合っている。


   ◇


 外へ出ると、朝の冷たさはもうなかった。

 けれど、暑いわけでもない。

 日差しはある。

 風もある。

 小川の上を渡る空気は、ほんの少しだけ粉っぽく、ほんの少しだけ湿っていた。

「……不思議な匂いですわね」

 私は白銀列車の扉を出て、深く息を吸った。

「水の匂いなのに、小麦粉が混ざっています」

 アベルが隣で頷いた。

「粉挽き小屋が近いからな。水車で挽いた粉が、空気に少し乗る」

「粉の匂いが空気に乗るのですか」

「細かいからな」

「では、この町は空気まで朝食の準備をしていますわ」

「午後だぞ」

「午後でも、朝食の残り香です」

 アベルは少しだけ笑った。

 小川沿いの道は、朝に歩いた時よりも乾いていた。

 石畳の隙間に、小さな草が生えている。小川の水は澄んでいて、ところどころ光を返していた。

 水車小屋は、思ったより大きかった。

 木の輪がゆっくり回り、水を受けるたびに低い音を立てる。

 ごとん。

 ことん。

 それは白銀列車の車輪の音とは違う。


 旅の音ではなく、暮らしの音だった。


「白銀列車の音は、どこかへ行く音ですわ」

 私は水車を見ながら言った。

「この音は、ここにいる音です」

 ノアが少し目を細めた。

「いいですね、それ」

「水車は動いているのに、町をどこかへ連れていきませんでしょう」

「分かります。動いているのに、留まっている音なんですね」

「そうです。町をここに置いたまま、朝食を作っている音ですわ」

 ルークが静かに言った。

「お嬢様、この町をお気に召されたようでございますね」

「ええ。特別に派手ではありませんが、朝と午後の違いが気持ちよいです」

「では、本日はこのまま停泊でよろしいかと」

「そのつもりです」

 急ぐ理由はない。

 白銀列車は、私が望めば走る。

 でも、望まなければ停まっていてもよい。

 今は、停まっている方が正しい。


   ◇


 水車小屋の扉の近くで、粉挽きの男が袋を積んでいた。

 朝、白銀列車を見て「走るホテル」と呟いた男だ。

 こちらに気づくと、少しだけ姿勢を正した。

 けれど、大げさな挨拶はしない。

 粉袋を抱えたまま、帽子のつばを指で触るくらいだった。

「見物かい」

 男が言った。

 アベルが答える。

「水車と粉を見てる」

「パンじゃなくて?」

「パンはもう食った」

「なら、粉も見ていくといい。焼けたあとだけ見ても、半分だ」


 焼けたあとだけ見ても、半分。


 その言葉は、少し良かった。

 パンになる前の粉。

 粉になる前の麦。

 水を受けて回る水車。

 そういうものがあって、朝の丸パンは湯気を立てていたのだ。

 私は水車小屋の中を少し覗いた。

 粉の匂いが濃くなる。

 白い粉が舞っているわけではない。きちんと袋に詰められ、木の台に整えられている。

 それでも、空気の底に乾いた甘さがあった。

「……これは、くしゃみが出そうで出ませんわ」

 粉挽きの男が声を出して笑った。

「上等な粉は、鼻で暴れない」

「粉にも品があるのですね」

「あるさ。水車の回りが荒いと、粉も荒くなる。急ぎすぎると、パンの口当たりが変わる」

 急ぎすぎると、パンが変わる。

 朝から何度も聞いている気がする。

 熱いものも、冷たいものも、眠るお茶も、焼きたてパンも。

 どれも急ぎすぎると、少し違うものになってしまう。

 ミューレという町は、急がないことを粉で教えてくるらしい。

「白銀列車は、ずいぶん急がずに召し上がるんだな」

 粉挽きの男が言った。

 私は少し首を傾げた。

「見えていました?」

「窓が大きいからな。食卓までは見えんが、あのパンが戻った先で大事にされたことくらいは分かる」

 アベルが腕を組んだ。

「悪いか」

「いいや。粉屋としては、むしろありがたい。焼きたてを雑に飲み込まれるより、ずっといい」

 男の目は、白銀列車へ向いていた。

 商人の値踏みではない。

 自分の町の粉が、よい形で使われたかを見る目だった。

「マリーノの噂は聞いていた」

 男はぽつりと言った。

「あの列車で使われた品は、少し特別に見えるってな」

 ルークがわずかに目を向ける。

 男は慌てたように手を振った。

「看板にする気はない。粉に看板を貼っても、パンはうまくならない」

「そこをご理解いただけているなら、問題ございません」

 ルークの声は穏やかだった。

 しかし、粉挽きの男は少し背筋を伸ばした。

 私はそのやり取りを見て、少し笑ってしまった。

「白銀列車の名前は、粉袋に貼るものではありませんわ」

 男がこちらを見る。

「では、何に付くものなんだい」

「そうですわね」

 私は少し考えた。

 ガラス器。

 冷製スープ。

 眠り草ミルクティー。

 丸パン。

 麦色のパン布。

 どれも、名前を付けるために選んだわけではない。


「気持ちよく使えたという記憶に、少しだけ残るものですわ」


 粉挽きの男は、しばらく黙っていた。

 それから、小さく笑った。

「なら、粉袋には貼れないな」

「貼らない方がよろしいと思います」

「分かった。うちの粉は、朝のパンの中で働くことにする」

 それは、かなり良い答えだった。


   ◇


 小川沿いをもう少し歩くと、低い石橋があった。

 橋の真ん中から見ると、水車小屋と白銀列車が同じ景色に入る。

 古い水車。

 朝霧の残り。

 小川。

 昨日までなかった白い線路。

 その先に停まる銀色の客室。

 変な景色だ。

 でも、なぜか馴染んでいる。

「……ミューレに、白銀列車は少し不思議なくらい合っていますわね」

 ノアが石橋の欄干にもたれないように立ちながら言った。

「白い線路が小川沿いにあるからですかね」

「それもあります。でも、水車の音と白銀列車の静けさが、喧嘩していません」

「マリーノだと、港の声と白銀列車の防音が対比でしたね」

「ええ。ここは対比というより、横に並んでいる感じです」

 マリーノは、外が強かった。

 梟の灯は、外が眠かった。

 ミューレは、外が働いている。

 けれど、急がない。

 だから白銀列車も、停まったまま町の朝を受け取れる。

 私は石橋の上で少しだけ目を閉じた。

 水の音。

 水車の音。

 遠くの石窯の音。

 たぶん、町のどこかでパン布を払う音。

 どれも小さい。

 でも、いくつも重なって、午後のミューレを作っていた。

「もう少しいたいですわね」

 私は自然にそう言っていた。

 ルークがすぐに頷く。

「では、本日も停泊いたしましょう」

「明日の朝、もう一度パンを買いたいです」

「パン籠も必要でございますね」

「そうでした」

 まだ籠はない。

 布はある。

 パンはある。

 でも、朝食の支度としてはまだ途中だ。

 明日の朝を、もう少し上手に迎えるためには、籠が必要である。


   ◇


 白銀列車へ戻る前に、私たちは小さな木工の店を見つけた。

 扉の前に、籠がいくつか下げられている。

 大きな荷物籠。

 買い物用の籠。

 丸パンが二つか三つ入りそうな、浅めの籠。

 私は足を止めた。

「……あれでは?」

 ノアがすぐに見た。

「パン籠っぽいですね。浅くて、布を敷きやすそうです」

 アベルも籠を見た。

「明日の朝でいい」

「今は買わないのですか」

「午後に買うと、朝の大きさを間違える。明日、パンを見てから合わせた方がいい」

「籠の大きさにも、朝が関係しますのね」

「パンの大きさが分からなきゃ、籠は決まらねえ」

 言われてみればそうだった。

 朝に買うパン。

 その丸さ。

 その数。

 その湯気。

 それに合わせて籠を選ぶべきなのだろう。

 私は少し名残惜しく籠を見た。

 でも、今日は見るだけにした。


 急がない。


 ミューレでは、それが正しそうだった。

「明日の朝、もう一度来ましょう」

 私は言った。

「パンを買って、籠を合わせて、布を敷いて」

 ノアが笑う。

「朝食の支度が、どんどん本格的になってますね」

「朝食は大事ですわ」

「昨日までミルクティーで眠る話をしていたのに」

「眠ることと、起きることはつながっています」

 これはかなり大事な発見だった。

 よく眠ったから、朝のパンが嬉しい。

 朝のパンがあるから、夜に安心して眠れる。

 白銀列車の暮らしは、少しずつ輪になっていく。


   ◇


 白銀列車へ戻ると、ラウンジにはまだ丸パンの気配が残っていた。

 麦色のパン布は、小卓の上にきちんと畳まれている。

 刺繍の紐は、仮に布の端へ結ばれていた。

 朝よりも光が少し深くなり、窓の外の水車も落ち着いて見える。

 私は右ソファに沈んだ。

 歩いた量は多くない。

 けれど、小川沿いを歩いたあと、体が少しだけ午後になっていた。

「軽いお茶を入れるか?」

 アベルが言った。

「眠くなるお茶ではなく?」

「午後だ。眠るには早い。パンの残りを少し焼き直すなら、薄い茶でいい」

「パンの残り」

 その言葉に、私は少しだけ背を起こした。

 アベルは笑った。

「食いすぎるなよ。味を見るくらいだ」

「午後のパンですね」

「朝の残りを午後に食うなら、朝とは変える」

 アベルは丸パンを薄く切り、軽く温め直した。

 今度はバターもジャムもなし。

 ほんの少しだけ、香ばしさを戻す。

 それを小さな皿に置く。

 私はひと切れだけ食べた。

 朝の湯気はない。

 でも、表面が少し香ばしくなっている。

 水車小屋を見たあとだからか、小麦の味がさっきより分かる気がした。

「……粉の音を聞いたあとに食べると、少し違いますわね」

「水車の音だろ」

「粉の音でもあります」

「まあ、そうかもな」

 アベルは否定しなかった。

 それが少し嬉しかった。

 ノアが窓の外を見ながら言う。

「町の人、もう白銀列車に慣れてきた感じがありますね」

「まだ半日ですのに?」

「朝は驚いてましたけど、今は水車小屋の横にあるものとして見てる感じです」

「馴染むのが早い町ですわ」

 ルークが静かに言った。

「お嬢様が急がず停泊されているからかもしれません」

「急がないと、町に馴染みやすいのですか」

「少なくとも、通り過ぎるよりは」

 それもそうだ。

 目的のない旅なら、通り過ぎなくてもよい。

 気持ちよければ、もう少しいればいい。

 ミューレでは、もう一朝いる理由がある。

 パン籠を完成させる。

 そして、完成したパン籠で朝食を迎える。

「明日の朝が、楽しみですわね」

 私は麦色のパン布を見ながら言った。

 窓の外で、水車が変わらず回っている。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 午後の水車小屋は、粉の匂いまでゆっくりしていた。

 白銀列車は、その音を聞きながら、もう一晩ミューレに停まることになった。

午後のミューレ回でした。

水車小屋、粉の匂い、小川沿いの石橋。


急いで出る理由はないので、もう一晩います。

明日の朝は、パン籠の出番です。

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