052 パン籠の麦色布を選ぶと、朝食まで旅支度になりますわ
焼きたて丸パンを、
白銀列車で朝食にしました。
薄いバター。
木苺ジャム。
温め直したミルクティー。
たいへん良い朝でした。
ただ、
パンを気持ちよく持ち帰るには、
布が必要そうです。
丸パンは、仮の布の下でまだ少し温かかった。
小卓の上に置かれた木の皿。その上に、残った丸パンが二つ。
アベルが手近な布をふわりとかけてくれたおかげで、表面は乾きすぎていない。けれど、焼きたての湯気が完全に守られているわけでもなかった。
仮。
いかにも仮である。
私は右ソファに座ったまま、その布をじっと見つめた。
「……これでは、少し心細いですわね」
ノアが窓側から振り返る。
「パンではなく、布の方ですか」
「ええ。朝食のパンを守る布ですわ。今の布も悪くありません。でも、パン専用ではありません」
パン専用。
口にした瞬間、かなり正しい気がした。
夜のミルクティーには、白い陶器のカップが合った。
マリーノの冷製スープには、青みのあるガラス器が合った。
ならば、ミューレの丸パンには、パンを気持ちよく包む布が必要である。
これは贅沢ではない。
朝の秩序である。
アベルが腕を組み、残った丸パンを見た。
「布はいるな」
「やはり?」
「焼きたてを持ち帰るなら、紙だけじゃ弱い。包みすぎると蒸れる。放っておくと乾く」
「パンは意外とわがままですのね」
「焼きたては特にな」
ルークが静かに言った。
「車内へ持ち込むなら、粉が落ちにくいことも大切でございます」
「粉」
「お嬢様のお召し物や右ソファに残ると、少々困ります」
「それは大問題ですわ」
私は右ソファを見た。
ここに小麦粉が散る。
想像しただけで、少し落ち着かない。
パンは好きだ。
でも、右ソファは守られなければならない。
ノアが窓の外を指した。
「朝市の端に布を扱う店が出てます。さっき子どもたちが持ってた籠の布も、たぶんあの辺ですね」
「見に行きましょう」
私はすぐに立ち上がった。
ルークもすぐに外套を手に取る。
「朝霧は薄くなっておりますが、足元にはまだ湿りがございます」
「長く歩きません」
「朝市は人が増え始めております」
「混む前に行きます」
「承知いたしました」
条件が整った。
パンはまだ少し温かい。
町は朝のうち。
白銀列車は水車小屋の裏手に停まっている。
布を探すなら、今である。
◇
扉が開くと、朝の空気はさっきより少し明るくなっていた。
霧は薄くなり、小川の水面に光が入っている。
水車は変わらず回っていた。
ごとん。
ことん。
ごとん。
その音に合わせるように、町の人々も少しずつ動き出している。粉袋を運ぶ男たち。石橋を渡る子ども。籠を抱えた女。軒先の布を広げる商人。
港町マリーノのように声が跳ねるわけではない。
梟の灯のように眠そうでもない。
ミューレの朝は、静かに働いていた。
「朝の町は、真面目ですわね」
私は小川沿いの道を歩きながら言った。
「水車がずっと働いてますからね」
ノアが答える。
「町全体が、音に合わせて動いているように見えます」
「パンのための町ですわ」
「まだパン中心に見てますね」
「今朝の私は、かなりパンに説得されています」
ルークが足元の乾いた石を示す。
「お嬢様、こちらを」
「ありがとうございます」
石を踏む。
その横を、パン籠を持った子どもが通り過ぎた。
籠には、麦色の布がかかっている。
白すぎず、黄色すぎず、小麦粉を少し日に当てたような色だった。
布の端に、赤い小さな刺繍がある。
花だろうか。
それとも木苺だろうか。
派手ではない。
でも、朝の籠に少しだけ可愛らしさを足している。
「……あれも良いですわね」
ノアが目を細める。
「刺繍入りのパン布ですね」
「パン布」
「パン籠に使う布なら、そう呼んでもよさそうです」
「良い名前ですわ。朝食道具らしいです」
パン布。
その呼び方は、かなり気に入った。
ガラス器よりも、もっと素朴で、もっと朝に近い。
パンを持ち帰るための布。
それだけで、十分に役目がある。
「パン籠が少し嬉しそうに見えました」
「籠の感情まで見始めましたね」
「朝食道具には感情があります」
「たぶん、ティアさん側にあるんだと思います」
失礼である。
だが、否定できない。
今日の私は、かなり朝食道具へ気持ちを向けている。
◇
布商人の店は、朝市の端にあった。
低い木の台に、布が何枚も重ねられている。
麦色。
白。
淡い青。
薄い赤。
小さな刺繍入りのもの。
厚手のもの。
網目が粗いもの。
指で触れなくても、用途が違うことだけは分かった。
店主は、中年の女だった。
丸い眼鏡をかけ、布の端をきれいに揃えている。
こちらを見ると、少しだけ目を丸くした。
それから、白銀列車の方を見た。
やはり気づいている。
けれど、大きな声は出さない。
この町の商人は、朝の声量をわきまえているらしい。
「パンの布をお探しですか」
店主が言った。
私は少し驚いた。
「分かりますの?」
「この時間に、水車小屋の裏から来て、石窯パン屋の方を見て、籠を持たずに布を見る方は、だいたいそうです」
「かなり見られていますわ」
「朝市は、手元を見る場所ですから」
なるほど。
港の人間は魚を見る。
薬草茶の老婆は眠そうな顔を見る。
布商人は手元を見る。
土地ごとに、人を見る場所が違うらしい。
アベルが一枚の白い布を指でつまんだ。
「これは薄すぎる」
店主がすぐに頷く。
「飾り布です。パンには向きません。籠の上へ軽くかけるなら使えますが、焼きたてを包むと湿ります」
「湿るのは困る」
「パンの皮が負けます」
パンの皮が負ける。
なかなか重大な言葉である。
私はその薄い布を見た。
きれいだ。
とてもきれい。
淡い花の刺繍もある。
だが、パンの皮が負けるなら仕方ない。
朝食において、見た目だけの勝利は危険である。
◇
店主は、奥から別の布を出した。
麦色のパン布だった。
亜麻で織られた、生成りより少し温かい色の布。
小麦粉と丸パンの間くらいの色をしている。
白すぎない。
黄色すぎない。
焼きたての丸パンが、いちばん落ち着いて見えそうな色。
手に取ると、さらりとしている。
薄すぎない。
厚すぎない。
折ると、やわらかく形を保つ。
「……これは、かなり朝ですわね」
ノアが小さく笑った。
「布にも朝判定が出ましたね」
「見れば分かります。これは、朝のパンを包む顔です」
アベルが麦色のパン布を触る。
「蒸れにくい。悪くない」
ルークも布の端を見た。
「粉が落ちても、払いやすそうでございます」
ノアは畳んだ時の厚みを見ている。
「籠の中へ敷いて、上から軽くかけても邪魔にならないですね。車内の棚にも入れやすそうです」
店主は、三人の反応を順番に見ていた。
少し驚いているようだった。
「ずいぶん、使い方を見られるのですね」
私は麦色のパン布を両手で持ったまま答えた。
「朝食に使いますもの」
「白銀列車で使われるなら、もっと刺繍のあるものかと思いました」
「刺繍も素敵ですわ」
私は隣の布を見た。
小さな花の刺繍。
淡い赤い実。
かなり可愛い。
かなり気になる。
しかし。
「でも、パンが気持ちよくいられる方が先です」
店主は一瞬、目を瞬いた。
それから、少しだけ笑った。
「パンが気持ちよくいられる布、ですか」
「ええ。朝食のパン布ですから」
「そう言われると、この布も嬉しいでしょうね」
布が嬉しい。
それは良い。
朝食道具は、やはり少し感情を持っていてもよいと思う。
◇
店主は、麦色のパン布の上に、細い刺繍入りの紐を置いた。
「派手な刺繍布ではなく、こちらを組み合わせるのはどうでしょう。籠の縁に結べば、見た目は少し明るくなります。布そのものは、パンの邪魔をしません」
「まあ」
これは、かなり良い提案だった。
布は実用。
紐で少し可愛くする。
パンの邪魔をしない。
朝の見た目も守る。
「たいへん賢いですわ」
「パン屋へ通う人は、こういう組み合わせをよく選びます」
「ミューレの知恵ですのね」
「大げさに言えば」
店主は少し笑った。
アベルはうなずいている。
「これならいい。布は麦色。紐は外せる。洗いやすい」
ルークも同意した。
「車内での扱いにも向いております。刺繍部分を取り外せるのは助かります」
ノアが布を畳み、籠の大きさを想像するように指を動かした。
「これならパン籠の中敷きと上掛け、両方いけますね。二枚あった方がよさそうです」
「二枚」
私は少し考えた。
一枚を敷く。
一枚をかける。
たしかに、パンがかなり守られそうである。
「では、二枚お願いします。あと、その刺繍の紐も」
店主は丁寧に布を重ねた。
「ありがとうございます」
その声は、普通の商人の礼だった。
けれど、少しだけ嬉しそうにも聞こえた。
白銀列車に売れたから、というより、自分の布がちゃんと用途に合って選ばれたから。
そういう嬉しさだった。
私はその声を聞いて、少し安心した。
このパン布は、きっとよい朝食道具になる。
◇
支払いをしている間、店の横を粉商人らしき男が通った。
さっき水車小屋の前で見た男とは別の人だ。
彼は白銀列車の方をちらりと見て、それから布商人へ小声で言った。
「あれが、マリーノで噂になった走るホテルか」
聞こえた。
たぶん、聞こえるくらいの声だった。
店主は布を包みながら、同じくらい静かに答える。
「派手なものを選ぶと思ったら、麦色のパン布でしたよ」
「麦色?」
「パンに向く布を選ばれました」
粉商人は、少しだけ考える顔をした。
「そうか」
それだけだった。
値段の話はしない。
白銀列車の名を使おうとも言わない。
ただ、何が選ばれたのかを覚える顔だった。
私は布の包みを受け取りながら、少し不思議に思った。
「皆さま、白銀列車が何を選ぶのか、気になさるのですね」
店主は答えに少し迷った。
その代わり、粉商人が帽子を少し上げて言った。
「気になりますよ。良いものを、どう使うのかまで見てくれる方は多くありませんから」
「使うところまで?」
「はい。品は、買われただけでは分からないことがあります」
その言葉は、少し残った。
品は、買われただけでは分からない。
ガラス器もそうだった。
買った時より、果実水を入れた時、冷製スープを入れた時の方が、ずっとよく分かった。
パンも同じだ。
布も、きっと同じ。
白銀列車へ持ち帰って、朝食に使って、初めて分かることがある。
「では、きちんと使いますわ」
私は布の包みを抱えた。
「パンが気持ちよくいられるように」
店主は、今度ははっきり笑った。
「それなら、布も喜びます」
◇
白銀列車へ戻る道で、朝霧はさらに薄くなっていた。
水車の音は変わらない。
ごとん。
ことん。
ごとん。
町は少しずつ明るくなっている。
石窯パン屋の前には、さっきより人が増えていた。
子どもたちは籠を持っている。
大人たちは、布をめくって焼き上がりを見ている。
誰も大声ではない。
けれど、朝の楽しみを分かっている人たちの動きだった。
「この町の人は、パンを大事にしていますわね」
私が言うと、アベルが布の包みを見ながら答えた。
「粉からして違うんだろうな。水車と石窯が近い。朝のうちに食う前提のパンだ」
「朝のうちに食べる前提」
「時間込みの味だ」
「やはり、朝食は急いではいけないけれど、逃してもいけないのですね」
「そういうことだ」
たいへん難しい。
だが、たいへん楽しい。
ルークが隣で静かに言う。
「お嬢様、次の石段は濡れております」
「朝食へ戻る道まで、気が抜けませんわ」
「パン布をお持ちですので」
「そうでした。大事な荷物ですものね」
私は包みを少し抱え直した。
軽い。
でも、かなり大事なものを持っている気がした。
これはただの布ではない。
朝食を、朝食として白銀列車へ持ち帰るためのパン布だ。
◇
白銀列車へ戻ると、残りの丸パンが仮の布の下で待っていた。
まだ少し温かい。
完全な焼きたてではない。
でも、朝の続きとしては十分だった。
アベルが買ってきた麦色のパン布を広げる。
ラウンジの小卓の上に置くと、空気が少し変わった。
白すぎない色が、丸パンによく合う。
パンの茶色が、やわらかく見える。
木苺ジャムの赤も、バターの黄色も、きっとこの布の上なら落ち着く。
「……正解ですわね」
私はすぐに言った。
「まだ敷いただけだぞ」
アベルが言う。
「敷いた時点で分かります」
「快適判定が早い」
「朝食道具は、見た瞬間に朝らしくなければ困ります」
ノアが布の端を整えた。
「この麦色、車内の木の色にも合いますね。刺繍の紐を籠につけたら、少しだけミューレっぽさが残りそうです」
「ミューレっぽさ」
「水車と石窯の町で買った感じです」
「たいへん大事ですわ」
ルークが仮の布を外し、新しいパン布の上へ丸パンを置いた。
そして、もう一枚を上から軽くかける。
包み込みすぎない。
押さえつけない。
ただ、朝の空気ごとそっと守るように。
丸パンが、先ほどより落ち着いて見えた。
「パンが安心していますわ」
ルークが静かに目を伏せた。
「お嬢様のお気持ちによるところも大きいかと存じますが、状態は良好でございます」
「なら、間違ってはいませんわね」
「はい」
パンが安心しているかどうかはともかく、私は安心した。
◇
アベルが残りの丸パンを一つ取り、軽く温め直した。
今度はバターだけ。
木苺ジャムは添えない。
「二つ目は、軽くいく」
「朝に二つ目を食べてもよろしいの?」
「この大きさならな。ただし、さっきより薄く」
「ちゃんと調整されていますわ」
「布を買ってきた報酬みたいなもんだ」
報酬。
それは嬉しい。
私は小さく割られた丸パンを受け取った。
麦色のパン布の上で見るパンは、さっきより少し朝食らしかった。
ただ買ってきたパンではない。
朝の支度の中に置かれたパン。
それだけで、味の前から少し満ちる。
ひと口食べる。
バターだけなので、木苺ジャムの華やかさはない。
けれど、小麦の味がよく分かる。
さっきより落ち着いた朝だった。
「……これは、布の効果もありますわね」
アベルが呆れたように笑う。
「布は食ってねえだろ」
「でも、布があるとパンの顔が違います」
「顔ばっかりだな」
「朝食は顔が大事です」
ノアが窓の外を見ながら言った。
「町の人、まだ少し見てますよ」
私は窓へ目を向けた。
水車小屋の前。
粉商人と布商人が、少し離れた場所から白銀列車を見ている。
騒いでいない。
こちらを指差すわけでもない。
ただ、白銀列車の窓の向こうで何が起きているのか、静かに気にしている。
布は、ちゃんと使われた。
パンは、ちゃんと朝食になった。
それが伝わるかどうかは分からない。
でも、少なくとも私は満足している。
「気持ちよく使えていますわ」
私は小さく言った。
ルークが頷く。
「十分に」
ならば、それでよい。
◇
朝の光は、さらに明るくなっていた。
水車の音は、変わらず続いている。
パン籠用の麦色のパン布は、小卓の上で丸パンをやさしく包んでいる。
刺繍の紐は、まだ籠がないので、仮に布の端へ結ばれていた。
小さな赤い実の刺繍。
それが一つあるだけで、朝食が少し嬉しそうに見える。
「籠も必要ですわね」
私が呟くと、ノアがすぐ反応した。
「やっぱりそこへ行きますよね」
「布だけでは、まだ支度が途中です」
「パン籠までそろって完成ですか」
「ええ。朝食用のパン籠があれば、旅の朝がもっと上手になります」
アベルは、丸パンの残りをパン布で軽く包み直した。
「明日の朝だな。もう一度、パンを買う。今度は籠に布を敷いて持ち帰る」
「明日もパンですのね」
「この町に一泊するなら、朝を二回やらないともったいない」
朝を二回やる。
なんて良い言葉だろう。
昨日の夜は、眠るために半分残した。
今朝は、起きるためにパンを食べた。
そして明日の朝、もう一度パンを持ち帰る。
今度は、ちゃんと布と籠で。
「では、明日は朝食の支度を完成させましょう」
私は麦色のパン布を見た。
パンはその中で、静かに朝の続きになっている。
ミューレの水車は、窓の外でずっと回っていた。
ごとん。
ことん。
ごとん。
その音に合わせて、白銀列車の朝も、少しずつ形を持ち始めていた。
パン用の麦色布を選びました。
白すぎず、黄色すぎず、朝の丸パンが落ち着いて見える布です。
布が決まると、次は籠が気になってきます。




