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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第6章 丸パンとパン籠編 ~水車と石窯の町ミューレ~

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52/84

052 パン籠の麦色布を選ぶと、朝食まで旅支度になりますわ

焼きたて丸パンを、

白銀列車で朝食にしました。


薄いバター。


木苺ジャム。


温め直したミルクティー。


たいへん良い朝でした。


ただ、

パンを気持ちよく持ち帰るには、

布が必要そうです。

 丸パンは、仮の布の下でまだ少し温かかった。

 小卓の上に置かれた木の皿。その上に、残った丸パンが二つ。

 アベルが手近な布をふわりとかけてくれたおかげで、表面は乾きすぎていない。けれど、焼きたての湯気が完全に守られているわけでもなかった。


 仮。


 いかにも仮である。


 私は右ソファに座ったまま、その布をじっと見つめた。

「……これでは、少し心細いですわね」

 ノアが窓側から振り返る。

「パンではなく、布の方ですか」

「ええ。朝食のパンを守る布ですわ。今の布も悪くありません。でも、パン専用ではありません」

 パン専用。

 口にした瞬間、かなり正しい気がした。

 夜のミルクティーには、白い陶器のカップが合った。

 マリーノの冷製スープには、青みのあるガラス器が合った。

 ならば、ミューレの丸パンには、パンを気持ちよく包む布が必要である。

 これは贅沢ではない。


 朝の秩序である。


 アベルが腕を組み、残った丸パンを見た。

「布はいるな」

「やはり?」

「焼きたてを持ち帰るなら、紙だけじゃ弱い。包みすぎると蒸れる。放っておくと乾く」

「パンは意外とわがままですのね」

「焼きたては特にな」

 ルークが静かに言った。

「車内へ持ち込むなら、粉が落ちにくいことも大切でございます」

「粉」

「お嬢様のお召し物や右ソファに残ると、少々困ります」

「それは大問題ですわ」

 私は右ソファを見た。

 ここに小麦粉が散る。

 想像しただけで、少し落ち着かない。

 パンは好きだ。

 でも、右ソファは守られなければならない。

 ノアが窓の外を指した。

「朝市の端に布を扱う店が出てます。さっき子どもたちが持ってた籠の布も、たぶんあの辺ですね」

「見に行きましょう」

 私はすぐに立ち上がった。

 ルークもすぐに外套を手に取る。

「朝霧は薄くなっておりますが、足元にはまだ湿りがございます」

「長く歩きません」

「朝市は人が増え始めております」

「混む前に行きます」

「承知いたしました」

 条件が整った。

 パンはまだ少し温かい。

 町は朝のうち。

 白銀列車は水車小屋の裏手に停まっている。

 布を探すなら、今である。


   ◇


 扉が開くと、朝の空気はさっきより少し明るくなっていた。

 霧は薄くなり、小川の水面に光が入っている。

 水車は変わらず回っていた。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 その音に合わせるように、町の人々も少しずつ動き出している。粉袋を運ぶ男たち。石橋を渡る子ども。籠を抱えた女。軒先の布を広げる商人。

 港町マリーノのように声が跳ねるわけではない。

 梟の灯のように眠そうでもない。

 ミューレの朝は、静かに働いていた。

「朝の町は、真面目ですわね」

 私は小川沿いの道を歩きながら言った。

「水車がずっと働いてますからね」

 ノアが答える。

「町全体が、音に合わせて動いているように見えます」

「パンのための町ですわ」

「まだパン中心に見てますね」

「今朝の私は、かなりパンに説得されています」

 ルークが足元の乾いた石を示す。

「お嬢様、こちらを」

「ありがとうございます」

 石を踏む。

 その横を、パン籠を持った子どもが通り過ぎた。

 籠には、麦色の布がかかっている。

 白すぎず、黄色すぎず、小麦粉を少し日に当てたような色だった。

 布の端に、赤い小さな刺繍がある。

 花だろうか。

 それとも木苺だろうか。

 派手ではない。

 でも、朝の籠に少しだけ可愛らしさを足している。

「……あれも良いですわね」

 ノアが目を細める。

「刺繍入りのパン布ですね」

「パン布」

「パン籠に使う布なら、そう呼んでもよさそうです」

「良い名前ですわ。朝食道具らしいです」

 パン布。

 その呼び方は、かなり気に入った。

 ガラス器よりも、もっと素朴で、もっと朝に近い。

 パンを持ち帰るための布。

 それだけで、十分に役目がある。

「パン籠が少し嬉しそうに見えました」

「籠の感情まで見始めましたね」

「朝食道具には感情があります」

「たぶん、ティアさん側にあるんだと思います」

 失礼である。

 だが、否定できない。

 今日の私は、かなり朝食道具へ気持ちを向けている。


   ◇


 布商人の店は、朝市の端にあった。

 低い木の台に、布が何枚も重ねられている。

 麦色。

 白。

 淡い青。

 薄い赤。

 小さな刺繍入りのもの。

 厚手のもの。

 網目が粗いもの。

 指で触れなくても、用途が違うことだけは分かった。

 店主は、中年の女だった。

 丸い眼鏡をかけ、布の端をきれいに揃えている。

 こちらを見ると、少しだけ目を丸くした。

 それから、白銀列車の方を見た。

 やはり気づいている。

 けれど、大きな声は出さない。

 この町の商人は、朝の声量をわきまえているらしい。

「パンの布をお探しですか」

 店主が言った。

 私は少し驚いた。

「分かりますの?」

「この時間に、水車小屋の裏から来て、石窯パン屋の方を見て、籠を持たずに布を見る方は、だいたいそうです」

「かなり見られていますわ」

「朝市は、手元を見る場所ですから」

 なるほど。

 港の人間は魚を見る。

 薬草茶の老婆は眠そうな顔を見る。

 布商人は手元を見る。

 土地ごとに、人を見る場所が違うらしい。

 アベルが一枚の白い布を指でつまんだ。

「これは薄すぎる」

 店主がすぐに頷く。

「飾り布です。パンには向きません。籠の上へ軽くかけるなら使えますが、焼きたてを包むと湿ります」

「湿るのは困る」

「パンの皮が負けます」


 パンの皮が負ける。


 なかなか重大な言葉である。

 私はその薄い布を見た。

 きれいだ。

 とてもきれい。

 淡い花の刺繍もある。

 だが、パンの皮が負けるなら仕方ない。

 朝食において、見た目だけの勝利は危険である。


   ◇


 店主は、奥から別の布を出した。

 麦色のパン布だった。

 亜麻で織られた、生成りより少し温かい色の布。

 小麦粉と丸パンの間くらいの色をしている。

 白すぎない。

 黄色すぎない。

 焼きたての丸パンが、いちばん落ち着いて見えそうな色。

 手に取ると、さらりとしている。

 薄すぎない。

 厚すぎない。

 折ると、やわらかく形を保つ。

「……これは、かなり朝ですわね」

 ノアが小さく笑った。

「布にも朝判定が出ましたね」

「見れば分かります。これは、朝のパンを包む顔です」

 アベルが麦色のパン布を触る。

「蒸れにくい。悪くない」

 ルークも布の端を見た。

「粉が落ちても、払いやすそうでございます」

 ノアは畳んだ時の厚みを見ている。

「籠の中へ敷いて、上から軽くかけても邪魔にならないですね。車内の棚にも入れやすそうです」

 店主は、三人の反応を順番に見ていた。

 少し驚いているようだった。

「ずいぶん、使い方を見られるのですね」

 私は麦色のパン布を両手で持ったまま答えた。

「朝食に使いますもの」

「白銀列車で使われるなら、もっと刺繍のあるものかと思いました」

「刺繍も素敵ですわ」

 私は隣の布を見た。

 小さな花の刺繍。

 淡い赤い実。

 かなり可愛い。

 かなり気になる。

 しかし。


「でも、パンが気持ちよくいられる方が先です」


 店主は一瞬、目を瞬いた。

 それから、少しだけ笑った。

「パンが気持ちよくいられる布、ですか」

「ええ。朝食のパン布ですから」

「そう言われると、この布も嬉しいでしょうね」

 布が嬉しい。

 それは良い。

 朝食道具は、やはり少し感情を持っていてもよいと思う。


   ◇


 店主は、麦色のパン布の上に、細い刺繍入りの紐を置いた。

「派手な刺繍布ではなく、こちらを組み合わせるのはどうでしょう。籠の縁に結べば、見た目は少し明るくなります。布そのものは、パンの邪魔をしません」

「まあ」

 これは、かなり良い提案だった。

 布は実用。

 紐で少し可愛くする。

 パンの邪魔をしない。

 朝の見た目も守る。

「たいへん賢いですわ」

「パン屋へ通う人は、こういう組み合わせをよく選びます」

「ミューレの知恵ですのね」

「大げさに言えば」

 店主は少し笑った。

 アベルはうなずいている。

「これならいい。布は麦色。紐は外せる。洗いやすい」

 ルークも同意した。

「車内での扱いにも向いております。刺繍部分を取り外せるのは助かります」

 ノアが布を畳み、籠の大きさを想像するように指を動かした。

「これならパン籠の中敷きと上掛け、両方いけますね。二枚あった方がよさそうです」

「二枚」

 私は少し考えた。

 一枚を敷く。

 一枚をかける。

 たしかに、パンがかなり守られそうである。

「では、二枚お願いします。あと、その刺繍の紐も」

 店主は丁寧に布を重ねた。

「ありがとうございます」

 その声は、普通の商人の礼だった。

 けれど、少しだけ嬉しそうにも聞こえた。

 白銀列車に売れたから、というより、自分の布がちゃんと用途に合って選ばれたから。

 そういう嬉しさだった。

 私はその声を聞いて、少し安心した。

 このパン布は、きっとよい朝食道具になる。


   ◇


 支払いをしている間、店の横を粉商人らしき男が通った。

 さっき水車小屋の前で見た男とは別の人だ。

 彼は白銀列車の方をちらりと見て、それから布商人へ小声で言った。

「あれが、マリーノで噂になった走るホテルか」

 聞こえた。

 たぶん、聞こえるくらいの声だった。

 店主は布を包みながら、同じくらい静かに答える。

「派手なものを選ぶと思ったら、麦色のパン布でしたよ」

「麦色?」

「パンに向く布を選ばれました」

 粉商人は、少しだけ考える顔をした。

「そうか」

 それだけだった。

 値段の話はしない。

 白銀列車の名を使おうとも言わない。

 ただ、何が選ばれたのかを覚える顔だった。

 私は布の包みを受け取りながら、少し不思議に思った。

「皆さま、白銀列車が何を選ぶのか、気になさるのですね」

 店主は答えに少し迷った。

 その代わり、粉商人が帽子を少し上げて言った。

「気になりますよ。良いものを、どう使うのかまで見てくれる方は多くありませんから」

「使うところまで?」

「はい。品は、買われただけでは分からないことがあります」

 その言葉は、少し残った。

 品は、買われただけでは分からない。

 ガラス器もそうだった。

 買った時より、果実水を入れた時、冷製スープを入れた時の方が、ずっとよく分かった。

 パンも同じだ。

 布も、きっと同じ。

 白銀列車へ持ち帰って、朝食に使って、初めて分かることがある。

「では、きちんと使いますわ」

 私は布の包みを抱えた。


「パンが気持ちよくいられるように」


 店主は、今度ははっきり笑った。

「それなら、布も喜びます」


   ◇


 白銀列車へ戻る道で、朝霧はさらに薄くなっていた。

 水車の音は変わらない。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 町は少しずつ明るくなっている。

 石窯パン屋の前には、さっきより人が増えていた。

 子どもたちは籠を持っている。

 大人たちは、布をめくって焼き上がりを見ている。

 誰も大声ではない。

 けれど、朝の楽しみを分かっている人たちの動きだった。

「この町の人は、パンを大事にしていますわね」

 私が言うと、アベルが布の包みを見ながら答えた。

「粉からして違うんだろうな。水車と石窯が近い。朝のうちに食う前提のパンだ」

「朝のうちに食べる前提」

「時間込みの味だ」

「やはり、朝食は急いではいけないけれど、逃してもいけないのですね」

「そういうことだ」

 たいへん難しい。

 だが、たいへん楽しい。

 ルークが隣で静かに言う。

「お嬢様、次の石段は濡れております」

「朝食へ戻る道まで、気が抜けませんわ」

「パン布をお持ちですので」

「そうでした。大事な荷物ですものね」

 私は包みを少し抱え直した。

 軽い。

 でも、かなり大事なものを持っている気がした。


 これはただの布ではない。


 朝食を、朝食として白銀列車へ持ち帰るためのパン布だ。


   ◇


 白銀列車へ戻ると、残りの丸パンが仮の布の下で待っていた。

 まだ少し温かい。

 完全な焼きたてではない。

 でも、朝の続きとしては十分だった。

 アベルが買ってきた麦色のパン布を広げる。

 ラウンジの小卓の上に置くと、空気が少し変わった。

 白すぎない色が、丸パンによく合う。

 パンの茶色が、やわらかく見える。

 木苺ジャムの赤も、バターの黄色も、きっとこの布の上なら落ち着く。

「……正解ですわね」

 私はすぐに言った。

「まだ敷いただけだぞ」

 アベルが言う。

「敷いた時点で分かります」

「快適判定が早い」

「朝食道具は、見た瞬間に朝らしくなければ困ります」

 ノアが布の端を整えた。

「この麦色、車内の木の色にも合いますね。刺繍の紐を籠につけたら、少しだけミューレっぽさが残りそうです」

「ミューレっぽさ」

「水車と石窯の町で買った感じです」

「たいへん大事ですわ」

 ルークが仮の布を外し、新しいパン布の上へ丸パンを置いた。

 そして、もう一枚を上から軽くかける。

 包み込みすぎない。

 押さえつけない。

 ただ、朝の空気ごとそっと守るように。

 丸パンが、先ほどより落ち着いて見えた。

「パンが安心していますわ」

 ルークが静かに目を伏せた。

「お嬢様のお気持ちによるところも大きいかと存じますが、状態は良好でございます」

「なら、間違ってはいませんわね」

「はい」

 パンが安心しているかどうかはともかく、私は安心した。


   ◇


 アベルが残りの丸パンを一つ取り、軽く温め直した。

 今度はバターだけ。

 木苺ジャムは添えない。

「二つ目は、軽くいく」

「朝に二つ目を食べてもよろしいの?」

「この大きさならな。ただし、さっきより薄く」

「ちゃんと調整されていますわ」

「布を買ってきた報酬みたいなもんだ」

 報酬。

 それは嬉しい。

 私は小さく割られた丸パンを受け取った。

 麦色のパン布の上で見るパンは、さっきより少し朝食らしかった。

 ただ買ってきたパンではない。

 朝の支度の中に置かれたパン。

 それだけで、味の前から少し満ちる。

 ひと口食べる。

 バターだけなので、木苺ジャムの華やかさはない。

 けれど、小麦の味がよく分かる。

 さっきより落ち着いた朝だった。

「……これは、布の効果もありますわね」

 アベルが呆れたように笑う。

「布は食ってねえだろ」

「でも、布があるとパンの顔が違います」

「顔ばっかりだな」

「朝食は顔が大事です」

 ノアが窓の外を見ながら言った。

「町の人、まだ少し見てますよ」

 私は窓へ目を向けた。

 水車小屋の前。

 粉商人と布商人が、少し離れた場所から白銀列車を見ている。

 騒いでいない。

 こちらを指差すわけでもない。

 ただ、白銀列車の窓の向こうで何が起きているのか、静かに気にしている。

 布は、ちゃんと使われた。

 パンは、ちゃんと朝食になった。

 それが伝わるかどうかは分からない。

 でも、少なくとも私は満足している。

「気持ちよく使えていますわ」

 私は小さく言った。

 ルークが頷く。

「十分に」

 ならば、それでよい。


   ◇


 朝の光は、さらに明るくなっていた。

 水車の音は、変わらず続いている。

 パン籠用の麦色のパン布は、小卓の上で丸パンをやさしく包んでいる。

 刺繍の紐は、まだ籠がないので、仮に布の端へ結ばれていた。

 小さな赤い実の刺繍。

 それが一つあるだけで、朝食が少し嬉しそうに見える。

「籠も必要ですわね」

 私が呟くと、ノアがすぐ反応した。

「やっぱりそこへ行きますよね」

「布だけでは、まだ支度が途中です」

「パン籠までそろって完成ですか」

「ええ。朝食用のパン籠があれば、旅の朝がもっと上手になります」

 アベルは、丸パンの残りをパン布で軽く包み直した。

「明日の朝だな。もう一度、パンを買う。今度は籠に布を敷いて持ち帰る」

「明日もパンですのね」

「この町に一泊するなら、朝を二回やらないともったいない」

 朝を二回やる。

 なんて良い言葉だろう。

 昨日の夜は、眠るために半分残した。

 今朝は、起きるためにパンを食べた。

 そして明日の朝、もう一度パンを持ち帰る。

 今度は、ちゃんと布と籠で。

「では、明日は朝食の支度を完成させましょう」

 私は麦色のパン布を見た。

 パンはその中で、静かに朝の続きになっている。

 ミューレの水車は、窓の外でずっと回っていた。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 その音に合わせて、白銀列車の朝も、少しずつ形を持ち始めていた。

パン用の麦色布を選びました。

白すぎず、黄色すぎず、朝の丸パンが落ち着いて見える布です。


布が決まると、次は籠が気になってきます。

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