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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第6章 丸パンとパン籠編 ~水車と石窯の町ミューレ~

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51/84

051 焼きたて丸パンには、薄いバターと木苺ジャムが必要ですわ

水車と石窯の町ミューレに来ました。


朝霧。


小川。


水車の音。


そして、

石窯から出たばかりの丸パン。


では、

白銀列車の中で朝食にします。

 白銀列車へ戻った瞬間、焼きたての丸パンの匂いがラウンジへ広がった。

 それは、強い香りではなかった。砂糖菓子のように甘くはない。焼き肉のように食欲を殴ってくるわけでもない。


 ただ、小麦が焼けた匂い。


 石窯の熱をくぐった皮の香ばしさ。まだ中に湯気を持っている、朝の匂いだった。

「……これは、急ぐべきですわね」

 私は右ソファへ戻りかけて、足を止めた。

 丸パンはアベルの手元にある。紙に包まれているのに、香りがもう勝っている。

 ここでゆっくり座って眺めるのは危険だった。

 食べたい。

 かなり食べたい。

 けれど、ただかじるだけではもったいない気もする。

 アベルは厨房側へ向かいながら言った。

「すぐ出す。ただし、そのまま食うな」

「なぜですの。焼きたてですわ」

「焼きたてだからだ。中の湯気が落ち着く前に噛みつくと、熱いだけで終わる」

「焼きたてなのに、少し待つのですか」

「少しだけな。待ちすぎると別物になる」

 朝のパンは難しい。

 待つ。

 でも待ちすぎない。

 食べる。

 でも飛びつかない。

 かなり繊細である。

 ルークが私の外套を受け取り、いつものように皺を整えた。

「お嬢様、まずはお席へ。朝霧で少し冷えております」

「冷えている自覚はあまりありませんわ」

「パンの匂いで、気づかれていないだけかと」

「それはありえます」

 私は素直に右ソファへ座った。

 足元には麻ラグ。

 窓の外には水車。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 音がやわらかく届いている。

 白銀列車は停まっているのに、外の水車がずっと動いている。そのおかげで、朝が止まらず流れているように感じた。

 ノアが窓際から外を見ている。

「町の人、まだこっち見てますね」

「白銀列車が珍しいのでしょう」

「まあ、昨日までなかった線路が水車小屋の裏に出てますからね」

「それは確かに珍しいですわね」

 私が走らせた列車である。

 けれど、外から見れば突然現れた銀色の客室だろう。

 驚かれても仕方ない。

 ただ、今はその視線よりも、パンである。


   ◇


 アベルが丸パンを木の皿に並べた。

 小さい。

 手のひらに収まるくらいの丸パンが、四つ。

 表面は薄い茶色で、少しだけ割れ目がある。そこから、白い湯気がほんのわずかに逃げていた。

 派手ではない。

 けれど、目が離せない。

「……かわいいですわね」

「パンに言う言葉か?」

「小さくて、丸くて、朝らしいです」

「食い物としては悪くない褒め方だな」

 アベルは丸パンをひとつ手に取り、指先で軽く押した。

 ぱり、と表面が小さく鳴る。

 その音だけで、私は背筋を伸ばした。

「今の音、たいへん良いですわ」

「皮が薄い。中は柔らかい。粉がいいな」

「粉」

「水車の町だからな。挽きたてに近いんだろ」

 粉が良い。

 水車が回る。

 石窯で焼く。

 そして、白銀列車へ持ち帰る。

 考えれば考えるほど、朝食になるまでの道がきれいだった。

 アベルは丸パンを横から割った。

 刃を入れるというより、手でそっと開く。

 中から白い湯気が上がった。

 ふわり。

 私は思わず息を止めた。


「……中まで朝ですわ」


 ノアが笑いをこらえた。

「湯気まで朝って、かなり強い表現ですね」

「実際にそう見えます」

 湯気は、夜のミルクティーとは違った。

 昨夜の湯気は、灯りを落として眠りへ向かうものだった。

 この湯気は違う。

 窓を少し開けて、朝の空気を入れるような湯気だった。

 アベルが小さなバター壺を出す。

 淡い黄色。

 冷たすぎず、柔らかすぎず、塗るにはちょうどよさそうな固さ。

「バターですのね」

「薄くな」

「厚くしてはいけませんの?」

「このパンは軽い。厚く塗ると、バターが勝つ」

「勝たせないのですね」

「朝だからな」

 朝の食べ物は、誰かが勝ちすぎてはいけないらしい。

 眠り草茶もそうだった。

 主張しすぎると、夜に合わない。

 丸パンも同じなのだろう。

 強すぎるものより、ちょうどよく体に入るものが朝に合う。


   ◇


 アベルは割った丸パンへ、薄くバターを塗った。

 ほんの少しだけ。

 表面に、つやが出る。

 湯気でバターがゆっくりほどけて、パンの白い中身へ染みていく。

 その光景を見ているだけで、私はかなり満足しそうになった。

 しかし、まだ早い。

 食べていない。

 アベルは次に、小さな瓶を出した。

 赤い。

 深すぎない、明るい赤。

「木苺ジャムだ」

「まあ」

「甘いが、重くない。朝にはこれくらいだろ」

「すでに正解の気配がします」

「気配で食うな」

 木苺ジャムは、スプーンの先でほんの少しだけ乗せられた。

 バターの上に、赤が小さく置かれる。

 パン。

 バター。

 木苺ジャム。

 組み合わせは簡単なのに、とても強い。

 アベルは皿を私の前へ置いた。

「まずはこれで」

 私は両手でパンを持った。

 温かい。

 熱すぎない。

 指先に、薄い皮の感触がある。

 近づけると、小麦とバターと木苺の香りが重なった。

 眠り草ミルクティーを温め直した匂いが、まだ近くに残っている。

 朝の全員が、きちんと同じ方向を向いていた。

 私はひと口かじった。

 ぱり、と皮が割れた。

 すぐに、中の柔らかさが来る。

 バターの塩気。

 木苺の甘酸っぱさ。

 小麦のあたたかさ。

 強くない。

 でも、確かに目が覚める。

 驚いて飛び起きるような目覚めではない。

 布団の中で、もう少しだけと思っていた体に、窓の外が明るいですよ、と優しく言われるような味だった。

「……これは」

 私はゆっくり息を吐いた。


「朝の説得ですわ」


 アベルが腕を組む。

「起きたか?」

「少しだけ、納得して起きました」

「それはよかった」

 ノアも自分の分を食べて、目を細めている。

「うわ。軽いのに、ちゃんと満足しますね」

「でしょう?」

「これ、朝に強いです。昼だと少し物足りないかもしれないけど、朝だとちょうどいい」

「時間も味の一部ですわね」

 私はもう一口食べた。

 今度は木苺が少しだけ多いところ。

 甘酸っぱさが舌に触れて、温め直したミルクティーが欲しくなる。

 カップを取る。

 飲む。

 ぬるくて、やわらかくて、昨夜の眠りの名残が少しだけある。

 そこへパンの香ばしさが合う。

 夜が、朝にきちんとつながった。


   ◇


 窓の外では、水車が回っている。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 水車小屋の前に、粉袋を運ぶ人が二人立っていた。

 こちらを見ている。

 その隣で、石窯パン屋の職人らしき男も、少し離れた場所から白銀列車を見上げていた。

 私たちの食卓までは見えないはずだ。

 でも、パンの匂いがどこへ運ばれたのかは分かるのだろう。

「見られていますわね」

 私が言うと、ルークが窓の方へ目を向けた。

「不躾というほどではございません」

「なら、よろしいです」

「白銀列車が何を持ち帰ったのか、気になっているのでしょう」

 アベルが小さく鼻を鳴らした。

「良いパンだったからな。見られて困るもんじゃない」

「そういうものですの?」

「ちゃんと作ったものが、ちゃんと食われてる。それは職人にとって悪いことじゃない」

 私は窓の外の職人を見た。

 彼は騒いではいない。

 こちらへ来るわけでもない。

 ただ、少し真剣に見ている。

 自分の焼いたパンが、あの銀色の客室へ運ばれた。

 それがどう扱われるのか、気になるのかもしれない。

 私は、手元のパンをもう一度見た。

 薄いバター。

 木苺ジャム。

 小さな丸パン。

 どれもきちんと朝になっている。

「気持ちよくいただいていると、伝わるとよいですわね」

 ノアが笑う。

「窓越しでも、ティアさんの顔でだいたい伝わると思います」

「また顔ですの?」

「はい。かなり幸せそうです」

「なら、よしとします」

 幸せそうに食べることくらいなら、私にもできる。

 いいえ。

 かなり得意である。


   ◇


 丸パンは、小さいのに満足感があった。

 二つ目に手を伸ばしたい気持ちはある。

 かなりある。

 しかし、朝である。

 ここで欲張ると、せっかくの軽さが重くなってしまう気がした。

 私は皿の上を見つめた。

 残りの丸パン。

 まだ温かい。

 まだ香りがある。

 食べたい。

 でも、今ではない気もする。

 ルークが静かに言った。

「お嬢様、残りは後ほどでもよろしいかと」

「なぜ分かりましたの」

「お顔が、二つ目と相談しておられました」

「私の顔、本当に働きすぎですわね」

 アベルが笑った。

「残すなら、布がいるな」

「布?」

「このまま置くと乾く。包みすぎると蒸れる。紙だけだと朝の感じが逃げる」

 私は丸パンを見た。

 今は木の皿に並んでいる。

 それだけでも十分に見える。

 けれど、確かに持ち帰る時も、置いておく時も、もっとちょうどよい方法がありそうだった。

 町の子どもが持っていたパン籠。

 生成りの布。

 あれが頭に浮かぶ。

「……パンをただ買ってくるだけでは、足りませんわね」

 私は小さく言った。

 ノアが窓側からこちらを見る。

「籠の話ですか?」

「ええ。朝食として、きちんと持ち帰る支度が必要です」

 アベルがうなずく。

「パン用の布はいる。できれば、蒸れにくいやつ」

 ルークも静かに付け加えた。

「粉が落ちても扱いやすく、車内に置いても見苦しくないものがよろしいかと」

「条件が増えましたわ」

「朝食の支度でございますので」

 朝食の支度。

 それは、たいへん良い言葉だった。

 夜のミルクティーには、白い陶器のカップと膝掛けと落とした灯りが必要だった。

 朝のパンには、パン籠と布が必要なのかもしれない。

 白銀列車の暮らしが、また少し増えようとしている。


   ◇


 私は残りのミルクティーを飲んだ。

 今度は、半分残さなかった。

 朝のミルクティーは、眠らせるためのものではない。

 パンと一緒に、朝を納得して受け入れるためのものだ。

 だから、飲み終えても重くない。

 むしろ、少しだけ目が澄んだ。

 窓の外では、職人が石窯パン屋へ戻っていく。

 粉商人らしき男が、彼に何かを話しかけていた。

 声は聞こえない。

 けれど、二人ともこちらをちらりと見ている。

 騒いではいない。

 ただ、覚えている顔だった。

 白銀列車が選んだのは、一番大きなパンではない。

 飾りのついた甘いパンでもない。

 朝に合う、小さな丸パンだった。

 きっと彼らは、それを覚えるのだろう。

 私はそれでよいと思った。

 名前を大きく出す必要はない。

 値段を跳ね上げる必要もない。

 ただ、良い朝に合うものが、きちんと選ばれた。

 それだけで十分だ。

「ルーク」

「はい」

「次は、パン籠の布を見に行きましょう」

「本日でございますか」

「長くは歩きません。朝の町が完全に混む前に、少しだけ」

「承知いたしました。足元と朝霧を確認いたします」

 ノアが軽く窓の外を見る。

「朝市の端に、布を扱う店が出ているみたいです。派手な刺繍布もありますけど、生成りの方が合いそうですね」

「まだ見ていないのに、もう生成りが気になりますわ」

「パンの匂いがそういう方向なので」

「ノアまで匂いで判断し始めましたわね」

「影響されています」

 アベルが残りの丸パンに布を軽くかける。

 今ある布は仮のものだ。

 それでも、パンが少し守られたように見えた。

 私は右ソファに背を預け、水車の音を聞いた。

 ごとん。

 ことん。

 ごとん。

 朝は、思ったよりやることが多い。

 けれど、夜の忙しさとは違う。

 眠るために減らしていく夜。

 起きるために整えていく朝。

 白銀列車には、どちらも必要なのだろう。

「朝食には、朝食の道具が必要ですわね」

 私はそう言って、窓の外の水車町を眺めた。

 朝霧はもう薄くなり、木組みの家々の窓に光が入っている。

 石窯パン屋の煙突からは、まだ白い煙が上がっていた。

 次は、パンを気持ちよく包むものを探す。


 丸パンの湯気が、布の下でまだ少しだけ残っていた。

焼きたて丸パンを、白銀列車で朝食にしました。

薄いバター、木苺ジャム、温め直したミルクティー。


朝のパンは、食べ方だけでなく、持ち帰り方も大事そうです。

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