051 焼きたて丸パンには、薄いバターと木苺ジャムが必要ですわ
水車と石窯の町ミューレに来ました。
朝霧。
小川。
水車の音。
そして、
石窯から出たばかりの丸パン。
では、
白銀列車の中で朝食にします。
白銀列車へ戻った瞬間、焼きたての丸パンの匂いがラウンジへ広がった。
それは、強い香りではなかった。砂糖菓子のように甘くはない。焼き肉のように食欲を殴ってくるわけでもない。
ただ、小麦が焼けた匂い。
石窯の熱をくぐった皮の香ばしさ。まだ中に湯気を持っている、朝の匂いだった。
「……これは、急ぐべきですわね」
私は右ソファへ戻りかけて、足を止めた。
丸パンはアベルの手元にある。紙に包まれているのに、香りがもう勝っている。
ここでゆっくり座って眺めるのは危険だった。
食べたい。
かなり食べたい。
けれど、ただかじるだけではもったいない気もする。
アベルは厨房側へ向かいながら言った。
「すぐ出す。ただし、そのまま食うな」
「なぜですの。焼きたてですわ」
「焼きたてだからだ。中の湯気が落ち着く前に噛みつくと、熱いだけで終わる」
「焼きたてなのに、少し待つのですか」
「少しだけな。待ちすぎると別物になる」
朝のパンは難しい。
待つ。
でも待ちすぎない。
食べる。
でも飛びつかない。
かなり繊細である。
ルークが私の外套を受け取り、いつものように皺を整えた。
「お嬢様、まずはお席へ。朝霧で少し冷えております」
「冷えている自覚はあまりありませんわ」
「パンの匂いで、気づかれていないだけかと」
「それはありえます」
私は素直に右ソファへ座った。
足元には麻ラグ。
窓の外には水車。
ごとん。
ことん。
ごとん。
音がやわらかく届いている。
白銀列車は停まっているのに、外の水車がずっと動いている。そのおかげで、朝が止まらず流れているように感じた。
ノアが窓際から外を見ている。
「町の人、まだこっち見てますね」
「白銀列車が珍しいのでしょう」
「まあ、昨日までなかった線路が水車小屋の裏に出てますからね」
「それは確かに珍しいですわね」
私が走らせた列車である。
けれど、外から見れば突然現れた銀色の客室だろう。
驚かれても仕方ない。
ただ、今はその視線よりも、パンである。
◇
アベルが丸パンを木の皿に並べた。
小さい。
手のひらに収まるくらいの丸パンが、四つ。
表面は薄い茶色で、少しだけ割れ目がある。そこから、白い湯気がほんのわずかに逃げていた。
派手ではない。
けれど、目が離せない。
「……かわいいですわね」
「パンに言う言葉か?」
「小さくて、丸くて、朝らしいです」
「食い物としては悪くない褒め方だな」
アベルは丸パンをひとつ手に取り、指先で軽く押した。
ぱり、と表面が小さく鳴る。
その音だけで、私は背筋を伸ばした。
「今の音、たいへん良いですわ」
「皮が薄い。中は柔らかい。粉がいいな」
「粉」
「水車の町だからな。挽きたてに近いんだろ」
粉が良い。
水車が回る。
石窯で焼く。
そして、白銀列車へ持ち帰る。
考えれば考えるほど、朝食になるまでの道がきれいだった。
アベルは丸パンを横から割った。
刃を入れるというより、手でそっと開く。
中から白い湯気が上がった。
ふわり。
私は思わず息を止めた。
「……中まで朝ですわ」
ノアが笑いをこらえた。
「湯気まで朝って、かなり強い表現ですね」
「実際にそう見えます」
湯気は、夜のミルクティーとは違った。
昨夜の湯気は、灯りを落として眠りへ向かうものだった。
この湯気は違う。
窓を少し開けて、朝の空気を入れるような湯気だった。
アベルが小さなバター壺を出す。
淡い黄色。
冷たすぎず、柔らかすぎず、塗るにはちょうどよさそうな固さ。
「バターですのね」
「薄くな」
「厚くしてはいけませんの?」
「このパンは軽い。厚く塗ると、バターが勝つ」
「勝たせないのですね」
「朝だからな」
朝の食べ物は、誰かが勝ちすぎてはいけないらしい。
眠り草茶もそうだった。
主張しすぎると、夜に合わない。
丸パンも同じなのだろう。
強すぎるものより、ちょうどよく体に入るものが朝に合う。
◇
アベルは割った丸パンへ、薄くバターを塗った。
ほんの少しだけ。
表面に、つやが出る。
湯気でバターがゆっくりほどけて、パンの白い中身へ染みていく。
その光景を見ているだけで、私はかなり満足しそうになった。
しかし、まだ早い。
食べていない。
アベルは次に、小さな瓶を出した。
赤い。
深すぎない、明るい赤。
「木苺ジャムだ」
「まあ」
「甘いが、重くない。朝にはこれくらいだろ」
「すでに正解の気配がします」
「気配で食うな」
木苺ジャムは、スプーンの先でほんの少しだけ乗せられた。
バターの上に、赤が小さく置かれる。
パン。
バター。
木苺ジャム。
組み合わせは簡単なのに、とても強い。
アベルは皿を私の前へ置いた。
「まずはこれで」
私は両手でパンを持った。
温かい。
熱すぎない。
指先に、薄い皮の感触がある。
近づけると、小麦とバターと木苺の香りが重なった。
眠り草ミルクティーを温め直した匂いが、まだ近くに残っている。
朝の全員が、きちんと同じ方向を向いていた。
私はひと口かじった。
ぱり、と皮が割れた。
すぐに、中の柔らかさが来る。
バターの塩気。
木苺の甘酸っぱさ。
小麦のあたたかさ。
強くない。
でも、確かに目が覚める。
驚いて飛び起きるような目覚めではない。
布団の中で、もう少しだけと思っていた体に、窓の外が明るいですよ、と優しく言われるような味だった。
「……これは」
私はゆっくり息を吐いた。
「朝の説得ですわ」
アベルが腕を組む。
「起きたか?」
「少しだけ、納得して起きました」
「それはよかった」
ノアも自分の分を食べて、目を細めている。
「うわ。軽いのに、ちゃんと満足しますね」
「でしょう?」
「これ、朝に強いです。昼だと少し物足りないかもしれないけど、朝だとちょうどいい」
「時間も味の一部ですわね」
私はもう一口食べた。
今度は木苺が少しだけ多いところ。
甘酸っぱさが舌に触れて、温め直したミルクティーが欲しくなる。
カップを取る。
飲む。
ぬるくて、やわらかくて、昨夜の眠りの名残が少しだけある。
そこへパンの香ばしさが合う。
夜が、朝にきちんとつながった。
◇
窓の外では、水車が回っている。
ごとん。
ことん。
ごとん。
水車小屋の前に、粉袋を運ぶ人が二人立っていた。
こちらを見ている。
その隣で、石窯パン屋の職人らしき男も、少し離れた場所から白銀列車を見上げていた。
私たちの食卓までは見えないはずだ。
でも、パンの匂いがどこへ運ばれたのかは分かるのだろう。
「見られていますわね」
私が言うと、ルークが窓の方へ目を向けた。
「不躾というほどではございません」
「なら、よろしいです」
「白銀列車が何を持ち帰ったのか、気になっているのでしょう」
アベルが小さく鼻を鳴らした。
「良いパンだったからな。見られて困るもんじゃない」
「そういうものですの?」
「ちゃんと作ったものが、ちゃんと食われてる。それは職人にとって悪いことじゃない」
私は窓の外の職人を見た。
彼は騒いではいない。
こちらへ来るわけでもない。
ただ、少し真剣に見ている。
自分の焼いたパンが、あの銀色の客室へ運ばれた。
それがどう扱われるのか、気になるのかもしれない。
私は、手元のパンをもう一度見た。
薄いバター。
木苺ジャム。
小さな丸パン。
どれもきちんと朝になっている。
「気持ちよくいただいていると、伝わるとよいですわね」
ノアが笑う。
「窓越しでも、ティアさんの顔でだいたい伝わると思います」
「また顔ですの?」
「はい。かなり幸せそうです」
「なら、よしとします」
幸せそうに食べることくらいなら、私にもできる。
いいえ。
かなり得意である。
◇
丸パンは、小さいのに満足感があった。
二つ目に手を伸ばしたい気持ちはある。
かなりある。
しかし、朝である。
ここで欲張ると、せっかくの軽さが重くなってしまう気がした。
私は皿の上を見つめた。
残りの丸パン。
まだ温かい。
まだ香りがある。
食べたい。
でも、今ではない気もする。
ルークが静かに言った。
「お嬢様、残りは後ほどでもよろしいかと」
「なぜ分かりましたの」
「お顔が、二つ目と相談しておられました」
「私の顔、本当に働きすぎですわね」
アベルが笑った。
「残すなら、布がいるな」
「布?」
「このまま置くと乾く。包みすぎると蒸れる。紙だけだと朝の感じが逃げる」
私は丸パンを見た。
今は木の皿に並んでいる。
それだけでも十分に見える。
けれど、確かに持ち帰る時も、置いておく時も、もっとちょうどよい方法がありそうだった。
町の子どもが持っていたパン籠。
生成りの布。
あれが頭に浮かぶ。
「……パンをただ買ってくるだけでは、足りませんわね」
私は小さく言った。
ノアが窓側からこちらを見る。
「籠の話ですか?」
「ええ。朝食として、きちんと持ち帰る支度が必要です」
アベルがうなずく。
「パン用の布はいる。できれば、蒸れにくいやつ」
ルークも静かに付け加えた。
「粉が落ちても扱いやすく、車内に置いても見苦しくないものがよろしいかと」
「条件が増えましたわ」
「朝食の支度でございますので」
朝食の支度。
それは、たいへん良い言葉だった。
夜のミルクティーには、白い陶器のカップと膝掛けと落とした灯りが必要だった。
朝のパンには、パン籠と布が必要なのかもしれない。
白銀列車の暮らしが、また少し増えようとしている。
◇
私は残りのミルクティーを飲んだ。
今度は、半分残さなかった。
朝のミルクティーは、眠らせるためのものではない。
パンと一緒に、朝を納得して受け入れるためのものだ。
だから、飲み終えても重くない。
むしろ、少しだけ目が澄んだ。
窓の外では、職人が石窯パン屋へ戻っていく。
粉商人らしき男が、彼に何かを話しかけていた。
声は聞こえない。
けれど、二人ともこちらをちらりと見ている。
騒いではいない。
ただ、覚えている顔だった。
白銀列車が選んだのは、一番大きなパンではない。
飾りのついた甘いパンでもない。
朝に合う、小さな丸パンだった。
きっと彼らは、それを覚えるのだろう。
私はそれでよいと思った。
名前を大きく出す必要はない。
値段を跳ね上げる必要もない。
ただ、良い朝に合うものが、きちんと選ばれた。
それだけで十分だ。
「ルーク」
「はい」
「次は、パン籠の布を見に行きましょう」
「本日でございますか」
「長くは歩きません。朝の町が完全に混む前に、少しだけ」
「承知いたしました。足元と朝霧を確認いたします」
ノアが軽く窓の外を見る。
「朝市の端に、布を扱う店が出ているみたいです。派手な刺繍布もありますけど、生成りの方が合いそうですね」
「まだ見ていないのに、もう生成りが気になりますわ」
「パンの匂いがそういう方向なので」
「ノアまで匂いで判断し始めましたわね」
「影響されています」
アベルが残りの丸パンに布を軽くかける。
今ある布は仮のものだ。
それでも、パンが少し守られたように見えた。
私は右ソファに背を預け、水車の音を聞いた。
ごとん。
ことん。
ごとん。
朝は、思ったよりやることが多い。
けれど、夜の忙しさとは違う。
眠るために減らしていく夜。
起きるために整えていく朝。
白銀列車には、どちらも必要なのだろう。
「朝食には、朝食の道具が必要ですわね」
私はそう言って、窓の外の水車町を眺めた。
朝霧はもう薄くなり、木組みの家々の窓に光が入っている。
石窯パン屋の煙突からは、まだ白い煙が上がっていた。
次は、パンを気持ちよく包むものを探す。
丸パンの湯気が、布の下でまだ少しだけ残っていた。
焼きたて丸パンを、白銀列車で朝食にしました。
薄いバター、木苺ジャム、温め直したミルクティー。
朝のパンは、食べ方だけでなく、持ち帰り方も大事そうです。




