050 半分残ったミルクティーを温め直したら、水車の音が聞こえましたわ
梟の灯を出ました。
深夜のミルクティーは、
半分残したまま眠りました。
けれど、
残したものには、
朝の楽しみが残っているのです。
梟の灯を出たのは、夜がまだ深いうちだった。
ランタンの灯りは小さくなり、薬草茶屋台の湯気も、焼き栗の甘い匂いも、窓の外でゆっくり遠ざかっていた。
私は右ソファで膝掛けに包まれたまま、半分眠った頭で、運転室の水晶盤に手を置いた。
冷たい水晶が、指先の下で淡く光る。
「次は……朝においしいものがある場所がよろしいですわ」
声に出した瞬間、白銀列車の奥で、澄んだ音がした。
りぃん。
窓の外で、夜の線路が薄くほどける。
その先へ、白い光の線が静かに伸びていった。
神の線路。
私が行き先を望むと、白銀列車はいつも少しだけ都合のよい道を選ぶ。
今回は、朝においしいものがある場所。
かなり大事な条件である。
「お嬢様、目的は朝食でございますか」
ルークが後ろ斜めから尋ねた。
「朝食というより、朝に自然と目が覚めるものですわ」
「承知いたしました」
「でも、強く起こされるのは困ります。優しくお願いします」
「白銀列車へ、そのように伝わっているかと」
たぶん伝わっている。
白銀列車は、私の快適に関しては妙に聞き分けがよい。
がたん。
ごとん。
白銀列車が、夜の宿場町を離れていく。
私は小卓に残った白いカップを見た。
眠り草茶をミルクで丸くした、深夜のミルクティー。
半分ほど残っている。
飲み切らなかったのではない。
眠れたのだ。
それは、たぶん正しい終わり方だった。
「残りは、朝に」
私はそう呟いたところで、右ソファに身を預けた。
水晶盤の光がゆっくり遠ざかる。
窓の外では、白い線路が夜の中へ伸びていく。
私はその音を聞きながら、もう一度、眠りに落ちた。
◇
朝の白銀列車は、少しだけ甘い匂いがした。
昨夜の名残である。
右ソファの横の小卓には、白い陶器のカップが置かれていた。中身はもう冷めている。眠り草茶をミルクで丸くした、深夜のミルクティー。
半分ほど残したまま、私は眠ってしまった。
けれど、それを見ても不思議と申し訳なさはなかった。
飲み切らなかったのではない。
眠れたのだ。
それは、やはり正しい終わり方だった。
「……まだ残っていますわね」
私は右ソファで目をこすりながら呟いた。
梟の灯のランタンは、もう窓の外に見えない。
昨夜、私が伸ばした線路は、夜だけ灯る宿場町をそっと離れていた。
今、窓の向こうにあるのは、朝霧だった。
薄い灰色の霧。
淡い光。
低い丘の影。
夜の静けさとは違う。
まだ眠いけれど、少しずつ目が開いていくような朝だった。
ルークが小卓のカップを見て、静かに言った。
「お嬢様、温め直しましょうか」
「よろしいの?」
「昨夜、お残しになった時から、そのつもりでございました」
「準備が良すぎますわ」
「お嬢様がよくお休みになれたのであれば、残った分も朝の役目を持てます」
朝の役目。
その言葉が、たいへん良かった。
昨夜は眠るためのミルクティーだった。
では、朝に温め直したら。
それは、起きるためのミルクティーになるのだろうか。
「では、お願いします」
私は少し背を起こした。
毛布ほどではない薄い膝掛けが、膝の上から滑り落ちる。ルークがすぐに拾い、きれいに畳んだ。
アベルは厨房側から顔を出す。
「残ったやつか」
「ええ。朝に温め直したら、どうなるか気になりますわ」
「夜用の味だからな。少し軽くする」
「軽く?」
「温め直すだけだと、眠い味のまま残る。朝なら、少しミルクを足して丸さだけ残す」
眠い味のまま。
それはそれで惜しい気もした。
けれど、朝からもう一度深く眠ってしまうわけにはいかない。
私はまだ少し眠い。
だが、起きる気もある。
たぶん。
◇
アベルが小鍋へ、残ったミルクティーを移した。
淡い茶色が、白い鍋肌に静かに広がる。
そこへ、少しだけ新しいミルクが入った。
火は弱い。
湯気は細い。
昨夜と同じように、強く沸かさない。
でも、匂いが少し違った。
眠り草茶の青さは、もうだいぶ奥にいる。蜂蜜の気配も薄い。代わりに、朝のミルクの匂いが前へ来ている。
昨夜のミルクティーは、夜へ沈む味だった。
今の匂いは、布団の端を少し持ち上げる味に近い。
「……朝になっていますわ」
「まだ飲んでねえだろ」
「匂いが起きています」
「茶の匂いまで起こすな」
アベルは呆れたように言いながらも、火加減を少しだけ落とした。
ノアが窓側から振り返る。
「ティアさん、外も見てください。ちょっと変わってます」
「変わっている?」
私は右ソファから身を乗り出し、窓の外を見た。
霧の向こうに、小川があった。
細く、明るく、朝の光を受けてゆっくり流れている。
その小川のそばに、古い水車小屋が立っていた。
木組みの壁。
石の基礎。
苔のついた屋根。
ゆっくり回る大きな水車。
ごとん。
ことん。
ごとん。
水を受ける音が、防音ガラス越しにやわらかく届く。
車輪の音ではない。
波の音でもない。
雨の音でもない。
朝の水の音だった。
「……まあ」
私は思わず窓へ近づいた。
朝霧の中、水車が回っている。
小川に沿って、白い線路が伸びていた。
昨日までそこにあったとは思えないほど、静かに、当然のように。
水車小屋の裏手から、林の端を通り、白銀列車の足元へつながっている。
「私、かなり良い場所へ走らせましたわね」
ルークが温め直したミルクティーの支度をしながら、淡々と答えた。
「お嬢様のお望み通りかと」
「朝においしいものがある場所、とお願いしましたものね」
「白銀列車も、そのように道を選んだのでございましょう」
「便利な列車ですわ」
「お嬢様の列車でございますので」
それは、とてもよい響きだった。
白銀列車は、勝手にどこかへ行くのではない。
私が望んだ場所へ、神の線路を伸ばしてくれる。
少し都合がよくて、少し不思議で、かなり快適な列車。
たいへん正しい。
◇
窓の外の町は、まだ完全には起きていなかった。
けれど、梟の灯とは違う。
あちらは夜に灯り、朝には眠そうにしていた。
こちらは、朝霧の中で少しずつ目を開いている。
水車の向こうに、木組みの家々が見えた。
白い壁に濃い梁。
小さな窓。
低い石橋。
煙突から細く上がる煙。
粉を入れた袋を運ぶ人影。
籠を抱えた子ども。
まだ声は大きくない。
でも、町の中では何かが始まっている。
朝の支度だ。
「ここは、どういう町ですの?」
ノアが帳面を開きすぎない程度に持ったまま答えた。
「水車と石窯の町、ミューレ。小川沿いに粉挽き小屋があって、朝のパンが有名みたいです」
「パン」
その一言で、私はかなり目が覚めた。
完全ではない。
でも、かなり起きた。
「パンですの?」
「はい。粉挽き小屋と石窯パン屋が並んでいる町ですね。朝市もあるみたいです」
アベルが厨房から戻ってきた。
白い陶器のカップから、細い湯気が立っている。
「だから、外からいい匂いがするのか」
「匂い?」
私は窓を見た。
防音ガラス越しなので、外の匂いはほとんど届かない。
けれど、アベルは少し鼻を動かしている。
料理人の感覚は、時々ずるい。
「小麦と、焼けた皮の匂いが少しする。石窯だな」
「石窯」
なんて朝に強い言葉だろう。
夜の薬草茶とは、まるで違う。
水車。
小麦粉。
石窯。
焼きたてのパン。
そして、温め直したミルクティー。
私はカップを両手で受け取った。
温かい。
昨夜より、少し軽い。
口をつけると、眠り草茶の青さはまだほんの少し残っていた。けれど、昨夜のように深く沈む感じではない。
ミルクが前に来ている。
蜂蜜は遠い。
ぬるくて、やわらかくて、昨日の夜を畳んだあとに、そっと朝へ返してくれる味だった。
「……これは、朝の味になっていますわ」
アベルが腕を組む。
「悪くないだろ」
「ええ。眠るための味が、起きるための味に変わりました」
「起こすほど強くはないぞ」
「強く起こされるのは嫌です。朝は、ゆっくり説得されたいのです」
ノアが笑った。
「起床に説得が必要なんですね」
「必要ですわ。急に起こされる朝は信用できません」
「分かるような気もします」
私はもう一口、温め直したミルクティーを飲んだ。
昨夜の残り。
けれど、残り物という感じではない。
夜が朝へつながった味だった。
◇
水車の音は、ずっと続いていた。
ごとん。
ことん。
ごとん。
白銀列車の中にいると、音は少し丸くなる。けれど、完全には消えない。
その加減がよかった。
雨音の読書とは違う。
港の防音越しの活気とも違う。
水車の音は、働いている音だった。
ただし、急がせない。
町が静かに動き始めていることだけを教えてくれる。
「この音、悪くありませんわね」
私はカップを持ったまま言った。
「朝の音です」
ルークが頷く。
「走行音とは違いますが、落ち着く規則性がございます」
「白銀列車が止まっていても、外で何かが動いている感じがしますわ」
「水車ですからね」
ノアが窓の外を見た。
「粉を挽いてるんでしょう。パン屋に粉が行くんだと思います」
粉が挽かれる。
粉がパンになる。
パンが焼かれる。
朝食になる。
とても分かりやすい。
そして、とても魅力的な流れである。
私はカップを置き、右ソファから立ち上がった。
「行きましょう」
ルークがすぐ外套を手に取る。
「外へ、でございますね」
「ええ。少しだけです」
「朝霧がございます。足元にお気をつけください」
「水車の町ですもの。足元が少し湿っているのは、許容しますわ」
「長く歩きすぎないことも条件でございます」
「分かっています。目的は町歩きではありません」
私は窓の外を見た。
石窯の煙突から、細い煙が上がっている。
そこから、たぶんパンの匂いがしている。
「パンですわ」
アベルがうなずいた。
「まずは石窯を探す」
「探すというより、匂いの方へ行けばよろしいのでは?」
「お嬢様は匂いで行くな。俺が見る」
「頼もしいですが、少し不公平ですわ」
「食い物に関しては俺の仕事だ」
その言葉には、逆らわない方がよい。
アベルの食べ物判断は、かなり信用できる。
◇
白銀列車の扉が開いた。
朝の空気が入ってくる。
冷たい。
でも、夜の冷たさとは違う。
肌に触れて、目を覚ましていくような冷たさだった。
土の匂い。
小川の匂い。
粉っぽい、乾いた小麦の気配。
遠くで焼けるパンの香ばしさ。
私は一歩外へ出て、少しだけ息を吸った。
「……これは、朝ですわね」
ノアが隣で笑う。
「すごい感想ですけど、分かります」
「夜とも昼とも違います。朝というものは、匂いで分かるのですね」
「かなりパン寄りの朝ですけど」
「素晴らしい朝ですわ」
水車小屋の方から、男が一人出てきた。
粉のついた前掛けをしている。
彼は白銀列車を見て、足を止めた。
それから、足元の白い線路を見た。
昨日までなかったものを見る顔だった。
目を丸くする。
けれど、大声は出さない。
水車の音が続いているせいか、朝の町では驚き方まで少し丸い。
「あれが……」
男は低く呟いた。
「走るホテル、か」
私は少し首を傾げた。
「今、何かおっしゃいました?」
「町の方が白銀列車を見て驚いておられるようです」
ルークが静かに答えた。
「そうでしょうね。昨日までなかった線路ですもの」
「お嬢様は驚かれませんのですね」
「私が走らせた列車ですもの。驚くより、褒めたいですわ」
「それは、白銀列車も喜んでいるかと」
そうだろうか。
そうだとよい。
昨夜の私は半分眠っていたけれど、目的地の選び方はかなり良かったと思う。
粉挽きの男は、まだこちらを見ていた。
だが、やがて水車小屋へ戻り、何かを中の人へ伝えている。
町に知らせが広がるのだろう。
銀色の客室が、朝霧の小川沿いに現れた。
水車小屋の裏に、昨日までなかった線路が伸びている。
それは、少しだけ噂になりそうだった。
でも、今の私はそのことよりも気になるものがある。
パンの匂いである。
◇
小川沿いの道は、細くて歩きやすかった。
ただし、ところどころ湿っている。
ルークは当然のように、私が踏む前の石を見ていた。
「右側の石が乾いております」
「ありがとうございます」
「次は少し段差がございます」
「水車の町は、足元まで朝の仕事をしていますわね」
「お嬢様の歩幅には、少々不親切でございます」
「そこまで言わなくても」
私は慎重に歩いた。
霧が薄く流れている。
木組みの家々の窓から、少しずつ人が顔を出していた。
パン籠を持った子どもが、私たちの前を小走りで通り過ぎる。
籠には布がかけられている。
生成りの布。
その下から、丸い形がいくつか浮いていた。
「今の、パンですわね」
ノアが頷く。
「たぶん、朝食用でしょうね。町の人は籠で買いに行くみたいです」
「籠で買う」
それは、なかなか良い。
紙袋ではなく、籠。
布をかけて持ち帰る。
朝のパンは、そうやって扱うものなのだろう。
マリーノのガラス器は、冷たいものをきれいに見せた。
この町では、パンを気持ちよく持ち帰る道具が大事になりそうだ。
まだパンを食べてもいないのに、少し先のことまで想像してしまう。
「お嬢様」
ルークが言った。
「まずはパンでございます」
「分かっていますわ」
「目が、籠の方へ行っておられました」
「見られていましたのね」
「はい」
たいへん優秀で、少し困る。
でも、ルークの言う通りだ。
まずはパン。
籠や布は、そのあとでよい。
◇
石窯パン屋は、石橋を渡った先にあった。
店の奥に、大きな石窯がある。
煙突から白い煙が上がり、店の前には木の棚が並んでいた。まだすべてのパンが出ているわけではない。
焼き上がったばかりの丸パンが、布の上に少しだけ並んでいる。
小さくて、素朴で、表面は薄く色づいている。
派手な飾りはない。
甘い香りも強くない。
ただ、焼きたての小麦の香りがする。
朝の香りだった。
「……見つけましたわ」
私は静かに言った。
アベルが横で短くうなずく。
「いい匂いだ」
「もう買えますの?」
「聞いてみる」
店の奥から、石窯職人らしき男が出てきた。
粉のついた腕。
落ち着いた目。
朝から何度も同じ動きをしてきた人の顔だった。
彼は私たちを見て、少しだけ驚いた。
それから、白銀列車の方を見た。
噂はもう届いているのだろう。
でも、声を荒げたりはしなかった。
「焼きたてかい」
職人が言った。
アベルが棚の丸パンを見る。
「その小さいやつを」
「まだ熱い」
「だからいい」
職人は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
私は棚の丸パンを見つめた。
湯気が、ほんの少し立っている。
パンの湯気。
夜のミルクティーの湯気とは、まるで違う。
あちらは眠るため。
こちらは起きるため。
そう思った瞬間、私は今日の朝がかなり好きになった。
「アベル」
「買う」
「まだ何も言っておりませんわ」
「顔に出てる」
またである。
私の顔は、白銀列車の買い物係に便利すぎる。
けれど、今回ばかりは否定しない。
この町では、パンを探すべきだ。
そして、見つけた。
◇
白銀列車へ戻る頃、朝霧は少し薄くなっていた。
水車の音はまだ続いている。
ごとん。
ことん。
ごとん。
アベルは紙に包まれた丸パンを大事に持っている。
ルークは私の足元を見ている。
ノアは木組みの家や水車小屋の位置を覚えている。
私はただ、パンの匂いを追っていた。
まだ食べていないのに、もう少し満たされている。
朝に焼きたてのパンを持って帰る。
それだけで、旅の朝はかなり良くなるらしい。
白銀列車の扉が近づく。
その向こうには、温め直したミルクティーの残りの匂いが、きっとまだ少しある。
パン。
ミルクティー。
水車の音。
朝霧。
これは、かなりよい組み合わせである。
私は扉の前で足を止め、もう一度だけミューレの町を見た。
木組みの家。
小川。
水車。
石窯の煙。
粉を運ぶ人々。
そして、白銀列車へ向けられる少しだけ不思議そうな視線。
町は騒いでいない。
けれど、こちらを見ている。
マリーノで少しだけ育った噂が、この町にも届いているのかもしれない。
走るホテル。
白銀列車で使われた品。
気持ちよく食べられたもの。
でも、今はまだ遠い話でいい。
私にとって大事なのは、手元の朝である。
「この町では」
私は小さく言った。
「パンを探すべきですわ」
アベルが紙包みを少し持ち上げる。
「もう見つけたぞ」
「では次は、きちんと食べる番です」
ルークが扉を開けた。
白銀列車の中から、静かな朝の空気が迎えてくる。
焼きたての丸パンの湯気を逃がさないように、私たちは急ぎすぎず、けれど少しだけ早足で、朝の客室へ戻った。
第6章開始です。
水車と石窯の町「ミューレ」へ来ました。
昨夜、ティアが白銀列車を走らせた先は、
朝霧の水車小屋の裏手でした。
半分残したミルクティーを朝に温め直し、
そのまま水車の音とパンの匂いへ。
次回、
焼きたて丸パンを車内で整えます。




