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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第5章 深夜のミルクティー編 〜夜間停車駅・梟の灯〜

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049 【閑話】薬草茶屋台の老婆と、眠そうな令嬢の走る客室

梟の灯の薬草茶屋台から見た白銀列車です。

眠るためのお茶を選びに来た令嬢は、宿場の人間から見ても少し変わった客でした。

 梟の灯には、夜にだけ来る客がいる。


 昼の町は静かだ。古い石壁。閉じた雨戸。荷車の跡が残る街道。馬小屋の干し草の匂い。

 昼間に通る者は、たいてい急いでいる。荷を届ける商人、次の町へ向かう巡礼者、日が落ちる前に山道を抜けたい御者。

 彼らは町を見ない。

 水を汲み、馬に飲ませ、干し肉を買い、また歩き出す。

 けれど夜になると、町は少しだけ顔を変える。ランタンに火が入り、焼き栗の屋台が煙を上げる。温かい乳を売る娘が椀を並べ、馬車の御者が馬の首へ毛布をかける。

 旅人たちは声を落とす。

 足音も小さくなる。

 誰も、ここで大きな夢を語らない。


 明日の道のために、今夜を少しだけやわらかくする。


 それが、梟の灯という宿場町だった。

「さて」

 薬草茶屋台の老婆は、小さな鍋の湯気を見ながら、茶葉の瓶を並べ直した。

 名をエッダという。

 ただ、町の者はだいたい「茶の婆さん」と呼ぶ。

 それで困ったことはない。

 夜に来る客は、名前より湯気を求めている。

 エッダの屋台は、夜市の端にある。焼き栗より静かで、温かい乳より暗い場所。

 客を呼び込む声は出さない。

 眠りたい人間は、大声で呼ばれると逃げる。

 そういうものだ。

 だからエッダは、湯を沸かし、茶葉を並べ、必要な者が来るのを待つ。


 その夜。


 白銀の列車が町の外れに現れた。


   ◇


 最初、エッダは目を細めた。

 街道宿場に、列車。

 おかしな組み合わせだった。

 梟の灯に来るのは、馬車、徒歩、荷車、たまに騎馬の早馬。線路など、この町の者はほとんど気にしない。

 なのに、町の外れには銀色の大きな車体が静かに停まっている。

 音も少ない。

 煙もない。

 ただ、大きな窓の向こうに、暖かすぎない灯りが見えた。

 宿屋ではない。馬車でもない。貴族の客室を、そのまま道の上へ置いたような妙なものだった。

「変なものが来たねえ」

 エッダが呟くと、隣の焼き栗屋が笑った。

「婆さん、見たか。あれ、走る部屋だぞ」

「部屋が走るなら、宿屋は困るね」

「宿屋どころか、馬も困る」

 焼き栗屋は栗を揺すり、ぱち、と殻を弾けさせた。

 その匂いに誘われるようにして、銀色の列車から一行が降りてきた。

 まず黒い騎士。

 背が高く、夜風を敵のように見ている。

 次に、外套に包まれた令嬢。

 歩き方はゆっくりで、顔はすでに少し眠そうだった。

 その後ろに、料理人らしき男。

 焼き栗の袋を見た瞬間、買う量を決めた顔をした。

 最後に、若い男。

 灯りや屋台の位置を見て、何かを覚えている。

 妙な一団だった。

 だが、悪い客ではなさそうだった。

 夜市で声を張らない。

 やたら歩き回らない。

 灯りを眩しがり、湯気を見て、焼き栗の匂いで少し足を止める。

 夜の宿場の扱いを、最初から少し分かっているような客だった。

 令嬢がエッダの屋台の前に来た時、エッダはすぐに分かった。

 この子は、眠る茶を探しに来た。

 遊びに来た顔ではない。

 薬効を求める顔でもない。

 泣いて眠れない者の顔でもない。

 ただ、寝る前の時間を少しよくしたい者の顔だった。

「眠る茶かい」

 エッダが言うと、令嬢は少し驚いた顔をした。

 驚いたあとで、すぐに納得した顔になる。

 素直な子だと思った。

 正確には、かなり面倒くさい素直さだ。


   ◇


 令嬢は、眠りたいと言った。

 だが、ただ眠ればいいという顔ではなかった。

 甘すぎるのは困る。

 目が冴えるのも困る。

 でも、寂しい味も嫌だ。

 エッダは内心で笑った。

 贅沢な注文だ。

 けれど、夜に来る客の中では、かなりまっとうな贅沢だった。

 眠る前に、寂しい味はよくない。

 それを分かっている者は、ちゃんと眠る支度をしている。

 エッダは三つの瓶を出した。

 花の香りの強い茶。

 眠り草。

 控えめな地味な茶。

 令嬢は、花の香りを嗅いで目を少し丸くした。

 気に入ったのだろう。

 けれど、料理人がすぐに切った。

「寝る前にはうるさい」

 良い鼻だった。

 エッダは少しだけ感心した。

 この男は、茶を専門にしているわけではない。だが、食べるものと、食べる人間の時間を見ている。

 眠る前には、眠る前の味がある。

 それを知っている料理人は、悪くない。

 次に眠り草。

 令嬢は、背筋を伸ばされる香りだと言った。

 妙な表現だった。

 だが、分かる。

 眠り草は、優しいだけの葉ではない。湯だけで飲めば少し青い。体の中のざわつきを落とす代わりに、舌の奥へ草の輪郭を残す。

 最後に地味な茶。

 令嬢は、それを寝室の壁のようだと言った。

 エッダは笑いそうになった。

 この子は、茶を味ではなく部屋で考える。

 香りを家具みたいに見ている。

 貴族の令嬢らしいと言えば、そうなのかもしれない。

 だが、それだけではない。

 あの子は、自分の眠る場所を大事にしている。

 だから、眠る前の味にも部屋を求める。

 エッダは、眠り草を少し、地味な茶を少し、花の欠片をほんの少しだけ混ぜた。

 主張しすぎないように。

 寂しくなりすぎないように。

 夜が、夜のまま終わるように。

 令嬢はひと口飲んで、すぐに美味しいとは言わなかった。

 それも良かった。

 すぐに好きになる茶ではない。

 毎晩少しずつ仲良くなる茶だ。

 その言葉を聞いて、エッダはその客を少し気に入った。

「眠るために贅沢するのは、悪くない」

 そう言ったら、令嬢はたいへん真面目な顔で頷いた。

 ああ、とエッダは思った。

 この子は、贅沢が好きなのではない。


 心地よく眠れる場所が好きなのだ。


   ◇


 一行は長居しなかった。

 黒い騎士が、令嬢の外套を直す。夜風が首元へ入らないように、指先だけで隙間を消す。

 あれは慣れている。

 ただ守るだけではない。

 冷える前に守る。

 令嬢が寒いと言う前に、夜風を止める。

 エッダはそれを見て、少しだけ目を細めた。

 よい番犬だ。

 そして、よい部屋つきの番人だ。

 料理人は茶葉を受け取り、すぐに使う顔をした。

 若い男は帳面を出しかけて、やめた。

 それもよい。

 寝る前に、文字を追いすぎると頭が起きる。

 あの一行は、妙なところでちゃんと夜を分かっている。

 白銀の列車へ戻っていく背中を、エッダは湯気越しに見送った。

 扉が閉まる。

 夜風が切れる。

 ランタンの灯りだけが、車体の銀色に薄く映る。

 列車の窓の向こうで、令嬢が右側のソファへ沈んだのが見えた。

 あそこが、あの子の場所なのだろう。

 黒い騎士が膝掛けを持ってくる。

 料理人が茶を淹れる。

 若い男が灯りを落とす。

 窓越しなのに、だいたい分かった。

 なぜなら、みんな同じ方向へ動いていたからだ。


 あの子を眠らせる方向へ。


 エッダは、自分の鍋へ視線を戻した。

 屋台には、また別の客が来る。

 冷えた手をこすっている荷運び人。

 眠れないほど足が痛い巡礼者。

 明日の峠越えを考えている御者。

 夜はまだ少し残っている。

 エッダは茶を注ぎ、湯気を渡した。

 それでも時々、銀色の列車の窓を見てしまった。


   ◇


 しばらくして、白銀列車の窓の灯りがさらに落ちた。

 中の様子は、前よりぼんやりした。

 けれど、令嬢がまだ右ソファにいることは分かった。

 手には白いカップ。

 すぐ近くに、小さな皿。

 焼き栗だろう。

 料理人が少し離れて腕を組み、黒い騎士は後ろ斜めに立っている。

 若い男は帳面を閉じていた。

 よい判断だ。

 あの時間に帳面を開くと、眠れるものも眠れない。

 令嬢がカップを持つ。

 少し飲む。

 焼き栗を食べる。

 また少し飲む。

 それから、カップを小卓へ置いた。

 中身は、まだ残っているように見えた。

 エッダは小さく笑った。

 飲み切らなかったか。

 それでいい。


 眠る茶は、空にするためのものではない。


 眠くなるところまで連れていくものだ。


 黒い騎士が膝掛けを直した。

 料理人はカップを下げない。

 若い男は灯りをさらに少しだけ落とす。

 そして令嬢は、右ソファに深く沈んだ。

 半分ほど残ったカップが、小卓の上にある。

 誰も、それを失敗だと思っていない。

 それが良かった。

「あれは宿じゃないねえ」

 エッダは湯気へ向かって呟いた。

 隣の焼き栗屋が、片付けながら聞き返す。

「何がだい、婆さん」

「あの銀色のやつさ」

「列車だろ」

「列車でもないよ。あれは、部屋だ」

「走る部屋か」

「眠れる部屋だね」

 焼き栗屋は、よく分からない顔をした。

 それでいい。

 エッダにも、正確な名前は分からなかった。

 宿ではない。

 馬車でもない。

 客室でもない。

 けれど、あの令嬢にとっては、どの宿よりよく眠れる場所なのだろう。

 窓の向こうで、黒い騎士がまた膝掛けを直した。

 令嬢はもう目を閉じているようだった。

 カップは、まだ半分残っている。


 その残り方まで、よい眠りの一部に見えた。


   ◇


 夜が深くなると、梟の灯のランタンは一つずつ消えていく。

 焼き栗の煙が薄くなり、温かい乳の鍋が下ろされ、馬小屋の戸が閉まる。

 エッダの屋台も、最後の湯を捨てる時間になった。

 小瓶を布で拭き、茶葉を箱へ戻す。

 湯気が消えると、夜は少しだけ冷たくなる。

 それでも、あの銀色の列車の窓には、まだやわらかい灯りが残っていた。

 強い灯りではない。

 誰かが起きて作業する灯りでもない。

 眠っている人間を、見失わないための灯り。

 エッダは屋台の布を下ろしながら、もう一度だけその窓を見た。

 あの子は、今夜きっとよく眠る。

 それでいい。

 茶は、そのために渡したのだから。


   ◇


 翌朝。

 梟の灯は、まだ半分眠っていた。

 閉じた雨戸。冷えた石畳。馬の鼻息。朝の薄い灰色。

 白銀列車は、町の外れで静かに出発の支度をしていた。

 エッダは屋台の布を畳みながら、それを見た。

 昨日の令嬢は、窓の向こうにいた。

 少し眠そうだが、悪い眠そうさではない。

 よく眠った者の、まだ少し夢を持っている顔だった。

 小卓には、白いカップがあった。

 中身は見えない。

 けれど、エッダにはなんとなく分かった。

 残った茶は、きっと朝のどこかで温め直されるのだろう。

 無駄にされるのではなく、夜の続きとして。

 銀色の列車が、ゆっくり動き出す。

 がたん。

 ごとん。

 梟の灯の朝には、少し珍しい音だった。

 エッダは手を振らなかった。

 大きな別れをする町ではない。

 ここは、旅人が眠り、また出ていく場所だ。

 だから、ただ湯気のない手を少しだけ上げた。

「また眠れない夜が来たら、寄りな」

 声は届かない。

 それでよかった。

 夜の言葉は、大きく届かなくてもよい。

 白銀列車は、古い街道の外れから静かに離れていく。

 宿ではない。

 馬車でもない。

 けれど、あの娘にとっては、どの宿よりよく眠れる部屋。

 エッダはそう思いながら、茶葉の箱を抱え直した。

 梟の灯は、朝の顔に戻っていく。

 ランタンは消え、屋台は畳まれ、旅人たちはまた街道へ出る。

 そして夜になれば、また灯りがともる。


 眠る前の人間たちのために。


 小さな茶と、少しの甘さと、熱すぎない湯気を用意して。

夜の駅から見た白銀列車でした。

眠る前の一杯が、また少しだけ車内の習慣になります。

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