048 眠り草茶はミルクで丸くして、半分残すくらいがちょうどいいですわ
夜だけ開く薬草茶屋台で、
眠り草茶を買いました。
香りは静か。
少し青くて、
少し真面目。
そのまま飲むには、
少しだけ背筋が伸びすぎます。
白銀列車へ戻ると、夜風は扉の向こうへ遠ざかった。
外套を脱いだ肩に、ラウンジの空気がゆっくり触れる。暖かすぎない。けれど、外で少し冷えた首元が、ほっと息をつくくらいには優しい。
小卓の上には、焼き栗の紙袋。厨房側には、薬草茶屋台で買った小さな袋。窓の外には、梟の灯のランタンがぽつぽつと揺れている。
眠る前の町から、眠る前のものだけを持ち帰ってきた。
私は右ソファへ沈みながら、少しだけ満足した。
「……今夜のうちに飲むべきですわね」
アベルが茶葉の袋を開ける。
「だろ。ここは何泊もする場所じゃねえ。夜のものは、夜のうちに使う方がいい」
「梟の灯は、長居する町ではなく、眠るために寄る町ですものね」
ノアが窓側の灯りを少し落とした。
「外のランタンが見えるくらいは残します。真っ暗にすると、ただ寝るだけになりますし」
「それは困りますわ。今夜は、眠るまでの時間を少し楽しみたいのです」
「主役はお茶ですか?」
「いいえ」
私は小卓の上の焼き栗を見た。
「今夜の主役は、眠気ですわ」
ノアが少し笑った。
「飲み物より上に来ましたね、眠気」
「当然です。眠るためのお茶なのですから」
ルークが薄い膝掛けを私の膝へかけた。
「お嬢様、まずお体を冷やさぬように。茶が整う前に冷えては、本末転倒でございます」
「夜風の後に膝掛け。完璧な順番ですわ」
「今夜は、少しずつお休みへ向かう流れがよろしいかと」
その言い方が、とても良かった。
少しずつ。急がない。けれど、止まらない。
梟の灯そのものが、そういう町だった。
◇
アベルが茶葉を小皿へ出した。
眠り草茶。控えめな茶葉。花の欠片。緑というより、少し灰色がかった青。乾いた草の匂いがして、そこに小さな花の香りがほんの少しだけ混じっている。
派手ではない。甘くもない。けれど、夜の奥へ静かに下りていきそうな香りだった。
「……やはり真面目ですわね」
私は小皿を見つめて言った。
「寝る前に騒がないところは良いのですが、このままだと少し姿勢を正されます」
ノアが小さく頷く。
「眠る前に姿勢を正されると、横になりにくいですね」
「ええ。私はそろそろ、溶ける方向へ向かいたいのです」
寝る前に必要なのは、反省ではない。
決意でもない。
ゆっくりほどけることだ。
アベルは、まず少量だけ湯を注いだ。
湯気は細い。熱すぎない。老婆が言っていた通り、煮立てるような湯ではなく、静かに茶葉を起こすような温度だった。
茶葉がゆっくり開く。湯の色が、薄い琥珀へ変わっていく。香りは、外で嗅いだ時より少し青い。
草。乾いた葉。ほんの少しだけ花。それから、眠る前の部屋に似合う、低い香り。
「まず、こいつの硬さを少しだけ見ておく」
アベルが小さなカップを私へ渡した。
「全部を丸める前に、どこが残るか知っておいた方がいい」
「寝る前の飲み物なのに、下準備が靴の革を見る職人みたいですわね」
「似たようなもんだ。扱いを間違えると、飲み物の方が主張する」
「今夜は、お茶に勝たれては困ります」
私はカップを両手で包み、ひと口だけ飲んだ。
青い。
苦いほどではない。でも、舌の奥に草の輪郭が残る。花の香りは最後に少しだけ来るが、それよりも眠り草の真面目さが前にいる。
体を眠らせる前に、一度まっすぐ座らせようとしてくる味だった。
「悪くありません。ただ、このままでは眠る前に礼儀正しくなりすぎますわ」
「そこが分かればいい」
アベルは頷き、小鍋の方へ戻った。
◇
小鍋の中で、ミルクが静かに温まっていた。
沸かさない。白い表面が、ゆっくり揺れるだけ。その匂いがラウンジに広がると、さっきまで真面目だった茶葉の香りが、少しだけ肩の力を抜いたように感じた。
「……もう丸くなり始めていますわね」
「まだ混ぜてねえ」
「匂いの時点で、態度が変わりました」
「茶葉の態度を見るな」
「見えますもの」
眠り草茶は、湯だけだと少し背筋を伸ばす。ミルクの香りが近づくと、肩の力を抜く。そういう味なのだと思う。
アベルは温めたミルクを、さっきの茶へ少しずつ加えた。
琥珀色が淡く濁る。強い白ではない。夜の灯りに合う、やわらかい色だった。
そこへ、蜂蜜をほんの少し。スプーンの先に乗る程度。
「少ないですわね」
「寝る前だ。甘くしすぎると、口が起きる」
「今夜は、口にも寝る支度をしていただきたいですわ」
「なら、このくらいでいい」
アベルは軽く混ぜ、白い陶器のカップへ注いだ。
ガラス器ではない。光を見せるための器でもない。手のひらに収まり、温度を静かに保つための、厚みのあるカップだった。
「今日はガラスではありませんのね」
「寝る前に光らせる必要はない。手を温めるなら、こっちだ」
「器も眠る方向ですわね」
「そういうことだ」
私はカップを受け取った。
温かい。熱々ではない。指先がほっとする程度の温度だった。
急いで飲まなくてもよい温度。少しぬるくなっても、きっと悪くない温度。
それだけで、かなり正しい気がした。
◇
ひと口飲む。
湯だけで飲んだ時の青さが、まだ少し残っている。でも、さっきとは違う。草の輪郭が、ミルクでやわらかくなっていた。
苦みは奥へ下がり、蜂蜜の甘さがほんの少しだけ舌に残る。花の香りは、強く主張せず、最後にそっと顔を出した。
派手ではない。
でも、寂しくもない。
眠る前に、ちょうどよく一日を小さく畳んでくれる味だった。
「……丸くなりましたわ」
私はカップを見つめながら言った。
アベルが腕を組む。
「まだ硬いか?」
「少しだけ。でも、この少しは残してもよい気がします」
「全部消すと、ただの甘いミルクになるからな」
「ええ。眠り草茶が、ちゃんと夜の役目を残しています」
ノアが帳面を開きかけて、すぐ閉じた。
「書くと起きそうなので、今は覚えるだけにします」
「よい判断です。眠る前に文字が増えると、頭が働いてしまいます」
「今日は、眠気の邪魔をしない方がいいですね」
「ええ。今夜は、味を覚えるより、体をほどく方が大事ですわ」
私はもう一口飲んだ。
温かい。少しぬるい。甘すぎない。眠り草茶の真面目さは、ミルクの中で静かに丸くなっている。
飲んだ瞬間に声が出るような美味しさではない。むしろ、声が少し減っていく味だった。
それが、とてもよかった。
ルークが膝掛けを整えながら、静かに言った。
「お嬢様、今夜は飲み切る必要はございません」
「先に許可されると、安心しますわね」
「残りは、必要であれば明日の朝に温め直せばよろしいかと」
「明日の朝」
その言葉が、思った以上に心地よかった。
今夜で終わらせなくていい。残してもいい。続きがあっていい。
眠る前には、そのくらいがちょうどいいのかもしれない。
◇
アベルが焼き栗を一つ、半分に割って小皿へ置いた。
「一つだけですのね」
「半分ずつ食え。一口で終わると寂しい。丸ごと二つだと重い」
「たいへん正しい調整ですわ。寝る前の欲望を、かなりよく理解しています」
「お嬢様の欲望が分かりやすいだけだ」
失礼である。
でも、焼き栗は正しかった。
私は半分だけ口に入れる。
ほくり、とほどけた。
強い甘さはない。けれど、ミルクティーのあとに食べると、栗の甘みがほんの少しだけ丸く広がる。
噛む回数も多くない。でも、ちゃんと夜の楽しみになる。
「……これは合いますわ」
「だろ」
「食べたというより、眠る前に小さな句読点を置いた感じです」
「分かるような、分からねえようなことを言うな」
私はもう一口、ミルクティーを飲んだ。
少しぬるくなっている。そのぬるさが、さらに良い。
熱い飲み物は、飲む時に少し身構える。冷たい飲み物は、体の中を起こす。でも、このミルクティーは違う。
身構えない。
起こさない。
ただ、手のひらと喉を通って、体の内側を静かに夜へ寄せていく。
「……ぬるくなってからが、良いですわね」
ノアが小さく頷く。
「急いで飲まなくていい味ですね」
「それです。急げと言われる飲み物では、眠れませんもの」
「たしかに」
カップを持つ手から、少しずつ力が抜けていく。
もう味を追いかけるより、眠気の方が前へ出てきていた。
◇
ラウンジの灯りが、もう一段静かになった。
ノアが調整したらしい。窓の外には、梟の灯のランタンが見える。薬草茶屋台のあたりにも、まだ小さな火が残っていた。
老婆は、もう店じまいを始めているのだろうか。
声は届かない。でも、あの屋台が夜の終わりを知っているように見える。
私はカップを両手で包んだまま、右ソファへ背を預けた。
深く沈む。膝掛けが軽い。足元は温かい。暖炉は強すぎない。車輪の音はない。
白銀列車は、走っていないのに、ちゃんと旅の途中にいる。
それが不思議に心地よかった。
「……止まっている夜も、よいものですわね」
ノアが窓の方を見た。
「普段は走っている音がありますからね。今夜は、外の灯りが少し近く感じます」
「でも外ではありません。そこが大事ですわ」
「外の夜は少し冷えますからね」
「ええ。窓越しの夜が、ちょうどいいのです」
ルークが静かに頷く。
「今夜は、この距離がよろしいかと」
「ええ」
私はもう一口飲んだ。
少しだけ。
カップの中身は、まだ半分ほど残っている。
けれど、不思議と焦らなかった。もったいないとも思わない。むしろ、残っていることが安心だった。
飲み切らなくてもいい。
眠くなったら、そこで終わっていい。
そう思うと、肩の力が抜けた。
「……これは、半分残すくらいがちょうどよいのかもしれませんわ」
アベルが小さく笑う。
「料理人としては珍しいことを言うが、今夜はそれでいい」
「よろしいのです?」
「これは食事じゃない。眠る準備だ」
その言葉は、かなり強かった。
食事ではない。
眠る準備。
だから、皿が空になることや、カップが空になることだけが正解ではない。
私はカップを小卓へ置いた。
まだ半分ほど残っている。
淡いミルクティー。
眠り草茶の青さは、もう湯気の奥に隠れていた。
◇
「お嬢様」
ルークの声がした。
「眠くなっておられます」
「まだ、半分ほど残っていますわ」
「眠れましたら、それが正解でございます」
完璧な答えだった。
私は何か言おうとして、やめた。
まぶたが少し重い。右ソファの背もたれが、いつもより深く感じる。膝掛けが胸元へ少し引き上げられる。
ルークの手だ。
ノアは帳面を閉じていた。アベルは焼き栗の小皿を下げたが、カップには触れない。
白銀列車全体が、私を眠らせる方向へ静かに動いている。
大げさではなく、本当にそう感じた。
暖炉が、ぱちり、と鳴る。
窓の外では、薬草茶屋台の灯りがまだ小さく残っていた。
あのお茶は、ちゃんと眠るための味になった。
強すぎず。
寂しすぎず。
飲み切らせようともせず。
ただ、眠くなるところまで付き合ってくれる味。
「……残りは」
私はカップを見た。
半分ほど残っている。白い陶器の中で、淡い色が静かに揺れていた。
「明日でいいですわ」
「承知しました」
ルークの声が、少し遠い。
明日でいい。
その言葉を自分で言った瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。
終わらせなくていい。飲み切らなくていい。眠くなったら、そこで今夜を畳んでいい。
私は右ソファに体を預けた。
「私室へお戻りになりますか」
ルークが小さく尋ねた。
私は少し考えた。
考えたつもりだった。
でも、答えはほとんど息だった。
「……少しだけ、ここで」
「承知しました」
膝掛けが、もう一度整えられる。
ラウンジの灯りが、さらに少しだけ落ちる。
窓の外で、ランタンが小さく揺れている。
白銀列車は、まだ走らない。
今はただ、静かに停まっている。
その静けさの中で、私はゆっくり目を閉じた。
半分残ったミルクティーの温度が、夜の中で少しずつほどけていった。
眠り草茶をミルクで丸くする回でした。
湯だけだと少し青くて真面目。
ミルクと蜂蜜で、
だいぶ眠れる味になりました。
飲み切らなくてもいい。
眠くなったら、
そこで正解です。
次回、
薬草茶屋台の老婆から見た白銀列車です。




