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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第5章 深夜のミルクティー編 〜夜間停車駅・梟の灯〜

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046 梟の灯の夜市は、焼き栗の匂いまで眠そうですわ

海辺の町を出ました。


冷たい果実水も、

生牡蠣も、

冷製スープも堪能しましたので。


次は少し静かな夜です。


たぶん、

眠くなる場所ですわ。

 マリーノの青が、窓の端から消えていった。


 白い壁も、帆船も、港の声も、少しずつ遠くなる。ガラス器は棚の中。柑橘は厨房。麻ラグは足元。

 白銀列車は、冷たい日々を抱えたまま、静かに次の線路へ入っていった。

「……少し暗くなってきましたわね」

 私は右ソファに沈みながら、窓の外を見た。

 夕暮れではない。

 もう夜に近い。

 窓の向こうには、低い丘と細い森が流れている。遠くの空は濃い藍色で、ところどころに小さな灯りが見えた。

 海辺の白い光とは、まったく違う。

 まぶしくない。

 熱くない。

 強くない。


 ただ、少し眠い。


「お嬢様、まもなく街道沿いの宿場町へ入ります」

 ルークが後ろ斜めから静かに告げた。

「夜に起きる町ですのね。昼の港とは、ずいぶん違いますわ」

「夜だけ灯りが増える、小さな宿場町でございます」

 ノアが窓側で帳面を見ながら言う。

「梟の灯、という名前みたいです。馬車旅の人、徒歩の商人、巡礼者が、夜を越す前に寄る場所ですね」

「梟らしい町ですわ。眠そうなのに、夜だけ目を開ける感じがします」

「宿場としては理にかなってます。昼に通って、夜に休む場所ですから」

「では、こちらも休む準備で臨むべきですわね」

 私はもう少し右ソファへ沈んだ。

 冷たい町を出たせいか、体が少し別のものを欲しがっている気がする。

 氷ではない。

 柑橘でもない。

 生牡蠣でもない。

 もう少し、ぬるくて、甘くて、夜に向いたもの。

「……温かいお茶が合いそうですわ」

 私が呟くと、アベルが厨房側から顔を出した。

「着く前から茶の気配を嗅ぐな」

「景色がそう言っております。白い港のあとは、暗い宿場で温かいものを飲むべきです」

「便利な景色だな」

「旅先の景色は、だいたい何かを提案してきますわ」

 アベルは小さく笑った。

「夜の宿場なら、茶葉くらいあるだろ。ミルクに合うやつがあれば拾っておけ」

 茶葉。

 ミルク。

 その二つの言葉が、夜に静かに並んだ。

 眠る前に飲む茶。

 甘すぎない、温かい茶。


 それは、たいへん良い響きだった。


   ◇


 白銀列車がゆっくり速度を落とした。

 がたん。

 ごとん。

 車輪の音が、夜の空気に少しだけ沈む。

 やがて、窓の外に小さな灯りが並び始めた。

 明るい町ではない。

 大きな町でもない。

 黒い屋根の低い家があり、その軒先にランタンが吊るされている。石畳は古く、ところどころ濡れたように光っていた。

 白銀列車は、町の外れへ静かに滑り込んだ。

 線路の先に、古い街道が交わっている。そこへ、夜だけ小さな屋台が並ぶらしい。

 焼き栗の屋台。

 温かい乳を売る屋台。

 薬草茶らしき小さな屋台。

 荷物を抱えた商人。

 馬に毛布をかける御者。

 背中を丸めて椀を両手で包む巡礼者。

 声はあるけれど、港のようには跳ねない。どの声も、夜に合わせて少し低かった。

「……静かですわね」

 私は窓に近づいて言った。

 マリーノの港は、昼も朝も元気だった。

 ここは違う。

 人はいる。

 灯りもある。

 けれど、みんな少し眠そうに見える。

 ノアが窓の外を見ながら言った。

「長く遊ぶ場所じゃなくて、眠る前に一息つく場所ですね。屋台も、食事というより休憩用が多そうです」

「つまり、寝る前に寄る町ですわ。とても良いです」

「ティアさん向きですね」

「ええ。全力で起きている町より、今はずっとありがたいです」

 私はそう言って、立ち上がった。

 ルークがすぐに薄手の外套を差し出す。

「外へ出られるのでしたら、短時間でお願いいたします」

「分かっています。今の私は、夜市を制覇したいわけではありません」

「お茶と、軽い甘味の確認でございますね」

「そこまで見抜かれていますのね」

「お嬢様が窓の外を見てから、焼き栗の屋台を三度ご覧になりましたので」

 見られていた。

 たいへん優秀で、少し困る。

 異論はない。

 夜は見たい。

 でも長く歩き回る気はない。


 今の私は、もう半分くらい右ソファに帰りたい。


   ◇


 扉が開くと、夜の空気が入ってきた。


 海の匂いではない。

 雨の匂いでもない。

 少し冷えた石。

 ランタンの油。

 煤。

 焼き栗の甘い香り。

 それから、どこか薬草の青い匂い。

「……これは」

 私は一歩だけ外へ出た。

 夜風が首元に触れる。

 冷たい。

 けれど、冬の冷たさではない。体を刺すようなものではなく、眠くなった頬をそっと冷ます程度の冷たさだった。

 悪くない。

 ただし、長くはいらない。

「眠いまま、少しだけ目が覚めますわね」

 ノアが隣で頷く。

「寝る前に外の空気を吸う感じですね。起きるためじゃなくて、眠る前に切り替えるための冷たさです」

「それですわ。目覚ましではなく、区切りです」

 ランタンの灯りが石畳に揺れている。

 昼の光とは違う。白くない。眩しくない。小さくて、少し煤けていて、でも近くにあると安心する灯りだった。

 街道沿いには、古い木の看板がいくつか立っている。

 宿屋。

 馬小屋。

 水場。

 夜市の屋台。

 旅人たちは大声を出さない。御者は馬の首を撫で、荷運びの男は肩の荷を下ろし、巡礼者は小さな椀を両手で包んでいた。


 町全体が、眠る前の待合室みたいだった。


「港ほど強くありませんわね」

「光も音も匂いも、全部少し抑えめです」

 ノアが周囲を見ながら言う。

「町全体が夜用に調整されてますね」

「白銀列車の仲間みたいですわ」

「町を仲間扱いしました?」

「方向性が近いのです。強すぎるものを少し弱めて、眠れるようにしているところが」

 ルークが後ろから静かに言う。

「長居なさる場所ではなさそうですが、少し受け取るにはよろしいかと」

「同感ですわ」

 長く外にいるより、持ち帰るものを選んで、車内で楽しむ方がよい。

 その点は、マリーノと同じだった。


   ◇


 焼き栗の屋台の前を通ると、甘く焦げた匂いがした。

 栗の殻が、小さく弾ける音がする。

 ぱち。

 ぱち。

 暖炉とは違う、小さな夜の音だった。

「これは、今すぐ全部食べるものではありませんわね」

 私は屋台の前で足を止めた。

 アベルが、いつの間にか隣で栗を見ている。

「持って帰って、一つか二つつまむやつだな」

「やはり。寝る前に、袋から少しだけ取り出すのが似合います」

「少しだけで止まるならな」

「そこは白銀列車の総力で止めてくださいませ」

「他力本願がすごいな」

 アベルが屋台の主人と短く話し、紙袋に入った焼き栗を受け取った。

 紙袋の中から、ほのかに温かい香りが上がる。

 夜に持ち帰るには、ちょうどいい温度だった。

 その先に、小さな薬草茶の屋台が見えた。

 棚には、茶葉の小瓶がいくつも並んでいる。灯りは控えめで、屋台の奥には老婆が一人座っていた。

 白髪を布でまとめ、分厚い肩掛けをしている。

 声を張って客を呼ぶわけでもない。

 ただ、湯気の立つ小さな鍋を見守っている。


 あの屋台だけ、夜の奥に少し沈んでいるように見えた。


「……お茶ですわ」

 私は足を止めた。

 ノアが小瓶の並びを遠目に見る。

「薬草茶ですね。香りの種類が多そうですけど、屋台の雰囲気はかなり静かです」

「眠るためのお茶がありそうですわね」

「今から見ますか?」

 私は少し考えた。

 眠い。

 興味はある。

 夜風は少し冷たい。

 でも、このまま場所だけ覚えて帰ると、明日また来ることになる。

 この宿場は、何泊もする場所ではない。

 夜に寄って、夜のものを受け取って、眠る場所だ。

 ならば。

「少しだけ、見ます」

 ルークがすぐに外套の襟元を直した。

「長く選びすぎないことを条件に」

「分かっていますわ。今夜の目的は、研究ではなく、眠る準備です」

 アベルが焼き栗の袋を持ち直す。

「茶葉を見るなら、ミルクに合うかも見る。香りだけで選ぶなよ」

「ええ。寝る前に香りだけが勝ち続けるお茶は困りますもの」

 薬草茶の老婆が、こちらに気づいたのか、少しだけ目を上げた。

 声はかけてこない。

 ただ、湯気の向こうで小さく笑ったように見えた。

 その距離感が、悪くなかった。

 私は小さく息を吐いた。

 夜風で少し冷えた指先に、焼き栗の袋の温かさが近い。

 ランタンは低く揺れている。

 湯気は細く上がっている。


「では、あの屋台で、眠るためのお茶を選びましょう」


 白銀列車は、すぐ後ろで静かに待っている。

 今夜はまだ、帰らない。

 けれど、遠くへも行かない。

 梟の灯の夜市は、眠る前に必要なものだけを、静かに並べていた。

夜だけ灯る宿場町、梟の灯に着きました。

焼き栗と夜風と、薬草茶屋台の湯気。


眠る前に必要なものだけを、少しだけ見に行きます。

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