044 ガラス器を包んで、次の海風まで取っておきますわ
マリーノでは、
冷たいものの正解をたくさん覚えました。
果実水。
生牡蠣。
冷製スープ。
そして、
ガラス器です。
朝のマリーノは、まだ少し涼しかった。
窓の外では、白い壁の町が淡い光を受けている。昼のようにまぶしすぎない。夜のように沈みすぎてもいない。
海は青く、帆船はゆっくり揺れていて、港の声もまだ少し遠い。
出発前の朝としては、なかなか良い景色だった。
「……今日は、少し名残惜しいですわね」
私は右ソファに座り、ガラスのグラスで果実水を飲みながら言った。
淡い黄色。薄い柑橘。小さな氷。もう何度も見た組み合わせなのに、ガラス器に入っているだけで、やはり少し特別に見える。
からん。
氷が鳴る。
この音にも慣れてきた。
ノアが窓側で帳面を閉じる。
「マリーノ、結構気に入りました?」
「ええ」
「暑いのに?」
「暑いからこそ、冷たいものが美味しかったのです」
「階段も多かったですよ」
「階段のあとに足を伸ばす快適を覚えました」
「潮風、べたつきましたよ」
「冷たい布と果実水が染みました」
「日差し、眩しかったですよ」
「薄いカーテンで昼寝できました」
ノアは少し考えてから、笑った。
「全部、車内快適に変換されてますね」
「それが白銀列車ですわ」
外の不快を、中で快適に変える。
マリーノはその練習に、たいへん向いていた。美しいけれど強い町。だからこそ、白銀列車の冷たい快適がよく映えたのである。
◇
ガラス器は、小卓の上に並べられていた。
深めの器。果実水用のグラス。平皿。それぞれが洗われ、よく乾かされ、柔らかい布の上で光っている。
ルークはその横に、緩衝用の薄い布を何種類か用意していた。生成り色、薄い青、少し厚手の白。どれもガラスの間に挟むための布らしい。
「ずいぶん丁寧ですわね」
「割れ物ですので」
「そうですわね」
「それに、今後も使うものです」
今後も。
その言葉が良かった。
ガラス器は、マリーノで買った土産ではない。
白銀列車の生活道具になったのだ。
アベルが厨房側から深めの器を一つ持ち上げた。
「これ、スープ用の棚を分けた方がいいな」
「なぜですの?」
「果実水のグラスと重ねると危ない。あと、冷やす前に出しやすい場所に置きたい」
「冷やす前に出しやすい場所」
「使う時にもたつくと、料理がぬるくなる」
なるほど。
冷たい料理は、出す前から始まっているらしい。器を冷やす。スープを冷やす。盛る。すぐ出す。その流れが大事なのだろう。
ノアが横から言う。
「棚の奥に冷却用の小さい魔導板を入れれば、器だけ軽く冷やせますよ」
「それは素晴らしいですわ」
「ただし冷やしすぎると結露するので、弱めですね」
「結露は困ります」
雨の土地で、湿気の怖さは学んだ。
ガラス器が曇っては台無しである。
冷たい。
でも曇らない。
綺麗。
でも扱いやすい。
快適はやはり、調整でできている。
◇
ひとつずつ、器を包んでいく。
ルークが布を敷く。ノアが冷却棚の位置を確認する。アベルが使う頻度の高い器を手前に分ける。
私は右ソファから指示を出す。
たいへん良い分担だった。
「お嬢様も包まれますか」
ルークが尋ねる。
「包みたい気持ちはあります」
「では」
「でも、割ると悲しいので見守ります」
「承知しました」
正しい判断である。
私は生活を愛している。しかし、割れ物作業が得意とは限らない。見守ることも大事な役割だ。
深めの器が布に包まれる。少し青みのある縁が、最後に光って隠れた。
グラスが並ぶ。平皿が重ねられる。
その様子を見ていると、マリーノで過ごした数日が、少しずつ整理されていく気がした。
最初は、潮風がべたついた。日差しが眩しかった。石段で足が疲れた。港の声も強かった。
けれど、冷たい果実水があった。
氷の上の生牡蠣があった。
冷製トマトスープがあった。
ガラス器があった。
薄いカーテン越しの昼寝も、夜の少量スープもあった。
全部、白銀列車の中でちょうどよくなった。
「……良い滞在でしたわね」
私が呟くと、ノアが少し笑った。
「暑かったのに?」
「暑かったからこそ、冷たいものが美味しかったのです」
「条件付きの高評価ですね」
「条件は大事ですわ」
細かいことはよい。
良い滞在だったことに変わりはない。
◇
こんこん、と展望車側の扉が鳴った。
ルークが顔を上げる。
「来客です」
「どなた?」
「港の女船長かと」
「まあ」
朝から声が大きい気配がする。まだ扉の向こうなのに、なぜか分かる。
「展望車までお願いします」
「承知しました」
扉が開くと、朝の潮の匂いが少しだけ近づいた。
女船長は、大きな籠を片手に立っていた。赤茶色の髪をざっくり結び、今日も袖をまくっている。
朝なのに、すでに港を三周くらいしてきた顔だった。
「出るんだって?」
「ええ。そろそろ次へ」
「早いねえ。まだ食わせたいものがあったんだけどね」
「胃袋には限りがありますの」
「そのわりに、よく食べてたじゃないか」
否定はできない。
女船長は豪快に笑い、籠をアベルへ渡した。
「持っていきな。柑橘と、少しだけ干した白身魚。冷たい料理にも使える」
アベルが中を見る。
表情が少し変わった。
「いいやつだな」
「当然。変なの渡したら、あんたに見抜かれるだろ」
「分かってるじゃねえか」
「そりゃこっちの台詞だよ。うちの海鮮を一目で見抜く料理人なんて、そうそういない」
女船長は楽しそうだった。
アベルも、少しだけ楽しそうだった。
料理人と海の人間の会話は短い。でも、かなり通じているらしい。
女船長は次に、ルークを見た。
「で、黒い騎士さん。今日は日差し弱いけど、それでも姫さんは外に出さないのかい?」
「必要がなければ」
「徹底してるねえ」
「お嬢様の快適が最優先です」
女船長は一瞬黙り、それから腹の底から笑った。
「すごいねえ、この走るホテルは。姫さんの快適のために、全員で港より忙しく動いてる」
「走るホテル」
私は少し首を傾げた。
「そう見えますの?」
「見えるさ。船より揺れない。港の宿より涼しい。厨房は下手な料理店より上。そんなもん、走るホテルだろ」
「なるほど」
外から見ると、そうなるらしい。
白銀列車は私にとって家だけれど、外の人からは走るホテルに見える。
それは少し面白かった。
「悪くない呼び名ですわね」
「だろ?」
女船長は笑った。
「次に来る時は、もっといい牡蠣を隠しておいてやるよ」
「隠すのです?」
「アベルに見つけられる前にな」
「それは難しそうですわ」
「だから面白いんだよ」
豪快である。
でも、嫌いではない。
◇
出発の準備が整った。
女船長は港へ戻り、遠くから大きく手を振っている。声はたぶん出している。
防音ガラス越しなので、内容は分からない。
それでちょうどよかった。
ルークがガラス器の棚を最後に確認する。
「固定、完了しております」
ノアが冷却用の魔導板を閉じる。
「弱冷設定も入れました。曇らない程度です」
アベルは籠の中身を厨房へ運びながら言う。
「柑橘は使える。干し魚も悪くない。次の冷たい料理にも回せるな」
「次の海風まで取っておくのでは?」
「一部はな。食材は使ってなんぼだ」
「それもそうですわね」
残すもの。
使うもの。
その両方があるから、旅の記憶は生活になるのだろう。
ガラス器は棚へ。
柑橘は厨房へ。
薄いカーテンは昼用設定として畳まれ、麻ラグはそのまま足元に残っている。
マリーノで増えたものが、白銀列車の中へ自然に収まっていく。
りぃん。
澄んだベルの音がした。
白銀列車が、ゆっくり動き出す。
がたん。
ごとん。
港町マリーノが、窓の外で少しずつ流れていく。
白い壁。
青い海。
石段。
帆船。
魚市場。
女船長の船。
それから、光る水面。
どれも眩しい。
けれど、今日は少し名残惜しい。
◇
私は右ソファに身を預け、最後の果実水を飲んだ。
ガラス器はもう棚にしまわれているので、これはいつものグラスだ。
少しだけ物足りない。
それくらいには、ガラス器が馴染んでいた。
「次からは、普通の器だと少し寂しくなりそうですわね」
ノアが笑う。
「完全に生活レベルが上がりましたね」
「ええ。食卓が少し涼しくなりました」
「夏用食器、正式採用ですか」
「もちろんです」
ルークが静かに頷く。
「夏用食器として管理いたします」
アベルが厨房側から言う。
「冷たい料理が増えるな」
「期待しています」
「ほどほどにな」
ほどほど。
それは難しい。
けれど、冷たいものは冷えすぎてもいけない。夜の少量スープで学んだことだ。
マリーノは、冷たい快適にも加減があると教えてくれた。
冷やす。
でも冷やしすぎない。
見せる。
でも眩しすぎない。
歩く。
でも疲れたらすぐ足を伸ばす。
白銀列車は、この町でまた少し器用になった気がする。
「……良い町でしたわ」
私は窓の外を見ながら言った。
ノアが頷く。
「暑かったですけどね」
「暑かったから、良かったのです」
「おお」
「冷たいものが、あれほど美味しくなる町は貴重ですわ」
「ティアさんらしい褒め方ですね」
その通りである。
私は町を歩き回るために旅をしているわけではない。
その土地の気候と景色を、白銀列車の中で一番心地よく味わうために旅をしている。
マリーノは、その意味でとても良い町だった。
◇
昼に近づく頃、海は少しずつ遠ざかっていた。
窓の外にはまだ青が残っている。でも、港の白い壁は小さくなり、帆船も点のようになっていく。
私は麻ラグの上へ降り、足先をさらりと動かした。
暑い土地でも、この麻ラグはよく働いた。
雨の土地で出したものが、海の町でも活躍する。
そういうつながりは少し嬉しい。
「次はどこです?」
ノアが尋ねた。
「まだ決めておりませんわ」
「珍しい」
「冷たいものは十分いただきましたから」
果実水。生牡蠣。冷製スープ。夜の小さなスープ。
これ以上冷たいものを追うと、少し体が冷えすぎるかもしれない。
次は別の気分がいい。
私は少し考えた。
「……夜の静かな場所も、悪くありませんわね」
ルークがすぐに反応する。
「夜でございますか」
「ええ。昼の白い港を見たので、次は少し暗くて、静かな場所」
「暖かいお茶が合う場所でしょうか」
「それは良いですわね」
暖かいお茶。
静かな夜。
もしかすると、ミルクティー。
冷たい日々のあとだからこそ、少し温かい夜が欲しくなる。
アベルが厨房側から言った。
「夜なら、軽い甘いもんもいるな」
「いりますわ」
「即答か」
「夜の飲み物には、何か添えるべきです」
「分かったよ」
次の欲望は、もう少し暗くて、もう少し静かで、そして少し温かい。
私は麻ラグの上で足を伸ばし、遠ざかる海を見送った。
マリーノの青は、もう少しだけ窓の端に残っている。
ガラス器は棚の中で、次の海風を待っている。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
「次の海風まで、大事にしましょう」
私はそう呟いた。
白銀列車は、青い海を背にして、静かに次の夜へ向かっていく。
がたん。
ごとん。
がたん。
ごとん。
冷たい日々の終わりに、車輪の音がゆっくり戻ってきた。
第4章『冷製スープとガラス器編』本編完結です。
潮風、
果実水、
生牡蠣、
冷製トマトスープ、
ガラス器、
薄いカーテン。
冷たい快適の章でした。
次回は閑話です。
港町の女船長から見る、
走るホテルの料理人たちです。




