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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第4章 冷製スープとガラス器編 〜海風の港町マリーノ〜

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43/84

043 海風の夜には、冷たいスープを少しだけ残しておきますわ

昼のマリーノは、

薄いカーテン越しに楽しみました。


では夜は。


少し涼しくなった海風と、

少しだけ残した冷たいスープです。

 夜のマリーノは、昼とは別の町だった。


 白く光っていた壁は、今はやわらかく沈んでいる。港には小さな灯りが点り、帆船の影が黒く揺れていた。

 昼間、あれほど強かった日差しはもうない。代わりに、窓の向こうから、涼しそうな海風の気配だけが伝わってくる。

 もちろん、白銀列車の窓は閉まっている。

 潮風は入ってこない。

 べたつきも入ってこない。

 けれど、夜の海がそこにあることは分かる。

「……夜は、だいぶ落ち着きますのね」

 私は右ソファに沈みながら呟いた。

 薄い膝掛けが、膝から足元まで軽くかかっている。毛布ほど重くない。けれど、夜の冷房と冷たい料理を楽しむには、このくらいの守られ方がちょうどよかった。

 ノアが窓側で頷く。

「昼は白い壁が強かったですからね」

「夜になると、港も少し静かですわ」

「市場はほとんど片付いてますしね。船の方はまだ動いてますけど」

 遠くで、小さな灯りが揺れる。誰かが荷を動かしているのかもしれない。けれど、防音ガラス越しでは、音はほとんど届かない。

 見えるだけ。

 それがよかった。

 昼は眩しさを布でやわらげた。夜は、最初から町の方が少しやわらかい。

「この時間の海も、悪くありませんわね」

「出ます?」

 ノアが聞いた。

「出ません」

「即答」

「海風は、窓越しで十分です」

 昼間に学んだ。

 マリーノは美しい。ただし、直接浴び続けるには少し強い。夜であっても、潮風は潮風である。

 そこへ、アベルが厨房側から顔を出した。

「残しておいたやつ、出すか?」

 私は顔を上げた。

「冷製スープですわね」

「少しだけな」

「もちろんです」

「本当に少しだけだぞ」

「分かっていますわ」

 夜に冷たいものを飲みすぎてはいけない。

 それは理解している。


 でも、夜に少しだけ冷たいものを飲むのは、たぶん贅沢である。


   ◇


 アベルが持ってきたのは、小さなガラス器だった。

 昼に使った深めの器よりも、ひと回り小さい。透明で、少し青みがあり、夜の灯りを受けると、底の方に薄い海の色が沈んでいるように見えた。

 そこへ、淡い赤の冷製トマトスープが少しだけ入っている。

 本当に少しだけ。

 昼なら二口で終わりそうな量だ。けれど、夜にはこの少なさがよかった。

「……綺麗ですわね」

 私は器を両手で受け取る。

 冷たい。

 けれど、昼ほどは強くない。

 アベルがわざと少し温度を上げたのだろう。

 冷えすぎない冷たさ。


 夜用の冷たさだった。


「昼の残りを少し調整した。柑橘は控えめだ」

「夜だから?」

「ああ。酸味が強いと目が覚めるだろ」

「なるほど」

 料理にも夜の加減があるらしい。

 ルークが後ろ斜めから薄い膝掛けの端を直す。

「お嬢様、冷えましたらすぐにおっしゃってください」

「はい」

「食べ終えた後、温かすぎない茶もご用意しております」

「完璧ですわ」

 冷たいものを少し。

 そのあと、冷えすぎないように整える。

 この流れが白銀列車らしい。

 私はスプーンを持った。

 昼のスプーンより、小さくて軽い。器の縁に触れると、かすかに涼しい音がした。

 かちり。

 静かな夜に、その音がよく似合った。


   ◇


 ひと口。

 冷製スープが、舌の上に乗る。

 昼とは違った。

 昼のスープは、強い日差しを内側から冷ますためのものだった。夜のスープは、体を冷やすというより、昼の余韻を静かに閉じるためのものに近い。

 トマトの甘み。

 海塩。

 少しだけ残る柑橘。

 白身魚の出汁。

 全部が、昼より少し丸い。

 冷たいのに、尖っていない。


「……夜の味ですわ」


 私が言うと、アベルが短く笑った。

「昼と同じじゃ駄目だからな」

「同じスープですのに?」

「温度と量を変えると、別物になる」

「料理は繊細ですわね」

「生活が細けえ人に言われたくねえ」

 失礼である。

 しかし、否定はしない。生活も料理も、たぶん細かい方が豊かになる。

 ノアが自分の小さな器を手にしながら言った。

「これ、夜食っていうには軽いですね」

「夜食ではありませんわ」

「じゃあ何です?」

 私は少し考える。

 夜食というほど、お腹を満たすものではない。飲み物というほど軽くもない。料理の残りというには、あまりに大切に出されている。

「夜のしめくくりですわね」

「締めスープ?」

「言い方」

 少し違う。

 でも大きくは間違っていない。

 マリーノの昼を、夜の海と一緒にそっと畳むための一杯。そういうものだった。

 私はもう一口飲んだ。

 量が少ないので、急ぐとすぐ終わってしまう。

 だから、ゆっくり。

 港の灯りを見ながら。

 ガラス器の底に残る淡い赤を眺めながら。

 少しずつ飲む。


   ◇


 夜の窓は、昼よりも車内を映した。

 薄く暗いガラスに、暖炉の灯りが映っている。右ソファ。麻ラグ。小卓。ガラス器。そして、その向こうに港の灯り。

 内と外が、窓の上で少し重なって見えた。

 私は器を持ったまま、その景色を眺める。

「昼は外の光が強すぎましたけれど」

 私は言った。

「夜は、こちらの灯りも少し映りますのね」

 ノアが窓を見た。

「ああ、確かに。車内が見えますね」

「外を見ているのに、うちも見える」

「それ、いいんですか?」

「かなり良いですわ」

 外だけでは少し落ち着かない。内だけでは景色が足りない。夜の窓は、その両方を少しずつ見せてくれる。

 海の灯り。

 車内の灯り。

 冷たいスープ。

 薄い膝掛け。


 これは、夜にしかない快適だった。


 ルークが静かに言う。

「窓の反射を少し抑えましょうか」

「いいえ」

 私は首を横に振った。

「今は、このくらいがよろしいです」

「承知しました」

 完璧に外だけ見える必要はない。

 少しだけ内側が映るから、白銀列車にいることがよく分かる。

 外の海を見ているのに、ちゃんと帰る場所の中にいる。

 それが安心だった。

 アベルが腕を組んで窓を見た。

「夜に冷たいもんを出すの、どうかと思ったが」

「どうでした?」

「少量ならありだな」

「でしょう?」

「飲みすぎなけりゃな」

「そこは気をつけますわ」

 私は最後のひと口を残し、少しだけ器を眺めた。

 ガラス器の底に、冷製スープが薄く光っている。量が少ないからこそ、名残惜しい。

 夜には、この名残惜しさも味の一部なのかもしれない。


   ◇


 最後のひと口を飲む。

 冷たい。

 でも、体を起こしすぎない。

 喉を通って、胸のあたりで静かに消える。

 昼のように、日差しへ対抗する冷たさではない。夜の終わりへ向かうための冷たさだった。

「……満足しましたわ」

 私は小さな器を置いた。

 ルークがすぐに、ぬるめの茶を差し出す。

 温かい、というほどではない。でも、冷たいスープのあとに飲むと、体が少し落ち着く。

「ちょうどいいですわね」

「冷えすぎませんように」

「はい」

 薄い膝掛けを少し引き寄せる。

 夜のマリーノは、まだ窓の外にある。港の灯りは小さく、船の影はゆっくり揺れている。遠くで女船長の船らしき影も見えた。

 昼のような声は聞こえない。

 もしかすると、今も大きな声で何か言っているのかもしれないけれど、防音ガラス越しの夜は、すべてを静かにしてくれる。

「同じ町でも、時間でずいぶん変わりますわね」

 ノアが頷いた。

「朝は市場、昼はカーテン、夜はスープ」

「マリーノは忙しい町ですわ」

「ティアさんの快適分類が忙しいだけでは」

「町に合わせているのです」

 そう。

 町に合わせている。


 ただし、こちらが不快にならない範囲で。


 それが大事だった。

 白銀列車は、外の全部を拒絶するわけではない。

 良いところだけを、ちょうどよい距離で受け取る場所である。

 マリーノの夜は、冷たいスープを少しだけ残しておくと、とてもよい。


   ◇


 食後の茶を飲み終える頃には、眠気がゆっくり近づいていた。

 昼寝もしたのに、夜は夜で眠くなる。

 これは怠惰ではない。

 生活の自然な流れである。

 アベルが小さな器を片付ける。

「この器、夜にも使えるな」

「ええ」

 私は頷いた。

「昼は涼しく、夜は静かに見えます」

「便利な器だ」

「良い器ですわ」

 ガラス器は、マリーノで増えた大切な生活道具だった。

 冷製スープを綺麗に見せるだけではない。果実水にも合う。生牡蠣にも合う。夜の少量スープにも合う。

 これはもう、白銀列車の夏用食器として固定すべきである。

「ルーク」

「はい」

「ガラス器の棚、きちんと作りましょう」

「すでに候補を見ております」

「さすがですわ」

「明日、緩衝布と合わせて整えます」

 明日。

 つまり、このガラス器をきちんと包んで、次の季節まで取っておく準備をする。

 それは少しだけ、マリーノを出発する気配でもあった。

 私は窓の外を見る。

 夜の海。

 港の灯り。

 白い町の影。

 まだ少し名残惜しい。

 でも、冷たい快適は十分に覚えた気がする。

 果実水。生牡蠣。冷製スープ。ガラス器。薄いカーテン。夜の少量スープ。

 どれも、この町で増えた生活だった。

「……明日は、少し片付けですわね」

 私が言うと、ノアが顔を上げた。

「もう出発ですか?」

「そろそろ」

「早いような、結構いたような」

「マリーノは濃い町でしたわ」

 暑い。眩しい。べたつく。階段が多い。

 でも、冷たいものがよく似合う。

 だから嫌いではない。むしろ、かなり好きだった。


 ただし、白銀列車の中から楽しむなら。


 私は右ソファに深く沈み、薄い膝掛けを膝へかけ直した。

「次の海風まで、ガラス器は大事に取っておきましょう」

 窓の外で、港の灯りが小さく揺れていた。

 夜の冷製スープの余韻が、まだ少しだけ舌に残っていた。


夜の冷製スープ回でした。


昼に飲む冷たさと、

夜に少しだけ飲む冷たさは、

別物です。


次回、

ガラス器を包んでマリーノを出発します。

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