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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第4章 冷製スープとガラス器編 〜海風の港町マリーノ〜

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41/84

041 港町の階段で疲れた足を、冷えたラウンジで伸ばしますわ

ガラス器を手に入れました。


冷たい果実水も、

冷製スープも、

見た目まで涼しくなりました。


ただし、

市場までの石段は、

少しだけ足に残ります。

 港町マリーノの石段は、美しい。


 白い壁の間を抜け、青い海へ向かって下りていく。踊り場には鉢植えがあり、日差しは明るく、遠くには帆船の白い帆が見える。

 たいへん絵になる。

 絵になるのだけれど。


「……足にきますわね」


 私は右ソファに沈んだまま、そっと呟いた。

 市場から戻って、冷たい果実水を飲み、ガラス器の涼しさを確認した。そこまでは完璧だった。

 だが、落ち着いてくると、足の奥に石段の記憶が残っていることに気づいた。

 痛いわけではない。

 不調でもない。

 ただ、重い。

 白い石段は見た目より律儀に、歩いた分だけ疲れを残していくらしい。

 ノアが窓側から言った。

「結構歩きましたからね」

「少しだけですわ」

「ティアさん基準では、少しじゃない量でした」

「人聞きが悪いですわね」

「事実です」

 事実は時々失礼である。

 私は足先を麻ラグの上で動かした。

 さらり。

 感触は良い。

 けれど、今日はそれだけでは少し足りない。

 足を伸ばしたい。

 できれば、冷えた空気の中で。

 できれば、何もしない状態で。

「ルーク」

「はい」

「足元を、少し休ませたいですわ」

「承知しております」

 早い。

 見れば、すでにルークは薄いクッションと冷たい布を持っていた。

 なぜ分かったのか。

 いえ、分かるか。

 私は市場から戻ったあと、たぶん何度か足を動かしていた。ルークがそれを見逃すはずがない。

「お嬢様、右ソファの前へ足をお伸ばしください」

「こう?」

「はい」

 私は右ソファに背を預け、足を麻ラグの上へ伸ばした。

 そこへ、薄いクッションが置かれる。

 ふくらはぎの下。

 少しだけ足が高くなる。

「……あ」

 すぐに分かった。


 楽だ。


 かなり楽だ。


 足の重さが、少しだけ床へ流れていくような感じがする。

「これは良いですわ」

「冷たい布も当てます」

「お願いします」

 冷えすぎない程度に冷やされた布が、足首のあたりへそっと置かれた。

 ひやり。

 けれど、強すぎない。

 石段で熱を持った足に、ちょうどよく染みる冷たさだった。

「……港町の階段には、これが必要ですわね」

 ルークが静かに頷く。

「以後、マリーノ外出後の標準手順にいたします」

「採用が早いですわ」

「必要ですので」

 たいへん頼もしい。


   ◇


 ラウンジの空気は、少し涼しい。

 窓の外では、昼の港が動いている。白い壁。青い海。人の声。魚市場。坂道を行き来する人影。

 全部、外では強い。

 けれど、ガラスの内側から見ると、ちょうどよく賑やかだった。

 私は足を伸ばしたまま、ガラスのグラスを手に取る。

 中身は薄い果実水。氷は少なめ。さっきほど冷たくはない。でも、足を休める時間にはこのくらいがいい。

「観光というものは」

 私はゆっくり言った。

「足を使いすぎますわね」

 ノアが笑う。

「観光ってだいたい歩きますからね」

「窓から見ても成立すると思います」

「それは車窓観光ですね」

「素晴らしい概念ですわ」

「ティアさん向きですね」

 その通りである。

 歩けば景色は近い。でも疲れる。窓越しなら景色は少し遠い。でも快適である。

 どちらを選ぶかは、その日の体調と足元次第だ。

 今日はもう、窓越しで十分である。

 アベルが厨房側から声をかけた。

「軽いもん食うか?」

「重くないものなら」

「さっきの海鮮の残りで、冷たい小皿にする。つまむくらいだ」

「素晴らしいですわ」

 今日は料理を主役にしすぎない。

 けれど、少しあると嬉しい。

 足を伸ばして、冷たい布を当てて、小さな海鮮をつまむ。かなり正しい午後である。

「アベル」

「なんだ」

「歩いたあとの食事は、少量がよろしいですわ」

「分かってる。動きたくない顔してるしな」

「顔に出ていました?」

「全身に出てる」

 失礼である。

 しかし、否定はしない。


 今は本当に動きたくない。


   ◇


 小さなガラス皿が運ばれてきた。

 昨日買ったばかりの、少し青みのある平皿。その上に、薄く切った白身魚と、柑橘の小さな房、それから海塩が少し。

 冷たい前菜というほど大げさではない。

 でも、足を休める時間にはちょうどよい。

「器、さっそく使っていますのね」

「使うために買ったんだろ」

 アベルは当然のように言った。

 その通りである。

 眺めるために買ったのではない。使ってこそ、生活道具である。

 私は小さな一切れを口に運ぶ。

 冷たい。

 軽い。

 柑橘が明るい。

 生牡蠣ほど強くない。冷製スープほどなめらかでもない。ただ、涼しい小さな一口。

 足を休めながら食べるには、たいへんよろしい。

「……これは、歩いたあと用ですわね」

「そういう分類なのか」

 ノアが言う。

「分類は大事です。朝の牡蠣、昼のスープ、歩いたあとの小皿。役割が違います」

「食べ物の管理が細かい」

「生活とは細部ですわ」

 私は果実水を飲み、足元の冷たい布の位置を少しだけ直した。

 ルークがすぐ気づいて、布を当て直してくれる。

 完璧だった。

「お嬢様、冷えすぎてはおりませんか」

「ちょうどいいです」

「では、このままで」

 足は少し高く。

 足首は少し冷たく。

 ラウンジは涼しく。

 膝には薄い布。

 手元にはガラス皿。

 窓の外には港。

 歩いた疲れが、少しずつほどけていく。


 これもまた、マリーノの楽しみ方のひとつなのだろう。


   ◇


 窓の外では、石段を上る人々が見えた。

 籠を持った女。魚を運ぶ若者。布を抱えた商人。子どもたちは走っている。

 信じられない。

 あの石段を走るなど、足がどうなっているのだろう。

「現地の方は、すごいですわね」

「階段に慣れてるんでしょうね」

 ノアが言った。

「慣れでどうにかなりますの?」

「たぶん」

「私は慣れる前に、車内で休みたいです」

「でしょうね」

 私は右ソファに深く沈んだ。

 足を伸ばしたまま。

 港の景色を眺める。

 すると不思議なことに、さっきまで恨めしかった石段が、少しずつ綺麗に見えてきた。

 遠くからなら、やはり美しい。

 白い壁に沿って曲がり、青い海へ向かって落ちていく石段。人々が行き来するたび、町が生きているように見える。

 歩くと疲れる。

 けれど、眺めるには素敵。

 これは、マリーノの他のものと同じだった。

 海風もそう。

 日差しもそう。

 港の声もそう。

 直接受け続けると強い。でも、白銀列車の内側からなら、ちょうどいい景色になる。

「外の美しさは」

 私はぽつりと言った。


「窓越しで十分に味わえますわね」


 ノアが笑う。

「海辺の観光、だいたい車内で完結してません?」

「完結ではありません」

「違うんですか」

「外で少しだけ受け取り、中でゆっくり味わうのです」

「なるほど。ティア式観光」

「よい響きですわ」

 私は足先を少し動かす。

 冷たい布がずれ、ルークがまたすぐに直した。

 もう、動かなくてもよい。


 たいへん良い。


   ◇


 しばらくすると、足の重さはかなり消えていた。

 石段の疲れが、涼しい空気と冷たい布に吸い取られていったようだった。

 私は小さく息を吐く。

「……戻りましたわ」

「お足が?」

 ルークが尋ねる。

「ええ。だいぶ」

「もう少し休まれた方がよろしいかと」

「それは当然です」

 戻ったからといって、すぐ動く理由にはならない。

 回復したあとの休憩こそ、本番である。

 アベルが空いた皿を下げる。

「夜は軽めにするか?」

「そうですわね。昼に冷たいものをいただきましたし、足も休めたいですし」

「了解」

 マリーノに来てから、食事と気温と体調の関係がかなり細かくなっている気がする。

 だが、それでよい。

 暑い土地では、食べすぎても疲れる。冷やしすぎてもいけない。歩きすぎてもいけない。全部を少しずつ整える必要がある。

「この町は、調整が大事ですわね」

 私が言うと、ノアが頷いた。

「本当にずっと調整してますね」

「白銀列車の腕の見せどころですわ」

「列車に腕があるんだ」

「あります」

 たぶん。

 少なくとも、私の生活を支える腕はたくさんある。

 ルーク。

 アベル。

 ノア。

 そして、右ソファと麻ラグと空調とガラス器。

 全員と全部が、私を快適にしている。


 たいへんよいチームである。


   ◇


 午後の光は、まだ強かった。

 白い壁が、窓の向こうで明るく輝いている。

 私は少し目を細めた。

 美しい。

 でも、長く見ていると少しまぶしい。

 外に出ていなくても、マリーノの光はなかなか強い。

「……日差しそのものも、少し調整したいですわね」

 ノアが反応した。

「窓の明るさですか?」

「ええ。景色は見たいのです。でも、白い壁が少し眩しい」

「薄いカーテンでも入れます?」

 私は顔を上げた。

「薄いカーテン」

「光を少し和らげるだけのやつです。景色は見えるけど、眩しさは落ちる」

「それは、たいへん良さそうですわ」

 ルークが静かに頷いた。

「昼寝にも向くかと」

「昼寝」

 その言葉は強かった。

 足を伸ばし、冷たい布で休み、冷房の効いたラウンジで、薄いカーテン越しに海を見る。

 そして昼寝。


 完璧では?


「ノア」

「はい」

「次はそれですわ」

「ですよね」

「光をやわらげて、海を眺めながら少し眠る。これは必要です」

「また必要が増えた」

「マリーノは必要なものが多い町ですわね」

 私は右ソファで足を伸ばしたまま、窓の外の白い町を眺めた。

 少しまぶしい。

 でも、そのまぶしさを薄い布越しにすれば、きっと優しくなる。

 外の美しさは、そのまま受け止めなくてもよい。

 少し布を通す。少し冷やす。少し距離を置く。

 そうすれば、もっと長く楽しめる。

 私は冷たい布を足元に置いたまま、小さく頷いた。


「明日は、光を整えましょう」


 窓の向こうで、海が眩しく光っていた。

階段疲れ回でした。


港町は綺麗です。


でも、

石段は足にきます。


次回、

薄いカーテン越しに海を眺めながら昼寝します。

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