041 港町の階段で疲れた足を、冷えたラウンジで伸ばしますわ
ガラス器を手に入れました。
冷たい果実水も、
冷製スープも、
見た目まで涼しくなりました。
ただし、
市場までの石段は、
少しだけ足に残ります。
港町マリーノの石段は、美しい。
白い壁の間を抜け、青い海へ向かって下りていく。踊り場には鉢植えがあり、日差しは明るく、遠くには帆船の白い帆が見える。
たいへん絵になる。
絵になるのだけれど。
「……足にきますわね」
私は右ソファに沈んだまま、そっと呟いた。
市場から戻って、冷たい果実水を飲み、ガラス器の涼しさを確認した。そこまでは完璧だった。
だが、落ち着いてくると、足の奥に石段の記憶が残っていることに気づいた。
痛いわけではない。
不調でもない。
ただ、重い。
白い石段は見た目より律儀に、歩いた分だけ疲れを残していくらしい。
ノアが窓側から言った。
「結構歩きましたからね」
「少しだけですわ」
「ティアさん基準では、少しじゃない量でした」
「人聞きが悪いですわね」
「事実です」
事実は時々失礼である。
私は足先を麻ラグの上で動かした。
さらり。
感触は良い。
けれど、今日はそれだけでは少し足りない。
足を伸ばしたい。
できれば、冷えた空気の中で。
できれば、何もしない状態で。
「ルーク」
「はい」
「足元を、少し休ませたいですわ」
「承知しております」
早い。
見れば、すでにルークは薄いクッションと冷たい布を持っていた。
なぜ分かったのか。
いえ、分かるか。
私は市場から戻ったあと、たぶん何度か足を動かしていた。ルークがそれを見逃すはずがない。
「お嬢様、右ソファの前へ足をお伸ばしください」
「こう?」
「はい」
私は右ソファに背を預け、足を麻ラグの上へ伸ばした。
そこへ、薄いクッションが置かれる。
ふくらはぎの下。
少しだけ足が高くなる。
「……あ」
すぐに分かった。
楽だ。
かなり楽だ。
足の重さが、少しだけ床へ流れていくような感じがする。
「これは良いですわ」
「冷たい布も当てます」
「お願いします」
冷えすぎない程度に冷やされた布が、足首のあたりへそっと置かれた。
ひやり。
けれど、強すぎない。
石段で熱を持った足に、ちょうどよく染みる冷たさだった。
「……港町の階段には、これが必要ですわね」
ルークが静かに頷く。
「以後、マリーノ外出後の標準手順にいたします」
「採用が早いですわ」
「必要ですので」
たいへん頼もしい。
◇
ラウンジの空気は、少し涼しい。
窓の外では、昼の港が動いている。白い壁。青い海。人の声。魚市場。坂道を行き来する人影。
全部、外では強い。
けれど、ガラスの内側から見ると、ちょうどよく賑やかだった。
私は足を伸ばしたまま、ガラスのグラスを手に取る。
中身は薄い果実水。氷は少なめ。さっきほど冷たくはない。でも、足を休める時間にはこのくらいがいい。
「観光というものは」
私はゆっくり言った。
「足を使いすぎますわね」
ノアが笑う。
「観光ってだいたい歩きますからね」
「窓から見ても成立すると思います」
「それは車窓観光ですね」
「素晴らしい概念ですわ」
「ティアさん向きですね」
その通りである。
歩けば景色は近い。でも疲れる。窓越しなら景色は少し遠い。でも快適である。
どちらを選ぶかは、その日の体調と足元次第だ。
今日はもう、窓越しで十分である。
アベルが厨房側から声をかけた。
「軽いもん食うか?」
「重くないものなら」
「さっきの海鮮の残りで、冷たい小皿にする。つまむくらいだ」
「素晴らしいですわ」
今日は料理を主役にしすぎない。
けれど、少しあると嬉しい。
足を伸ばして、冷たい布を当てて、小さな海鮮をつまむ。かなり正しい午後である。
「アベル」
「なんだ」
「歩いたあとの食事は、少量がよろしいですわ」
「分かってる。動きたくない顔してるしな」
「顔に出ていました?」
「全身に出てる」
失礼である。
しかし、否定はしない。
今は本当に動きたくない。
◇
小さなガラス皿が運ばれてきた。
昨日買ったばかりの、少し青みのある平皿。その上に、薄く切った白身魚と、柑橘の小さな房、それから海塩が少し。
冷たい前菜というほど大げさではない。
でも、足を休める時間にはちょうどよい。
「器、さっそく使っていますのね」
「使うために買ったんだろ」
アベルは当然のように言った。
その通りである。
眺めるために買ったのではない。使ってこそ、生活道具である。
私は小さな一切れを口に運ぶ。
冷たい。
軽い。
柑橘が明るい。
生牡蠣ほど強くない。冷製スープほどなめらかでもない。ただ、涼しい小さな一口。
足を休めながら食べるには、たいへんよろしい。
「……これは、歩いたあと用ですわね」
「そういう分類なのか」
ノアが言う。
「分類は大事です。朝の牡蠣、昼のスープ、歩いたあとの小皿。役割が違います」
「食べ物の管理が細かい」
「生活とは細部ですわ」
私は果実水を飲み、足元の冷たい布の位置を少しだけ直した。
ルークがすぐ気づいて、布を当て直してくれる。
完璧だった。
「お嬢様、冷えすぎてはおりませんか」
「ちょうどいいです」
「では、このままで」
足は少し高く。
足首は少し冷たく。
ラウンジは涼しく。
膝には薄い布。
手元にはガラス皿。
窓の外には港。
歩いた疲れが、少しずつほどけていく。
これもまた、マリーノの楽しみ方のひとつなのだろう。
◇
窓の外では、石段を上る人々が見えた。
籠を持った女。魚を運ぶ若者。布を抱えた商人。子どもたちは走っている。
信じられない。
あの石段を走るなど、足がどうなっているのだろう。
「現地の方は、すごいですわね」
「階段に慣れてるんでしょうね」
ノアが言った。
「慣れでどうにかなりますの?」
「たぶん」
「私は慣れる前に、車内で休みたいです」
「でしょうね」
私は右ソファに深く沈んだ。
足を伸ばしたまま。
港の景色を眺める。
すると不思議なことに、さっきまで恨めしかった石段が、少しずつ綺麗に見えてきた。
遠くからなら、やはり美しい。
白い壁に沿って曲がり、青い海へ向かって落ちていく石段。人々が行き来するたび、町が生きているように見える。
歩くと疲れる。
けれど、眺めるには素敵。
これは、マリーノの他のものと同じだった。
海風もそう。
日差しもそう。
港の声もそう。
直接受け続けると強い。でも、白銀列車の内側からなら、ちょうどいい景色になる。
「外の美しさは」
私はぽつりと言った。
「窓越しで十分に味わえますわね」
ノアが笑う。
「海辺の観光、だいたい車内で完結してません?」
「完結ではありません」
「違うんですか」
「外で少しだけ受け取り、中でゆっくり味わうのです」
「なるほど。ティア式観光」
「よい響きですわ」
私は足先を少し動かす。
冷たい布がずれ、ルークがまたすぐに直した。
もう、動かなくてもよい。
たいへん良い。
◇
しばらくすると、足の重さはかなり消えていた。
石段の疲れが、涼しい空気と冷たい布に吸い取られていったようだった。
私は小さく息を吐く。
「……戻りましたわ」
「お足が?」
ルークが尋ねる。
「ええ。だいぶ」
「もう少し休まれた方がよろしいかと」
「それは当然です」
戻ったからといって、すぐ動く理由にはならない。
回復したあとの休憩こそ、本番である。
アベルが空いた皿を下げる。
「夜は軽めにするか?」
「そうですわね。昼に冷たいものをいただきましたし、足も休めたいですし」
「了解」
マリーノに来てから、食事と気温と体調の関係がかなり細かくなっている気がする。
だが、それでよい。
暑い土地では、食べすぎても疲れる。冷やしすぎてもいけない。歩きすぎてもいけない。全部を少しずつ整える必要がある。
「この町は、調整が大事ですわね」
私が言うと、ノアが頷いた。
「本当にずっと調整してますね」
「白銀列車の腕の見せどころですわ」
「列車に腕があるんだ」
「あります」
たぶん。
少なくとも、私の生活を支える腕はたくさんある。
ルーク。
アベル。
ノア。
そして、右ソファと麻ラグと空調とガラス器。
全員と全部が、私を快適にしている。
たいへんよいチームである。
◇
午後の光は、まだ強かった。
白い壁が、窓の向こうで明るく輝いている。
私は少し目を細めた。
美しい。
でも、長く見ていると少しまぶしい。
外に出ていなくても、マリーノの光はなかなか強い。
「……日差しそのものも、少し調整したいですわね」
ノアが反応した。
「窓の明るさですか?」
「ええ。景色は見たいのです。でも、白い壁が少し眩しい」
「薄いカーテンでも入れます?」
私は顔を上げた。
「薄いカーテン」
「光を少し和らげるだけのやつです。景色は見えるけど、眩しさは落ちる」
「それは、たいへん良さそうですわ」
ルークが静かに頷いた。
「昼寝にも向くかと」
「昼寝」
その言葉は強かった。
足を伸ばし、冷たい布で休み、冷房の効いたラウンジで、薄いカーテン越しに海を見る。
そして昼寝。
完璧では?
「ノア」
「はい」
「次はそれですわ」
「ですよね」
「光をやわらげて、海を眺めながら少し眠る。これは必要です」
「また必要が増えた」
「マリーノは必要なものが多い町ですわね」
私は右ソファで足を伸ばしたまま、窓の外の白い町を眺めた。
少しまぶしい。
でも、そのまぶしさを薄い布越しにすれば、きっと優しくなる。
外の美しさは、そのまま受け止めなくてもよい。
少し布を通す。少し冷やす。少し距離を置く。
そうすれば、もっと長く楽しめる。
私は冷たい布を足元に置いたまま、小さく頷いた。
「明日は、光を整えましょう」
窓の向こうで、海が眩しく光っていた。
階段疲れ回でした。
港町は綺麗です。
でも、
石段は足にきます。
次回、
薄いカーテン越しに海を眺めながら昼寝します。




