038 港町の女船長と、氷の上の生牡蠣ですわ
果実水で回復しました。
マリーノの暑さには、
冷たいものが必要です。
では港には、
どんな冷たいものがあるのでしょう。
朝のマリーノは、昨日より少しだけ優しかった。
日差しはまだ低い。白い壁も、海も、石段も、昨日ほど強く光ってはいない。
けれど、油断はできない。
ここは南の港町である。少し歩けば、すぐに日差しが本気を出す。
「お嬢様、こちらを」
ルークが薄手の日除けを差し出した。
「昨日より早い時間ですのに?」
「昨日より早い時間だからこそ、長くいられる可能性がございます」
「なるほど」
つまり、先に守っておけば、少しだけ港を楽しめるということだ。
私は素直に日除けを受け取った。
昨夜決めた通り、今日は港へ向かう。目的は観光。ではない。いいえ、観光も少しはある。でも本命は、海鮮である。
昨日、港の方から聞こえた大きな声。魚。氷。柑橘。木箱。あれを見ないまま、マリーノを語ることはできない気がした。
アベルはすでに前を歩いている。
足取りが少し早い。
「アベル」
「なんだ」
「楽しそうですわね」
「港の朝市だぞ。楽しくないわけないだろ」
たいへん料理人らしい答えだった。
ノアは小さな帳面を持ち、周囲を見ながら歩いている。
「朝でも結構人いますね」
「港の朝は早いですものね」
「ティアさんの朝とは違いますね」
「どういう意味ですの」
「いえ」
たぶん余計な意味である。
私は聞かなかったことにした。
白い石段を降りる。昨日ほどではないが、やはり少し足にくる。潮風が頬に当たる。朝の風は、冷たくて気持ちがいい。
けれど、ほんのわずかに塩の気配がある。
やはり油断ならない。
海は美しい顔をして、確実にこちらへ痕跡を残してくる。
◇
港に近づくと、空気が変わった。
魚の匂い。濡れた木箱の匂い。海藻。氷。柑橘。それから、人の声。
「そっちは日が当たる! 氷を足しな!」
昨日と同じ声が響いた。
太くて明るい。港の音にまったく負けていない。
見ると、大きな帆船のそばに、日に焼けた女が立っていた。赤茶色の髪をざっくり結び、袖をまくり、片手で木箱を指示している。
周りの男たちより声が大きい。それなのに、誰も嫌そうにしていない。むしろ、その声で港が動いているように見えた。
「あれが昨日の方ですわね」
ノアが頷く。
「女船長ですね。あの船の主っぽいです」
女船長はこちらに気づいた。
いや、正確には、ルークとアベルを見たのかもしれない。黒ずくめの騎士と、海鮮の木箱へ一直線に目を向ける料理人。目立たない方が難しい。
女船長は豪快に笑った。
「おや、朝から変わった客だね!」
声が大きい。
私は少しだけルークの陰に入った。嫌な感じではない。ただ、朝の港の声量としては、なかなか強い。
「変わった客、ですの?」
「ああ。日除けつきの令嬢が、朝市に来るのは珍しい」
「日差しは避けるべきものですわ」
「ははっ。そりゃ正しい!」
女船長は笑い、アベルの方を見る。
「あんたは料理人かい?」
「まあな」
「目が魚を見てる」
「いい魚がある」
「分かるのかい?」
「見りゃ分かる」
アベルは短く答えた。
女船長の目が、少しだけ面白そうに細くなる。
「へえ」
その声は、試すようだった。
◇
女船長は、木箱の蓋を次々に開けた。
銀色の魚。白身の大きな魚。貝。海老。氷の上に並べられた牡蠣。
朝の光を受けて、氷が細かく光っている。港の匂いの中で、そこだけ少し涼しく見えた。
私は思わず足を止めた。
「……あれは?」
「牡蠣だよ」
女船長が言った。
「今朝上がったやつだ。ここの湾は潮の流れがいい。身が締まってる」
アベルが牡蠣を一つ手に取った。
重さを見る。
殻を見る。
匂いを見る。
それだけで、女船長の顔が変わった。
「……あんた、分かるね」
「これはいい」
「一つで分かるのかい?」
「一つでだいたい分かる。箱の底の方はもっといいだろ」
女船長は一瞬黙った。
それから、喉の奥で笑った。
「隠してた一番上物を見抜くか」
「見えるところに置く方が悪い」
「気に入った」
女船長は大きく笑い、奥の木箱を顎で示した。
「じゃあ、それも見ていきな。港の宿に出すつもりだったが、目利きの料理人に出すなら惜しくない」
アベルの目が、さらに真剣になった。
たいへん分かりやすい。
私はその横で、氷の上の牡蠣を見ていた。
冷たい。
食べる前から分かる。
殻の間に海が閉じ込められているようだった。
「これを、冷たいままいただけますの?」
女船長がこちらを見た。
「もちろん。火を入れてもいいが、いいやつは生がうまい」
「生」
私は少しだけ考える。
生牡蠣。
氷。
柑橘。
海塩。
マリーノ。
どう考えても、今食べるべきものである。
「アベル」
「買う」
返事が早かった。
素晴らしい。
女船長は笑った。
「あんたら、決めるのが早いねえ」
「快適と美味は、迷うと逃げますわ」
「ははっ、いいこと言うじゃないか!」
声が大きい。
でも、少し楽しくなってきた。
港の朝には、このくらいの声も似合うのかもしれない。
◇
買い付けは短かった。
アベルが見る。女船長が出す。アベルが選ぶ。ルークが私を日差しから少しずつ遠ざける。ノアが横で値段と量を書き留める。
役割がはっきりしている。
たいへん良い。
ただし、私は少しずつ限界を感じ始めていた。
朝とはいえ、港は明るい。声も多い。氷の近くは涼しいが、少し離れると日差しが肩に乗る。潮風も、やはり肌に残る。
「お嬢様」
ルークが静かに言った。
「そろそろ」
「ええ」
私も同意見だった。
牡蠣は手に入った。柑橘もある。海塩も、女船長が気前よく付けてくれた。
これ以上港にいる理由はない。
正確には、白銀列車の中で食べる理由が強すぎる。
「船長さん」
私が声をかけると、女船長は振り返った。
「なんだい、日除けの令嬢」
「良い牡蠣をありがとう」
「食べてから礼を言いな。うまいよ」
「では、あとで改めて心の中で感謝いたしますわ」
「直接言いに来な!」
「日差しが弱ければ」
女船長は大笑いした。
「本当に暑いのが嫌いなんだねえ」
「暑いのが嫌いなのではありません」
私は少し考える。
「暑い中で、暑いままでいるのが嫌なのです」
「似たようなもんだろ」
「違いますわ」
大事な違いである。
暑い景色は美しい。
冷たいものと組み合わせれば、さらに美味しい。
つまり、暑さそのものを否定しているわけではない。扱い方の問題なのだ。
女船長は目を細めた。
「あんた、面白いね」
「よく言われます」
「また来な。もっといいのを取っておく」
「涼しい時間に伺いますわ」
「ははっ!」
別れの声まで大きかった。
けれど、悪くない。
港町マリーノには、ああいう人が似合う。
◇
列車へ戻ると、空気が変わった。
涼しい。
静か。
乾いている。
港の声が、扉の向こうで一気に遠くなる。
私は息を吐いた。
「……帰ってまいりましたわ」
「お帰りなさいませ」
ルークが外套を受け取り、すぐに冷たい布を用意する。昨日より手順が早い。マリーノ滞在の学習が始まっている。
ノアが買い付けた荷を確認しながら言った。
「すごい量ですね」
「牡蠣は鮮度が命だ」
アベルはすでに厨房側へ向かっている。
「すぐ用意する。火は使わねえ。冷たいままいく」
「火を使わない料理ですの?」
「料理っていうか、整えるだけだな」
「それも大事ですわ」
良いものを、良い状態で食べる。
それも立派な技術である。
私は首元を冷たい布で拭かれながら、右ソファへ向かった。麻ラグ。涼しい空気。薄い布。港の気配が少し残った体。そして、氷の上の牡蠣。
完璧な予感がする。
アベルは短い時間で準備を整えた。
大きめの皿。
細かく砕いた氷。
その上に並ぶ牡蠣。
横には、切った柑橘。
小さな器に、白い海塩。
余計な飾りはない。
それが良かった。
氷が光っている。牡蠣の殻は、海の石みたいに少し荒い。中の身は、つやりとして、見るからに冷たい。
「……これは」
私は小さく息を吸った。
「海ですわね」
アベルが頷いた。
「海だな」
ノアが横から言う。
「会話が雑なのに、なんか伝わる」
伝わればよいのである。
◇
ルークが小さな皿を私の前に置いた。
「お嬢様、少量ずつ」
「分かっていますわ」
「一気に召し上がらないように」
「信用がありませんわね」
「ございます。ですので先に申し上げております」
どういう意味だろう。
私は深く追及しないことにした。
アベルが牡蠣を一つ、丁寧に開いてくれる。柑橘を少しだけ搾る。
香りが立った。
海の匂い。
柑橘の明るい香り。
氷の冷たさ。
全部が、小さな殻の中にまとまっている。
「まずは、そのまま」
アベルが言った。
私は小さく頷き、牡蠣を口に運んだ。
冷たい。
まず、そう思った。
けれど、果実水の冷たさとは違う。氷の冷たさとも違う。
海の冷たさだった。
つるりと舌に乗り、柑橘の酸味が先に弾ける。そのあと、濃い旨味がゆっくり広がった。塩気。甘み。海の香り。喉を通る時まで、冷たさが残る。
「……」
私は目を閉じた。
これは、声を出すのが少し惜しい。
外の港は暑かった。日差しも強かった。声も大きかった。潮風もべたついた。
でも、その全部が、この一口のための前振りだった気がした。
「お嬢様?」
ルークが声をかける。
私は目を開けた。
「……大変よろしいですわ」
アベルが満足そうに笑った。
「だろ」
「果実水とは違います」
「そりゃ違うな」
「冷たいのに、味が深いです」
「いい牡蠣だからな」
「女船長、良い方ですわね」
「牡蠣で判断したな」
「牡蠣は重要です」
人柄のすべてとは言わない。
けれど、良い牡蠣を出してくれる人は、少なくとも今の私にとって良い人である。
◇
二つ目は、海塩をほんの少しだけ足した。
味が締まる。
三つ目は、柑橘を少し多めにした。
明るくなる。
四つ目は、何も足さずに食べた。
海の味が一番まっすぐ来た。
どれも良い。
困るほど良い。
氷の上で冷やされた牡蠣は、食べるたびに少しずつ表情が変わった。マリーノの海は、窓から見るだけでも美しい。けれど、こうして口に入ると、まったく別の説得力がある。
ノアも自分の分を食べて、静かに固まっていた。
「ノア?」
「……うまいです」
「でしょう?」
「これは港に行った価値ありますね」
「ええ。石段の価値はありました」
「石段の価値」
言ってから、少しおかしいと思った。
でも本当である。
あの眩しさ。あの声。あの潮風。少し疲れた体で戻ってきて、涼しい車内で食べる冷たい牡蠣。この順番に意味がある。
ただ最初から車内に牡蠣が置いてあるだけでは、ここまで強くなかったかもしれない。
外の不快は、正しく短く味わえば、中の快適を引き立てる。
ただし、長居は不要である。
「次も朝に行きましょう」
私が言うと、ノアが笑った。
「行く気はあるんですね」
「もちろん。涼しいうちに、短時間だけ」
「条件付き観光」
「賢い観光ですわ」
ルークが静かに頷いた。
「明日以降も、日差しの弱い時間で調整いたします」
「お願いします」
完璧である。
港町マリーノは、無理をせず楽しむべき町なのだ。
◇
牡蠣の皿は、思ったより早く空に近づいた。
もちろん、食べすぎてはいけない。ルークの目がある。アベルも、最初から量を調整している。
けれど、満足感は十分だった。
氷の透明感。柑橘の香り。海塩の白さ。牡蠣の冷たさ。どれも、この港町でなければ出ない味だった。
私は右ソファに身を預ける。
喉の奥に、まだ海の余韻が残っている。
「……生牡蠣というものは」
私はゆっくり言った。
「冷たい料理というより、冷たい景色を食べている感じがしますわね」
ノアが少し考える。
「詩的なのに、なんか分かります」
「でしょう?」
アベルが皿を下げながら言う。
「次はスープにするか」
「スープ?」
「この日差しなら、冷製がいい。トマトもあるし、柑橘も使える。今日の魚の出汁も少し取れる」
冷製スープ。
その響きだけで、私は少し背筋を伸ばした。
生牡蠣は満足した。
たいへん満足した。
けれど、それは海をそのまま食べる冷たさだった。
スープはたぶん違う。
もっとなめらかで、喉を通って、昼の暑さを内側から静かに冷やすもの。
別の冷たさだ。
「それは」
私は小さく頷いた。
「必要ですわね」
「また必要になった」
ノアが言う。
「必要なものが多い町なのです」
マリーノは困った町である。外は暑い。潮風はべたつく。日差しは眩しい。石段も多い。そのくせ、冷たい果実水が美味しい。生牡蠣も美味しい。さらに冷製スープまでありそうだ。
たいへん忙しい。
主に胃袋が。
私は窓の外を見る。
青い海。白い壁。港の帆。遠くに、女船長らしき姿が見えた。こちらに気づいたのか、大きく手を振っている。
たぶん、声も出している。防音ガラス越しなので、よく聞こえない。それが少しありがたい。
私は小さく会釈を返した。
女船長は、さらに大きく笑ったようだった。
「……次に伺う時は」
私は呟く。
「もっと涼しい時間がよろしいですわね」
ルークが即座に答える。
「調整いたします」
アベルは厨房へ戻りながら言った。
「昼は冷製スープだな」
私は右ソファに深く沈んだ。
氷の上の生牡蠣は、十分に満足した。
それでも、昼の日差しはまだ強い。
ならば次は、別の冷たい正解を探す時間である。
生牡蠣回でした。
氷、
柑橘、
海塩、
朝の港。
冷たいものにも、
いろいろ種類があります。
次回、
冷製トマトスープです。




