表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第4章 冷製スープとガラス器編 〜海風の港町マリーノ〜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/84

038 港町の女船長と、氷の上の生牡蠣ですわ

果実水で回復しました。


マリーノの暑さには、

冷たいものが必要です。


では港には、

どんな冷たいものがあるのでしょう。

 朝のマリーノは、昨日より少しだけ優しかった。


 日差しはまだ低い。白い壁も、海も、石段も、昨日ほど強く光ってはいない。

 けれど、油断はできない。

 ここは南の港町である。少し歩けば、すぐに日差しが本気を出す。

「お嬢様、こちらを」

 ルークが薄手の日除けを差し出した。

「昨日より早い時間ですのに?」

「昨日より早い時間だからこそ、長くいられる可能性がございます」

「なるほど」

 つまり、先に守っておけば、少しだけ港を楽しめるということだ。

 私は素直に日除けを受け取った。

 昨夜決めた通り、今日は港へ向かう。目的は観光。ではない。いいえ、観光も少しはある。でも本命は、海鮮である。

 昨日、港の方から聞こえた大きな声。魚。氷。柑橘。木箱。あれを見ないまま、マリーノを語ることはできない気がした。

 アベルはすでに前を歩いている。

 足取りが少し早い。

「アベル」

「なんだ」

「楽しそうですわね」

「港の朝市だぞ。楽しくないわけないだろ」

 たいへん料理人らしい答えだった。

 ノアは小さな帳面を持ち、周囲を見ながら歩いている。

「朝でも結構人いますね」

「港の朝は早いですものね」

「ティアさんの朝とは違いますね」

「どういう意味ですの」

「いえ」

 たぶん余計な意味である。

 私は聞かなかったことにした。

 白い石段を降りる。昨日ほどではないが、やはり少し足にくる。潮風が頬に当たる。朝の風は、冷たくて気持ちがいい。

 けれど、ほんのわずかに塩の気配がある。


 やはり油断ならない。


 海は美しい顔をして、確実にこちらへ痕跡を残してくる。


   ◇


 港に近づくと、空気が変わった。

 魚の匂い。濡れた木箱の匂い。海藻。氷。柑橘。それから、人の声。

「そっちは日が当たる! 氷を足しな!」

 昨日と同じ声が響いた。

 太くて明るい。港の音にまったく負けていない。

 見ると、大きな帆船のそばに、日に焼けた女が立っていた。赤茶色の髪をざっくり結び、袖をまくり、片手で木箱を指示している。

 周りの男たちより声が大きい。それなのに、誰も嫌そうにしていない。むしろ、その声で港が動いているように見えた。

「あれが昨日の方ですわね」

 ノアが頷く。

「女船長ですね。あの船の主っぽいです」

 女船長はこちらに気づいた。

 いや、正確には、ルークとアベルを見たのかもしれない。黒ずくめの騎士と、海鮮の木箱へ一直線に目を向ける料理人。目立たない方が難しい。

 女船長は豪快に笑った。

「おや、朝から変わった客だね!」

 声が大きい。

 私は少しだけルークの陰に入った。嫌な感じではない。ただ、朝の港の声量としては、なかなか強い。

「変わった客、ですの?」

「ああ。日除けつきの令嬢が、朝市に来るのは珍しい」

「日差しは避けるべきものですわ」

「ははっ。そりゃ正しい!」

 女船長は笑い、アベルの方を見る。

「あんたは料理人かい?」

「まあな」

「目が魚を見てる」

「いい魚がある」

「分かるのかい?」

「見りゃ分かる」

 アベルは短く答えた。

 女船長の目が、少しだけ面白そうに細くなる。


「へえ」


 その声は、試すようだった。


   ◇


 女船長は、木箱の蓋を次々に開けた。

 銀色の魚。白身の大きな魚。貝。海老。氷の上に並べられた牡蠣。

 朝の光を受けて、氷が細かく光っている。港の匂いの中で、そこだけ少し涼しく見えた。

 私は思わず足を止めた。

「……あれは?」

「牡蠣だよ」

 女船長が言った。

「今朝上がったやつだ。ここの湾は潮の流れがいい。身が締まってる」

 アベルが牡蠣を一つ手に取った。

 重さを見る。

 殻を見る。

 匂いを見る。

 それだけで、女船長の顔が変わった。

「……あんた、分かるね」

「これはいい」

「一つで分かるのかい?」

「一つでだいたい分かる。箱の底の方はもっといいだろ」

 女船長は一瞬黙った。

 それから、喉の奥で笑った。

「隠してた一番上物を見抜くか」

「見えるところに置く方が悪い」

「気に入った」

 女船長は大きく笑い、奥の木箱を顎で示した。

「じゃあ、それも見ていきな。港の宿に出すつもりだったが、目利きの料理人に出すなら惜しくない」

 アベルの目が、さらに真剣になった。

 たいへん分かりやすい。

 私はその横で、氷の上の牡蠣を見ていた。

 冷たい。

 食べる前から分かる。

 殻の間に海が閉じ込められているようだった。

「これを、冷たいままいただけますの?」

 女船長がこちらを見た。

「もちろん。火を入れてもいいが、いいやつは生がうまい」

「生」

 私は少しだけ考える。

 生牡蠣。

 氷。

 柑橘。

 海塩。

 マリーノ。


 どう考えても、今食べるべきものである。


「アベル」

「買う」

 返事が早かった。

 素晴らしい。

 女船長は笑った。

「あんたら、決めるのが早いねえ」

「快適と美味は、迷うと逃げますわ」

「ははっ、いいこと言うじゃないか!」

 声が大きい。

 でも、少し楽しくなってきた。

 港の朝には、このくらいの声も似合うのかもしれない。


   ◇


 買い付けは短かった。

 アベルが見る。女船長が出す。アベルが選ぶ。ルークが私を日差しから少しずつ遠ざける。ノアが横で値段と量を書き留める。

 役割がはっきりしている。

 たいへん良い。

 ただし、私は少しずつ限界を感じ始めていた。

 朝とはいえ、港は明るい。声も多い。氷の近くは涼しいが、少し離れると日差しが肩に乗る。潮風も、やはり肌に残る。

「お嬢様」

 ルークが静かに言った。

「そろそろ」

「ええ」

 私も同意見だった。

 牡蠣は手に入った。柑橘もある。海塩も、女船長が気前よく付けてくれた。

 これ以上港にいる理由はない。

 正確には、白銀列車の中で食べる理由が強すぎる。

「船長さん」

 私が声をかけると、女船長は振り返った。

「なんだい、日除けの令嬢」

「良い牡蠣をありがとう」

「食べてから礼を言いな。うまいよ」

「では、あとで改めて心の中で感謝いたしますわ」

「直接言いに来な!」

「日差しが弱ければ」

 女船長は大笑いした。

「本当に暑いのが嫌いなんだねえ」

「暑いのが嫌いなのではありません」

 私は少し考える。


「暑い中で、暑いままでいるのが嫌なのです」


「似たようなもんだろ」

「違いますわ」

 大事な違いである。

 暑い景色は美しい。

 冷たいものと組み合わせれば、さらに美味しい。

 つまり、暑さそのものを否定しているわけではない。扱い方の問題なのだ。

 女船長は目を細めた。

「あんた、面白いね」

「よく言われます」

「また来な。もっといいのを取っておく」

「涼しい時間に伺いますわ」

「ははっ!」

 別れの声まで大きかった。

 けれど、悪くない。

 港町マリーノには、ああいう人が似合う。


   ◇


 列車へ戻ると、空気が変わった。

 涼しい。

 静か。

 乾いている。

 港の声が、扉の向こうで一気に遠くなる。

 私は息を吐いた。

「……帰ってまいりましたわ」

「お帰りなさいませ」

 ルークが外套を受け取り、すぐに冷たい布を用意する。昨日より手順が早い。マリーノ滞在の学習が始まっている。

 ノアが買い付けた荷を確認しながら言った。

「すごい量ですね」

「牡蠣は鮮度が命だ」

 アベルはすでに厨房側へ向かっている。

「すぐ用意する。火は使わねえ。冷たいままいく」

「火を使わない料理ですの?」

「料理っていうか、整えるだけだな」

「それも大事ですわ」

 良いものを、良い状態で食べる。

 それも立派な技術である。

 私は首元を冷たい布で拭かれながら、右ソファへ向かった。麻ラグ。涼しい空気。薄い布。港の気配が少し残った体。そして、氷の上の牡蠣。


 完璧な予感がする。


 アベルは短い時間で準備を整えた。

 大きめの皿。

 細かく砕いた氷。

 その上に並ぶ牡蠣。

 横には、切った柑橘。

 小さな器に、白い海塩。

 余計な飾りはない。

 それが良かった。

 氷が光っている。牡蠣の殻は、海の石みたいに少し荒い。中の身は、つやりとして、見るからに冷たい。

「……これは」

 私は小さく息を吸った。


「海ですわね」


 アベルが頷いた。

「海だな」

 ノアが横から言う。

「会話が雑なのに、なんか伝わる」

 伝わればよいのである。


   ◇


 ルークが小さな皿を私の前に置いた。

「お嬢様、少量ずつ」

「分かっていますわ」

「一気に召し上がらないように」

「信用がありませんわね」

「ございます。ですので先に申し上げております」

 どういう意味だろう。

 私は深く追及しないことにした。

 アベルが牡蠣を一つ、丁寧に開いてくれる。柑橘を少しだけ搾る。

 香りが立った。

 海の匂い。

 柑橘の明るい香り。

 氷の冷たさ。

 全部が、小さな殻の中にまとまっている。

「まずは、そのまま」

 アベルが言った。

 私は小さく頷き、牡蠣を口に運んだ。

 冷たい。

 まず、そう思った。

 けれど、果実水の冷たさとは違う。氷の冷たさとも違う。

 海の冷たさだった。

 つるりと舌に乗り、柑橘の酸味が先に弾ける。そのあと、濃い旨味がゆっくり広がった。塩気。甘み。海の香り。喉を通る時まで、冷たさが残る。

「……」

 私は目を閉じた。


 これは、声を出すのが少し惜しい。


 外の港は暑かった。日差しも強かった。声も大きかった。潮風もべたついた。

 でも、その全部が、この一口のための前振りだった気がした。

「お嬢様?」

 ルークが声をかける。

 私は目を開けた。

「……大変よろしいですわ」

 アベルが満足そうに笑った。

「だろ」

「果実水とは違います」

「そりゃ違うな」

「冷たいのに、味が深いです」

「いい牡蠣だからな」

「女船長、良い方ですわね」

「牡蠣で判断したな」

「牡蠣は重要です」

 人柄のすべてとは言わない。

 けれど、良い牡蠣を出してくれる人は、少なくとも今の私にとって良い人である。


   ◇


 二つ目は、海塩をほんの少しだけ足した。

 味が締まる。

 三つ目は、柑橘を少し多めにした。

 明るくなる。

 四つ目は、何も足さずに食べた。

 海の味が一番まっすぐ来た。

 どれも良い。

 困るほど良い。

 氷の上で冷やされた牡蠣は、食べるたびに少しずつ表情が変わった。マリーノの海は、窓から見るだけでも美しい。けれど、こうして口に入ると、まったく別の説得力がある。

 ノアも自分の分を食べて、静かに固まっていた。

「ノア?」

「……うまいです」

「でしょう?」

「これは港に行った価値ありますね」

「ええ。石段の価値はありました」

「石段の価値」

 言ってから、少しおかしいと思った。

 でも本当である。

 あの眩しさ。あの声。あの潮風。少し疲れた体で戻ってきて、涼しい車内で食べる冷たい牡蠣。この順番に意味がある。

 ただ最初から車内に牡蠣が置いてあるだけでは、ここまで強くなかったかもしれない。


 外の不快は、正しく短く味わえば、中の快適を引き立てる。


 ただし、長居は不要である。


「次も朝に行きましょう」

 私が言うと、ノアが笑った。

「行く気はあるんですね」

「もちろん。涼しいうちに、短時間だけ」

「条件付き観光」

「賢い観光ですわ」

 ルークが静かに頷いた。

「明日以降も、日差しの弱い時間で調整いたします」

「お願いします」

 完璧である。

 港町マリーノは、無理をせず楽しむべき町なのだ。


   ◇


 牡蠣の皿は、思ったより早く空に近づいた。

 もちろん、食べすぎてはいけない。ルークの目がある。アベルも、最初から量を調整している。

 けれど、満足感は十分だった。

 氷の透明感。柑橘の香り。海塩の白さ。牡蠣の冷たさ。どれも、この港町でなければ出ない味だった。

 私は右ソファに身を預ける。

 喉の奥に、まだ海の余韻が残っている。

「……生牡蠣というものは」

 私はゆっくり言った。


「冷たい料理というより、冷たい景色を食べている感じがしますわね」


 ノアが少し考える。

「詩的なのに、なんか分かります」

「でしょう?」

 アベルが皿を下げながら言う。

「次はスープにするか」

「スープ?」

「この日差しなら、冷製がいい。トマトもあるし、柑橘も使える。今日の魚の出汁も少し取れる」

 冷製スープ。

 その響きだけで、私は少し背筋を伸ばした。

 生牡蠣は満足した。

 たいへん満足した。

 けれど、それは海をそのまま食べる冷たさだった。

 スープはたぶん違う。

 もっとなめらかで、喉を通って、昼の暑さを内側から静かに冷やすもの。

 別の冷たさだ。

「それは」

 私は小さく頷いた。


「必要ですわね」


「また必要になった」

 ノアが言う。

「必要なものが多い町なのです」

 マリーノは困った町である。外は暑い。潮風はべたつく。日差しは眩しい。石段も多い。そのくせ、冷たい果実水が美味しい。生牡蠣も美味しい。さらに冷製スープまでありそうだ。

 たいへん忙しい。

 主に胃袋が。

 私は窓の外を見る。

 青い海。白い壁。港の帆。遠くに、女船長らしき姿が見えた。こちらに気づいたのか、大きく手を振っている。

 たぶん、声も出している。防音ガラス越しなので、よく聞こえない。それが少しありがたい。

 私は小さく会釈を返した。

 女船長は、さらに大きく笑ったようだった。

「……次に伺う時は」

 私は呟く。

「もっと涼しい時間がよろしいですわね」

 ルークが即座に答える。

「調整いたします」

 アベルは厨房へ戻りながら言った。

「昼は冷製スープだな」

 私は右ソファに深く沈んだ。

 氷の上の生牡蠣は、十分に満足した。

 それでも、昼の日差しはまだ強い。


 ならば次は、別の冷たい正解を探す時間である。

生牡蠣回でした。


氷、

柑橘、

海塩、

朝の港。


冷たいものにも、

いろいろ種類があります。


次回、

冷製トマトスープです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ