037 潮風を落としたあとの冷たい果実水が染みますわ
マリーノの海は綺麗でした。
白い壁も、
青い海も、
港の活気も素敵です。
ただし、
潮風は思ったより残ります。
冷たい布が、首元に触れた。
ひやり。
「……っ」
思わず肩が少し上がる。けれど、すぐに力が抜けた。
外套はもうルークに預けた。石段で少し重くなった足も、乾いた床に戻っている。それでも首元と髪の表面には、まだ潮風の気配が残っていた。
雨の湿気とは違う。
濡れているわけではない。けれど、薄く、細かく、肌の上に残る。
「……海風は、綺麗な顔をしてなかなか厄介ですわね」
私が呟くと、ノアが窓際で頷いた。
「塩気がありますからね」
「風なのに?」
「海の近くですから」
「風は風だけでいてほしいですわ」
「海に無茶言いますね」
無茶ではない。こちらは少し景色を見に行っただけなのだ。
白い壁も青い海も素晴らしかった。港の声も悪くなかった。けれど、肌に残る塩の気配までは頼んでいない。
ルークが布を取り替えた。
今度の布は、さらに冷たい。けれど氷のようではない。冷えすぎず、首元の熱だけを静かに取っていく温度だった。
「お嬢様、冷たすぎませんか」
「ちょうどいいですわ」
「では、この温度で」
返事が早い。
こういう時のルークは、私より先に快適の正解を探している。たいへん頼もしい。
私は右ソファへ座る前に、もう一度首元を冷たい布へ預けた。
外で受けた日差しが、ゆっくりほどけていく。
雨の滞在では乾きたかった。
今は、冷えたい。
季節が変わると、欲しい快適も変わるらしい。
◇
ラウンジの空気は、いつもより少し涼しかった。
冷たい、というほどではない。けれど、外の日差しを受けた肌には、はっきり分かる涼しさだった。
窓の向こうでは海がきらきら光っている。白い壁の家々、赤い屋根、坂道、遠くの帆船。全部が明るい。
でも、防音ガラスと涼しい空気を挟むと、その明るさも少しだけ優しくなる。
「外で見ると、少し強すぎましたのに」
私は窓の外を眺めながら言った。
「中から見ると、ちょうどいいですわね」
ノアが小さく笑う。
「いつもの結論ですね」
「大事な結論です」
外の景色は、外にあるから美しい。けれど、こちらが快適であることも同じくらい大事だ。
私は室内履きを脱ぎ、右ソファの前で足先を少し動かした。麻ラグがさらりと触れる。ウォータンで敷いた麻ラグは、この海辺でもたいへん優秀だった。
湿気にも良い。
暑さにも良い。
足元を重くしない。
「麻ラグ、続投ですわね」
「完全に季節装備になりましたね」
ノアが言う。
「ええ。これはよい買い物でした」
「買ったというより、積んであったのを出しただけですけど」
「使うべき時に使うのも才能ですわ」
「便利な才能だ」
私は右ソファへ腰を下ろした。
ふかり。
背中が沈む。
けれど、今日は毛布はいらない。
ルークが代わりに、白くて軽い布を一枚持ってきた。風を通しそうな、涼しげな布だった。
「こちらを」
「まあ。涼しそうですわ」
「冷えすぎ防止です」
「冷やしたいのに、冷えすぎてはいけない」
「はい」
「なかなか繊細ですわね」
「お嬢様の快適は、繊細でございますので」
その通りである。
暑いのは嫌。
けれど冷えすぎるのも違う。
ちょうどよく涼しい。
その一点を目指すべきなのだ。
◇
厨房側から、かろん、と涼しい音がした。
陶器ではない。金属でもない。氷が器に触れるような、軽い音だった。
私は顔を上げる。
「アベル」
「言う前に持ってきたぞ」
アベルが、細長いグラスを持ってきた。
まだマリーノで、硝子器は買っていない。だから、これは白銀列車に元からある細身の器だった。
透明な器の中に、淡い黄色の果実水が入っている。薄く切った柑橘が浮いていて、小さな氷が二つだけ入っていた。
多すぎない。
少なすぎない。
見るだけで、喉がそれを求めた。
「……冷たいですの?」
「冷たい」
「甘いですの?」
「少しだけ」
「酸味は?」
「ある」
「完璧では?」
「飲んでから言え」
もっともだった。
私はグラスを両手で受け取る。指先に冷たさが移った。
雨の日のポトフは、器を持つだけで温かかった。
今は逆だ。
グラスを持つだけで、外の熱が少し下がる気がする。
氷が小さく鳴った。
からん。
私はひと口飲んだ。
「……」
冷たい。
けれど、痛いほどではない。
最初に柑橘の酸味が来る。そのあとに、ほんの少しだけ甘さが残る。喉を通る時、外で浴びた日差しが、内側から静かに薄まっていく気がした。
「……染みますわ」
声が自然に落ちた。
アベルが満足そうに頷く。
「だろ」
「これは、今飲むための味ですわ」
「暑い外から戻った顔してたからな」
「そんな顔でした?」
「完全に」
少し恥ずかしい。
けれど否定はできない。
私はもう一口飲んだ。
酸味。冷たさ。薄い甘み。それから、柑橘の皮の香り。白い港町の景色が、体の中で少し涼しくなるような味だった。
ノアが自分の分を受け取って、ひと口飲む。
「うわ。うま」
「でしょう?」
「ティアさんが作ったわけじゃないですけど」
「私は正しく味わっています」
「役割分担ですね」
その通りである。
◇
冷たい果実水を飲むと、潮風のべたつきまで少し遠くなった。
もちろん、実際には首元を拭いたからだろう。空調も効いている。薄い布も心地よい。けれど、最後に決めるのは飲み物だった。
喉から入る冷たさは、外側からの涼しさとは違う。体の中に、細い水路ができるような感じがする。
私はグラスを見つめた。
淡い黄色。
氷。
薄い柑橘。
とても綺麗だ。
ただ、少しだけ思う。
「……これ、もっと綺麗な器でも飲んでみたいですわね」
ノアがすぐ顔を上げた。
「始まりました?」
「何がですの」
「新しい生活道具が欲しくなる流れです」
「まだ言っておりません」
「顔に書いてあります」
失礼である。
しかし、否定はしきれない。
冷たいものは、味だけでは足りない気がした。
見た目も冷たくあるべきだ。
透明で、厚みがあって、光を受けると少し青く見えるような器。そういうものがあれば、この果実水はもっと涼しくなる。
アベルが鼻で笑った。
「器まで冷やす気か」
「冷たさは、目でも味わうものですわ」
「まあ、分からなくはない」
「でしょう?」
「港町なら、ガラスのいい器くらいありそうだな」
ガラス。
その言葉は、とてもよかった。
冷たい果実水。
柑橘。
海の光。
硝子器。
かなり相性が良い。
「それは、いずれ確認が必要ですわね」
「今すぐ行くなよ」
アベルが言う。
「行きませんわ」
今は外へ戻りたくない。白い壁も青い海も美しいが、今の私は涼しい空調と果実水の側にいるべきだ。
ルークが薄い布を少し整える。
「お嬢様、首元はいかがですか」
「かなり落ち着きました」
「では、もう一度だけ冷たい布を」
「お願いします」
冷たい布。
涼しい空気。
柑橘の果実水。
薄い布。
外ではなく、車内で見る海。
これでようやく、マリーノの景色を楽しむ準備が整った気がした。
◇
私は右ソファへ深く沈んだ。
グラスは小卓の上。薄い布は膝。足先は麻ラグ。窓の外には、青い海が光っている。
遠くで女船長の声がしたような気がした。防音ガラス越しなので、はっきりとは聞こえない。でも、港が元気であることは分かる。
魚。
帆船。
白い石段。
眩しい日差し。
あの中にずっといるのは大変だ。けれど、こうして涼しい場所から眺めると、港町マリーノはとても良い。
「外の活気は、窓越しでちょうどよろしいですわね」
私が言うと、ノアが笑った。
「観光地に来た人の感想じゃないですね」
「私は快適に観光したいのです」
「観光の方を快適に寄せるんだ」
「当然ですわ」
旅は苦労するためにするものではない。美しいものを、最も良い状態で眺めるためにするものだ。
暑ければ冷やす。
眩しければ遮る。
喉が渇けば果実水を飲む。
それができるから、白銀列車は素晴らしい。
私はもう一度、果実水を飲んだ。
からん。
氷が鳴る。
酸味が、舌の上で小さく弾けた。
「……これは採用ですわね」
アベルが腕を組む。
「果実水か?」
「ええ。マリーノ滞在中の標準装備です」
「了解」
短い返事だった。だが、もう次から当然のように出てくるだろう。この安心感がすごい。
ルークが後ろ斜めから言う。
「外出前にもご用意いたします」
「外出前?」
「日差しを浴びる前に、少し水分を」
「なるほど。外に出るための果実水ですのね」
「はい」
外へ出る前に冷やす。
戻ってからまた冷やす。
完璧な作戦である。
マリーノ攻略ではない。
マリーノ快適滞在計画である。
◇
しばらくして、グラスの中の氷が小さくなった。
果実水も残り少ない。外の海は、まだ強く光っている。
私は首元の布を外し、ひと息ついた。もう、潮風のべたつきはほとんど気にならない。肌も落ち着いた。喉も潤った。足も少し軽い。
ただ、港の方を見ると、別の欲望が少しだけ生まれる。
魚市場。
帆船。
氷の箱。
柑橘の籠。
そして、先ほど聞こえた女船長の声。
「あの港には、冷たいものがまだありそうですわね」
ノアが窓の外を見る。
「海鮮ですか?」
「ええ」
海の近く。
氷。
柑橘。
新鮮な貝。
それらが揃うなら、きっと次の冷たい快適がある。
アベルも同じことを考えていたらしく、厨房側から言った。
「明日、港を見るか」
「暑くありません?」
「朝なら少しはましだろ」
ルークが静かに付け加える。
「日差しが強くなる前に」
なるほど。
朝。
短時間。
日差し対策。
そして、帰ってきたら冷たいもの。
完璧に近い。
「では、明日は港を見ましょう」
私は言った。
「ただし、涼しいうちに」
「はいはい」
ノアが笑う。
私は最後の果実水を飲み干した。柑橘の香りが、口の中に少しだけ残る。
窓の向こうでは、青い海がまぶしく光っていた。
外の海風は少しべたつく。
けれど、そのあとに飲む冷たい果実水は、たいへんよろしい。
マリーノという町は、どうやら外と内を行き来するほど、美味しくなる場所らしい。
冷たい果実水回でした。
暑い外から戻って飲む、
柑橘系の冷たい飲み物。
かなり強いです。
次回、
港町の女船長と氷の上の生牡蠣です。




