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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第4章 冷製スープとガラス器編 〜海風の港町マリーノ〜

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37/84

037 潮風を落としたあとの冷たい果実水が染みますわ

マリーノの海は綺麗でした。


白い壁も、

青い海も、

港の活気も素敵です。


ただし、

潮風は思ったより残ります。

 冷たい布が、首元に触れた。


 ひやり。


「……っ」

 思わず肩が少し上がる。けれど、すぐに力が抜けた。

 外套はもうルークに預けた。石段で少し重くなった足も、乾いた床に戻っている。それでも首元と髪の表面には、まだ潮風の気配が残っていた。

 雨の湿気とは違う。

 濡れているわけではない。けれど、薄く、細かく、肌の上に残る。

「……海風は、綺麗な顔をしてなかなか厄介ですわね」

 私が呟くと、ノアが窓際で頷いた。

「塩気がありますからね」

「風なのに?」

「海の近くですから」

「風は風だけでいてほしいですわ」

「海に無茶言いますね」

 無茶ではない。こちらは少し景色を見に行っただけなのだ。

 白い壁も青い海も素晴らしかった。港の声も悪くなかった。けれど、肌に残る塩の気配までは頼んでいない。

 ルークが布を取り替えた。

 今度の布は、さらに冷たい。けれど氷のようではない。冷えすぎず、首元の熱だけを静かに取っていく温度だった。

「お嬢様、冷たすぎませんか」

「ちょうどいいですわ」

「では、この温度で」

 返事が早い。

 こういう時のルークは、私より先に快適の正解を探している。たいへん頼もしい。

 私は右ソファへ座る前に、もう一度首元を冷たい布へ預けた。

 外で受けた日差しが、ゆっくりほどけていく。

 雨の滞在では乾きたかった。

 今は、冷えたい。


 季節が変わると、欲しい快適も変わるらしい。


   ◇


 ラウンジの空気は、いつもより少し涼しかった。

 冷たい、というほどではない。けれど、外の日差しを受けた肌には、はっきり分かる涼しさだった。

 窓の向こうでは海がきらきら光っている。白い壁の家々、赤い屋根、坂道、遠くの帆船。全部が明るい。

 でも、防音ガラスと涼しい空気を挟むと、その明るさも少しだけ優しくなる。

「外で見ると、少し強すぎましたのに」

 私は窓の外を眺めながら言った。

「中から見ると、ちょうどいいですわね」

 ノアが小さく笑う。

「いつもの結論ですね」

「大事な結論です」

 外の景色は、外にあるから美しい。けれど、こちらが快適であることも同じくらい大事だ。

 私は室内履きを脱ぎ、右ソファの前で足先を少し動かした。麻ラグがさらりと触れる。ウォータンで敷いた麻ラグは、この海辺でもたいへん優秀だった。

 湿気にも良い。

 暑さにも良い。

 足元を重くしない。

「麻ラグ、続投ですわね」

「完全に季節装備になりましたね」

 ノアが言う。

「ええ。これはよい買い物でした」

「買ったというより、積んであったのを出しただけですけど」

「使うべき時に使うのも才能ですわ」

「便利な才能だ」

 私は右ソファへ腰を下ろした。

 ふかり。

 背中が沈む。

 けれど、今日は毛布はいらない。

 ルークが代わりに、白くて軽い布を一枚持ってきた。風を通しそうな、涼しげな布だった。

「こちらを」

「まあ。涼しそうですわ」

「冷えすぎ防止です」

「冷やしたいのに、冷えすぎてはいけない」

「はい」

「なかなか繊細ですわね」

「お嬢様の快適は、繊細でございますので」

 その通りである。

 暑いのは嫌。

 けれど冷えすぎるのも違う。

 ちょうどよく涼しい。


 その一点を目指すべきなのだ。


   ◇


 厨房側から、かろん、と涼しい音がした。


 陶器ではない。金属でもない。氷が器に触れるような、軽い音だった。

 私は顔を上げる。

「アベル」

「言う前に持ってきたぞ」

 アベルが、細長いグラスを持ってきた。

 まだマリーノで、硝子器は買っていない。だから、これは白銀列車に元からある細身の器だった。

 透明な器の中に、淡い黄色の果実水が入っている。薄く切った柑橘が浮いていて、小さな氷が二つだけ入っていた。

 多すぎない。

 少なすぎない。

 見るだけで、喉がそれを求めた。

「……冷たいですの?」

「冷たい」

「甘いですの?」

「少しだけ」

「酸味は?」

「ある」

「完璧では?」

「飲んでから言え」

 もっともだった。

 私はグラスを両手で受け取る。指先に冷たさが移った。

 雨の日のポトフは、器を持つだけで温かかった。

 今は逆だ。


 グラスを持つだけで、外の熱が少し下がる気がする。


 氷が小さく鳴った。

 からん。

 私はひと口飲んだ。

「……」

 冷たい。

 けれど、痛いほどではない。

 最初に柑橘の酸味が来る。そのあとに、ほんの少しだけ甘さが残る。喉を通る時、外で浴びた日差しが、内側から静かに薄まっていく気がした。


「……染みますわ」


 声が自然に落ちた。

 アベルが満足そうに頷く。

「だろ」

「これは、今飲むための味ですわ」

「暑い外から戻った顔してたからな」

「そんな顔でした?」

「完全に」

 少し恥ずかしい。

 けれど否定はできない。

 私はもう一口飲んだ。

 酸味。冷たさ。薄い甘み。それから、柑橘の皮の香り。白い港町の景色が、体の中で少し涼しくなるような味だった。

 ノアが自分の分を受け取って、ひと口飲む。

「うわ。うま」

「でしょう?」

「ティアさんが作ったわけじゃないですけど」

「私は正しく味わっています」

「役割分担ですね」

 その通りである。


   ◇


 冷たい果実水を飲むと、潮風のべたつきまで少し遠くなった。

 もちろん、実際には首元を拭いたからだろう。空調も効いている。薄い布も心地よい。けれど、最後に決めるのは飲み物だった。

 喉から入る冷たさは、外側からの涼しさとは違う。体の中に、細い水路ができるような感じがする。

 私はグラスを見つめた。

 淡い黄色。

 氷。

 薄い柑橘。

 とても綺麗だ。

 ただ、少しだけ思う。


「……これ、もっと綺麗な器でも飲んでみたいですわね」


 ノアがすぐ顔を上げた。

「始まりました?」

「何がですの」

「新しい生活道具が欲しくなる流れです」

「まだ言っておりません」

「顔に書いてあります」

 失礼である。

 しかし、否定はしきれない。

 冷たいものは、味だけでは足りない気がした。

 見た目も冷たくあるべきだ。

 透明で、厚みがあって、光を受けると少し青く見えるような器。そういうものがあれば、この果実水はもっと涼しくなる。

 アベルが鼻で笑った。

「器まで冷やす気か」

「冷たさは、目でも味わうものですわ」

「まあ、分からなくはない」

「でしょう?」

「港町なら、ガラスのいい器くらいありそうだな」

 ガラス。

 その言葉は、とてもよかった。

 冷たい果実水。

 柑橘。

 海の光。

 硝子器。

 かなり相性が良い。

「それは、いずれ確認が必要ですわね」

「今すぐ行くなよ」

 アベルが言う。

「行きませんわ」

 今は外へ戻りたくない。白い壁も青い海も美しいが、今の私は涼しい空調と果実水の側にいるべきだ。

 ルークが薄い布を少し整える。

「お嬢様、首元はいかがですか」

「かなり落ち着きました」

「では、もう一度だけ冷たい布を」

「お願いします」

 冷たい布。

 涼しい空気。

 柑橘の果実水。

 薄い布。

 外ではなく、車内で見る海。

 これでようやく、マリーノの景色を楽しむ準備が整った気がした。


   ◇


 私は右ソファへ深く沈んだ。

 グラスは小卓の上。薄い布は膝。足先は麻ラグ。窓の外には、青い海が光っている。

 遠くで女船長の声がしたような気がした。防音ガラス越しなので、はっきりとは聞こえない。でも、港が元気であることは分かる。

 魚。

 帆船。

 白い石段。

 眩しい日差し。

 あの中にずっといるのは大変だ。けれど、こうして涼しい場所から眺めると、港町マリーノはとても良い。

「外の活気は、窓越しでちょうどよろしいですわね」

 私が言うと、ノアが笑った。

「観光地に来た人の感想じゃないですね」

「私は快適に観光したいのです」

「観光の方を快適に寄せるんだ」

「当然ですわ」

 旅は苦労するためにするものではない。美しいものを、最も良い状態で眺めるためにするものだ。

 暑ければ冷やす。

 眩しければ遮る。

 喉が渇けば果実水を飲む。


 それができるから、白銀列車は素晴らしい。


 私はもう一度、果実水を飲んだ。

 からん。

 氷が鳴る。

 酸味が、舌の上で小さく弾けた。

「……これは採用ですわね」

 アベルが腕を組む。

「果実水か?」

「ええ。マリーノ滞在中の標準装備です」

「了解」

 短い返事だった。だが、もう次から当然のように出てくるだろう。この安心感がすごい。

 ルークが後ろ斜めから言う。

「外出前にもご用意いたします」

「外出前?」

「日差しを浴びる前に、少し水分を」

「なるほど。外に出るための果実水ですのね」

「はい」

 外へ出る前に冷やす。

 戻ってからまた冷やす。

 完璧な作戦である。

 マリーノ攻略ではない。


 マリーノ快適滞在計画である。


   ◇


 しばらくして、グラスの中の氷が小さくなった。

 果実水も残り少ない。外の海は、まだ強く光っている。

 私は首元の布を外し、ひと息ついた。もう、潮風のべたつきはほとんど気にならない。肌も落ち着いた。喉も潤った。足も少し軽い。

 ただ、港の方を見ると、別の欲望が少しだけ生まれる。

 魚市場。

 帆船。

 氷の箱。

 柑橘の籠。

 そして、先ほど聞こえた女船長の声。

「あの港には、冷たいものがまだありそうですわね」

 ノアが窓の外を見る。

「海鮮ですか?」

「ええ」

 海の近く。

 氷。

 柑橘。

 新鮮な貝。

 それらが揃うなら、きっと次の冷たい快適がある。

 アベルも同じことを考えていたらしく、厨房側から言った。

「明日、港を見るか」

「暑くありません?」

「朝なら少しはましだろ」

 ルークが静かに付け加える。

「日差しが強くなる前に」

 なるほど。

 朝。

 短時間。

 日差し対策。

 そして、帰ってきたら冷たいもの。

 完璧に近い。

「では、明日は港を見ましょう」

 私は言った。

「ただし、涼しいうちに」

「はいはい」

 ノアが笑う。

 私は最後の果実水を飲み干した。柑橘の香りが、口の中に少しだけ残る。

 窓の向こうでは、青い海がまぶしく光っていた。

 外の海風は少しべたつく。

 けれど、そのあとに飲む冷たい果実水は、たいへんよろしい。


 マリーノという町は、どうやら外と内を行き来するほど、美味しくなる場所らしい。

冷たい果実水回でした。


暑い外から戻って飲む、

柑橘系の冷たい飲み物。


かなり強いです。


次回、

港町の女船長と氷の上の生牡蠣です。


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