036 冷たい海風は素敵ですが、潮風は少しべたつきますわ
雨の停留所を出ました。
次は南へ。
冷たいものが食べたい、
と言った結果。
海まで来てしまいました。
窓の外が、青かった。
雨の灰色ではない。雪の白でもない。視界いっぱいに広がる、明るい青。
海だった。
「……まあ」
私は右ソファから身を起こし、思わず窓の方へ身を乗り出した。
白い壁の家々、坂道、赤い屋根。港には帆船が並び、海はきらきら光っている。
空は高く、日差しはまぶしい。
雨待ちの停留所ウォータンで灰色の平原ばかり見ていたせいか、この景色は少し強いくらいだった。
でも、悪くない。
いいえ。
かなり良い。
「ノア」
「はい」
「海ですわ」
「見れば分かります」
「とても青いですわ」
「それも見れば分かります」
もう少し感動してもよいのではないかしら。
私は窓に近づき、白銀列車がゆっくり坂の下へ降りていく景色を眺めた。
港町マリーノ。
南部の沿岸にある、海風の町。聞いていた通り、町は白い壁と青い海でできているように見えた。
遠くからは、魚を運ぶ声や、帆を畳む音も聞こえてくる。白銀列車の防音越しなので、音はやわらかい。外の賑わいだけが、少し丸くなって届いていた。
「冷たいものが似合う景色ですわね」
私が言うと、アベルが厨房側から顔を出した。
「言うと思った」
「だって、見てくださいませ。この青い海。この白い壁。この日差し。冷たいスープか、冷たい果実水がなければ不自然ですわ」
「景色に食い物を要求するな」
「景色から提案されているのです」
アベルは少しだけ笑った。
「まあ、南の港なら材料には困らねえだろ」
それは良い知らせだった。
私はまた窓の外を見る。雨上がりの平原もよかった。でも、海には海の強さがある。明るい。眩しい。冷たいものを食べたくなる。
完璧である。
今のところは。
◇
白銀列車は、港の外れに静かに停まった。
町の中心からは少し離れている。けれど、海はよく見える。白い石段の坂道を下れば、港の方へ出られるらしい。
私は立ち上がった。
「少し見に行きますわ」
ルークがすぐに薄手の外套を差し出す。
「日差しが強うございます」
「外套が必要なほどですの?」
「日除けです」
「なるほど」
雪国では防寒。雨の停留所では防水。そして海辺では日除け。外套というものも、土地によって仕事が変わるらしい。
ノアが窓側から言った。
「外、けっこう暑そうですよ」
「少しだけですわ」
「また三分で帰ってきたりしません?」
「しません」
たぶん。
今回は雨ではない。泥もない。青い海である。きっと大丈夫だろう。
扉が開く。
外の空気が流れ込んだ。
明るい。
まず、そう思った。
空気に光が混ざっているようだった。
それから、潮の匂い。魚の匂い。遠くで焼かれている何かの香ばしさ。雨の土地の湿った土とは、まるで違う匂いがした。
「……これは、なかなか」
一歩出る。
風が吹いた。
海風だった。
冷たい。
ほんの少しだけ。
頬に当たった瞬間は、とても気持ちがいい。雨の湿気とは違う。さらりとしていて、明るくて、開けている。
「素敵ですわね」
私は素直に言った。
ルークが隣に立つ。
「日差しが強いので、長時間は避けた方がよろしいかと」
「少しくらい大丈夫ですわ」
そう言って、私は港へ続く白い石段へ向かった。
最初の十歩は、本当に良かった。
海が見える。風が通る。白い壁に日差しが反射して、町全体が明るい。雨のあとに来るには、申し分ない景色だった。
けれど、階段を少し下りたあたりで足を止めた。
「……まぶしいですわね」
「はい」
ルークが即座に日傘を差した。
白い壁が光を返してくる。海も光る。石段も光る。どこを見ても明るい。
美しい。
美しいが、目に強い。
さらに数段下りると、海風がもう一度吹いた。頬には気持ちいい。けれど、髪の表面に何かが残る。
雨の湿気とは違う。
もっと細かく、薄く、塩の気配がある。首元にも、少しだけべたつきが残った。
「……あら」
私は指先で髪の端に触れた。
濡れてはいない。
だが、完全にさらさらでもない。
海風である。
美しい顔をして、なかなか油断ならない。
「戻りますか」
ルークが言った。
「まだですわ」
「承知しました」
返事は早い。しかし、戻る準備はすでにしている顔だった。
◇
港の方から、大きな声が聞こえた。
「そこ、荷を先に降ろしな! 魚は待ってくれないよ!」
女の声だった。太くて、明るくて、よく通る声。港の帆船の上で、日に焼けた女が腕を振っている。
たぶん船長だ。
周囲の男たちが慌てて動き、木箱を運んでいる。魚、貝、氷、柑橘らしき籠。港の匂いが、いっそう強くなった。
アベルが見たら喜びそうだった。
私も少し興味がある。
かなり興味がある。
けれど、今の私は日差しと海風と石段を同時に受けている。優先順位は大事である。
「……あの方は?」
私が尋ねると、ノアが手元の小さな帳面を見た。
「たぶん、この港の船長の一人ですね。魚市場でも有名らしいです」
「海鮮に詳しい方?」
「たぶん」
「それは、後でご挨拶が必要ですわね」
「今じゃなくて?」
私は石段を見る。
港までは、まだ少しある。白い石段は美しい。美しいが、下りれば帰りに上らなければならない。しかも日差しは強い。海風はべたつく。港は声が大きい。
「今ではありませんわ」
私はきっぱり言った。
「たいへん重要な出会いほど、涼しい状態で臨むべきです」
「ただ戻りたいだけでは?」
「準備が必要なのです」
ノアは笑った。
ルークは何も言わなかった。ただ、日傘の角度を少し変えた。その気遣いがありがたい。
石段の途中から見下ろす海は、本当に綺麗だった。帆船の白。海の青。魚市場の活気。空の光。どれも美しい。
ただ、その美しさを直接受け続けるには、少し体力がいる。
私は、だんだん分かってきた。
海は美しい。
港も楽しい。
しかし、楽しむには冷たい飲み物が必要である。
◇
列車へ戻る頃には、私はすっかり無言になっていた。
疲れたわけではない。
いいえ。
少し疲れた。
石段は思ったより足にくる。潮風は思ったより肌に残る。日差しは思ったより強い。どれも一つ一つは悪くない。むしろ、景色としてはかなり良い。
けれど全部をまとめて受けると、少しだけ体が冷たいものを要求し始める。
扉の前で、私は立ち止まった。
白銀列車の大きな窓に、青い海が映っている。内側には、琥珀色の灯りと乾いた木の床。そこに戻れば、日差しも潮風も、適切な距離になる。
「……海風は」
私は小さく言った。
「窓越しなら、かなり素敵ですわね」
ノアが隣で笑う。
「また条件がついた」
「条件は生活を守るために必要です」
「名言っぽい」
「事実ですわ」
ルークが扉を開けた。
ひんやりした空気が、中から静かに流れてくる。冷たすぎない。でも、外の熱を受けた頬には、はっきり分かる涼しさだった。
私は思わず目を細める。
「……これは」
まだ入っていない。
けれど、もう分かる。
外の明るさで少し疲れた目。潮風でべたついた首元。石段で重くなった足。それらが、今すぐ中へ入りなさいと言っている。
「お帰りなさいませ」
ルークが静かに言った。
私は頷き、白銀列車へ一歩戻った。
床が乾いている。空気が涼しい。木の匂いが落ち着いている。外の潮の匂いが、ゆっくり後ろへ離れていく。
ああ。
やはり、うちは良い。
私は外套をルークに預けながら、首元に手を当てた。
「ルーク」
「はい」
「冷たい布をお願いします」
「すでに」
返事が早い。
素晴らしい。
アベルが厨房側から顔を出した。
「戻ったか」
「戻りましたわ」
「顔が完全に、冷たいもの欲しい顔だな」
「では、冷たいものをくださいませ」
「まだ何も言ってねえ」
「言う前から分かっているなら、出していただいてもよろしいのでは?」
アベルは呆れたように笑った。
「果実水、冷やしてある」
「素晴らしいですわ」
今すぐ飲みたい。
とても飲みたい。
でも、ここで一気に完成させてはいけない気がした。
首元を拭く。少し涼む。それから、冷たい果実水。
この順番がきっと正しい。
私はラウンジの方を見る。
右ソファがある。いつも通り、そこは空いている。けれど今日は、ただ沈むだけでは足りない。
冷たい布。
涼しい空調。
果実水。
海風でべたついた体を、外側と内側から少しずつ整える必要がある。
「……マリーノ、良い町ですわね」
私は小さく呟いた。
ノアが首を傾げる。
「疲れた顔で言います?」
「良い町ですわ」
白い壁。青い海。港の声。魚の匂い。日差し。石段。潮風。どれも美しかった。
ただし、直接受け続けるには強い。
「ですが」
私は冷たい布を受け取りながら、しみじみと言った。
「冷たいものがないと、少し大変ですわ」
首元に布を当てる。
ひやり。
思わず息が止まる。
次の瞬間、外で受けた熱がゆっくりほどけ始めた。
窓の向こうでは、海がきらきら光っている。こちら側では、冷えた果実水の気配が近づいている。
私は右ソファの前で、しばらく動かなかった。
マリーノの海は、たいへん美しい。
そしてたぶん、白銀列車の中で冷たいものを飲みながら見ると、もっと美しい。
南の港町マリーノに着きました。
海は青く、壁は白く、潮風は少しだけ油断なりません。
次は、冷たい果実水でひと息つきます。




