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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第4章 冷製スープとガラス器編 〜海風の港町マリーノ〜

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36/84

036 冷たい海風は素敵ですが、潮風は少しべたつきますわ

雨の停留所を出ました。


次は南へ。


冷たいものが食べたい、

と言った結果。


海まで来てしまいました。

 窓の外が、青かった。


 雨の灰色ではない。雪の白でもない。視界いっぱいに広がる、明るい青。


 海だった。


「……まあ」

 私は右ソファから身を起こし、思わず窓の方へ身を乗り出した。

 白い壁の家々、坂道、赤い屋根。港には帆船が並び、海はきらきら光っている。

 空は高く、日差しはまぶしい。

 雨待ちの停留所ウォータンで灰色の平原ばかり見ていたせいか、この景色は少し強いくらいだった。

 でも、悪くない。

 いいえ。


 かなり良い。


「ノア」

「はい」

「海ですわ」

「見れば分かります」

「とても青いですわ」

「それも見れば分かります」

 もう少し感動してもよいのではないかしら。

 私は窓に近づき、白銀列車がゆっくり坂の下へ降りていく景色を眺めた。

 港町マリーノ。

 南部の沿岸にある、海風の町。聞いていた通り、町は白い壁と青い海でできているように見えた。

 遠くからは、魚を運ぶ声や、帆を畳む音も聞こえてくる。白銀列車の防音越しなので、音はやわらかい。外の賑わいだけが、少し丸くなって届いていた。

「冷たいものが似合う景色ですわね」

 私が言うと、アベルが厨房側から顔を出した。

「言うと思った」

「だって、見てくださいませ。この青い海。この白い壁。この日差し。冷たいスープか、冷たい果実水がなければ不自然ですわ」

「景色に食い物を要求するな」

「景色から提案されているのです」

 アベルは少しだけ笑った。

「まあ、南の港なら材料には困らねえだろ」

 それは良い知らせだった。

 私はまた窓の外を見る。雨上がりの平原もよかった。でも、海には海の強さがある。明るい。眩しい。冷たいものを食べたくなる。


 完璧である。


 今のところは。


   ◇


 白銀列車は、港の外れに静かに停まった。

 町の中心からは少し離れている。けれど、海はよく見える。白い石段の坂道を下れば、港の方へ出られるらしい。

 私は立ち上がった。

「少し見に行きますわ」

 ルークがすぐに薄手の外套を差し出す。

「日差しが強うございます」

「外套が必要なほどですの?」

「日除けです」

「なるほど」

 雪国では防寒。雨の停留所では防水。そして海辺では日除け。外套というものも、土地によって仕事が変わるらしい。

 ノアが窓側から言った。

「外、けっこう暑そうですよ」

「少しだけですわ」

「また三分で帰ってきたりしません?」

「しません」

 たぶん。

 今回は雨ではない。泥もない。青い海である。きっと大丈夫だろう。

 扉が開く。

 外の空気が流れ込んだ。


 明るい。


 まず、そう思った。

 空気に光が混ざっているようだった。

 それから、潮の匂い。魚の匂い。遠くで焼かれている何かの香ばしさ。雨の土地の湿った土とは、まるで違う匂いがした。

「……これは、なかなか」

 一歩出る。

 風が吹いた。

 海風だった。

 冷たい。

 ほんの少しだけ。

 頬に当たった瞬間は、とても気持ちがいい。雨の湿気とは違う。さらりとしていて、明るくて、開けている。

「素敵ですわね」

 私は素直に言った。

 ルークが隣に立つ。

「日差しが強いので、長時間は避けた方がよろしいかと」

「少しくらい大丈夫ですわ」

 そう言って、私は港へ続く白い石段へ向かった。

 最初の十歩は、本当に良かった。

 海が見える。風が通る。白い壁に日差しが反射して、町全体が明るい。雨のあとに来るには、申し分ない景色だった。

 けれど、階段を少し下りたあたりで足を止めた。


「……まぶしいですわね」


「はい」

 ルークが即座に日傘を差した。

 白い壁が光を返してくる。海も光る。石段も光る。どこを見ても明るい。

 美しい。

 美しいが、目に強い。

 さらに数段下りると、海風がもう一度吹いた。頬には気持ちいい。けれど、髪の表面に何かが残る。

 雨の湿気とは違う。

 もっと細かく、薄く、塩の気配がある。首元にも、少しだけべたつきが残った。

「……あら」

 私は指先で髪の端に触れた。

 濡れてはいない。

 だが、完全にさらさらでもない。

 海風である。


 美しい顔をして、なかなか油断ならない。


「戻りますか」

 ルークが言った。

「まだですわ」

「承知しました」

 返事は早い。しかし、戻る準備はすでにしている顔だった。


   ◇


 港の方から、大きな声が聞こえた。

「そこ、荷を先に降ろしな! 魚は待ってくれないよ!」

 女の声だった。太くて、明るくて、よく通る声。港の帆船の上で、日に焼けた女が腕を振っている。

 たぶん船長だ。

 周囲の男たちが慌てて動き、木箱を運んでいる。魚、貝、氷、柑橘らしき籠。港の匂いが、いっそう強くなった。

 アベルが見たら喜びそうだった。

 私も少し興味がある。

 かなり興味がある。

 けれど、今の私は日差しと海風と石段を同時に受けている。優先順位は大事である。

「……あの方は?」

 私が尋ねると、ノアが手元の小さな帳面を見た。

「たぶん、この港の船長の一人ですね。魚市場でも有名らしいです」

「海鮮に詳しい方?」

「たぶん」

「それは、後でご挨拶が必要ですわね」

「今じゃなくて?」

 私は石段を見る。

 港までは、まだ少しある。白い石段は美しい。美しいが、下りれば帰りに上らなければならない。しかも日差しは強い。海風はべたつく。港は声が大きい。


「今ではありませんわ」


 私はきっぱり言った。

「たいへん重要な出会いほど、涼しい状態で臨むべきです」

「ただ戻りたいだけでは?」

「準備が必要なのです」

 ノアは笑った。

 ルークは何も言わなかった。ただ、日傘の角度を少し変えた。その気遣いがありがたい。

 石段の途中から見下ろす海は、本当に綺麗だった。帆船の白。海の青。魚市場の活気。空の光。どれも美しい。

 ただ、その美しさを直接受け続けるには、少し体力がいる。

 私は、だんだん分かってきた。

 海は美しい。

 港も楽しい。


 しかし、楽しむには冷たい飲み物が必要である。


   ◇


 列車へ戻る頃には、私はすっかり無言になっていた。

 疲れたわけではない。

 いいえ。

 少し疲れた。

 石段は思ったより足にくる。潮風は思ったより肌に残る。日差しは思ったより強い。どれも一つ一つは悪くない。むしろ、景色としてはかなり良い。

 けれど全部をまとめて受けると、少しだけ体が冷たいものを要求し始める。

 扉の前で、私は立ち止まった。

 白銀列車の大きな窓に、青い海が映っている。内側には、琥珀色の灯りと乾いた木の床。そこに戻れば、日差しも潮風も、適切な距離になる。

「……海風は」

 私は小さく言った。

「窓越しなら、かなり素敵ですわね」

 ノアが隣で笑う。

「また条件がついた」

「条件は生活を守るために必要です」

「名言っぽい」

「事実ですわ」

 ルークが扉を開けた。

 ひんやりした空気が、中から静かに流れてくる。冷たすぎない。でも、外の熱を受けた頬には、はっきり分かる涼しさだった。

 私は思わず目を細める。


「……これは」


 まだ入っていない。

 けれど、もう分かる。

 外の明るさで少し疲れた目。潮風でべたついた首元。石段で重くなった足。それらが、今すぐ中へ入りなさいと言っている。

「お帰りなさいませ」

 ルークが静かに言った。

 私は頷き、白銀列車へ一歩戻った。

 床が乾いている。空気が涼しい。木の匂いが落ち着いている。外の潮の匂いが、ゆっくり後ろへ離れていく。


 ああ。


 やはり、うちは良い。


 私は外套をルークに預けながら、首元に手を当てた。

「ルーク」

「はい」

「冷たい布をお願いします」

「すでに」

 返事が早い。

 素晴らしい。

 アベルが厨房側から顔を出した。

「戻ったか」

「戻りましたわ」

「顔が完全に、冷たいもの欲しい顔だな」

「では、冷たいものをくださいませ」

「まだ何も言ってねえ」

「言う前から分かっているなら、出していただいてもよろしいのでは?」

 アベルは呆れたように笑った。

「果実水、冷やしてある」

「素晴らしいですわ」

 今すぐ飲みたい。

 とても飲みたい。

 でも、ここで一気に完成させてはいけない気がした。

 首元を拭く。少し涼む。それから、冷たい果実水。

 この順番がきっと正しい。

 私はラウンジの方を見る。

 右ソファがある。いつも通り、そこは空いている。けれど今日は、ただ沈むだけでは足りない。

 冷たい布。

 涼しい空調。

 果実水。

 海風でべたついた体を、外側と内側から少しずつ整える必要がある。

「……マリーノ、良い町ですわね」

 私は小さく呟いた。

 ノアが首を傾げる。

「疲れた顔で言います?」

「良い町ですわ」

 白い壁。青い海。港の声。魚の匂い。日差し。石段。潮風。どれも美しかった。

 ただし、直接受け続けるには強い。

「ですが」

 私は冷たい布を受け取りながら、しみじみと言った。


「冷たいものがないと、少し大変ですわ」


 首元に布を当てる。

 ひやり。

 思わず息が止まる。

 次の瞬間、外で受けた熱がゆっくりほどけ始めた。

 窓の向こうでは、海がきらきら光っている。こちら側では、冷えた果実水の気配が近づいている。

 私は右ソファの前で、しばらく動かなかった。

 マリーノの海は、たいへん美しい。


 そしてたぶん、白銀列車の中で冷たいものを飲みながら見ると、もっと美しい。

南の港町マリーノに着きました。

海は青く、壁は白く、潮風は少しだけ油断なりません。


次は、冷たい果実水でひと息つきます。

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