035 【閑話】雨宿りの行商人と、曇らない窓の向こうの別世界
雨待ちの停留所ウォータン側から見た白銀列車です。
雨の外から見ると、あの窓は少し理不尽でした。
雨は、三日続いていた。
少なくとも、行商人のガロにとっては三日だった。
本当は四日かもしれない。あるいは五日かもしれない。荷車の車輪が泥に沈み、外套の重さが肩に食い込み、靴の中まで湿り始めると、日数などどうでもよくなる。
大事なのは、今も雨が降っているという事実だけだった。
「……止まねえな」
ガロは、石造りの待合所の軒下で呟いた。
返事はない。
あるのは雨音だけだ。
しとしと。
しとしと。
普通の人間が聞けば、静かな雨音なのかもしれない。
だが、濡れた外套を着たまま聞く雨音は、静かでも優しくもない。ただ、いつ終わるか分からない音だった。
荷車には、防水布をかけてある。
それでも完全ではない。布の端から雨水が滴り、革袋の結び目に水が溜まる。
中の商品は、油紙で包んでいる。
乾燥豆、塩、安い茶葉、針、糸、石鹸。
どれも濡れると面倒なものばかりだ。
「もう少し早く出るべきだったか」
そう呟いて、ガロはすぐに首を振った。
早く出ても同じだった。
道はぬかるむ。水牛は進まない。荷車は重い。ウォータンでは、雨が弱まるまで待つしかない。
そういう土地なのだ。
街ではない。
宿場町でもない。
ただ、雨をやり過ごすための石造りの中継所。
旅人はここで外套を絞り、荷車の布を直し、濡れた靴を見下ろしながら空を恨む。そうやって昔から、雨が過ぎるのを待ってきた。
ガロも、その一人だった。
◇
待合所の中には、もう一人いた。
この場所の停留所番だ。
無口な男である。
朝から何度か顔を合わせているが、会話らしい会話はほとんどしていない。
「止むか」
ガロが聞くと、停留所番は空を見た。
「……まだ」
「だよな」
それで終わりだった。
だが、ガロは別に不満ではなかった。長雨の中で、話し続ける元気など誰にもない。
雨の日の会話は短いほどいい。
ガロは荷車の防水布を確かめるため、軒下から一歩出た。
ぬち。
泥が靴底に絡みつく。
たった一歩で、足が重くなる。
「くそ」
小さく吐き捨てて、荷車の布を押さえ直した。
指先が冷たい。
雨は強くない。けれど、弱い雨が長く続く方が厄介なこともある。
外套は少しずつ水を吸う。帽子の縁から雨粒が落ちる。荷車の持ち手は湿って滑る。体は冷えきるほどではないが、温まる瞬間もない。
ずっと半端に冷たい。
それが一番疲れる。
ガロは再び軒下へ戻り、石壁にもたれた。
冷たい。
石も湿っている。
もう座る気にもならなかった。
その時だった。
遠くから、音がした。
がたん。
ごとん。
雨音の向こうに、規則正しい音が混ざる。
ガロは顔を上げた。
「荷車か?」
違う。
水牛の足音ではない。
馬車でもない。
車輪の音にしては、あまりに軽い。それなのに、重みがある。
がたん。
ごとん。
がたん。
ごとん。
停留所番が、静かに待合所の外を見た。
驚いた様子はない。
まるで、最初から来ると知っていたような顔だった。
「何だ、あれは」
ガロは、雨の向こうを見た。
◇
白いものが近づいてきた。
霧ではない。
馬車でもない。
それは列車だった。
いや、列車の形をしているものだった。
だが、ガロの知っている列車とは違う。
王都の方にあるという魔導鉄道の話は、噂で聞いたことがある。貴族や軍が使う、大きくて、高くて、うるさくて、近づきにくいもの。
けれど、目の前に現れた白銀の列車は、そういうものではなかった。
雨の中を滑るように進み、泥を跳ねない。
車体には水滴が流れているのに、汚れては見えない。
車輪の音はある。
けれど、不思議と耳に痛くない。
がたん。
ごとん。
音が、雨の中にきれいに混ざっていた。
「……線路なんて、ここにあったか?」
ガロは思わず呟いた。
なかったはずだ。
少なくとも、自分が昨日まで荷車を引いていた道には、そんなものはなかった。
だが、白銀の列車は当然のように来た。当然のように停まり、雨待ちの停留所の横へ静かに身を寄せた。
停留所番は、何も言わない。
ガロは、口を開けたまま見上げていた。
窓が大きい。
それが最初の感想だった。
次に思ったのは、なぜ曇っていないのか、だった。
この雨だ。
この湿気だ。
ガロの外套は重く、髪は額に張りつき、荷車の革紐まで湿っている。待合所の小窓でさえ、内側が白く曇っていた。
なのに、その列車の窓だけは曇っていない。
一枚の水晶みたいに、向こう側がはっきり見えた。
見えてしまった。
◇
窓の向こうには、別の世界があった。
暖色の灯り。
磨かれた木の床。
大きな暖炉。
薄い湯気。
そして、床に敷かれた生成り色の麻ラグ。
そこに、令嬢がいた。
ガロはそう思った。
貴族の娘。
あるいは、どこかの姫君。
雨の中で荷車を押す人間とは、そもそも同じ種類の生き物ではないように見えた。
令嬢は、素足だった。
素足で、麻ラグの上に座っていた。
外では、ガロの靴底に泥が絡みついている。指先は冷えている。肩の外套は重い。
それなのに、窓の向こうの令嬢は、素足でさらりとした布の上にいる。
膝には薄い布。
手元には本。
横にはカップ。
何か温かいものが入っているらしく、細い湯気が立っていた。
雨音を聞いているのか、ページをめくる手はゆっくりだった。
ぱらり。
音は聞こえない。
けれど、そういう音がした気がした。
ガロは自分の手を見た。
濡れている。
泥もついている。
爪の間に黒い土が入り込んでいた。
もう一度、窓の向こうを見る。
令嬢の足元は乾いている。
床も乾いている。
窓も曇らない。
空気まで乾いて見える。
こんなことがあるのか。
同じ雨の中にいるはずなのに。
ガロの世界は湿っている。
窓の向こうだけ、雨が音に変わっている。
◇
黒い服の男が、令嬢の後ろ斜めに立っていた。
護衛か。
執事か。
よく分からない。
だが、その立ち方だけで、近づいてはいけない相手だと分かった。
黒い男は、令嬢の膝掛けの端を直した。
ただそれだけの動作なのに、妙に怖い。
あの手は、たぶん剣も持てる。
だが今は、布の端を整えている。
おかしな光景だった。
窓際には、若い男が座っていた。何か小さな道具をいじっている。車内の光を受けて、金属の部品がちらりと光った。
奥の方では、料理人らしき男が器を運んでいる。
大きな声はない。
慌ただしさもない。
ただ静かに、それぞれが自分の場所にいる。
それが、なぜかとても豊かに見えた。
ガロは思った。
あれは旅ではない。
移動でもない。
上等な宿だ。
いや、宿というより、そのまま線路を走るホテルみたいなものだった。
雨を完全に締め出し、暖かさごと運んでいく、そんな理不尽な宿。
雨の中にいるのに、雨に触れられない場所。
そんなものが、目の前に停まっている。
「……何なんだよ」
声は小さかった。
自分でも、羨ましいのか怖いのか分からなかった。
ただ、理不尽だとは思った。
こちらは荷車の布一枚を守るために、泥に足を取られている。
あちらは、窓の向こうで雨音を楽しんでいる。
同じ空の下で、これほど差がついていいのか。
よくない。
だが、現実に差はついていた。
しかも、向こうの令嬢は、こちらの苦労など知らない顔で本を読んでいる。
それがいっそ清々しかった。
◇
停留所番が、ガロの横に立った。
「知ってるのか」
ガロが聞く。
停留所番は、少しだけ考えた。
「……白い列車」
「それは見りゃ分かる」
「雨、入らない」
「それも見りゃ分かる」
停留所番は、それ以上説明しなかった。
たぶん、彼も詳しくは知らないのだろう。
あるいは、知っていても説明する気がない。
どちらでも同じだった。
ガロはまた列車を見る。
窓の向こうで、令嬢が本から顔を上げた。
ほんの一瞬、外を見た気がした。
目が合ったわけではない。
こちらに気づいたかも分からない。
けれどガロは、なぜか背筋を伸ばしてしまった。
濡れた外套のまま。
泥だらけの靴のまま。
荷車の前で、少しだけ姿勢を正した。
令嬢は、すぐに本へ視線を戻した。
それだけだった。
それだけなのに、ガロは妙に負けた気がした。
いや、最初から勝負になっていなかった。
雨に負けている自分と、雨を窓の外へ置いている人間。
勝負の場に立っていない。
そういう差だった。
「……あれは、どこへ行くんだ」
ガロが尋ねる。
停留所番は、南の方を見た。
「たぶん、そっち」
「南?」
頷き。
「海か?」
「知らない」
それで終わりだった。
だがガロは、なぜか納得した。
あの走るホテルなら、雨が終われば次は海へ行くのかもしれない。
冷たい料理でも食べに。
涼しい顔で。
薄い硝子の器か何かを使って。
そんな想像が、自然に浮かんだ。
腹が立つほど似合っていた。
◇
やがて、白銀の列車が動き出した。
りぃん。
小さなベルのような音がした。
がたん。
ごとん。
車輪の音が、雨上がり前の湿った空気へ溶けていく。
列車はゆっくり離れていった。
泥を跳ねない。
軋まない。
重そうでもない。
ただ、そこにあった別世界が、音もなく遠ざかっていく。
窓の中では、まだ暖色の灯りが見えた。
令嬢は麻ラグの上に座り、本を持ったままだった。黒い男がそばにいる。窓側の若い男が何かを書いている。料理人が奥へ戻っていく。
その全部が、雨の中なのに濡れていない。
ガロは、最後までその窓を見ていた。
曇らない窓。
雨を拒む窓。
中の人間に、外の不快を一切渡さない窓。
あれが一番、おかしかった。
列車が遠ざかると、雨音だけが戻ってきた。
しとしと。
しとしと。
ガロの外套は、まだ重い。荷車の布も、まだ濡れている。靴底の泥も、当然のように残っている。
何も変わっていない。
けれど、一つだけ変わっていた。
自分が今いる場所が、さっきより少し寒く感じた。
「……反則だろ、あれ」
ガロは呟いた。
停留所番は、否定しなかった。
ただ、雨の向こうへ消えていく白銀の後ろ姿を見ていた。
◇
その日の夕方、雨はようやく弱くなった。
ガロは荷車の防水布を結び直し、泥に足を取られながら、次の村へ向けて進み始めた。
道はひどい。
車輪は重い。
靴は濡れている。
それでも、荷車を引かなければ商売にならない。
ガロは歩きながら、何度もあの窓を思い出した。
曇らない窓。
素足の令嬢。
麻の敷物。
温かいカップ。
本。
外とは違う、完全に乾いた空気。
誰に話しても、たぶん信じないだろう。信じたとしても、腹を立てるか、笑うか、妙な噂にするだけだ。
だが、ガロは見た。
雨の中に、雨を拒む部屋があった。
泥の横に、素足で歩ける床があった。
旅の途中に、旅をしていないような人間たちがいた。
そして、それが白銀の列車に乗って、南へ向かっていった。
「走るホテル、か」
ガロは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
自分で言って、妙にしっくりきた。
あれは馬車ではない。
普通の列車でもない。
客を運ぶというより、部屋ごと運んでいる。
いや、宿ごと走っている。
雨の日に、窓一枚曇らせず、素足で本を読める宿。
そんなものが本当にあるなら、旅人は馬鹿らしくなる。
ガロは泥に足を取られながら、小さく笑った。
「次に見たら、茶の一つでも売ってやる」
たぶん無理だ。
あの列車の中には、自分の安茶葉など必要ない。
それでも、そう言わないと歩けない気がした。
雨はまだ細く降っている。
道はぬかるんでいる。
荷車は重い。
それでもガロは、曇らない窓の向こうに見た別世界のことを、誰かに話したくて仕方がなかった。
その夜、次の村の酒場で、彼はきっと言うだろう。
雨待ちの停留所で、妙な列車を見た、と。
いや、列車というより、走るホテルだった、と。
泥の横を通ったくせに、窓一枚曇らせなかった、と。
中では令嬢が、素足で本を読んでいた、と。
聞いた者は笑うかもしれない。
酔っ払いの話だと流すかもしれない。
でも、噂というものは、そうやって広がる。
雨に濡れた行商人の口から、白銀列車はまた少しだけ、よく分からないものになっていく。
ガロは荷車を引きながら、南へ消えた列車の方角を見た。
雨の向こうに、もう白い影はない。
ただ、あの曇らない窓だけが、いつまでも頭に残っていた。
雨の外側から見た白銀列車でした。
次は南の港町へ向かいます。
潮風と、冷たいものの季節です。




