表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第3章 雨音と麻ラグ編 〜雨待ちの停留所ウォータン〜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/84

034 雨上がりの平原を見送りながら、次の季節へ向かいますわ

雨音を聞きながら、

夜更けまで本を読みました。


少し眠りました。


たぶん。


そして朝、

ようやく雨が上がります。

 目が覚めると、雨音がなかった。


 しとしと。

 しとしと。

 昨夜まで当たり前のように続いていた音が消えている。

 その静けさで、私は目を開けた。

「……止みましたの?」

 声が少し眠かった。

 麻ラグの上で寝ていたらしい。薄い膝掛けの上に、いつの間にか柔らかい毛布が一枚足されていた。

 背中は痛くない。

 足元も冷えていない。


 つまり、寝落ちとしてはかなり上等である。


 後ろ斜めから、ルークの声がした。

「はい。明け方に止みました」

「明け方」

「お嬢様が、三冊目を開く前です」

「……開くつもりはありましたわ」

「存じております」

 その返事は優しかった。

 優しかったが、信じていない声だった。

 私はゆっくり起き上がり、窓の外を見る。

 灰色だった世界が、少しだけ明るくなっていた。雲はまだ残っている。けれど、低く垂れ込めていた雨雲の端が、薄くほどけている。

 濡れた平原の草に、朝の光が当たり始めていた。

 雨粒が、細かく光っている。

「……まあ」

 思わず、小さく声が出た。

 雨の平原も悪くなかった。

 けれど、雨上がりの平原は別の景色だった。昨日まで重そうに見えた草が、今は光を抱えている。

 泥はまだある。

 地面も濡れている。

 きっと外へ出れば、靴はまた重くなる。

 けれど、窓の内側から見るぶんには、たいへん美しかった。


「雨上がりは、綺麗ですわね」


 ノアが窓側であくびをしながら頷いた。

「外に出なければ、ですね」

「そこは言わなくてよろしいです」

「大事な条件なので」

 確かに大事だった。

 雨は中から聞くもの。

 雨上がりは中から眺めるもの。

 ウォータンで得た、たいへん重要な学びである。


   ◇


 アベルが厨房側から顔を出した。

「起きたか」

「ええ」

「朝飯は軽めでいいか? 昨日、ポトフしっかり食ってたし」

「軽めでお願いしますわ」

 体はまだ、昨夜の夜更かしを少し覚えている。

 雨音読書は成功した。

 成功したけれど、朝に眠気が残らないわけではない。

 これは失敗ではない。

 読書の余韻である。

 アベルは短く笑って、厨房へ戻っていった。

 かたん。

 ことん。

 朝の支度の音がする。

 雨が止んだせいか、その音が昨日より少しはっきり聞こえた。

 ノアが窓の外を見ながら言う。

「線路周りのぬかるみは、だいぶ残ってますね」

「外へ出る予定はありませんわ」

「即答」

「昨日で十分学びました」

 外の美しさと、外の快適さは別である。

 見るには良い。

 歩くには、また別の準備がいる。

 私は麻ラグの上で足先を動かした。

 さらり。

 乾いている。

 この足元が、昨日からずっと頼もしい。

 雨の滞在を通して、白銀列車はまた少し暮らしやすくなった気がする。

 髪を乾かすタオル。

 除湿された右ソファ。

 雨の日のポトフ。

 夏用麻ラグ。

 薄いハーブティー。

 防音ガラス越しの雨音。

 そして、雨上がりの平原。

 どれも大事件ではない。

 けれど、こういうものが増えていくと、うちの中は少しずつ強くなる。

「……良い滞在でしたわね」

 私が呟くと、ルークが静かに答えた。

「はい」

「ほとんど外には出ていませんけれど」

「必要な分は、十分に」

「ええ。十分でした」

 それ以上は、たぶん多すぎる。

 雨の土地は、少しだけ触れて、あとは窓の内側で楽しむくらいがちょうどいい。


   ◇


 朝食は軽かった。

 薄く焼いたパン。

 温かい茶。

 昨夜のポトフの残りを少しだけ使った、小さな根菜のスープ。

 派手ではない。

 けれど、雨上がりの朝にはちょうどよかった。

 私は右ソファへ移り、小さな卓の上でパンをちぎった。

 麻ラグも良い。

 けれど朝食は、やはり右ソファの方が落ち着く。

 定位置には定位置の仕事がある。

「停留所番は?」

 私が尋ねると、ルークが窓の外へ視線を向けた。

「待合所の前に」

 見ると、石造りの待合所のそばに、あの停留所番が立っていた。

 昨日と同じ外套。同じ帽子。ただ、今日は雨粒が落ちていない。

 彼は濡れた地面の様子を見ているのか、待合所の脇に積まれた防水布を確かめているのか、静かに立っていた。

「挨拶へ行かれますか」

 ルークが尋ねる。

 私は窓の外を見た。

 濡れた地面。

 光る草。

 まだ乾ききっていない泥。

 それから、自分の足元を見る。

 乾いた室内履き。

 さらりとした麻ラグ。

 温かい茶。


「窓越しで十分ですわ」


「承知しました」

 ルークは何も言わなかった。

 正しい判断である。

 私はカップを置き、窓の方へ軽く会釈した。

 停留所番はこちらに気づいたのか、少しだけ顔を上げた。

 そして、ほんのわずかに頭を下げる。

 それだけだった。

 けれど、それで十分だった。

 この土地の挨拶は、たぶん長くなくていい。

 雨音を一緒に聞いた。

 薄いお茶を一杯飲んだ。

 それで、ちゃんと通じるものがある。

「静かな別れですわね」

 ノアが言った。

「この停留所には、そのくらいが合います」

「ですね」

 ノアも、今度は茶化さなかった。


   ◇


 発車の支度は、いつも通り静かに進んだ。

 ノアは動力車側へ向かい、外のぬかるみに合わせて足回りの調整をすると言っていた。

 アベルは厨房で、使い終えた鍋を乾かしている。

 ルークは私の膝掛けを整え、右ソファの横に本を二冊だけ置いた。

 三冊ではない。

 昨夜の反省だろうか。

「ルーク」

「はい」

「本が少なくありませんこと?」

「朝ですので」

「朝なら読めますわ」

「お嬢様は昨夜、夜明け前まで読まれておりました」

「読書の成果ですわ」

「睡眠の不足でもございます」

 否定しにくい。

 私は二冊で妥協した。

 りぃん。

 車内に、澄んだベルの音が響く。

 白銀列車が、ゆっくり動き出した。

 がたん。

 ごとん。

 雨上がりの平原が、窓の外で少しずつ流れ始める。

 水を含んだ草。

 低く残る雲。

 ところどころに差す光。

 石造りの待合所。

 古い雨樋。

 防水布の灰色。

 そして、小さく立つ停留所番の姿。

 彼は大きく手を振らなかった。

 ただ、静かにこちらを見送っていた。

 私も、カップを持ったまま、もう一度だけ軽く頭を下げた。


 それでよかった。


   ◇


 ウォータンが遠ざかっていく。

 雨待ちの停留所。

 街ではなく、市場でもなく、旅人が雨をやり過ごすための小さな中継所。

 派手な名産があるわけではない。

 賑やかな通りもない。

 けれど、白銀列車にはいくつかのものが残った。

 雨の日用の音。

 薄い茶。

 麻ラグ。

 防水布。

 それから、雨を急かさない過ごし方。

「……悪くありませんでしたわね」

 私は呟いた。

 ノアが窓側から言う。

「最初、三分で帰ってきましたけどね」

「判断が早かっただけです」

「はいはい」

「でも、窓の中からなら、とても良い土地でしたわ」

「それは、かなりティアさんらしい感想ですね」

 その通りである。


 私は外の過酷さを愛しているわけではない。


 外の過酷さを、内側の快適で楽しむのが好きなのだ。


 白銀列車は、それを叶えるためにある。


 雨上がりの光が、窓を流れていく。防音ガラスに残っていた小さな水滴が、すうっと下へ落ちた。

 もう雨音はない。

 代わりに、車輪の音が戻ってきた。

 がたん。

 ごとん。

 がたん。

 ごとん。

 この音も、やはり悪くない。

 私は右ソファに身体を預け、足先を麻ラグへ少しだけ伸ばした。

 さらり。

 雨の時間は終わった。

 そう思った。


   ◇


 昼に近づく頃には、雲がさらに薄くなっていた。

 窓の外の平原は、雨に洗われたあとで、少しだけ色が濃い。緑が深い。空も高い。

 車内の空気は、いつも通り乾いている。けれど、昨日までの雨を知っているせいか、乾いていることが少し特別に感じられた。

 私は麻ラグの上へ移動し、そのまま仰向けに寝転がった。

「お嬢様」

 ルークの声がする。

「少しだけですわ」

「はい」

 今日は止められなかった。

 きっと、雨上がりだからである。

 天井の灯りが、やわらかく見える。

 足裏には麻。

 横には本。

 少し離れたところに右ソファ。

 遠くの厨房では、アベルが昼の支度をしている音。窓側では、ノアが雨の日読書用の魔導具設定を帳面へ書き残している。

 白銀列車はまた、ひとつ雨の日の暮らし方を覚えた。

「……次は」

 私は天井を見上げたまま呟く。

「はい」

 ルークがすぐに反応する。


「冷たいものが食べたいですわね」


 ノアのペンが止まった。

「もう次ですか」

「雨が上がりましたもの」

「関係あります?」

「ありますわ」

 雨の日には、温かいポトフ。

 雨上がりには、少し軽いもの。

 そして、次の季節へ向かうなら。

「冷たいスープとか」

 私は少し考える。

「薄い硝子の器に入った、よく冷えたものがよろしいですわ」

 アベルが厨房側から顔を出した。

「冷製スープか」

「響きが素晴らしいですわ」

「南へ行くか?」

 南。

 海風。

 日差し。

 冷たい料理。

 雨のあとの体には、少し眩しいくらいの景色も悪くない気がした。

「ええ」

 私は麻ラグの上で、足先をさらりと動かす。


「次は、冷たいものをいただきに行きましょう」


 白銀列車は、雨上がりの平原を抜けていく。

 がたん。

 ごとん。

 雨音ではなく、車輪の音が響いていた。

 私は目を閉じる。

 お腹はまだ軽い。

 髪は乾いている。

 足元はさらりとしている。


 そして次の欲望が、もう少しだけ冷たい形をして、胸の奥に生まれていた。

第3章『雨音と麻ラグ編』本編完結です。


雨、

湿気、

ポトフ、

麻ラグ、

薄いハーブティー、

深夜読書。


静かな章でした。


次回は閑話です。


雨宿りの行商人から見る、

白銀列車の別世界です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ