034 雨上がりの平原を見送りながら、次の季節へ向かいますわ
雨音を聞きながら、
夜更けまで本を読みました。
少し眠りました。
たぶん。
そして朝、
ようやく雨が上がります。
目が覚めると、雨音がなかった。
しとしと。
しとしと。
昨夜まで当たり前のように続いていた音が消えている。
その静けさで、私は目を開けた。
「……止みましたの?」
声が少し眠かった。
麻ラグの上で寝ていたらしい。薄い膝掛けの上に、いつの間にか柔らかい毛布が一枚足されていた。
背中は痛くない。
足元も冷えていない。
つまり、寝落ちとしてはかなり上等である。
後ろ斜めから、ルークの声がした。
「はい。明け方に止みました」
「明け方」
「お嬢様が、三冊目を開く前です」
「……開くつもりはありましたわ」
「存じております」
その返事は優しかった。
優しかったが、信じていない声だった。
私はゆっくり起き上がり、窓の外を見る。
灰色だった世界が、少しだけ明るくなっていた。雲はまだ残っている。けれど、低く垂れ込めていた雨雲の端が、薄くほどけている。
濡れた平原の草に、朝の光が当たり始めていた。
雨粒が、細かく光っている。
「……まあ」
思わず、小さく声が出た。
雨の平原も悪くなかった。
けれど、雨上がりの平原は別の景色だった。昨日まで重そうに見えた草が、今は光を抱えている。
泥はまだある。
地面も濡れている。
きっと外へ出れば、靴はまた重くなる。
けれど、窓の内側から見るぶんには、たいへん美しかった。
「雨上がりは、綺麗ですわね」
ノアが窓側であくびをしながら頷いた。
「外に出なければ、ですね」
「そこは言わなくてよろしいです」
「大事な条件なので」
確かに大事だった。
雨は中から聞くもの。
雨上がりは中から眺めるもの。
ウォータンで得た、たいへん重要な学びである。
◇
アベルが厨房側から顔を出した。
「起きたか」
「ええ」
「朝飯は軽めでいいか? 昨日、ポトフしっかり食ってたし」
「軽めでお願いしますわ」
体はまだ、昨夜の夜更かしを少し覚えている。
雨音読書は成功した。
成功したけれど、朝に眠気が残らないわけではない。
これは失敗ではない。
読書の余韻である。
アベルは短く笑って、厨房へ戻っていった。
かたん。
ことん。
朝の支度の音がする。
雨が止んだせいか、その音が昨日より少しはっきり聞こえた。
ノアが窓の外を見ながら言う。
「線路周りのぬかるみは、だいぶ残ってますね」
「外へ出る予定はありませんわ」
「即答」
「昨日で十分学びました」
外の美しさと、外の快適さは別である。
見るには良い。
歩くには、また別の準備がいる。
私は麻ラグの上で足先を動かした。
さらり。
乾いている。
この足元が、昨日からずっと頼もしい。
雨の滞在を通して、白銀列車はまた少し暮らしやすくなった気がする。
髪を乾かすタオル。
除湿された右ソファ。
雨の日のポトフ。
夏用麻ラグ。
薄いハーブティー。
防音ガラス越しの雨音。
そして、雨上がりの平原。
どれも大事件ではない。
けれど、こういうものが増えていくと、うちの中は少しずつ強くなる。
「……良い滞在でしたわね」
私が呟くと、ルークが静かに答えた。
「はい」
「ほとんど外には出ていませんけれど」
「必要な分は、十分に」
「ええ。十分でした」
それ以上は、たぶん多すぎる。
雨の土地は、少しだけ触れて、あとは窓の内側で楽しむくらいがちょうどいい。
◇
朝食は軽かった。
薄く焼いたパン。
温かい茶。
昨夜のポトフの残りを少しだけ使った、小さな根菜のスープ。
派手ではない。
けれど、雨上がりの朝にはちょうどよかった。
私は右ソファへ移り、小さな卓の上でパンをちぎった。
麻ラグも良い。
けれど朝食は、やはり右ソファの方が落ち着く。
定位置には定位置の仕事がある。
「停留所番は?」
私が尋ねると、ルークが窓の外へ視線を向けた。
「待合所の前に」
見ると、石造りの待合所のそばに、あの停留所番が立っていた。
昨日と同じ外套。同じ帽子。ただ、今日は雨粒が落ちていない。
彼は濡れた地面の様子を見ているのか、待合所の脇に積まれた防水布を確かめているのか、静かに立っていた。
「挨拶へ行かれますか」
ルークが尋ねる。
私は窓の外を見た。
濡れた地面。
光る草。
まだ乾ききっていない泥。
それから、自分の足元を見る。
乾いた室内履き。
さらりとした麻ラグ。
温かい茶。
「窓越しで十分ですわ」
「承知しました」
ルークは何も言わなかった。
正しい判断である。
私はカップを置き、窓の方へ軽く会釈した。
停留所番はこちらに気づいたのか、少しだけ顔を上げた。
そして、ほんのわずかに頭を下げる。
それだけだった。
けれど、それで十分だった。
この土地の挨拶は、たぶん長くなくていい。
雨音を一緒に聞いた。
薄いお茶を一杯飲んだ。
それで、ちゃんと通じるものがある。
「静かな別れですわね」
ノアが言った。
「この停留所には、そのくらいが合います」
「ですね」
ノアも、今度は茶化さなかった。
◇
発車の支度は、いつも通り静かに進んだ。
ノアは動力車側へ向かい、外のぬかるみに合わせて足回りの調整をすると言っていた。
アベルは厨房で、使い終えた鍋を乾かしている。
ルークは私の膝掛けを整え、右ソファの横に本を二冊だけ置いた。
三冊ではない。
昨夜の反省だろうか。
「ルーク」
「はい」
「本が少なくありませんこと?」
「朝ですので」
「朝なら読めますわ」
「お嬢様は昨夜、夜明け前まで読まれておりました」
「読書の成果ですわ」
「睡眠の不足でもございます」
否定しにくい。
私は二冊で妥協した。
りぃん。
車内に、澄んだベルの音が響く。
白銀列車が、ゆっくり動き出した。
がたん。
ごとん。
雨上がりの平原が、窓の外で少しずつ流れ始める。
水を含んだ草。
低く残る雲。
ところどころに差す光。
石造りの待合所。
古い雨樋。
防水布の灰色。
そして、小さく立つ停留所番の姿。
彼は大きく手を振らなかった。
ただ、静かにこちらを見送っていた。
私も、カップを持ったまま、もう一度だけ軽く頭を下げた。
それでよかった。
◇
ウォータンが遠ざかっていく。
雨待ちの停留所。
街ではなく、市場でもなく、旅人が雨をやり過ごすための小さな中継所。
派手な名産があるわけではない。
賑やかな通りもない。
けれど、白銀列車にはいくつかのものが残った。
雨の日用の音。
薄い茶。
麻ラグ。
防水布。
それから、雨を急かさない過ごし方。
「……悪くありませんでしたわね」
私は呟いた。
ノアが窓側から言う。
「最初、三分で帰ってきましたけどね」
「判断が早かっただけです」
「はいはい」
「でも、窓の中からなら、とても良い土地でしたわ」
「それは、かなりティアさんらしい感想ですね」
その通りである。
私は外の過酷さを愛しているわけではない。
外の過酷さを、内側の快適で楽しむのが好きなのだ。
白銀列車は、それを叶えるためにある。
雨上がりの光が、窓を流れていく。防音ガラスに残っていた小さな水滴が、すうっと下へ落ちた。
もう雨音はない。
代わりに、車輪の音が戻ってきた。
がたん。
ごとん。
がたん。
ごとん。
この音も、やはり悪くない。
私は右ソファに身体を預け、足先を麻ラグへ少しだけ伸ばした。
さらり。
雨の時間は終わった。
そう思った。
◇
昼に近づく頃には、雲がさらに薄くなっていた。
窓の外の平原は、雨に洗われたあとで、少しだけ色が濃い。緑が深い。空も高い。
車内の空気は、いつも通り乾いている。けれど、昨日までの雨を知っているせいか、乾いていることが少し特別に感じられた。
私は麻ラグの上へ移動し、そのまま仰向けに寝転がった。
「お嬢様」
ルークの声がする。
「少しだけですわ」
「はい」
今日は止められなかった。
きっと、雨上がりだからである。
天井の灯りが、やわらかく見える。
足裏には麻。
横には本。
少し離れたところに右ソファ。
遠くの厨房では、アベルが昼の支度をしている音。窓側では、ノアが雨の日読書用の魔導具設定を帳面へ書き残している。
白銀列車はまた、ひとつ雨の日の暮らし方を覚えた。
「……次は」
私は天井を見上げたまま呟く。
「はい」
ルークがすぐに反応する。
「冷たいものが食べたいですわね」
ノアのペンが止まった。
「もう次ですか」
「雨が上がりましたもの」
「関係あります?」
「ありますわ」
雨の日には、温かいポトフ。
雨上がりには、少し軽いもの。
そして、次の季節へ向かうなら。
「冷たいスープとか」
私は少し考える。
「薄い硝子の器に入った、よく冷えたものがよろしいですわ」
アベルが厨房側から顔を出した。
「冷製スープか」
「響きが素晴らしいですわ」
「南へ行くか?」
南。
海風。
日差し。
冷たい料理。
雨のあとの体には、少し眩しいくらいの景色も悪くない気がした。
「ええ」
私は麻ラグの上で、足先をさらりと動かす。
「次は、冷たいものをいただきに行きましょう」
白銀列車は、雨上がりの平原を抜けていく。
がたん。
ごとん。
雨音ではなく、車輪の音が響いていた。
私は目を閉じる。
お腹はまだ軽い。
髪は乾いている。
足元はさらりとしている。
そして次の欲望が、もう少しだけ冷たい形をして、胸の奥に生まれていた。
第3章『雨音と麻ラグ編』本編完結です。
雨、
湿気、
ポトフ、
麻ラグ、
薄いハーブティー、
深夜読書。
静かな章でした。
次回は閑話です。
雨宿りの行商人から見る、
白銀列車の別世界です。




