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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第3章 雨音と麻ラグ編 〜雨待ちの停留所ウォータン〜

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33/84

033 防音ガラス越しの雨音で、朝まで静かに読書しますわ

雨の日の午後に、

薄いハーブティーを飲みました。


喋らなくても、

雨音があれば退屈しません。


では、夜ならどうなるのでしょう。

 夜になっても、雨は止まなかった。


 しとしと。

 しとしと。

 昼間より少し細く、けれど途切れず、窓の向こうで降り続いている。

 白銀列車のラウンジは、いつもより静かだった。暖炉の火は控えめで、灯りも少し落としてある。磨かれた木の床には、昼に敷いたばかりの麻ラグが広がっていた。

 私はその上に座り、膝に薄い膝掛けをかけて、本を三冊並べていた。

 一冊目は旅行記。

 二冊目は古い随筆。

 三冊目は、途中で眠くなった時用の軽い本である。


 準備は完璧だった。


「……今夜は、勝てますわね」

 私が呟くと、窓側で調整をしていたノアが顔を上げた。

「何にです?」

「睡魔に」

「負けると思いますけど」

「決めつけが早いですわ」

「ティアさん、雨音と暖かいお茶と本が揃うと、だいたい寝ますよ」

 失礼である。

 たしかに条件は整っている。けれど今夜は違う。これは、ただの読書ではない。


 雨音読書計画の本番なのだ。


 外へ出て湿気に敗れ、髪を乾かし、ポトフで体を温め、麻ラグを敷き、薄いハーブティーを覚えた。

 ここまで整えて、眠って終わるわけにはいかない。

「ルーク」

「はい」

「深夜用のお茶は?」

「こちらに」

 後ろ斜めから、静かな声が返る。

 小さなポットとカップが、すでに低い卓へ置かれていた。湯気は細い。昼のハーブティーより少しだけ温かく、香りも少しだけ深い。

「濃くしましたの?」

「眠りを妨げない程度に」

「素晴らしい加減ですわ」

 ルークは小さく一礼した。

 完璧である。

 雨音。

 本。

 麻ラグ。

 薄い膝掛け。

 眠りを邪魔しないお茶。

 あとは、窓の音だけだった。


   ◇


 ノアが防音ガラスの脇にある魔導具を少し回した。

 外の雨音が、ほんの少し変わる。

 近い。

 いや、近すぎる。

 雨粒が窓に触れる音が、耳元へ寄ってきたように感じた。

「近すぎますわ」

「了解です」

 ノアがまた少し調整する。

 今度は遠い。

 雨は降っているはずなのに、ただの静寂に近い。

「遠すぎますわ」

「わがままだなぁ」

「繊細と言ってくださいませ」

 ノアが肩をすくめながら、魔導具の目盛りを細かく戻した。

 しとしと。

 しとしと。

 雨音が、窓の向こうへきちんと戻る。

 近すぎない。

 遠すぎない。

 こちらを濡らさず、でも確かにそこにある。

 私は目を閉じて聞いた。


 ちょうどいい。


 雨が、礼儀正しい距離にいる。


「これですわ」

「雨音にも適温みたいなのがあるんですね」

「あります」

「音なのに」

「音にも温度はありますわ」

 ノアは少し考えたあと、納得したような顔をした。

「まあ、この列車だとそうかも」

 そうである。

 白銀列車では、温度も音も、こちらに合わせるべきものなのだ。

 外の雨を止める必要はない。ただ、内側で楽しめる形に整えればいい。

 それが一番贅沢で、一番安全だった。

「この設定、固定しておきます?」

「お願いしますわ」

「雨の日読書用、ですね」

「ええ」

 ノアが魔導具に小さく印をつけた。


 雨の日読書用。


 またひとつ、白銀列車の生活設定が増えた。


   ◇


 私は旅行記を開いた。

 ぱらり。

 しとしと。

 ぱらり。

 しとしと。

 ページをめくる音と雨音が、交互にラウンジへ落ちていく。

 昼間の雨とは違った。

 昼の雨は、外の景色を灰色にしていた。夜の雨は、窓の向こうを見えなくする。大きな防音ガラスの外は、黒に近い灰色だった。

 灯りに照らされた水滴だけが、細く光って流れていく。その向こうに、石造りの停留所がぼんやり見えた。

 誰もいない。

 荷車もない。

 人の声もしない。


 雨だけがいる。


 私はページをめくった。

 物語の中では、遠い国の旅人が山を越えていた。

 寒そうだった。

 大変そうだった。

 私は薄い膝掛けを少し引き寄せる。

 こちらは暖かい。足元はさらりとしている。お茶はまだ湯気を立てている。

「……旅の本は、動かずに読むのが一番ですわね」

 私が呟くと、ルークが後ろで静かに答えた。

「お嬢様らしいご感想です」

「最高の旅とは、疲れない旅ですわ」

「そのための列車でございます」

「ええ。たいへん正しいですわ」

 自分で山を越える必要はない。

 自分で雨に打たれる必要もない。

 本の中の旅人には申し訳ないけれど、私は乾いた麻ラグの上から見守るくらいがちょうどよかった。

 ルークがカップへお茶を注ぎ足す。

 ことり。

 カップが低い卓へ戻る音。

 暖炉が、ぱちりと小さく鳴る。

 雨音。

 紙の音。

 布がこすれる音。


 それだけで、深夜のラウンジは十分だった。


   ◇


 一冊目を読み終える頃には、時間の感覚が薄くなっていた。

 窓の外はまだ暗い。

 雨もまだ降っている。

 でも、最初の頃より少しだけ音が細くなった気がした。

「弱くなりました?」

 私が聞くと、ノアは眠そうな顔で魔導具を見た。

「雨量は少し落ちてますね」

「そうですか」

「止むかもしれませんよ」

「今はまだ止まらなくてよろしいですわ」

「雨に対して勝手すぎる」

 勝手ではない。

 今夜だけは、もう少し降っていてほしい。

 外で受けたいわけではない。困らせたいわけでもない。ただ、この音をもう少し聞いていたいのだ。

 私は二冊目を開いた。

 古い随筆。

 文章はゆっくりしていて、夜にはちょうどよかった。

 ただし、問題があった。


 眠くなる。


 たいへん眠くなる。


 雨音、薄いお茶、麻ラグ、静かな文字。全部が協力して、私を本から眠りへ連れていこうとする。

「……これは罠ですわね」

「何がです?」

 ノアが半分寝た声で聞く。

「雨音が、読書に向いているふりをして、眠気を連れてきます」

「それは最初から分かってました」

「裏切りですわ」

「むしろ予定通りでは」

 私は本を持ち直した。

 負けるわけにはいかない。

 今夜は読書回である。少なくとも、二冊目の半分までは読む。

 そう決めた。

 ルークが静かに新しい茶を置いた。

「少し温かめにいたしました」

「ありがとう」

 カップを両手で包む。

 温かい。

 でも、強すぎない。

 眠気を叩き起こすのではなく、沈みかけた意識をそっと支える温度だった。

「ルーク」

「はい」

「これは、眠らせるお茶ではありませんわよね?」

「眠りを妨げないお茶です」

「その言い方、少し危険ですわ」

「無理に起きる必要はございませんので」

「あります。今夜は読むのです」

「では、読めるところまで」

 甘い。

 とても甘い。

 ルークは止めない。

 けれど、眠ったらそのまま毛布をかけるつもりの顔をしている。

 それが分かる。

 私は負けないという意志を込めて、ページをめくった。

 ぱらり。

 しとしと。

 ぱらり。

 しとしと。

 文字が少しにじむ。

 いけない。

 目を開ける。

 また読む。

 雨が降る。

 お茶を飲む。

 麻ラグに足を伸ばす。

 幸せだった。


 これは、負けてもよい戦いかもしれない。


   ◇


 どれくらい読んだのか、よく分からない。

 気づくと、ノアは窓側で完全に寝ていた。手元の魔導具は閉じられ、膝の上に本が一冊乗っている。

 アベルは厨房の灯りを落とし、奥で片付けを終えたらしい。足音だけが一度聞こえて、それから静かになった。

 ラウンジに起きているのは、私とルークだけだった。

 たぶん。

「ルーク」

「はい」

「いま、何時ですの?」

「夜明け前です」

「そんなに?」

「はい」

 私は本を見る。

 二冊目は、思ったより進んでいた。途中で何度か眠りかけた気がするけれど、完全には負けていない。

 たぶん。

 たぶん勝ちである。

「私、読めていますわよね」

「はい」

「寝ていませんわよね」

「何度か、目は閉じておられました」

「それは読書の余韻です」

「承知しました」

 ルークの返事が優しい。

 優しいが、信じていない気配がある。

 私は本を閉じた。

 少しだけ、目の奥が重い。

 でも不快ではない。

 本を読んだあとの、正しい疲れだった。

 窓の外を見る。

 雨はまだ降っている。

 けれど、音はかなり細くなっていた。

 しと。

 しと。

 少し間が空く。

 遠くの空が、ほんのわずかに薄くなっている気がした。

「……朝が近いですわね」

「はい」

「雨も、少し弱くなりました」

「そのようです」

 私は麻ラグの上で足を伸ばした。

 さらり。

 乾いた感触。

 膝には薄い布。

 手元には、少し冷めたお茶。

 読んだ本が二冊。

 防音ガラス越しの雨音。

 何か大きなことが起きたわけではない。


 ただ、雨の夜に本を読んだだけ。


 けれど、それがしたかったのだ。


「満足しましたわ」

 私は小さく呟いた。

 ルークが、すぐそばで毛布を広げる。

「では、少しお休みください」

「私はまだ三冊目を」

「朝までに一度、お休みください」

「命令ですの?」

「お願いでございます」

 お願いなら仕方がない。

 私は三冊目を見た。

 眠くなった時用の軽い本。

 出番はなかった。

 いや、出番がないまま眠るために置いていたのかもしれない。

 私は本を閉じ、麻ラグの上から右ソファへ移ろうとした。

 けれど、途中で少しだけ面倒になった。

「……ここで少しだけ」

 ルークは何も言わなかった。

 ただ、薄い膝掛けの上から、もう一枚だけ柔らかい毛布をかけてくれた。

 軽い。

 温かい。

 雨音は、さらに細くなる。

 しと。

 しと。

 私は目を閉じた。

 深夜の読書は、大成功だった。

 たぶん。

 少なくとも、白銀列車の雨の日設定としては、完全に採用である。

 意識がゆっくり沈んでいく直前、窓の向こうで、雨が少しだけ弱まる音がした。

深夜読書回でした。


雨音、

本、

薄いお茶、

麻ラグ。


これは寝ます。


次回、

雨上がりの平原を見送ります。

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