033 防音ガラス越しの雨音で、朝まで静かに読書しますわ
雨の日の午後に、
薄いハーブティーを飲みました。
喋らなくても、
雨音があれば退屈しません。
では、夜ならどうなるのでしょう。
夜になっても、雨は止まなかった。
しとしと。
しとしと。
昼間より少し細く、けれど途切れず、窓の向こうで降り続いている。
白銀列車のラウンジは、いつもより静かだった。暖炉の火は控えめで、灯りも少し落としてある。磨かれた木の床には、昼に敷いたばかりの麻ラグが広がっていた。
私はその上に座り、膝に薄い膝掛けをかけて、本を三冊並べていた。
一冊目は旅行記。
二冊目は古い随筆。
三冊目は、途中で眠くなった時用の軽い本である。
準備は完璧だった。
「……今夜は、勝てますわね」
私が呟くと、窓側で調整をしていたノアが顔を上げた。
「何にです?」
「睡魔に」
「負けると思いますけど」
「決めつけが早いですわ」
「ティアさん、雨音と暖かいお茶と本が揃うと、だいたい寝ますよ」
失礼である。
たしかに条件は整っている。けれど今夜は違う。これは、ただの読書ではない。
雨音読書計画の本番なのだ。
外へ出て湿気に敗れ、髪を乾かし、ポトフで体を温め、麻ラグを敷き、薄いハーブティーを覚えた。
ここまで整えて、眠って終わるわけにはいかない。
「ルーク」
「はい」
「深夜用のお茶は?」
「こちらに」
後ろ斜めから、静かな声が返る。
小さなポットとカップが、すでに低い卓へ置かれていた。湯気は細い。昼のハーブティーより少しだけ温かく、香りも少しだけ深い。
「濃くしましたの?」
「眠りを妨げない程度に」
「素晴らしい加減ですわ」
ルークは小さく一礼した。
完璧である。
雨音。
本。
麻ラグ。
薄い膝掛け。
眠りを邪魔しないお茶。
あとは、窓の音だけだった。
◇
ノアが防音ガラスの脇にある魔導具を少し回した。
外の雨音が、ほんの少し変わる。
近い。
いや、近すぎる。
雨粒が窓に触れる音が、耳元へ寄ってきたように感じた。
「近すぎますわ」
「了解です」
ノアがまた少し調整する。
今度は遠い。
雨は降っているはずなのに、ただの静寂に近い。
「遠すぎますわ」
「わがままだなぁ」
「繊細と言ってくださいませ」
ノアが肩をすくめながら、魔導具の目盛りを細かく戻した。
しとしと。
しとしと。
雨音が、窓の向こうへきちんと戻る。
近すぎない。
遠すぎない。
こちらを濡らさず、でも確かにそこにある。
私は目を閉じて聞いた。
ちょうどいい。
雨が、礼儀正しい距離にいる。
「これですわ」
「雨音にも適温みたいなのがあるんですね」
「あります」
「音なのに」
「音にも温度はありますわ」
ノアは少し考えたあと、納得したような顔をした。
「まあ、この列車だとそうかも」
そうである。
白銀列車では、温度も音も、こちらに合わせるべきものなのだ。
外の雨を止める必要はない。ただ、内側で楽しめる形に整えればいい。
それが一番贅沢で、一番安全だった。
「この設定、固定しておきます?」
「お願いしますわ」
「雨の日読書用、ですね」
「ええ」
ノアが魔導具に小さく印をつけた。
雨の日読書用。
またひとつ、白銀列車の生活設定が増えた。
◇
私は旅行記を開いた。
ぱらり。
しとしと。
ぱらり。
しとしと。
ページをめくる音と雨音が、交互にラウンジへ落ちていく。
昼間の雨とは違った。
昼の雨は、外の景色を灰色にしていた。夜の雨は、窓の向こうを見えなくする。大きな防音ガラスの外は、黒に近い灰色だった。
灯りに照らされた水滴だけが、細く光って流れていく。その向こうに、石造りの停留所がぼんやり見えた。
誰もいない。
荷車もない。
人の声もしない。
雨だけがいる。
私はページをめくった。
物語の中では、遠い国の旅人が山を越えていた。
寒そうだった。
大変そうだった。
私は薄い膝掛けを少し引き寄せる。
こちらは暖かい。足元はさらりとしている。お茶はまだ湯気を立てている。
「……旅の本は、動かずに読むのが一番ですわね」
私が呟くと、ルークが後ろで静かに答えた。
「お嬢様らしいご感想です」
「最高の旅とは、疲れない旅ですわ」
「そのための列車でございます」
「ええ。たいへん正しいですわ」
自分で山を越える必要はない。
自分で雨に打たれる必要もない。
本の中の旅人には申し訳ないけれど、私は乾いた麻ラグの上から見守るくらいがちょうどよかった。
ルークがカップへお茶を注ぎ足す。
ことり。
カップが低い卓へ戻る音。
暖炉が、ぱちりと小さく鳴る。
雨音。
紙の音。
布がこすれる音。
それだけで、深夜のラウンジは十分だった。
◇
一冊目を読み終える頃には、時間の感覚が薄くなっていた。
窓の外はまだ暗い。
雨もまだ降っている。
でも、最初の頃より少しだけ音が細くなった気がした。
「弱くなりました?」
私が聞くと、ノアは眠そうな顔で魔導具を見た。
「雨量は少し落ちてますね」
「そうですか」
「止むかもしれませんよ」
「今はまだ止まらなくてよろしいですわ」
「雨に対して勝手すぎる」
勝手ではない。
今夜だけは、もう少し降っていてほしい。
外で受けたいわけではない。困らせたいわけでもない。ただ、この音をもう少し聞いていたいのだ。
私は二冊目を開いた。
古い随筆。
文章はゆっくりしていて、夜にはちょうどよかった。
ただし、問題があった。
眠くなる。
たいへん眠くなる。
雨音、薄いお茶、麻ラグ、静かな文字。全部が協力して、私を本から眠りへ連れていこうとする。
「……これは罠ですわね」
「何がです?」
ノアが半分寝た声で聞く。
「雨音が、読書に向いているふりをして、眠気を連れてきます」
「それは最初から分かってました」
「裏切りですわ」
「むしろ予定通りでは」
私は本を持ち直した。
負けるわけにはいかない。
今夜は読書回である。少なくとも、二冊目の半分までは読む。
そう決めた。
ルークが静かに新しい茶を置いた。
「少し温かめにいたしました」
「ありがとう」
カップを両手で包む。
温かい。
でも、強すぎない。
眠気を叩き起こすのではなく、沈みかけた意識をそっと支える温度だった。
「ルーク」
「はい」
「これは、眠らせるお茶ではありませんわよね?」
「眠りを妨げないお茶です」
「その言い方、少し危険ですわ」
「無理に起きる必要はございませんので」
「あります。今夜は読むのです」
「では、読めるところまで」
甘い。
とても甘い。
ルークは止めない。
けれど、眠ったらそのまま毛布をかけるつもりの顔をしている。
それが分かる。
私は負けないという意志を込めて、ページをめくった。
ぱらり。
しとしと。
ぱらり。
しとしと。
文字が少しにじむ。
いけない。
目を開ける。
また読む。
雨が降る。
お茶を飲む。
麻ラグに足を伸ばす。
幸せだった。
これは、負けてもよい戦いかもしれない。
◇
どれくらい読んだのか、よく分からない。
気づくと、ノアは窓側で完全に寝ていた。手元の魔導具は閉じられ、膝の上に本が一冊乗っている。
アベルは厨房の灯りを落とし、奥で片付けを終えたらしい。足音だけが一度聞こえて、それから静かになった。
ラウンジに起きているのは、私とルークだけだった。
たぶん。
「ルーク」
「はい」
「いま、何時ですの?」
「夜明け前です」
「そんなに?」
「はい」
私は本を見る。
二冊目は、思ったより進んでいた。途中で何度か眠りかけた気がするけれど、完全には負けていない。
たぶん。
たぶん勝ちである。
「私、読めていますわよね」
「はい」
「寝ていませんわよね」
「何度か、目は閉じておられました」
「それは読書の余韻です」
「承知しました」
ルークの返事が優しい。
優しいが、信じていない気配がある。
私は本を閉じた。
少しだけ、目の奥が重い。
でも不快ではない。
本を読んだあとの、正しい疲れだった。
窓の外を見る。
雨はまだ降っている。
けれど、音はかなり細くなっていた。
しと。
しと。
少し間が空く。
遠くの空が、ほんのわずかに薄くなっている気がした。
「……朝が近いですわね」
「はい」
「雨も、少し弱くなりました」
「そのようです」
私は麻ラグの上で足を伸ばした。
さらり。
乾いた感触。
膝には薄い布。
手元には、少し冷めたお茶。
読んだ本が二冊。
防音ガラス越しの雨音。
何か大きなことが起きたわけではない。
ただ、雨の夜に本を読んだだけ。
けれど、それがしたかったのだ。
「満足しましたわ」
私は小さく呟いた。
ルークが、すぐそばで毛布を広げる。
「では、少しお休みください」
「私はまだ三冊目を」
「朝までに一度、お休みください」
「命令ですの?」
「お願いでございます」
お願いなら仕方がない。
私は三冊目を見た。
眠くなった時用の軽い本。
出番はなかった。
いや、出番がないまま眠るために置いていたのかもしれない。
私は本を閉じ、麻ラグの上から右ソファへ移ろうとした。
けれど、途中で少しだけ面倒になった。
「……ここで少しだけ」
ルークは何も言わなかった。
ただ、薄い膝掛けの上から、もう一枚だけ柔らかい毛布をかけてくれた。
軽い。
温かい。
雨音は、さらに細くなる。
しと。
しと。
私は目を閉じた。
深夜の読書は、大成功だった。
たぶん。
少なくとも、白銀列車の雨の日設定としては、完全に採用である。
意識がゆっくり沈んでいく直前、窓の向こうで、雨が少しだけ弱まる音がした。
深夜読書回でした。
雨音、
本、
薄いお茶、
麻ラグ。
これは寝ます。
次回、
雨上がりの平原を見送ります。




