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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第3章 雨音と麻ラグ編 〜雨待ちの停留所ウォータン〜

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32/84

032 無口な停留所番のハーブティーと、ただ雨音を共有する午後ですわ

麻ラグを敷きました。


足元がさらりと軽くなると、

雨音まで少し違って聞こえます。


今日は、

雨の停留所から小さな届け物です。

 麻ラグの上で本を読んでいると、雨音が少し近くなった気がした。


 もちろん、窓は閉まっている。防音ガラスも、白銀列車の空調も、いつも通り完璧である。外の湿気は入ってこない。泥も入ってこない。

 けれど足元が軽くなると、雨音まで軽く聞こえるのだから不思議だった。

 しとしと。

 しとしと。

 窓の向こうでは、今日も雨が降っている。

 私は麻ラグの上に座り、薄い膝掛けをかけて、旅行記のページをめくった。

 ぱらり。

 しとしと。

 ぱらり。

 しとしと。

「……よろしいですわね」

 思わず呟く。

 右ソファも良い。

 もちろん良い。

 あそこは絶対である。

 ただ、雨の日の午後に、床へ近い場所で本を読むのも悪くなかった。足裏に触れる麻の感触、膝にかかる薄い布、遠くの厨房から聞こえるアベルが器を片付ける音。

 窓側では、ノアが小さな魔導具を開いて何かを調整している。ルークは後ろ斜めに立ち、時々、私の膝掛けの位置を見ている。

 いつも通り。

 けれど、足元だけが少し新しい。

「ティアさん、完全に床の住人になってますね」

 ノアが言った。

「一時的な滞在ですわ」

「右ソファの前ですしね」

「定位置の範囲内です」

「範囲が広がった」

 広がったのではない。

 右ソファを中心に、快適圏が少し拡張しただけである。

 それは生活の進歩だった。

 その時、こんこん、と展望車側の扉が鳴った。

 音は小さい。

 雨音の間に挟まるような、控えめな叩き方だった。

 ルークが顔を上げる。

「来客です」

「誰ですの?」

「停留所番かと。外に一名」

 私は本を閉じた。

「展望車までなら構いませんわ」

「承知しました」

 居住区へは入れない。ラウンジにも深くは入れない。

 けれど、展望車は外と内の境界である。


 雨の日に短い用件を聞くには、ちょうどよい場所だった。


   ◇


 展望車の扉が開く。

 湿った空気が、ほんの少しだけ入口で止まった。白銀列車の空調が、それ以上入ってくることを許さない。

 外套を着た停留所番が、扉の前に立っていた。帽子のつばから、雨粒がぽたりと落ちる。手には、巻かれた防水布と、小さな布袋を持っていた。

「……届けに」

 短い。

 相変わらず短い。

 ルークが防水布を受け取る。

「ご苦労」

 停留所番は頷いた。

 それだけだった。

 私は麻ラグから立ち上がり、展望車の方へ歩いた。

 素足で麻を踏む。

 さらり。

 それから木床へ。

 こつ、と静かな音。

 展望車の手前で足を止めると、停留所番は少しだけ頭を下げた。

「昨日の布ですの?」

「防水布」

「見せていただいても?」

 停留所番は、ルークへ視線を向ける。

 ルークが少し広げた。

 厚すぎない布だった。外套ほど重くはない。けれど目が詰まっていて、水を通しにくそうな艶がある。色は、雨に濡れた石のような灰色。

 飾り気はない。

 でも、この土地にはよく似合う。

「軽いですわね」

「荷車にかける」

 停留所番が言った。

「荷物を濡らさないため?」

 頷き。

「人も使う」

「雨宿りですの?」

 また頷き。

 会話というより、雨の合間に短い石を置いていくような返事だった。

 ノアが防水布の端を触る。

「織りが細かいですね。油も染み込ませてる?」

「少し」

「なるほど。長雨用か」

「待つから」

 停留所番は、窓の外を見た。

 雨。

 石造りの待合所。

 水を吸った草。

 ぬかるんだ道。

「ここは、雨を待つ場所ですのね」

 私がそう言うと、停留所番は少しだけ目を伏せた。


「昔から」


 それ以上は言わなかった。

 けれど、それで十分だった。

 ウォータンは街ではない。

 市場でもない。

 旅人が雨脚を見て、荷車の者が布をかけ直して、濡れた外套を石壁に掛けて、ただ雨が弱まるのを待つ場所。

 きっと、それで成り立ってきたのだろう。

 白銀列車が停まっていることの方が、たぶん例外なのだ。


   ◇


 停留所番が、もう一つの布袋を差し出した。

「茶」

「お茶?」

「薄い」

 短い説明だった。

 アベルが厨房側から来て、布袋を受け取る。

 口を開けると、乾いた草のような匂いがした。強い香りではない。花のようでもない。薬のようでもない。

 雨の日に濡れた袖を乾かしながら飲むには、ちょうどよさそうな、薄くて静かな香りだった。

「ハーブか?」

 アベルが尋ねる。

「雨の時に飲む」

「体を温めるやつか」

 停留所番は少し考えて、首を横に振った。

「待つ時に飲む」

 アベルが少し笑った。

「なるほどな」

 私はその言葉が気に入った。

 温めるためでもない。

 眠るためでもない。

 元気を出すためでもない。


 待つ時に飲む茶。


 それは、この停留所らしかった。

「淹れていただけます?」

 私が言うと、アベルはすぐに頷いた。

「薄めでいいんだな」

「ええ。たぶん、薄い方がよろしいですわ」

 濃すぎるお茶は、今の雨音には少し強い。

 この土地の茶は、きっと主役になりたがらない。雨音の横に置かれるための味なのだろう。

 停留所番は帰ろうとした。

 だが私は、少しだけ考えてから声をかけた。

「よろしければ、一杯だけ飲んでいかれます?」

 ルークが、ごくわずかにこちらを見た。

 もちろん、居住区ではない。ラウンジでもない。展望車の端で、雨を見ながら一杯だけ。

 それなら境界は守られる。

 停留所番は少し黙った。

 雨音が、その沈黙を埋める。

 しとしと。

 しとしと。

 やがて、彼は小さく頷いた。

「……一杯」

「では、一杯だけ」

 それ以上の言葉はいらなかった。


   ◇


 展望車の窓際に、小さな卓が置かれた。

 来客用の場所である。居住区からは遠い。ラウンジとも少し距離がある。けれど大きな窓から、雨の停留所はよく見えた。

 アベルが薄いハーブティーを淹れる。

 湯気は細い。

 色も淡い。

 透明な黄色に、ほんの少し草色を混ぜたような茶だった。

 カップが置かれる。

 ことり。

 その音が、雨音に馴染んだ。

 停留所番は濡れた外套を入口側に掛け、椅子へ静かに座った。ルークは扉の近くに立っている。ノアは窓側。私は麻ラグの端に戻り、カップを両手で包んだ。

 全員が、少しだけ離れている。


 それがちょうど良かった。


「いただきますわ」

 ひと口飲む。

 薄い。

 本当に薄い。

 けれど、水っぽいわけではない。最初に草の香りが来て、あとから少しだけ苦みが残る。

 甘くない。

 強くない。

 体を一気に温める味でもない。

 ただ、雨音の横で邪魔にならない味だった。

「……不思議ですわね」

 私が呟くと、停留所番がこちらを見る。

「薄いのに、物足りなくありません」

 停留所番は、ほんの少しだけ頷いた。

「雨がある」

「雨?」

「茶は薄い。雨で足りる」

 私は窓の外を見た。

 しとしと。

 しとしと。

 ああ。

 なるほど。


 このお茶は、雨音と一緒に飲むものなのだ。


 味だけで完結しない。

 音と、湿った景色と、待つ時間があって、ようやくちょうどよくなる。

「贅沢ですわね」

 ノアが少し笑う。

「薄いお茶を贅沢って言う人、初めて見ました」

「薄いから贅沢なのです」

「そういうものですか」

「そういうものですわ」

 濃い味で満たすのではなく、足りない部分を雨音に任せる。

 そういう贅沢もある。

 停留所番は何も言わなかった。ただ、カップを持って窓の外を見ている。

 それでよかった。


   ◇


 しばらく、誰も話さなかった。

 雨が降っていた。

 窓の外では、屋根から水が落ちている。待合所の石壁は濡れて、黒く沈んでいる。草は雨に伏せている。遠くの平原は、灰色の中に消えていた。

 白銀列車の中は乾いている。

 麻ラグはさらりとしている。

 薄いハーブティーは、両手の中で少しずつ冷めていく。

 でも、その冷め方まで静かだった。

 私は本を開かなかった。

 読む気がなくなったわけではない。ただ今は、ページをめくる音さえ少し多い気がした。

 雨音を聞く。

 お茶を飲む。

 誰も急がない。


 それだけで、午後がゆっくり伸びていく。


 停留所番は、カップを置いた。

「……長い雨は」

 珍しく、彼の方から言葉を出した。

 私は顔を上げる。

「はい」

「喋ると、疲れる」

「分かりますわ」

 分かる気がした。

 雨の日は、言葉が少なくても成り立つ。むしろ、多すぎると少し邪魔になる。

 停留所番は窓の外を見たまま、もう一言だけ続けた。

「聞いていればいい」

「雨を?」

 頷き。

「はい」

 私はカップを持ち直した。

「今日は、そういたしますわ」

 また沈黙。

 でも、気まずくなかった。

 ルークも何も言わない。ノアも魔導具を閉じている。アベルは厨房に戻ったが、いつものように派手な音は立てていない。

 白銀列車全体が、少しだけ雨に合わせて静かになっているようだった。


 これはこれで、たいへん良い午後である。


   ◇


 停留所番が帰る頃、雨はまだ止んでいなかった。

 彼は空になったカップを、丁寧に卓の上へ戻した。

「ごちそう」

「こちらこそ。良いお茶でしたわ」

「薄い」

「そこがよろしいのです」

 停留所番は、少しだけ目を細めた気がした。

 笑ったのかもしれない。

 分からないくらい小さかったけれど。

 ルークが扉を開ける。

 外の湿った空気が近づく。

 けれど、境界を越えてはこない。

 停留所番は外套を着直し、防水布の端を軽く押さえた。

「また、雨」

「ええ」

「聞くといい」

「そうしますわ」

 短いやり取りだった。

 でも、それで十分だった。

 扉が閉まる。

 外の空気が遠ざかる。

 窓の向こうで、停留所番が雨の中を歩いていく。足元は泥だ。外套も濡れている。けれど彼の歩き方は、急がない。


 雨と喧嘩していない歩き方だった。


 私は麻ラグの上へ戻り、もう一度カップを持った。

 お茶は少し冷めていた。

 それも悪くなかった。

「静かな人でしたね」

 ノアが言う。

「ええ」

「ほとんど喋ってないですけど」

「でも、必要なことはだいたい分かりましたわ」

「そうです?」

「この土地では、雨の日に無理に喋らないのです」

 たぶん。

 推測だけれど、外れてはいない気がした。

 私は窓の外を見る。

 しとしと。

 しとしと。

 防音ガラス越しの雨音。

 薄いお茶。

 さらりとした麻ラグ。

 誰も急がない午後。

 雨の日の読書も良い。

 けれど、雨の日に何も読まない時間も、思ったより悪くなかった。

「……今夜は」

 私は小さく呟いた。

「もう少し長く、この雨音を聞いていたいですわね」

 ルークが静かに答える。

「では、深夜用のお茶もご用意いたします」

「お願いします」

 夜。

 雨音。

 防音ガラス。

 温かいお茶。

 本。

 その組み合わせを想像しただけで、少し楽しみになった。

 窓の外では、雨がまだ静かに降り続いている。


 今日の午後は、何かが起きたわけではない。


 ただ、薄いお茶を飲んで、雨音を聞いただけ。


 けれど白銀列車の中に、またひとつ、雨の日の過ごし方が増えた気がした。

停留所番のハーブティー回でした。


濃いお茶も好きですが、

雨音と一緒に飲む薄いお茶も良いものです。


次回、

防音ガラス越しの雨音で深夜読書です。

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