032 無口な停留所番のハーブティーと、ただ雨音を共有する午後ですわ
麻ラグを敷きました。
足元がさらりと軽くなると、
雨音まで少し違って聞こえます。
今日は、
雨の停留所から小さな届け物です。
麻ラグの上で本を読んでいると、雨音が少し近くなった気がした。
もちろん、窓は閉まっている。防音ガラスも、白銀列車の空調も、いつも通り完璧である。外の湿気は入ってこない。泥も入ってこない。
けれど足元が軽くなると、雨音まで軽く聞こえるのだから不思議だった。
しとしと。
しとしと。
窓の向こうでは、今日も雨が降っている。
私は麻ラグの上に座り、薄い膝掛けをかけて、旅行記のページをめくった。
ぱらり。
しとしと。
ぱらり。
しとしと。
「……よろしいですわね」
思わず呟く。
右ソファも良い。
もちろん良い。
あそこは絶対である。
ただ、雨の日の午後に、床へ近い場所で本を読むのも悪くなかった。足裏に触れる麻の感触、膝にかかる薄い布、遠くの厨房から聞こえるアベルが器を片付ける音。
窓側では、ノアが小さな魔導具を開いて何かを調整している。ルークは後ろ斜めに立ち、時々、私の膝掛けの位置を見ている。
いつも通り。
けれど、足元だけが少し新しい。
「ティアさん、完全に床の住人になってますね」
ノアが言った。
「一時的な滞在ですわ」
「右ソファの前ですしね」
「定位置の範囲内です」
「範囲が広がった」
広がったのではない。
右ソファを中心に、快適圏が少し拡張しただけである。
それは生活の進歩だった。
その時、こんこん、と展望車側の扉が鳴った。
音は小さい。
雨音の間に挟まるような、控えめな叩き方だった。
ルークが顔を上げる。
「来客です」
「誰ですの?」
「停留所番かと。外に一名」
私は本を閉じた。
「展望車までなら構いませんわ」
「承知しました」
居住区へは入れない。ラウンジにも深くは入れない。
けれど、展望車は外と内の境界である。
雨の日に短い用件を聞くには、ちょうどよい場所だった。
◇
展望車の扉が開く。
湿った空気が、ほんの少しだけ入口で止まった。白銀列車の空調が、それ以上入ってくることを許さない。
外套を着た停留所番が、扉の前に立っていた。帽子のつばから、雨粒がぽたりと落ちる。手には、巻かれた防水布と、小さな布袋を持っていた。
「……届けに」
短い。
相変わらず短い。
ルークが防水布を受け取る。
「ご苦労」
停留所番は頷いた。
それだけだった。
私は麻ラグから立ち上がり、展望車の方へ歩いた。
素足で麻を踏む。
さらり。
それから木床へ。
こつ、と静かな音。
展望車の手前で足を止めると、停留所番は少しだけ頭を下げた。
「昨日の布ですの?」
「防水布」
「見せていただいても?」
停留所番は、ルークへ視線を向ける。
ルークが少し広げた。
厚すぎない布だった。外套ほど重くはない。けれど目が詰まっていて、水を通しにくそうな艶がある。色は、雨に濡れた石のような灰色。
飾り気はない。
でも、この土地にはよく似合う。
「軽いですわね」
「荷車にかける」
停留所番が言った。
「荷物を濡らさないため?」
頷き。
「人も使う」
「雨宿りですの?」
また頷き。
会話というより、雨の合間に短い石を置いていくような返事だった。
ノアが防水布の端を触る。
「織りが細かいですね。油も染み込ませてる?」
「少し」
「なるほど。長雨用か」
「待つから」
停留所番は、窓の外を見た。
雨。
石造りの待合所。
水を吸った草。
ぬかるんだ道。
「ここは、雨を待つ場所ですのね」
私がそう言うと、停留所番は少しだけ目を伏せた。
「昔から」
それ以上は言わなかった。
けれど、それで十分だった。
ウォータンは街ではない。
市場でもない。
旅人が雨脚を見て、荷車の者が布をかけ直して、濡れた外套を石壁に掛けて、ただ雨が弱まるのを待つ場所。
きっと、それで成り立ってきたのだろう。
白銀列車が停まっていることの方が、たぶん例外なのだ。
◇
停留所番が、もう一つの布袋を差し出した。
「茶」
「お茶?」
「薄い」
短い説明だった。
アベルが厨房側から来て、布袋を受け取る。
口を開けると、乾いた草のような匂いがした。強い香りではない。花のようでもない。薬のようでもない。
雨の日に濡れた袖を乾かしながら飲むには、ちょうどよさそうな、薄くて静かな香りだった。
「ハーブか?」
アベルが尋ねる。
「雨の時に飲む」
「体を温めるやつか」
停留所番は少し考えて、首を横に振った。
「待つ時に飲む」
アベルが少し笑った。
「なるほどな」
私はその言葉が気に入った。
温めるためでもない。
眠るためでもない。
元気を出すためでもない。
待つ時に飲む茶。
それは、この停留所らしかった。
「淹れていただけます?」
私が言うと、アベルはすぐに頷いた。
「薄めでいいんだな」
「ええ。たぶん、薄い方がよろしいですわ」
濃すぎるお茶は、今の雨音には少し強い。
この土地の茶は、きっと主役になりたがらない。雨音の横に置かれるための味なのだろう。
停留所番は帰ろうとした。
だが私は、少しだけ考えてから声をかけた。
「よろしければ、一杯だけ飲んでいかれます?」
ルークが、ごくわずかにこちらを見た。
もちろん、居住区ではない。ラウンジでもない。展望車の端で、雨を見ながら一杯だけ。
それなら境界は守られる。
停留所番は少し黙った。
雨音が、その沈黙を埋める。
しとしと。
しとしと。
やがて、彼は小さく頷いた。
「……一杯」
「では、一杯だけ」
それ以上の言葉はいらなかった。
◇
展望車の窓際に、小さな卓が置かれた。
来客用の場所である。居住区からは遠い。ラウンジとも少し距離がある。けれど大きな窓から、雨の停留所はよく見えた。
アベルが薄いハーブティーを淹れる。
湯気は細い。
色も淡い。
透明な黄色に、ほんの少し草色を混ぜたような茶だった。
カップが置かれる。
ことり。
その音が、雨音に馴染んだ。
停留所番は濡れた外套を入口側に掛け、椅子へ静かに座った。ルークは扉の近くに立っている。ノアは窓側。私は麻ラグの端に戻り、カップを両手で包んだ。
全員が、少しだけ離れている。
それがちょうど良かった。
「いただきますわ」
ひと口飲む。
薄い。
本当に薄い。
けれど、水っぽいわけではない。最初に草の香りが来て、あとから少しだけ苦みが残る。
甘くない。
強くない。
体を一気に温める味でもない。
ただ、雨音の横で邪魔にならない味だった。
「……不思議ですわね」
私が呟くと、停留所番がこちらを見る。
「薄いのに、物足りなくありません」
停留所番は、ほんの少しだけ頷いた。
「雨がある」
「雨?」
「茶は薄い。雨で足りる」
私は窓の外を見た。
しとしと。
しとしと。
ああ。
なるほど。
このお茶は、雨音と一緒に飲むものなのだ。
味だけで完結しない。
音と、湿った景色と、待つ時間があって、ようやくちょうどよくなる。
「贅沢ですわね」
ノアが少し笑う。
「薄いお茶を贅沢って言う人、初めて見ました」
「薄いから贅沢なのです」
「そういうものですか」
「そういうものですわ」
濃い味で満たすのではなく、足りない部分を雨音に任せる。
そういう贅沢もある。
停留所番は何も言わなかった。ただ、カップを持って窓の外を見ている。
それでよかった。
◇
しばらく、誰も話さなかった。
雨が降っていた。
窓の外では、屋根から水が落ちている。待合所の石壁は濡れて、黒く沈んでいる。草は雨に伏せている。遠くの平原は、灰色の中に消えていた。
白銀列車の中は乾いている。
麻ラグはさらりとしている。
薄いハーブティーは、両手の中で少しずつ冷めていく。
でも、その冷め方まで静かだった。
私は本を開かなかった。
読む気がなくなったわけではない。ただ今は、ページをめくる音さえ少し多い気がした。
雨音を聞く。
お茶を飲む。
誰も急がない。
それだけで、午後がゆっくり伸びていく。
停留所番は、カップを置いた。
「……長い雨は」
珍しく、彼の方から言葉を出した。
私は顔を上げる。
「はい」
「喋ると、疲れる」
「分かりますわ」
分かる気がした。
雨の日は、言葉が少なくても成り立つ。むしろ、多すぎると少し邪魔になる。
停留所番は窓の外を見たまま、もう一言だけ続けた。
「聞いていればいい」
「雨を?」
頷き。
「はい」
私はカップを持ち直した。
「今日は、そういたしますわ」
また沈黙。
でも、気まずくなかった。
ルークも何も言わない。ノアも魔導具を閉じている。アベルは厨房に戻ったが、いつものように派手な音は立てていない。
白銀列車全体が、少しだけ雨に合わせて静かになっているようだった。
これはこれで、たいへん良い午後である。
◇
停留所番が帰る頃、雨はまだ止んでいなかった。
彼は空になったカップを、丁寧に卓の上へ戻した。
「ごちそう」
「こちらこそ。良いお茶でしたわ」
「薄い」
「そこがよろしいのです」
停留所番は、少しだけ目を細めた気がした。
笑ったのかもしれない。
分からないくらい小さかったけれど。
ルークが扉を開ける。
外の湿った空気が近づく。
けれど、境界を越えてはこない。
停留所番は外套を着直し、防水布の端を軽く押さえた。
「また、雨」
「ええ」
「聞くといい」
「そうしますわ」
短いやり取りだった。
でも、それで十分だった。
扉が閉まる。
外の空気が遠ざかる。
窓の向こうで、停留所番が雨の中を歩いていく。足元は泥だ。外套も濡れている。けれど彼の歩き方は、急がない。
雨と喧嘩していない歩き方だった。
私は麻ラグの上へ戻り、もう一度カップを持った。
お茶は少し冷めていた。
それも悪くなかった。
「静かな人でしたね」
ノアが言う。
「ええ」
「ほとんど喋ってないですけど」
「でも、必要なことはだいたい分かりましたわ」
「そうです?」
「この土地では、雨の日に無理に喋らないのです」
たぶん。
推測だけれど、外れてはいない気がした。
私は窓の外を見る。
しとしと。
しとしと。
防音ガラス越しの雨音。
薄いお茶。
さらりとした麻ラグ。
誰も急がない午後。
雨の日の読書も良い。
けれど、雨の日に何も読まない時間も、思ったより悪くなかった。
「……今夜は」
私は小さく呟いた。
「もう少し長く、この雨音を聞いていたいですわね」
ルークが静かに答える。
「では、深夜用のお茶もご用意いたします」
「お願いします」
夜。
雨音。
防音ガラス。
温かいお茶。
本。
その組み合わせを想像しただけで、少し楽しみになった。
窓の外では、雨がまだ静かに降り続いている。
今日の午後は、何かが起きたわけではない。
ただ、薄いお茶を飲んで、雨音を聞いただけ。
けれど白銀列車の中に、またひとつ、雨の日の過ごし方が増えた気がした。
停留所番のハーブティー回でした。
濃いお茶も好きですが、
雨音と一緒に飲む薄いお茶も良いものです。
次回、
防音ガラス越しの雨音で深夜読書です。




