031 夏用麻ラグへの衣替えと、素足の心地よさですわ
ポトフで温まりました。
髪も乾きました。
右ソファも完璧です。
ですが、
足元だけ少し、
冬のままでした。
ポトフを食べ終えると、体の芯まで温まっていた。
雨の冷えはもうない。髪も軽い。右ソファも乾いている。かなり完璧だった。
けれど、毛布の中で足先を動かした時、私は小さく首を傾げた。
「……やはり、少し重いですわね」
ルークが後ろ斜めから答える。
「お体が?」
「いいえ。足元です」
私は右ソファから床を見る。
厚手の敷物。
冬の間はたいへん頼もしかった。吹雪の夜も、湯上がりの夜も、足元から冷えを寄せつけない、すばらしい働きぶりだった。
けれど今は、雨の季節である。
車内は乾いている。体はポトフで温まっている。それなのに足元だけが、まだ冬の顔をしていた。
「冬用の敷物は、そろそろ休ませるべきですわ」
ノアが窓側から振り返る。
「あ、本当にやるんですね」
「もちろんですわ」
「食後ですよ?」
「食後だからです。満腹の時こそ、床の重さが気になりますもの」
「分かるような、分からないような」
分かるはずである。
生活は、気になったところから変えるものだ。
不快というほどではない。
けれど、もっと良くできる。
その程度の違和感が、一番大事なのである。
アベルが器を片付けながら言った。
「今やるのか?」
「今ですわ」
「腹いっぱいの顔してるぞ」
「だからこそ、だらだらする場所を整えたいのです」
「理屈は分からんが、欲望は分かる」
それで十分である。
◇
ノアが保管棚から、丸められた麻ラグを出してきた。
生成り色の軽い布。厚手の冬用敷物とはまるで違う。巻かれているだけなのに、すでに空気が軽い。
「これは?」
「夏用に積んであったものです。湿気の季節に使うなら、ちょうどいいかと」
「素晴らしい準備ですわ」
「ティアさんが、いつか床で読書したいって言ってたので」
「言いましたかしら」
「言いました。何度か」
そうだったかもしれない。
右ソファは最高である。
けれど、床にも床の良さがある。本を何冊か広げたり、足を投げ出したり、眠くなったらそのまま横になったり。だらだらするには、床の質もかなり重要なのだ。
ルークが厚手の敷物の端を持ち上げた。
「埃が立ちます。お嬢様は少しお下がりください」
「私も手伝いますわ」
「いけません」
「なぜですの」
「満腹でおられます」
理由になっているような、なっていないような。
けれど実際、私はかなり満腹だった。
仕方なく右ソファへ座り直す。
作業を見る係である。
ルークとノアが手際よく冬用の敷物を丸めていく。厚い布が床から離れると、ラウンジの印象が少し変わった。
暖かい。
けれど、少し軽い。
同じ部屋なのに、季節が一枚脱いだように見える。
「……面白いですわね」
私が呟くと、ノアが顔を上げた。
「何がです?」
「家具を動かしていないのに、空気が変わります」
「敷物って面積が大きいですからね。温度の見え方も変わります」
「温度の見え方」
「はい。冬用は見た目から暖かいですけど、雨の季節だと少し重く見えるんです」
「なるほど」
それは分かる気がした。
白銀列車の中はいつも快適だ。
けれど、快適にも季節がある。
冬の快適と、雨の季節の快適は、少し違う。同じ暖かさでも、重いと感じる日があるのだ。
◇
麻ラグが広げられた。
さあ、と乾いた音がした。
厚手の敷物の、どしりとした音とは違う。
軽い。
布が床の上で息をするような音だった。
生成り色の麻が、磨かれた木の床に広がっていく。雨の日なのに、床だけが少し夏に近づいたように見えた。
「お嬢様、まだ踏まないでください」
ルークが言う。
「なぜですの」
「端を整えます」
「少しだけ」
「だめです」
厳しい。
しかし、右ソファの前に広がる新しい麻ラグは、たいへん誘惑が強かった。
さらりとしていそうだった。
見るからに、素足で踏んだら気持ちよさそうだった。
私はそっと室内履きの先を動かす。
「お嬢様」
「まだ踏んでおりませんわ」
「踏む前の動きでした」
「よく見ていますわね」
「見ております」
当然のように言われた。
ノアが笑いながら、ラグの端をまっすぐに伸ばす。
「はい、これで大丈夫です」
その言葉を聞いた瞬間、私は立ち上がった。
室内履きを脱ぐ。
「え、素足ですか?」
ノアが言う。
「当然ですわ。麻ラグの感触を確認するのに、室内履き越しでは失礼です」
「ラグに礼儀を」
「あります」
私は一歩、麻ラグへ足を置いた。
さらり。
「……」
思ったより、ずっと良かった。
柔らかすぎない。沈み込みすぎない。足裏に細い繊維の感触があって、でも痛くはない。
乾いていて、軽くて、少しだけ涼しい。
冬用敷物のように足を包むのではなく、足の下で空気を通してくれる感じがする。
私はもう一歩進んだ。
さらり。
さくり。
「……これは」
私は真剣に言った。
「大変よろしいですわ」
ルークが少しだけ頷く。
「お足元が冷えませんか」
「冷えません。むしろ、ちょうどいいです」
ポトフで温まった体に、この足元はちょうどよかった。
熱を逃がしすぎない。
でも、こもらせない。
雨の日の車内に必要なのは、こういう軽さだったのだ。
◇
私は麻ラグの上に、そのまま座った。
「お嬢様」
ルークの声が少し低くなる。
「大丈夫ですわ」
「右ソファは」
「すぐそこにあります」
「定位置が」
「今日は床も試します」
定位置を捨てたわけではない。
右ソファは絶対である。
けれど、右ソファの前に気持ちの良い麻ラグがあるなら、そこもまた準定位置になり得る。
私は足を伸ばした。
麻の感触が、ふくらはぎの下にさらりと触れる。
とても良い。
読書向きである。
そして、食後に動きたくない時にも良い。
「……床でだらだらする季節が来ましたわね」
ノアが呆れた顔をした。
「季節で決まるんですか」
「決まります。冬はソファと毛布。雨の季節は麻ラグと薄い膝掛けです」
「また文化が増えた」
「生活とは、文化の積み重ねですわ」
アベルが厨房側から顔を出す。
「寝るなよ」
「寝ませんわ」
「その顔は寝るぞ」
「少し読書するだけです」
「本持ってねえだろ」
確かに。
私は手元を見る。
何も持っていなかった。
ただ、麻ラグの感触を確かめたかっただけである。
しかし、この状態なら本は必要だ。
「ノア」
「はいはい。持ってきますよ」
「まだ何も言っていませんわ」
「顔に書いてあります」
最近、皆が私の行動を先読みしすぎている気がする。
便利なので、特に抗議はしない。
ノアが本を取りに行っている間、私は麻ラグの上で足先を動かした。
さらり。
さらり。
雨音が続いている。
窓の外は灰色。
けれど床の上は、少しだけ明るい。
重い冬の敷物を外しただけで、ラウンジの呼吸まで軽くなった気がした。
◇
ノアが本を持って戻ってきた。
薄めの旅行記。
雨の日にはちょうどいい厚さである。
ルークは黙って、薄い膝掛けを一枚持ってきた。
「毛布ではないのですね」
「はい。今のお足元には、こちらの方が合うかと」
さすがである。
冬用の厚い毛布では、せっかくの麻ラグが少し重くなる。薄い膝掛けなら、さらりとした足元を邪魔しない。
私は麻ラグに座ったまま、膝掛けを受け取った。
軽い。
ちょうどいい。
ポトフで温まったお腹。
乾いた髪。
素足に触れる麻。
防音ガラス越しの雨音。
右ソファの前なのに、今日は床が妙に気持ちいい。
「……これは、危険ですわね」
私が呟くと、ノアが首を傾げた。
「何がです?」
「立ち上がる理由がありません」
「いつもでは?」
「いつも以上に、です」
麻ラグの上で本を開く。
ページをめくる音が、雨音に混ざる。
ぱらり。
しとしと。
ぱらり。
しとしと。
とても静かだった。
静かなのに、退屈ではない。足裏がさらりとしているだけで、同じ読書でも少し違う。
私はページに目を落としたまま、小さく息を吐いた。
「夏用麻ラグ、採用ですわ」
「決定早いですね」
ノアが言う。
「一歩で分かりました」
「また三分くらいの判断だ」
「快適は、長く試さなくても分かるものです」
ルークが後ろ斜めで静かに頷いた。
「では、冬用敷物は手入れして保管いたします」
「お願いします」
アベルが厨房から言う。
「床で食うなよ」
「食べませんわ」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんか」
それは、今後の軽食次第である。
今はただ、雨音と本と麻の感触があれば十分だった。
窓の向こうで、雨はまだ降っている。
外の泥も湿気も、ここには届かない。
届くのは音だけ。
そして足元には、さらりとした新しい季節がある。
私は麻ラグの上で足先を伸ばし、もう一度ページをめくった。
雨の日の読書は、右ソファだけでなく、床の上でもかなり良い。
これは新発見である。
夏用麻ラグ回でした。
冬用のふかふかも好きですが、
雨の季節には、
さらっとした足元が欲しくなります。
次回、
無口な停留所番のハーブティーです。




