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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第3章 雨音と麻ラグ編 〜雨待ちの停留所ウォータン〜

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31/84

031 夏用麻ラグへの衣替えと、素足の心地よさですわ

ポトフで温まりました。


髪も乾きました。


右ソファも完璧です。


ですが、

足元だけ少し、

冬のままでした。


 ポトフを食べ終えると、体の芯まで温まっていた。


 雨の冷えはもうない。髪も軽い。右ソファも乾いている。かなり完璧だった。

 けれど、毛布の中で足先を動かした時、私は小さく首を傾げた。

「……やはり、少し重いですわね」

 ルークが後ろ斜めから答える。

「お体が?」

「いいえ。足元です」

 私は右ソファから床を見る。

 厚手の敷物。

 冬の間はたいへん頼もしかった。吹雪の夜も、湯上がりの夜も、足元から冷えを寄せつけない、すばらしい働きぶりだった。

 けれど今は、雨の季節である。

 車内は乾いている。体はポトフで温まっている。それなのに足元だけが、まだ冬の顔をしていた。


「冬用の敷物は、そろそろ休ませるべきですわ」


 ノアが窓側から振り返る。

「あ、本当にやるんですね」

「もちろんですわ」

「食後ですよ?」

「食後だからです。満腹の時こそ、床の重さが気になりますもの」

「分かるような、分からないような」

 分かるはずである。

 生活は、気になったところから変えるものだ。

 不快というほどではない。

 けれど、もっと良くできる。

 その程度の違和感が、一番大事なのである。

 アベルが器を片付けながら言った。

「今やるのか?」

「今ですわ」

「腹いっぱいの顔してるぞ」

「だからこそ、だらだらする場所を整えたいのです」

「理屈は分からんが、欲望は分かる」

 それで十分である。


   ◇


 ノアが保管棚から、丸められた麻ラグを出してきた。

 生成り色の軽い布。厚手の冬用敷物とはまるで違う。巻かれているだけなのに、すでに空気が軽い。

「これは?」

「夏用に積んであったものです。湿気の季節に使うなら、ちょうどいいかと」

「素晴らしい準備ですわ」

「ティアさんが、いつか床で読書したいって言ってたので」

「言いましたかしら」

「言いました。何度か」

 そうだったかもしれない。

 右ソファは最高である。

 けれど、床にも床の良さがある。本を何冊か広げたり、足を投げ出したり、眠くなったらそのまま横になったり。だらだらするには、床の質もかなり重要なのだ。

 ルークが厚手の敷物の端を持ち上げた。

「埃が立ちます。お嬢様は少しお下がりください」

「私も手伝いますわ」

「いけません」

「なぜですの」

「満腹でおられます」

 理由になっているような、なっていないような。

 けれど実際、私はかなり満腹だった。

 仕方なく右ソファへ座り直す。


 作業を見る係である。


 ルークとノアが手際よく冬用の敷物を丸めていく。厚い布が床から離れると、ラウンジの印象が少し変わった。

 暖かい。

 けれど、少し軽い。

 同じ部屋なのに、季節が一枚脱いだように見える。

「……面白いですわね」

 私が呟くと、ノアが顔を上げた。

「何がです?」

「家具を動かしていないのに、空気が変わります」

「敷物って面積が大きいですからね。温度の見え方も変わります」

「温度の見え方」

「はい。冬用は見た目から暖かいですけど、雨の季節だと少し重く見えるんです」

「なるほど」

 それは分かる気がした。

 白銀列車の中はいつも快適だ。

 けれど、快適にも季節がある。

 冬の快適と、雨の季節の快適は、少し違う。同じ暖かさでも、重いと感じる日があるのだ。


   ◇


 麻ラグが広げられた。


 さあ、と乾いた音がした。


 厚手の敷物の、どしりとした音とは違う。

 軽い。

 布が床の上で息をするような音だった。

 生成り色の麻が、磨かれた木の床に広がっていく。雨の日なのに、床だけが少し夏に近づいたように見えた。

「お嬢様、まだ踏まないでください」

 ルークが言う。

「なぜですの」

「端を整えます」

「少しだけ」

「だめです」

 厳しい。

 しかし、右ソファの前に広がる新しい麻ラグは、たいへん誘惑が強かった。

 さらりとしていそうだった。

 見るからに、素足で踏んだら気持ちよさそうだった。

 私はそっと室内履きの先を動かす。

「お嬢様」

「まだ踏んでおりませんわ」

「踏む前の動きでした」

「よく見ていますわね」

「見ております」

 当然のように言われた。

 ノアが笑いながら、ラグの端をまっすぐに伸ばす。

「はい、これで大丈夫です」

 その言葉を聞いた瞬間、私は立ち上がった。

 室内履きを脱ぐ。

「え、素足ですか?」

 ノアが言う。

「当然ですわ。麻ラグの感触を確認するのに、室内履き越しでは失礼です」

「ラグに礼儀を」

「あります」

 私は一歩、麻ラグへ足を置いた。

 さらり。

「……」

 思ったより、ずっと良かった。

 柔らかすぎない。沈み込みすぎない。足裏に細い繊維の感触があって、でも痛くはない。

 乾いていて、軽くて、少しだけ涼しい。

 冬用敷物のように足を包むのではなく、足の下で空気を通してくれる感じがする。

 私はもう一歩進んだ。

 さらり。

 さくり。

「……これは」

 私は真剣に言った。


「大変よろしいですわ」


 ルークが少しだけ頷く。

「お足元が冷えませんか」

「冷えません。むしろ、ちょうどいいです」

 ポトフで温まった体に、この足元はちょうどよかった。

 熱を逃がしすぎない。

 でも、こもらせない。

 雨の日の車内に必要なのは、こういう軽さだったのだ。


   ◇


 私は麻ラグの上に、そのまま座った。

「お嬢様」

 ルークの声が少し低くなる。

「大丈夫ですわ」

「右ソファは」

「すぐそこにあります」

「定位置が」

「今日は床も試します」

 定位置を捨てたわけではない。

 右ソファは絶対である。

 けれど、右ソファの前に気持ちの良い麻ラグがあるなら、そこもまた準定位置になり得る。

 私は足を伸ばした。

 麻の感触が、ふくらはぎの下にさらりと触れる。

 とても良い。

 読書向きである。

 そして、食後に動きたくない時にも良い。


「……床でだらだらする季節が来ましたわね」


 ノアが呆れた顔をした。

「季節で決まるんですか」

「決まります。冬はソファと毛布。雨の季節は麻ラグと薄い膝掛けです」

「また文化が増えた」

「生活とは、文化の積み重ねですわ」

 アベルが厨房側から顔を出す。

「寝るなよ」

「寝ませんわ」

「その顔は寝るぞ」

「少し読書するだけです」

「本持ってねえだろ」

 確かに。

 私は手元を見る。

 何も持っていなかった。

 ただ、麻ラグの感触を確かめたかっただけである。

 しかし、この状態なら本は必要だ。

「ノア」

「はいはい。持ってきますよ」

「まだ何も言っていませんわ」

「顔に書いてあります」

 最近、皆が私の行動を先読みしすぎている気がする。

 便利なので、特に抗議はしない。

 ノアが本を取りに行っている間、私は麻ラグの上で足先を動かした。

 さらり。

 さらり。

 雨音が続いている。

 窓の外は灰色。

 けれど床の上は、少しだけ明るい。

 重い冬の敷物を外しただけで、ラウンジの呼吸まで軽くなった気がした。


   ◇


 ノアが本を持って戻ってきた。

 薄めの旅行記。

 雨の日にはちょうどいい厚さである。

 ルークは黙って、薄い膝掛けを一枚持ってきた。

「毛布ではないのですね」

「はい。今のお足元には、こちらの方が合うかと」

 さすがである。

 冬用の厚い毛布では、せっかくの麻ラグが少し重くなる。薄い膝掛けなら、さらりとした足元を邪魔しない。

 私は麻ラグに座ったまま、膝掛けを受け取った。

 軽い。

 ちょうどいい。

 ポトフで温まったお腹。

 乾いた髪。

 素足に触れる麻。

 防音ガラス越しの雨音。

 右ソファの前なのに、今日は床が妙に気持ちいい。


「……これは、危険ですわね」


 私が呟くと、ノアが首を傾げた。

「何がです?」

「立ち上がる理由がありません」

「いつもでは?」

「いつも以上に、です」

 麻ラグの上で本を開く。

 ページをめくる音が、雨音に混ざる。

 ぱらり。

 しとしと。

 ぱらり。

 しとしと。

 とても静かだった。

 静かなのに、退屈ではない。足裏がさらりとしているだけで、同じ読書でも少し違う。

 私はページに目を落としたまま、小さく息を吐いた。


「夏用麻ラグ、採用ですわ」


「決定早いですね」

 ノアが言う。

「一歩で分かりました」

「また三分くらいの判断だ」

「快適は、長く試さなくても分かるものです」

 ルークが後ろ斜めで静かに頷いた。

「では、冬用敷物は手入れして保管いたします」

「お願いします」

 アベルが厨房から言う。

「床で食うなよ」

「食べませんわ」

「本当か?」

「たぶん」

「たぶんか」

 それは、今後の軽食次第である。

 今はただ、雨音と本と麻の感触があれば十分だった。

 窓の向こうで、雨はまだ降っている。

 外の泥も湿気も、ここには届かない。

 届くのは音だけ。

 そして足元には、さらりとした新しい季節がある。

 私は麻ラグの上で足先を伸ばし、もう一度ページをめくった。


 雨の日の読書は、右ソファだけでなく、床の上でもかなり良い。


 これは新発見である。

夏用麻ラグ回でした。


冬用のふかふかも好きですが、

雨の季節には、

さらっとした足元が欲しくなります。


次回、

無口な停留所番のハーブティーです。


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