030 雨の冷え込みには、熱々の塩漬け肉ポトフを頂きますわ
髪も乾きました。
右ソファも完璧でした。
ですが、
雨の日の冷えは、
少しだけ体の奥に残るものです。
厨房の奥で、ことこと、と音がしていた。
小さな音だった。
けれど、雨の日のラウンジでは、それだけでかなり頼もしい。
私は右ソファに沈んだまま、毛布の中で足先を少し動かした。乾いている。髪も軽い。首筋に残っていた湿気も、もうほとんど消えている。
それなのに。
「……お腹の奥が、少し寒い気がしますわ」
私が呟くと、窓側のノアが顔を上げた。
「お腹の奥?」
「ええ。表面はもう大丈夫ですの。でも、体の中心だけ、まだ雨を覚えている感じがします」
「詩的に言ってますけど、たぶん普通に冷えたんですよ」
失礼である。
けれど、否定はできない。
外にいたのは短い時間だった。ほんの数分。それでも、湿った空気は油断ならない。服の上からでも、靴の底からでも、首元からでも、じわじわ入り込んでくる。
白銀列車の中へ戻れば、すぐ快適になる。
だが、体の奥まで戻るには、もう少し何かが必要だった。
その時、厨房側からアベルの声がした。
「そろそろ食えるぞ」
私は顔を上げた。
「もうですの?」
「煮込み始めは早かったからな。塩漬け肉は少し薄く切ってある。根菜も小さめだ」
アベルが鍋の蓋を持ち上げる。
ふわりと湯気が立った。
雨音の中に、肉の匂いが混ざる。
派手な香辛料ではない。焼き菓子の甘さでもない。塩漬け肉の深い香りと、根菜の甘い匂い。それから、温かい湯気。
「……これは」
私は思わず背中を起こした。
「必要なものですわ」
「だろ」
アベルは短く笑った。
◇
右ソファの前に、小さな卓が置かれた。
熱い鍋をそのまま持ってくるのは危ないから、とルークが低い声で言ったためである。
もちろん正しい。
右ソファは守られなければならない。
やがて、深めの器に盛られたポトフが運ばれてきた。透明に近い黄金色のスープ、柔らかく煮えた根菜、薄く切られた塩漬け肉。湯気が、ゆっくり上へ伸びている。
「停留所の保存食ですのよね?」
「ああ。停留所番が分けてくれた。雨が長い土地だから、肉を塩で持たせるんだと」
「なるほど」
長い説明はいらなかった。
雨が続く。
道がぬかるむ。
外へ出るのも面倒になる。
そんな土地で、塩漬け肉と根菜を鍋にする。
それだけで、だいたい納得できた。
私はスプーンを持った。
湯気が手元にかかる。
熱い。
まだ食べてもいないのに、指先が先に温まっていく。
「お嬢様、熱いのでお気をつけください」
ルークが後ろ斜めから言う。
「分かっていますわ」
「前回、湯気に近づきすぎました」
「覚えていなくてよろしいです」
「覚えております」
なぜ、こういうことだけ記憶が良いのか。
私は慎重にスープをすくった。
ふう、と息を吹きかける。
雨音。
湯気。
スプーンの銀色。
それだけで、もう少し眠くなる。
けれど、今は寝る前に温まるべき時間である。
ひと口。
「……」
塩気が最初に来た。
強すぎない。
けれど、雨でぼんやりした体には、はっきり分かる味だった。
そのあとに肉の旨味が広がる。薄く切った塩漬け肉から出た味が、スープ全体にじんわり溶けている。
根菜は柔らかい。
噛むと甘い。
派手ではないのに、体の奥へまっすぐ届く。
「……これは、雨の日の味ですわ」
私が言うと、アベルが少しだけ得意そうに頷いた。
「豪華じゃないけどな」
「豪華である必要はありませんわ」
私はもう一口、スープを飲む。
喉を通って、胸へ落ちる。
胸から、お腹へ。
お腹から、毛布の中の足先まで。
温かさが、ゆっくり広がっていく。
「こういう日は、派手な料理より、熱い汁物ですわね」
「分かってるじゃねえか」
「今、理解しました」
外の雨で冷えた体には、柔らかい味がちょうどよかった。
強すぎる香辛料でもない。
重すぎる肉料理でもない。
熱いスープ、塩漬け肉、根菜。
それで十分だった。
◇
窓の外では、まだ雨が降っている。
灰色の平原。石造りの停留所。屋根から落ちる水の線。景色は変わらない。
けれど、器の中だけは明るかった。
湯気の向こうに、暖炉の光が少し混ざっている。
ルークは私の毛布の端を直し、スプーンを持つ手が冷えない位置に小卓を調整した。
ノアは窓側で、自分の分のポトフを受け取りながら呟く。
「雨の日にこれ出されたら、外へ戻る気なくなりますね」
「戻る必要がありませんもの」
「まあ、そうですね」
「雨は窓の向こう。ポトフはこちら側。それで十分ですわ」
ノアはスープを一口飲んで、素直に頷いた。
「うま」
「でしょう?」
「ティアさんが作ったわけじゃないですけどね」
「私は食べる係です」
「堂々としてる」
堂々としていてよい。
適材適所である。
アベルが作る。
ルークが整える。
ノアが余計なことを言う。
私は食べる。
この列車は、それでかなり上手く回っている。
私は塩漬け肉をひと切れ口に入れた。
ほろり、とほどける。少しだけ塩の残った肉が、根菜の甘さとちょうどいい。
飲み込むと、さっきまで体の奥に残っていた冷えが、さらに薄くなった気がした。
「……戻ってきましたわ」
私が呟くと、ルークが静かに尋ねた。
「お体が?」
「ええ。中まで白銀列車に戻ってきました」
外套を脱ぐだけでは足りなかった。髪を乾かすだけでも、まだ少し足りなかった。右ソファに沈んで、毛布を掛けられて、それでも最後に必要だったのは、熱いスープだったらしい。
アベルが鍋のそばから言った。
「おかわりするか?」
私は器を見た。
まだ少し残っている。
けれど、答えは決まっていた。
「もちろんですわ」
「早いな」
「必要なものですから」
必要。
本当に、その言葉が一番近かった。
雨の日に、熱いポトフは必要である。
◇
二杯目は、少しだけ肉を多めにしてもらった。
アベルは何も言わずにそうしてくれた。こういうところが、たいへん信頼できる。
私は右ソファに深く沈み、毛布の上で器を両手に持った。
ルークが少しだけ眉を動かす。
「お嬢様、小卓をお使いください」
「持っていた方が温かいのです」
「熱すぎませんか」
「ちょうどいいですわ」
「では、器の底に布を」
すぐに布が一枚、手元へ添えられた。
完璧である。
器を包む布越しに、じんわり熱が伝わってくる。窓の向こうでは雨が降っている。こちら側では、手の中に小さな鍋のような温かさがある。
私はスープを飲んだ。
ほっと息が落ちる。
雨音が、少し遠くなる。
いや、遠くなったのではない。
こちら側が、十分に温まったのだ。
「ポトフというものは、静かな料理ですわね」
私が言うと、ノアが首を傾げた。
「静かな料理?」
「ええ。派手に主張しませんのに、気づくと体を占領しています」
「占領」
「良い意味ですわ」
外の湿気は悪質に居座る。
けれど、ポトフの温かさは違う。
ちゃんと歓迎できる形で、体の中へ広がってくれる。
同じ“残る”でも、大違いである。
アベルが腕を組んだ。
「塩が強すぎるかと思ったが、雨の日ならこれくらいでいいな」
「ええ。今日の味ですわ」
「今日の味?」
「晴れた日に食べたら、少し違うかもしれません。でも、今はこの塩気がちょうどいいのです」
雨でぼんやりした体を、少しだけ起こしてくれる。
熱で緩めて、塩で戻す。
そういう味だった。
私は器の底に残った根菜をすくう。
やわらかい。
甘い。
最後にスープを飲み干すと、体の芯に残っていた雨の冷えが、ようやく消えた気がした。
「……完全に戻りましたわ」
「それはよかった」
アベルが満足そうに言った。
ルークが空になった器を受け取り、代わりに温かい茶を置く。
食後の茶は、先ほどより少しだけ濃かった。ポトフのあとに飲むと、口の中が静かに整っていく。
◇
満腹になると、体は正直だった。
私は右ソファに沈んだまま、少しだけ足を伸ばす。
暖かい。
乾いている。
お腹も満ちている。
かなり良い。
かなり良いのだけれど、足元に触れている敷物が少しだけ重く感じた。
冬の間はありがたかった厚手の感触。
雪の章では完璧だった。温泉のあとも、湯冷めを防ぐにはちょうどよかった。
けれど、今は雨の季節である。
外は湿っている。車内は乾いている。体はポトフで温まっている。そうなると、足元だけ少し、季節が遅れている気がした。
「……ルーク」
「はい」
「冬用の敷物は、少し重いかもしれませんわね」
ノアが窓側からこちらを見る。
「あ、次はそこですか」
「足元は大事ですわ」
「まあ、ティアさんはすぐ床に降りますもんね」
「すぐではありません」
「結構すぐです」
失礼である。
けれど、少しだけ心当たりはある。
雨音を聞きながら本を読むなら、ソファだけでなく足元も大事になる。
さらりとした床。
軽い布。
素足で触れて気持ちのいい感触。
そういうものがあれば、雨の日の読書はもっと良くなる気がした。
アベルが器を片付けながら言う。
「今度は敷物か」
「ええ。雨の季節には、雨の季節の足元が必要ですわ」
「忙しいな」
「生活は細部でできていますもの」
窓の外では、雨がまだ静かに降っている。
その音を聞きながら、私は毛布の中で足先をもう一度動かした。
お腹は温かい。
髪は軽い。
右ソファは完璧。
ならば次は、足元を軽くする番である。
雨の日のポトフ回でした。
派手な料理ではありませんが、
こういう日に食べる熱い汁物は、
かなり強いです。
次回、
夏用麻ラグへの衣替えです。




