表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第3章 雨音と麻ラグ編 〜雨待ちの停留所ウォータン〜

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/84

030 雨の冷え込みには、熱々の塩漬け肉ポトフを頂きますわ

髪も乾きました。


右ソファも完璧でした。


ですが、

雨の日の冷えは、

少しだけ体の奥に残るものです。

 厨房の奥で、ことこと、と音がしていた。


 小さな音だった。

 けれど、雨の日のラウンジでは、それだけでかなり頼もしい。

 私は右ソファに沈んだまま、毛布の中で足先を少し動かした。乾いている。髪も軽い。首筋に残っていた湿気も、もうほとんど消えている。

 それなのに。


「……お腹の奥が、少し寒い気がしますわ」


 私が呟くと、窓側のノアが顔を上げた。

「お腹の奥?」

「ええ。表面はもう大丈夫ですの。でも、体の中心だけ、まだ雨を覚えている感じがします」

「詩的に言ってますけど、たぶん普通に冷えたんですよ」

 失礼である。

 けれど、否定はできない。

 外にいたのは短い時間だった。ほんの数分。それでも、湿った空気は油断ならない。服の上からでも、靴の底からでも、首元からでも、じわじわ入り込んでくる。

 白銀列車の中へ戻れば、すぐ快適になる。

 だが、体の奥まで戻るには、もう少し何かが必要だった。

 その時、厨房側からアベルの声がした。

「そろそろ食えるぞ」

 私は顔を上げた。

「もうですの?」

「煮込み始めは早かったからな。塩漬け肉は少し薄く切ってある。根菜も小さめだ」

 アベルが鍋の蓋を持ち上げる。

 ふわりと湯気が立った。

 雨音の中に、肉の匂いが混ざる。

 派手な香辛料ではない。焼き菓子の甘さでもない。塩漬け肉の深い香りと、根菜の甘い匂い。それから、温かい湯気。

「……これは」

 私は思わず背中を起こした。


「必要なものですわ」


「だろ」

 アベルは短く笑った。


   ◇


 右ソファの前に、小さな卓が置かれた。

 熱い鍋をそのまま持ってくるのは危ないから、とルークが低い声で言ったためである。

 もちろん正しい。

 右ソファは守られなければならない。

 やがて、深めの器に盛られたポトフが運ばれてきた。透明に近い黄金色のスープ、柔らかく煮えた根菜、薄く切られた塩漬け肉。湯気が、ゆっくり上へ伸びている。

「停留所の保存食ですのよね?」

「ああ。停留所番が分けてくれた。雨が長い土地だから、肉を塩で持たせるんだと」

「なるほど」

 長い説明はいらなかった。

 雨が続く。

 道がぬかるむ。

 外へ出るのも面倒になる。

 そんな土地で、塩漬け肉と根菜を鍋にする。

 それだけで、だいたい納得できた。

 私はスプーンを持った。

 湯気が手元にかかる。

 熱い。

 まだ食べてもいないのに、指先が先に温まっていく。

「お嬢様、熱いのでお気をつけください」

 ルークが後ろ斜めから言う。

「分かっていますわ」

「前回、湯気に近づきすぎました」

「覚えていなくてよろしいです」

「覚えております」

 なぜ、こういうことだけ記憶が良いのか。

 私は慎重にスープをすくった。

 ふう、と息を吹きかける。

 雨音。

 湯気。

 スプーンの銀色。

 それだけで、もう少し眠くなる。

 けれど、今は寝る前に温まるべき時間である。

 ひと口。

「……」

 塩気が最初に来た。

 強すぎない。

 けれど、雨でぼんやりした体には、はっきり分かる味だった。

 そのあとに肉の旨味が広がる。薄く切った塩漬け肉から出た味が、スープ全体にじんわり溶けている。

 根菜は柔らかい。

 噛むと甘い。

 派手ではないのに、体の奥へまっすぐ届く。


「……これは、雨の日の味ですわ」


 私が言うと、アベルが少しだけ得意そうに頷いた。

「豪華じゃないけどな」

「豪華である必要はありませんわ」

 私はもう一口、スープを飲む。

 喉を通って、胸へ落ちる。

 胸から、お腹へ。

 お腹から、毛布の中の足先まで。

 温かさが、ゆっくり広がっていく。

「こういう日は、派手な料理より、熱い汁物ですわね」

「分かってるじゃねえか」

「今、理解しました」

 外の雨で冷えた体には、柔らかい味がちょうどよかった。

 強すぎる香辛料でもない。

 重すぎる肉料理でもない。

 熱いスープ、塩漬け肉、根菜。

 それで十分だった。


   ◇


 窓の外では、まだ雨が降っている。

 灰色の平原。石造りの停留所。屋根から落ちる水の線。景色は変わらない。

 けれど、器の中だけは明るかった。

 湯気の向こうに、暖炉の光が少し混ざっている。

 ルークは私の毛布の端を直し、スプーンを持つ手が冷えない位置に小卓を調整した。

 ノアは窓側で、自分の分のポトフを受け取りながら呟く。

「雨の日にこれ出されたら、外へ戻る気なくなりますね」

「戻る必要がありませんもの」

「まあ、そうですね」

「雨は窓の向こう。ポトフはこちら側。それで十分ですわ」

 ノアはスープを一口飲んで、素直に頷いた。

「うま」

「でしょう?」

「ティアさんが作ったわけじゃないですけどね」

「私は食べる係です」

「堂々としてる」

 堂々としていてよい。

 適材適所である。

 アベルが作る。

 ルークが整える。

 ノアが余計なことを言う。

 私は食べる。

 この列車は、それでかなり上手く回っている。

 私は塩漬け肉をひと切れ口に入れた。

 ほろり、とほどける。少しだけ塩の残った肉が、根菜の甘さとちょうどいい。

 飲み込むと、さっきまで体の奥に残っていた冷えが、さらに薄くなった気がした。

「……戻ってきましたわ」

 私が呟くと、ルークが静かに尋ねた。

「お体が?」

「ええ。中まで白銀列車に戻ってきました」

 外套を脱ぐだけでは足りなかった。髪を乾かすだけでも、まだ少し足りなかった。右ソファに沈んで、毛布を掛けられて、それでも最後に必要だったのは、熱いスープだったらしい。

 アベルが鍋のそばから言った。

「おかわりするか?」

 私は器を見た。

 まだ少し残っている。

 けれど、答えは決まっていた。

「もちろんですわ」

「早いな」

「必要なものですから」

 必要。

 本当に、その言葉が一番近かった。


 雨の日に、熱いポトフは必要である。


   ◇


 二杯目は、少しだけ肉を多めにしてもらった。

 アベルは何も言わずにそうしてくれた。こういうところが、たいへん信頼できる。

 私は右ソファに深く沈み、毛布の上で器を両手に持った。

 ルークが少しだけ眉を動かす。

「お嬢様、小卓をお使いください」

「持っていた方が温かいのです」

「熱すぎませんか」

「ちょうどいいですわ」

「では、器の底に布を」

 すぐに布が一枚、手元へ添えられた。

 完璧である。

 器を包む布越しに、じんわり熱が伝わってくる。窓の向こうでは雨が降っている。こちら側では、手の中に小さな鍋のような温かさがある。

 私はスープを飲んだ。

 ほっと息が落ちる。

 雨音が、少し遠くなる。

 いや、遠くなったのではない。

 こちら側が、十分に温まったのだ。

「ポトフというものは、静かな料理ですわね」

 私が言うと、ノアが首を傾げた。

「静かな料理?」

「ええ。派手に主張しませんのに、気づくと体を占領しています」

「占領」

「良い意味ですわ」

 外の湿気は悪質に居座る。

 けれど、ポトフの温かさは違う。

 ちゃんと歓迎できる形で、体の中へ広がってくれる。

 同じ“残る”でも、大違いである。

 アベルが腕を組んだ。

「塩が強すぎるかと思ったが、雨の日ならこれくらいでいいな」

「ええ。今日の味ですわ」

「今日の味?」

「晴れた日に食べたら、少し違うかもしれません。でも、今はこの塩気がちょうどいいのです」

 雨でぼんやりした体を、少しだけ起こしてくれる。

 熱で緩めて、塩で戻す。

 そういう味だった。

 私は器の底に残った根菜をすくう。

 やわらかい。

 甘い。

 最後にスープを飲み干すと、体の芯に残っていた雨の冷えが、ようやく消えた気がした。


「……完全に戻りましたわ」


「それはよかった」

 アベルが満足そうに言った。

 ルークが空になった器を受け取り、代わりに温かい茶を置く。

 食後の茶は、先ほどより少しだけ濃かった。ポトフのあとに飲むと、口の中が静かに整っていく。


   ◇


 満腹になると、体は正直だった。

 私は右ソファに沈んだまま、少しだけ足を伸ばす。

 暖かい。

 乾いている。

 お腹も満ちている。

 かなり良い。

 かなり良いのだけれど、足元に触れている敷物が少しだけ重く感じた。

 冬の間はありがたかった厚手の感触。

 雪の章では完璧だった。温泉のあとも、湯冷めを防ぐにはちょうどよかった。

 けれど、今は雨の季節である。

 外は湿っている。車内は乾いている。体はポトフで温まっている。そうなると、足元だけ少し、季節が遅れている気がした。

「……ルーク」

「はい」

「冬用の敷物は、少し重いかもしれませんわね」

 ノアが窓側からこちらを見る。

「あ、次はそこですか」

「足元は大事ですわ」

「まあ、ティアさんはすぐ床に降りますもんね」

「すぐではありません」

「結構すぐです」

 失礼である。

 けれど、少しだけ心当たりはある。

 雨音を聞きながら本を読むなら、ソファだけでなく足元も大事になる。

 さらりとした床。

 軽い布。

 素足で触れて気持ちのいい感触。

 そういうものがあれば、雨の日の読書はもっと良くなる気がした。

 アベルが器を片付けながら言う。

「今度は敷物か」

「ええ。雨の季節には、雨の季節の足元が必要ですわ」

「忙しいな」

「生活は細部でできていますもの」

 窓の外では、雨がまだ静かに降っている。

 その音を聞きながら、私は毛布の中で足先をもう一度動かした。

 お腹は温かい。

 髪は軽い。

 右ソファは完璧。


 ならば次は、足元を軽くする番である。

雨の日のポトフ回でした。


派手な料理ではありませんが、

こういう日に食べる熱い汁物は、

かなり強いです。


次回、

夏用麻ラグへの衣替えです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ