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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第3章 雨音と麻ラグ編 〜雨待ちの停留所ウォータン〜

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29/84

029 濡れた髪を拭きながら、完璧に除湿された右ソファへ沈みますわ

外の雨は、

もう十分に体験しました。


ここからは、

窓の内側で楽しむ時間です。

 温かいタオルが、髪の端を包んだ。


 外套はもう、ルークに預けた。泥のついた長靴も、入口に置いてきた。それでも首筋と髪の端だけは、まだ少しだけ雨の気配を覚えている。

「……しぶといですわね」

「湿気は、目に見えませんので」

 ルークが背後で静かに答えた。

 見えない。

 けれど残る。

 それが湿気である。


 なんて悪質なのだろう。


 私は低い椅子に座ったまま、少しだけ肩をすくめた。

 ラウンジの中は暖かい。窓の外では雨が降っている。

 しとしと。

 しとしと。

 けれど、防音ガラスを挟むだけで、同じ雨音がまるで別のものに聞こえた。

 外では、靴を重くした音。

 中では、ただ静かな背景音。


 この差は大きい。


「お嬢様、動かないでください」

「動いておりませんわ」

「いま、少しだけ逃げました」

「首元がくすぐったかっただけです」

 ルークの手は丁寧だった。

 強くこすらず、毛先を温かい布で包み、水気だけをゆっくり吸わせていく。

 雑に拭けば早い。

 でも、雑に拭けば負けである。

 湿気に負けたうえ、髪まで乱れるなど許されない。

「ティアさん、顔が真剣ですね」

 ノアが窓際から言った。

「これは真剣に扱うべき問題ですわ」

「雨のあと始末が?」

「髪と湿気の戦いです」

「規模が小さいなぁ」

「小さい問題ほど生活に響くのです」

 私はきっぱり言った。

 大事件は、たまになら避けられる。

 けれど湿気は違う。気づいた時には首筋にいる。毛先にいる。袖口にいる。そして、何食わぬ顔で居座る。

 生活の敵としては、かなり手強い部類である。


   ◇


 温かい布が、もう一度毛先を包み直した。

 じんわり。

 冷たさが抜けていく。髪が少しずつ軽くなるのが分かった。

 外にいた時は、空気そのものが肌にまとわりついていた。けれど今は違う。白銀列車の空調が、濡れた気配だけを静かに取り除いていく。

 音も立てない。

 風も強すぎない。

 ただ、気づくと楽になっている。

 それが良い。


 とても良い。


「……この列車、除湿まで完璧ですのね」

 私が呟くと、ノアが少し誇らしそうに鼻を鳴らした。

「当然です。外が吹雪でも砂漠でも雨でも、車内は快適であるべきですから」

「素晴らしい思想ですわ」

「ティアさんが最初にそう言ったんですけどね」

「そうでしたかしら」

「不快な移動は、人生から締め出したいって」

「それは言いましたわ」

 否定できない。

 不快な移動は、だいたい人生の質を下げる。

 寒さ、揺れ、湿気、泥、濡れた袖口。

 そういうものを全部置き去りにできるのなら、それはもう立派な生活防衛である。

 ルークがタオルを替えた。

 今度の布は、さらに乾いていた。ふかりと髪を包まれると、首元の力が抜ける。

「……ああ」

 思わず声が漏れた。

 雨音が遠い。

 布は温かい。

 床は乾いている。


 この三つが揃っただけで、世界はだいぶ優しくなる。


「そんなに違います?」

 ノアが聞いた。

「違いますわ」

 私は目を閉じたまま答える。

「外では、雨がこちらに触ってきます。でも、ここでは距離を取っています」

「雨に距離感を求めます?」

「求めます。こちらへ踏み込まないことは、最低限の礼儀ですわ」

「厳しいなぁ」

 厳しくない。

 こちらはただ、本を読みたいだけなのだ。


   ◇


 アベルが厨房側から顔を出した。

「乾いたか?」

「もう少しですわ」

「じゃあ、先に軽い茶だけ出す。腹はあとで温めればいい」

「あとで?」

「雨の日用に、煮込みを考えてる。停留所の保存食に、塩漬け肉があった」

「まあ」

「根菜も少し。こういう日は、熱いものの方がいいだろ」

 熱いもの。

 その言葉だけで、体の奥が少し反応した。

 今はもう寒くはない。列車の中は暖かい。でも、外で吸い込んだ湿った空気が、体の奥に薄く残っている気がした。

 表面は乾いた。

 けれど、芯はまだ温かいものを待っている。

「それは、きっと必要になりますわ」

「だろうな」

 アベルは短く笑って、厨房へ戻っていった。

 かたん。

 ことん。

 鍋か何かを置く音がする。

 まだ料理の時間ではない。

 でも、次の楽しみがもう動き始めている。

 私はその音を聞きながら、少しだけ右ソファの方を見た。

 暖炉の右側。

 いつもの定位置。

 毛布は整えられ、クッションも少し起こされている。


 私が戻るためだけに、そこは空いていた。


 けれど、まだ座らない。

 座れない。

 完全に乾いてからでないと、あの場所へ沈む資格がない気がする。

「お嬢様」

 ルークが静かに言った。

「もう少しです」

「分かっていますわ」

「焦っておられますか」

「少しだけ」

 否定はしなかった。

 目の前に右ソファがあるのに、まだ行けない。

 これはなかなかの試練である。

 ノアが笑った。

「そんなに座りたいですか」

「座りたいですわ」

「正直」

「当然です。あそこは定位置ですもの」

 定位置。

 その言葉だけで、背中の力が抜ける気がした。

 右ソファはただの家具ではない。

 帰宅の証明である。

 外で何があっても、あそこに沈めば終わる。

 雨も、泥も、湿気も、全部、窓の向こうの出来事になる。


   ◇


 ルークが最後に、髪の内側へ乾いた櫛を通した。

 引っかかりはない。

 重さもない。

 濡れていた気配だけが、きれいに消えていた。

「もう大丈夫です」

「本当に?」

「はい。右ソファへお戻りいただけます」


 待っていた言葉だった。


 私は立ち上がる。

 室内履きの底が、乾いた床を静かに踏む。さっきまで泥を踏んでいた足とは思えないほど、床は軽かった。

 ラウンジの中央を歩く。

 一歩。

 また一歩。

 外の雨音が、防音ガラス越しに柔らかく続いている。

 しとしと。

 しとしと。

 もう、こちらには触れてこない。

 私は右ソファの前で、ほんの少しだけ足を止めた。

 乾いている。

 見るだけで分かる。

 革張りの表面も、クッションの窪みも、畳まれた毛布も、全部が完璧に乾いている。

 私は、ゆっくり腰を下ろした。

 ふかり。

 背中が受け止められる。

 腰が沈む。

 肩の力が抜ける。


 乾いている。


 完璧に、乾いている。


 さっきまで首筋に残っていた雨の気配が、ここには一欠片もない。

「……これですわ」

 私は目を細めた。

 ルークが毛布を掛ける。

 重すぎず、軽すぎず。外で少し冷えた足元を、ちょうどよく覆う重さだった。

「定位置、空いておりました」

「ええ。最高ですわ」

 声が自然に緩む。

 窓の外は、まだ灰色だった。濡れた平原、石造りの停留所、屋根から落ちる水の線。景色は何も変わっていない。

 けれど、こちら側だけが完全に違う。

 乾いた右ソファ。

 温かい毛布。

 軽くなった髪。

 木の匂い。

 遠くの厨房から聞こえる、次の鍋の支度音。

 かたん。

 ことん。

 この音だけで、かなり安心できる。

「計画、続行です?」

 ノアが窓側で聞いた。

「当然ですわ」

「強い」

「失敗したのは外です。雨音そのものは悪くありません」

 私は毛布の中で足先を少し動かした。

 乾いている。

 それだけで、こんなにも安心する。

 アベルが薄い茶を持ってきた。

「先にこれ」

「ありがとう」

 カップを両手で包む。

 熱すぎない。

 雨のあとに飲むには、ちょうどいい温度だった。

 ひと口飲むと、喉から胸の奥へ、ゆっくり温かさが落ちていく。

 表面はもう乾いた。

 でも、体の奥はまだ、次の温かさを待っている。

「……雨の日の読書は、ここからが本番ですわね」

「本、持ってきます?」

 ノアが聞く。

「もちろん」

「さっきまで負けてたのに」

「もう勝ちましたもの」

 正確には、白銀列車が勝ったのである。

 私はカップを置き、右ソファにもう少し深く沈んだ。

 防音ガラス越しの雨音が、柔らかく続いている。

 窓の向こうには、泥と湿気。

 こちら側には、乾いた布と温かい茶。

 届くのは、音だけ。

 それで十分だった。


 むしろ、それが一番良かった。


 厨房の奥で、ことこと、と何かが煮え始める音がした。

 雨はまだ止まない。

 だからきっと、熱いものはもっと美味しくなる。

除湿された右ソファ回でした。


濡れたあとは、

乾いた場所のありがたみがよく分かります。


次回、

雨の日に食べる熱々の塩漬け肉ポトフです。

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