029 濡れた髪を拭きながら、完璧に除湿された右ソファへ沈みますわ
外の雨は、
もう十分に体験しました。
ここからは、
窓の内側で楽しむ時間です。
温かいタオルが、髪の端を包んだ。
外套はもう、ルークに預けた。泥のついた長靴も、入口に置いてきた。それでも首筋と髪の端だけは、まだ少しだけ雨の気配を覚えている。
「……しぶといですわね」
「湿気は、目に見えませんので」
ルークが背後で静かに答えた。
見えない。
けれど残る。
それが湿気である。
なんて悪質なのだろう。
私は低い椅子に座ったまま、少しだけ肩をすくめた。
ラウンジの中は暖かい。窓の外では雨が降っている。
しとしと。
しとしと。
けれど、防音ガラスを挟むだけで、同じ雨音がまるで別のものに聞こえた。
外では、靴を重くした音。
中では、ただ静かな背景音。
この差は大きい。
「お嬢様、動かないでください」
「動いておりませんわ」
「いま、少しだけ逃げました」
「首元がくすぐったかっただけです」
ルークの手は丁寧だった。
強くこすらず、毛先を温かい布で包み、水気だけをゆっくり吸わせていく。
雑に拭けば早い。
でも、雑に拭けば負けである。
湿気に負けたうえ、髪まで乱れるなど許されない。
「ティアさん、顔が真剣ですね」
ノアが窓際から言った。
「これは真剣に扱うべき問題ですわ」
「雨のあと始末が?」
「髪と湿気の戦いです」
「規模が小さいなぁ」
「小さい問題ほど生活に響くのです」
私はきっぱり言った。
大事件は、たまになら避けられる。
けれど湿気は違う。気づいた時には首筋にいる。毛先にいる。袖口にいる。そして、何食わぬ顔で居座る。
生活の敵としては、かなり手強い部類である。
◇
温かい布が、もう一度毛先を包み直した。
じんわり。
冷たさが抜けていく。髪が少しずつ軽くなるのが分かった。
外にいた時は、空気そのものが肌にまとわりついていた。けれど今は違う。白銀列車の空調が、濡れた気配だけを静かに取り除いていく。
音も立てない。
風も強すぎない。
ただ、気づくと楽になっている。
それが良い。
とても良い。
「……この列車、除湿まで完璧ですのね」
私が呟くと、ノアが少し誇らしそうに鼻を鳴らした。
「当然です。外が吹雪でも砂漠でも雨でも、車内は快適であるべきですから」
「素晴らしい思想ですわ」
「ティアさんが最初にそう言ったんですけどね」
「そうでしたかしら」
「不快な移動は、人生から締め出したいって」
「それは言いましたわ」
否定できない。
不快な移動は、だいたい人生の質を下げる。
寒さ、揺れ、湿気、泥、濡れた袖口。
そういうものを全部置き去りにできるのなら、それはもう立派な生活防衛である。
ルークがタオルを替えた。
今度の布は、さらに乾いていた。ふかりと髪を包まれると、首元の力が抜ける。
「……ああ」
思わず声が漏れた。
雨音が遠い。
布は温かい。
床は乾いている。
この三つが揃っただけで、世界はだいぶ優しくなる。
「そんなに違います?」
ノアが聞いた。
「違いますわ」
私は目を閉じたまま答える。
「外では、雨がこちらに触ってきます。でも、ここでは距離を取っています」
「雨に距離感を求めます?」
「求めます。こちらへ踏み込まないことは、最低限の礼儀ですわ」
「厳しいなぁ」
厳しくない。
こちらはただ、本を読みたいだけなのだ。
◇
アベルが厨房側から顔を出した。
「乾いたか?」
「もう少しですわ」
「じゃあ、先に軽い茶だけ出す。腹はあとで温めればいい」
「あとで?」
「雨の日用に、煮込みを考えてる。停留所の保存食に、塩漬け肉があった」
「まあ」
「根菜も少し。こういう日は、熱いものの方がいいだろ」
熱いもの。
その言葉だけで、体の奥が少し反応した。
今はもう寒くはない。列車の中は暖かい。でも、外で吸い込んだ湿った空気が、体の奥に薄く残っている気がした。
表面は乾いた。
けれど、芯はまだ温かいものを待っている。
「それは、きっと必要になりますわ」
「だろうな」
アベルは短く笑って、厨房へ戻っていった。
かたん。
ことん。
鍋か何かを置く音がする。
まだ料理の時間ではない。
でも、次の楽しみがもう動き始めている。
私はその音を聞きながら、少しだけ右ソファの方を見た。
暖炉の右側。
いつもの定位置。
毛布は整えられ、クッションも少し起こされている。
私が戻るためだけに、そこは空いていた。
けれど、まだ座らない。
座れない。
完全に乾いてからでないと、あの場所へ沈む資格がない気がする。
「お嬢様」
ルークが静かに言った。
「もう少しです」
「分かっていますわ」
「焦っておられますか」
「少しだけ」
否定はしなかった。
目の前に右ソファがあるのに、まだ行けない。
これはなかなかの試練である。
ノアが笑った。
「そんなに座りたいですか」
「座りたいですわ」
「正直」
「当然です。あそこは定位置ですもの」
定位置。
その言葉だけで、背中の力が抜ける気がした。
右ソファはただの家具ではない。
帰宅の証明である。
外で何があっても、あそこに沈めば終わる。
雨も、泥も、湿気も、全部、窓の向こうの出来事になる。
◇
ルークが最後に、髪の内側へ乾いた櫛を通した。
引っかかりはない。
重さもない。
濡れていた気配だけが、きれいに消えていた。
「もう大丈夫です」
「本当に?」
「はい。右ソファへお戻りいただけます」
待っていた言葉だった。
私は立ち上がる。
室内履きの底が、乾いた床を静かに踏む。さっきまで泥を踏んでいた足とは思えないほど、床は軽かった。
ラウンジの中央を歩く。
一歩。
また一歩。
外の雨音が、防音ガラス越しに柔らかく続いている。
しとしと。
しとしと。
もう、こちらには触れてこない。
私は右ソファの前で、ほんの少しだけ足を止めた。
乾いている。
見るだけで分かる。
革張りの表面も、クッションの窪みも、畳まれた毛布も、全部が完璧に乾いている。
私は、ゆっくり腰を下ろした。
ふかり。
背中が受け止められる。
腰が沈む。
肩の力が抜ける。
乾いている。
完璧に、乾いている。
さっきまで首筋に残っていた雨の気配が、ここには一欠片もない。
「……これですわ」
私は目を細めた。
ルークが毛布を掛ける。
重すぎず、軽すぎず。外で少し冷えた足元を、ちょうどよく覆う重さだった。
「定位置、空いておりました」
「ええ。最高ですわ」
声が自然に緩む。
窓の外は、まだ灰色だった。濡れた平原、石造りの停留所、屋根から落ちる水の線。景色は何も変わっていない。
けれど、こちら側だけが完全に違う。
乾いた右ソファ。
温かい毛布。
軽くなった髪。
木の匂い。
遠くの厨房から聞こえる、次の鍋の支度音。
かたん。
ことん。
この音だけで、かなり安心できる。
「計画、続行です?」
ノアが窓側で聞いた。
「当然ですわ」
「強い」
「失敗したのは外です。雨音そのものは悪くありません」
私は毛布の中で足先を少し動かした。
乾いている。
それだけで、こんなにも安心する。
アベルが薄い茶を持ってきた。
「先にこれ」
「ありがとう」
カップを両手で包む。
熱すぎない。
雨のあとに飲むには、ちょうどいい温度だった。
ひと口飲むと、喉から胸の奥へ、ゆっくり温かさが落ちていく。
表面はもう乾いた。
でも、体の奥はまだ、次の温かさを待っている。
「……雨の日の読書は、ここからが本番ですわね」
「本、持ってきます?」
ノアが聞く。
「もちろん」
「さっきまで負けてたのに」
「もう勝ちましたもの」
正確には、白銀列車が勝ったのである。
私はカップを置き、右ソファにもう少し深く沈んだ。
防音ガラス越しの雨音が、柔らかく続いている。
窓の向こうには、泥と湿気。
こちら側には、乾いた布と温かい茶。
届くのは、音だけ。
それで十分だった。
むしろ、それが一番良かった。
厨房の奥で、ことこと、と何かが煮え始める音がした。
雨はまだ止まない。
だからきっと、熱いものはもっと美味しくなる。
除湿された右ソファ回でした。
濡れたあとは、
乾いた場所のありがたみがよく分かります。
次回、
雨の日に食べる熱々の塩漬け肉ポトフです。




