028 永遠に続く春の雨と、泥まみれの停留所ですわ
温泉を満喫しましたので、
次は静かな景色が欲しくなりました。
雨音だけ聞いて、
本でも読みたい気分ですわ。
……そう思っていた時期が、
私にもありました。
ユノハナを出る時、私はたしかに言った。
次は、春の雨が見たい、と。
暖かい場所で雨音を聞きながら本を読むのは、きっと贅沢だと思ったのだ。
その願いは、叶った。
雨の音で目が覚めた。
しとしと。
しとしと。
静かだった。
吹雪みたいに窓を叩かない。海みたいに唸らない。ただ細く、同じ調子で続いている。
私は毛布を肩まで引き寄せながら、窓を見る。灰色の空、低い雲、濡れた平原。窓には、細い雨粒が流れていた。
「……良いですわね」
思わず呟いた。
温泉の湯気も好きだった。雪景色も嫌いではない。でも、こういう静かな景色も悪くない。少し薄暗いくらいの方が、本を読むには落ち着く気がする。
ルークが後ろ斜めから告げる。
「お目覚めですか、お嬢様」
「ええ。ここはどこですの?」
「中部平原地帯です。まもなく、雨待ちの停留所ウォータンへ到着いたします」
「雨待ち」
私は少し考えた。
「雨を待つのです?」
「止むのを待つ方かと」
「なるほど」
少し残念である。
雨を待つ停留所、という響きは素敵だった。けれど、止むのを待つということは、それだけ降り続ける土地という意味でもある。
ノアが窓際から言った。
「昨日からずっと降ってますよ」
「ずっと?」
「はい。地面もかなり水を吸ってます」
私はまた窓を見る。
雨と草と平原。
灰色なのに、不思議と静かで、悪くない。
むしろ、かなり好きかもしれない。
「雨音を聞きながら、本でも読むのも良さそうですわ」
ノアが笑った。
「出ましたね」
「何がですの?」
「ユノハナを出る時から言ってたやつです」
「春の雨読書計画ですわね」
「名前ついてたんですか」
もちろんである。
暖かい車内、静かな雨音、読みかけの本、湯気の立つ紅茶。どう考えても、成功が約束された組み合わせだった。
「雨、好きですね」
「好きですわ」
「見る側限定ですけどね」
失礼である。
まだ外に出ていないのだから、決めつけるのは早い。
◇
白銀列車がゆっくり停まる。
ガタン、ゴトン。
静かな停止だった。ティーカップの水面は揺れず、膝に掛けた毛布の端だけが、私の呼吸に合わせて少し動いた。
窓の外には、小さな停留所があった。
街、と呼ぶには小さい。線路のために作られた場所、という感じでもない。もともとは、荷車や旅人が雨をやり過ごすための石造りの中継所なのだろう。
雨除けの屋根、木のベンチ、古い雨樋。
人は少ない。
そして、全部濡れていた。
壁も道も草も看板も、屋根の端から落ちる水も、どこを見ても乾いた場所がない。
「……確認しますわ」
私は毛布を畳んで立ち上がる。
ノアが振り返った。
「何をです?」
「雨音読書適性ですわ」
「出るんです?」
「体験せずに判断はできませんもの」
ノアが嫌な予感みたいな顔をした。
ルークは何も言わなかった。ただ、防水の外套を差し出した。
さらに深めのフード、滑りにくい長靴、手袋。
用意が良すぎる。
つまり、それだけ外が良くないということでもある。
「お嬢様。無理をなさる必要はございません」
「少しだけですわ。雨音読書に適した停留所なら、今後の楽しみが増えますもの」
「承知しました。では、三分で戻れる範囲に」
「短くありませんこと?」
「湿気は待ってくれませんので」
その言い方は、少し大げさではないかしら。
そう思いながらも、私は外套に袖を通した。
◇
扉が開いた。
空気が変わった。
冷たい。
違う。
湿っている。
雨の匂い。濡れた草。水を吸った土。石の表面に張りついた冷たさ。全部が薄く混ざって、頬と首筋にまとわりついてくる。
「……あら」
一歩出る。
屋根の下なのに、空気そのものが濡れているようだった。手袋の内側まで湿りそうな気配があり、フードの縁には細かな雨粒が乗る。
もう一歩。
ぬちゃ。
足が沈んだ。
私は止まった。
足元を見る。黒い泥が、長靴の底に絡みついている。
柔らかい。
重い。
歩くたびに、靴を引き戻してくるような泥だった。
「……これは」
さらに一歩。
ぬち。
今度は、はっきり重い。靴底に泥が増えた。歩いただけなのに、すでに少し疲れる。
そのうえ、髪が首筋に触れた。
いつもより、わずかに重い。湿気を吸って、毛先が落ち着かない方向へ広がろうとしている。
嫌な予感ではない。
嫌だった。
「お嬢様」
ルークが傘を少し寄せる。
「戻りますか」
「まだですわ」
私は歩く。
三歩。
雨、湿気、泥、重い靴、まとわりつく空気、少しずつ膨らんでいく髪。
静かな景色として眺めていた春の雨は、外へ出た瞬間、たいへん具体的な不快になった。
その時、停留所の奥に立っていた男と目が合った。
深くかぶった帽子、古い外套、泥のついた長靴。顔立ちは見えにくいけれど、急いで話しかけてくる気配はない。
この場所の番人だろうか。
「ここの管理を?」
男は頷いた。
「……停留所番です」
声も短かった。
「雨、多いですわね」
「多い」
「止みませんの?」
「待つ」
「なるほど」
会話はそれで終わった。
とても短い。
けれど、嫌な感じはしなかった。
雨の日は、このくらいでいいのかもしれない。長々と説明されても、こちらは靴底に泥を増やすだけである。
停留所番は、石造りの待合所を指差した。
「中、使うか」
私はそちらを見る。
石壁に囲まれた小さな待合所。木のベンチ。濡れた外套を掛けるための古い釘。隅には、巻かれた防水布のようなものも見えた。
悪くない。
雨宿りの場所としては、きっと十分なのだろう。
けれど、私は振り返った。
白銀列車がそこにある。
濡れた停留所の中で、そこだけが乾いて見えた。大きな窓は曇らず、内側には琥珀色の灯りが揺れている。
磨かれた木の床も、柔らかいソファも、温かい空気も。
全部がこちらを待っている。
私は数秒考えた。
「……帰りますわ」
停留所番は、少しも驚かなかった。
「正解」
短かった。
だが、説得力があった。
◇
戻る。
泥を避ける。避ける。少し踏む。また重くなる。
たった数分しか外に出ていないのに、足元に疲労が溜まっていく。雨粒は外套で弾けているはずなのに、湿った空気だけは隙間から入り込んで、首筋と髪に残った。
扉の前まで戻ったところで、私は一度だけ振り返った。
灰色の雨。
濡れた平原。
石造りの停留所。
屋根から落ちる水の線。
静かな景色としては、とても綺麗だった。
綺麗ではある。
けれど、その綺麗さを味わうために、靴を泥まみれにして髪を湿らせる必要があるかと言われると、まったく別の話である。
「……雨は」
私は呟く。
「中から見る方が好きかもしれませんわね」
ノアが車内側から笑った。
「知ってました」
「知っていても、言わない優しさがあるのではなくて?」
「すみません。顔に出ました」
反省していない声だった。
扉が開く。
暖気。
乾いた空気。
木の匂い。
遠くからかすかに届く、厨房の湯気。
外の湿った土の匂いが、一歩ごとに後ろへ薄れていく。
まだ完全に中へ入っていない。
なのに、身体が先に安心していた。
ルークが一礼する。
「お帰りなさいませ。外は湿っていたでしょう」
「湿っていた、では足りませんわ。空気がこちらを濡らしに来ておりました」
「すぐにお拭きします」
ルークは私の外套を受け取り、雨粒が床へ落ちる前にさっと畳んだ。濡れた長靴の下には、いつの間にか吸水用の布が敷かれている。
動きが早い。
ありがたい。
とてもありがたい。
私は手袋を外しながら、ラウンジの方を見た。
琥珀色の灯り。
暖炉の柔らかな火。
いつもの右ソファ。
そこは、ちゃんと空いていた。
けれど、まだ座らない。
座れない。
髪が湿っている。首筋に雨の気配が残っている。靴底には泥の名残があり、外套にも細かな雨粒が残っている。
この状態で右ソファへ沈むのは、少しだけ落ち着かない。
「ルーク」
「はい」
「タオルをお願いします」
「承知しました」
アベルが厨房側から顔を出した。
「温かいもの、いります?」
「今はまず、乾きたいですわ」
「じゃあ、あとで冷えないものを出します。雨の日用に、何か考えておきますね」
「お願いします」
雨の日用。
その響きだけで、少し救われる。
ノアは窓際から外を見ていた。
防音ガラスの向こうでは、雨がまだ静かに降っている。さっきまで肌にまとわりついていた雨音が、今は少し遠く、柔らかく聞こえた。
同じ雨なのに、こちら側から聞くとまるで違う。
私は濡れた髪先に触れた。
少し広がっている。
許しがたい。
「雨音読書は、悪くありませんわ」
「外では?」
ノアが聞く。
「外では、読書の前に髪が負けます」
「でしょうね」
ルークが、柔らかなタオルを持って戻ってきた。
私はそれを受け取りかけて、少し考える。結局、そのままルークに任せることにした。
自分で拭くより、絶対に早く、丁寧で、髪に優しい。
背後に立ったルークの手が、湿った毛先をそっと包む。
窓の外では、雨が降り続いていた。
しとしと。
しとしと。
外にいれば、靴を重くし、髪を広げ、首筋に張りついてくる雨。
でも、中から聞けば、ただ静かな音になる。
私は右ソファを見つめた。
まだ座らない。
でも、もうすぐ座れる。
髪を拭いて、靴を脱いで、湿気を落として、乾いた服に替えたら、あの場所へ沈むのだ。
完璧に乾いた空気の中で。
防音ガラス越しの雨音だけを、都合よく聞きながら。
「……春の雨というものは、思ったより手強いですわね」
私は小さく息を吐いた。
雨音は、まだ続いている。
まるで、永遠に続くつもりで。
けれど私はもう知っている。
この雨は、外で受けるものではない。
中から聞くものだ。
「まずは、この湿気をどうにかいたしますわ」
そう言うと、ルークが静かに頷いた。
「定位置、空いております。整い次第、すぐに」
その言葉だけで、私は少し安心した。
右ソファは逃げない。
雨も、まだ止まない。
ならば次は、完璧に乾いた場所から、この雨音を楽しめばいい。
防音ガラスの向こうで、雨は静かに降り続いていた。
第3章開始です。
雨は好きです。
湿気は嫌です。
次回、
除湿された右ソファが本気を出します




