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婚約破棄された悪役令嬢の魔導列車 〜揺れる馬車旅が嫌なので、【白銀列車】という走る豪華ホテルで暮らします〜  作者: あゆと
第3章 雨音と麻ラグ編 〜雨待ちの停留所ウォータン〜

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28/84

028 永遠に続く春の雨と、泥まみれの停留所ですわ

温泉を満喫しましたので、

次は静かな景色が欲しくなりました。


雨音だけ聞いて、

本でも読みたい気分ですわ。


……そう思っていた時期が、

私にもありました。

 ユノハナを出る時、私はたしかに言った。


 次は、春の雨が見たい、と。


 暖かい場所で雨音を聞きながら本を読むのは、きっと贅沢だと思ったのだ。

 その願いは、叶った。

 雨の音で目が覚めた。

 しとしと。

 しとしと。

 静かだった。

 吹雪みたいに窓を叩かない。海みたいに唸らない。ただ細く、同じ調子で続いている。

 私は毛布を肩まで引き寄せながら、窓を見る。灰色の空、低い雲、濡れた平原。窓には、細い雨粒が流れていた。

「……良いですわね」

 思わず呟いた。

 温泉の湯気も好きだった。雪景色も嫌いではない。でも、こういう静かな景色も悪くない。少し薄暗いくらいの方が、本を読むには落ち着く気がする。

 ルークが後ろ斜めから告げる。

「お目覚めですか、お嬢様」

「ええ。ここはどこですの?」

「中部平原地帯です。まもなく、雨待ちの停留所ウォータンへ到着いたします」

「雨待ち」

 私は少し考えた。

「雨を待つのです?」

「止むのを待つ方かと」

「なるほど」

 少し残念である。

 雨を待つ停留所、という響きは素敵だった。けれど、止むのを待つということは、それだけ降り続ける土地という意味でもある。

 ノアが窓際から言った。

「昨日からずっと降ってますよ」

「ずっと?」

「はい。地面もかなり水を吸ってます」

 私はまた窓を見る。

 雨と草と平原。

 灰色なのに、不思議と静かで、悪くない。

 むしろ、かなり好きかもしれない。

「雨音を聞きながら、本でも読むのも良さそうですわ」

 ノアが笑った。

「出ましたね」

「何がですの?」

「ユノハナを出る時から言ってたやつです」

「春の雨読書計画ですわね」

「名前ついてたんですか」

 もちろんである。

 暖かい車内、静かな雨音、読みかけの本、湯気の立つ紅茶。どう考えても、成功が約束された組み合わせだった。

「雨、好きですね」

「好きですわ」

「見る側限定ですけどね」

 失礼である。

 まだ外に出ていないのだから、決めつけるのは早い。


   ◇


 白銀列車がゆっくり停まる。

 ガタン、ゴトン。

 静かな停止だった。ティーカップの水面は揺れず、膝に掛けた毛布の端だけが、私の呼吸に合わせて少し動いた。

 窓の外には、小さな停留所があった。

 街、と呼ぶには小さい。線路のために作られた場所、という感じでもない。もともとは、荷車や旅人が雨をやり過ごすための石造りの中継所なのだろう。

 雨除けの屋根、木のベンチ、古い雨樋。

 人は少ない。

 そして、全部濡れていた。

 壁も道も草も看板も、屋根の端から落ちる水も、どこを見ても乾いた場所がない。

「……確認しますわ」

 私は毛布を畳んで立ち上がる。

 ノアが振り返った。

「何をです?」

「雨音読書適性ですわ」

「出るんです?」

「体験せずに判断はできませんもの」

 ノアが嫌な予感みたいな顔をした。

 ルークは何も言わなかった。ただ、防水の外套を差し出した。

 さらに深めのフード、滑りにくい長靴、手袋。

 用意が良すぎる。

 つまり、それだけ外が良くないということでもある。

「お嬢様。無理をなさる必要はございません」

「少しだけですわ。雨音読書に適した停留所なら、今後の楽しみが増えますもの」

「承知しました。では、三分で戻れる範囲に」

「短くありませんこと?」

「湿気は待ってくれませんので」

 その言い方は、少し大げさではないかしら。

 そう思いながらも、私は外套に袖を通した。


   ◇


 扉が開いた。


 空気が変わった。


 冷たい。

 違う。

 湿っている。

 雨の匂い。濡れた草。水を吸った土。石の表面に張りついた冷たさ。全部が薄く混ざって、頬と首筋にまとわりついてくる。

「……あら」

 一歩出る。

 屋根の下なのに、空気そのものが濡れているようだった。手袋の内側まで湿りそうな気配があり、フードの縁には細かな雨粒が乗る。

 もう一歩。

 ぬちゃ。

 足が沈んだ。

 私は止まった。

 足元を見る。黒い泥が、長靴の底に絡みついている。

 柔らかい。

 重い。

 歩くたびに、靴を引き戻してくるような泥だった。

「……これは」

 さらに一歩。

 ぬち。

 今度は、はっきり重い。靴底に泥が増えた。歩いただけなのに、すでに少し疲れる。

 そのうえ、髪が首筋に触れた。

 いつもより、わずかに重い。湿気を吸って、毛先が落ち着かない方向へ広がろうとしている。

 嫌な予感ではない。


 嫌だった。


「お嬢様」

 ルークが傘を少し寄せる。

「戻りますか」

「まだですわ」

 私は歩く。

 三歩。

 雨、湿気、泥、重い靴、まとわりつく空気、少しずつ膨らんでいく髪。

 静かな景色として眺めていた春の雨は、外へ出た瞬間、たいへん具体的な不快になった。

 その時、停留所の奥に立っていた男と目が合った。

 深くかぶった帽子、古い外套、泥のついた長靴。顔立ちは見えにくいけれど、急いで話しかけてくる気配はない。

 この場所の番人だろうか。

「ここの管理を?」

 男は頷いた。

「……停留所番です」

 声も短かった。

「雨、多いですわね」

「多い」

「止みませんの?」

「待つ」

「なるほど」

 会話はそれで終わった。

 とても短い。

 けれど、嫌な感じはしなかった。

 雨の日は、このくらいでいいのかもしれない。長々と説明されても、こちらは靴底に泥を増やすだけである。

 停留所番は、石造りの待合所を指差した。

「中、使うか」

 私はそちらを見る。

 石壁に囲まれた小さな待合所。木のベンチ。濡れた外套を掛けるための古い釘。隅には、巻かれた防水布のようなものも見えた。

 悪くない。

 雨宿りの場所としては、きっと十分なのだろう。

 けれど、私は振り返った。

 白銀列車がそこにある。

 濡れた停留所の中で、そこだけが乾いて見えた。大きな窓は曇らず、内側には琥珀色の灯りが揺れている。

 磨かれた木の床も、柔らかいソファも、温かい空気も。

 全部がこちらを待っている。

 私は数秒考えた。


「……帰りますわ」


 停留所番は、少しも驚かなかった。

「正解」

 短かった。

 だが、説得力があった。


   ◇


 戻る。

 泥を避ける。避ける。少し踏む。また重くなる。

 たった数分しか外に出ていないのに、足元に疲労が溜まっていく。雨粒は外套で弾けているはずなのに、湿った空気だけは隙間から入り込んで、首筋と髪に残った。

 扉の前まで戻ったところで、私は一度だけ振り返った。

 灰色の雨。

 濡れた平原。

 石造りの停留所。

 屋根から落ちる水の線。

 静かな景色としては、とても綺麗だった。

 綺麗ではある。

 けれど、その綺麗さを味わうために、靴を泥まみれにして髪を湿らせる必要があるかと言われると、まったく別の話である。

「……雨は」

 私は呟く。

「中から見る方が好きかもしれませんわね」

 ノアが車内側から笑った。

「知ってました」

「知っていても、言わない優しさがあるのではなくて?」

「すみません。顔に出ました」

 反省していない声だった。

 扉が開く。

 暖気。

 乾いた空気。

 木の匂い。

 遠くからかすかに届く、厨房の湯気。

 外の湿った土の匂いが、一歩ごとに後ろへ薄れていく。

 まだ完全に中へ入っていない。

 なのに、身体が先に安心していた。

 ルークが一礼する。

「お帰りなさいませ。外は湿っていたでしょう」

「湿っていた、では足りませんわ。空気がこちらを濡らしに来ておりました」

「すぐにお拭きします」

 ルークは私の外套を受け取り、雨粒が床へ落ちる前にさっと畳んだ。濡れた長靴の下には、いつの間にか吸水用の布が敷かれている。

 動きが早い。

 ありがたい。

 とてもありがたい。

 私は手袋を外しながら、ラウンジの方を見た。

 琥珀色の灯り。

 暖炉の柔らかな火。

 いつもの右ソファ。

 そこは、ちゃんと空いていた。

 けれど、まだ座らない。

 座れない。

 髪が湿っている。首筋に雨の気配が残っている。靴底には泥の名残があり、外套にも細かな雨粒が残っている。

 この状態で右ソファへ沈むのは、少しだけ落ち着かない。

「ルーク」

「はい」

「タオルをお願いします」

「承知しました」

 アベルが厨房側から顔を出した。

「温かいもの、いります?」

「今はまず、乾きたいですわ」

「じゃあ、あとで冷えないものを出します。雨の日用に、何か考えておきますね」

「お願いします」

 雨の日用。

 その響きだけで、少し救われる。

 ノアは窓際から外を見ていた。

 防音ガラスの向こうでは、雨がまだ静かに降っている。さっきまで肌にまとわりついていた雨音が、今は少し遠く、柔らかく聞こえた。

 同じ雨なのに、こちら側から聞くとまるで違う。

 私は濡れた髪先に触れた。

 少し広がっている。

 許しがたい。

「雨音読書は、悪くありませんわ」

「外では?」

 ノアが聞く。

「外では、読書の前に髪が負けます」

「でしょうね」

 ルークが、柔らかなタオルを持って戻ってきた。

 私はそれを受け取りかけて、少し考える。結局、そのままルークに任せることにした。

 自分で拭くより、絶対に早く、丁寧で、髪に優しい。

 背後に立ったルークの手が、湿った毛先をそっと包む。

 窓の外では、雨が降り続いていた。

 しとしと。

 しとしと。

 外にいれば、靴を重くし、髪を広げ、首筋に張りついてくる雨。

 でも、中から聞けば、ただ静かな音になる。

 私は右ソファを見つめた。

 まだ座らない。

 でも、もうすぐ座れる。

 髪を拭いて、靴を脱いで、湿気を落として、乾いた服に替えたら、あの場所へ沈むのだ。


 完璧に乾いた空気の中で。


 防音ガラス越しの雨音だけを、都合よく聞きながら。


「……春の雨というものは、思ったより手強いですわね」

 私は小さく息を吐いた。

 雨音は、まだ続いている。

 まるで、永遠に続くつもりで。

 けれど私はもう知っている。


 この雨は、外で受けるものではない。


 中から聞くものだ。


「まずは、この湿気をどうにかいたしますわ」

 そう言うと、ルークが静かに頷いた。

「定位置、空いております。整い次第、すぐに」

 その言葉だけで、私は少し安心した。

 右ソファは逃げない。

 雨も、まだ止まない。

 ならば次は、完璧に乾いた場所から、この雨音を楽しめばいい。

 防音ガラスの向こうで、雨は静かに降り続いていた。

第3章開始です。


雨は好きです。


湿気は嫌です。


次回、

除湿された右ソファが本気を出します

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