027 【閑話】白銀列車が去ったあとの、静かな温泉街
白銀列車が去ってから、三日が経った。
ユノハナには、まだ雪が残っている。屋根の上、坂道の端、湯煙の向こう。白い雪は少しずつ溶けながら、静かに山へ残っていた。
朝の空気は冷たい。
けれど、吹雪はもう過ぎている。
若旦那は宿の裏口から外へ出ると、小さく息を吐いた。息は白く、すぐに朝の湯煙へ混ざっていく。
遠くでは、湯気がゆらゆら揺れている。坂道には、雪かきの跡が残っていた。
ここ数日は、とにかく忙しかった。
王都から来た商人。貴族の使い。温泉卵を求める客。炙り蒸し菓子を買い込む旅人。注文書は増え続け、蔵の在庫は毎日消えていった。
けれど今朝は、少しだけ静かだった。
「若旦那ー!」
従業員が、坂の下から声を上げる。
「茶葉の荷、こっちへ運びます!」
「湿気に気をつけてください」
「はい!」
若旦那は頷き、広場の方を見る。
白銀列車が停まっていた場所。
今はもう、何もない。
ただ、雪の上には線路の跡だけが残っていた。
白い雪を割るように、二本の線が真っ直ぐ伸びている。不思議な跡だった。誰も、どうやって現れたのか説明できない。
だから今では、町中が普通にこう呼んでいる。
神の線路。
若旦那は苦笑した。
「大げさなんだけどなぁ」
でも、あの列車を見たあとでは否定しづらい。
吹雪の中でも暖かく、静かで、窓の向こうには別世界みたいな灯りがあった。暖炉、毛布、湯気、右ソファへ沈み込む令嬢。そして、当たり前みたいに出てくる温泉卵と牛乳。
「……本当に、なんだったんだろうな」
若旦那は少しだけ笑う。
最初は、ただの変わった客だと思っていた。
湯上がりに牛乳を飲んで、温泉卵を気に入って、蒸し菓子を頬張って、半纏を着込み、湯たんぽを抱えて、外が猛吹雪なのに暖かい列車の中でだらだらしていた。
ただそれだけ。
なのに、気づけば王都の商会が頭を下げて並んでいる。炙り蒸し菓子は、ユノハナの新名物になった。温泉卵も、以前とは比べ物にならない量が動いている。
あの令嬢は、そんなことを多分知らない。
美味しいと言って、のんびりお茶を飲んでいただけだ。
そこが、なんだかおかしかった。
「若旦那」
従業員が、蒸籠を抱えてやって来る。
「次の分、焼きますか?」
「お願いします」
炭火へ近づけると、じゅっ、と小さな音がした。
蒸し菓子の表面へ、軽く焼き色がつく。ふわりと、甘い香りが立ち上った。
温泉の蒸気の匂い。
焦がし砂糖みたいな香ばしさ。
若旦那は、その匂いを吸い込む。
あの列車でも、こんな匂いがしていた。暖かい空気の中で、令嬢が嬉しそうに頬張っていたのを思い出す。
……また、来るんだろうな。
なんとなく、そう思った。
あの人は、季節が変われば、またふらりと現れそうだった。
春なら春で、雨の音が良いとか言いそうだ。夏なら夏で、涼しい場所を探しそうだ。秋になれば、きっと美味しいものを食べている。
そんな気がする。
若旦那は、炙った蒸し菓子を一つ摘まんだ。
外は少し冷たい。
でも、蒸し菓子は温かかった。
「若旦那! 王都から追加の注文です!」
「はいはい、今行きます」
温泉街は、今日も忙しい。
湯煙、雪解け水、行き交う荷車、商人たちの声。以前よりずっと賑やかになったユノハナを見ながら、若旦那は少しだけ空を見上げた。
白い雲が、ゆっくり流れている。
また新しい甘味を考えておこう。
あの常連客が、次に来た時のために。
炙り蒸し菓子の香りが、朝の湯煙へゆっくり溶けていった。
第2章ラスト閑話でした。
白銀列車は去りましたが、
ユノハナにはしっかり爪痕を残していきました。
でも若旦那にとって一番印象に残っているのは、
経済効果よりも、
暖かい列車の中でだらだらしていた常連客なのかもしれません。
次回から第3章です。
春の雨音を聞きに行きます。




