026 温泉を満喫しましたので、次は春の雨を見に行きますわ
ユノハナの朝は、今日も白かった。
窓の向こうでは雪が降っている。でも、数日前の猛吹雪ほどではない。温泉街の坂道では、朝から雪かきの音が響いていた。
ざっ、ざっ。
湿った雪を押す音。
遠くでは、荷車を引く声も聞こえる。
私は右ソファへ沈み込みながら、ぼんやり窓の外を眺めた。毛布は暖かい。半纏も暖かい。湯たんぽは、まだじんわり熱を残している。
完璧だった。
窓の外では、白い湯煙が朝の空へゆっくり溶けていく。
「……落ち着きましたわね」
私が呟くと、後ろ斜めからルークが静かに答えた。
「山道も、そろそろ走りやすくなる頃かと」
「そう」
私は紅茶をひと口飲んだ。
温泉は良かった。
蒸し菓子も、茸鍋も、牡丹鍋も、半纏も、湯たんぽも良かった。かなり満足した気がする。
だから私は少しだけ考えてから、窓の外を見た。
「……では、そろそろ次へ行きましょうか」
ノアが顔を上げる。
「次?」
「ええ」
「今度は何見たいんです?」
私はカップの湯気を眺めながら、少し考えた。
「……春の雨ですわね」
「雨?」
「暖かい車内で、雨音を聞きながら本を読みたいですわ」
ノアが呆れた顔をした。
「普通、晴れを望みません?」
「外を歩くならそうかもしれませんわね」
でも、私は白銀列車の窓へ視線を向ける。
「暖かい場所の中から見る雨は、かなり好きですの」
「まあ……言いたいことは分かりますけど」
「でしょう?」
外が快適でなくてもいい。
むしろ少し荒れている方が、車内の暖かさが際立つ。
それが白銀列車だった。
アベルが厨房側から顔を出す。
「次の行き先が決まったなら、出る前に朝飯食っとけ」
「今日は何ですの?」
「炙り蒸し菓子と、若旦那にもらった茶葉」
「素晴らしいですわ」
即答だった。
◇
こんこん、と展望車の扉が叩かれた。
「若旦那です」
ルークが告げる。
「お通しして」
「承知しました」
扉が開く。
若旦那は今日も、きっちりした羽織姿だった。肩には少し雪が積もっている。
「おはようございます。本日はお見送りに参りました」
「ありがとう。色々お世話になりましたわ」
「こちらこそ」
若旦那は、少し嬉しそうに笑った。
「まさかここまで、温泉街の品を気に入っていただけるとは思いませんでした」
「温泉卵は常備すべき文化ですわ」
「蒸し菓子も美味かったな」
アベルが頷く。
若旦那は帳面を取り出し、さらさらと何かを書き込む。
「では今後も、定期的に品をお届けいたします」
「助かりますわ」
「王都の商会がかなり騒がしくなっていますので、そちらの対応もしつつにはなりますが」
ノアが苦笑した。
「完全にブランド化しましたよね」
「ありがたいことです」
若旦那は穏やかに頷く。
でも、私はあまり実感がなかった。
温泉卵は美味しい。
蒸し菓子も美味しい。
だから食べている。
それだけである。
「雪の時期以外も、良い景色がありますので」
「まあ」
私は少し目を細める。
「雨の景色なんかも、綺麗そうですわね」
「ええ。湯煙の見え方も変わります」
「それは良さそうですわ」
若旦那が静かに頭を下げた。
「またのお越しをお待ちしております」
「ええ。また来ますわ」
ルークが静かに一礼する。
「発車準備が整っております」
「では、行きましょう」
扉が閉まる。
静かな音だった。
◇
りぃん。
澄んだベルの音が、車内へ響く。
白銀列車が、ゆっくり動き始めた。
がたん。
ごとん。
心地よい揺れ。
窓の向こうで、ユノハナの温泉街が少しずつ遠ざかっていく。白い湯煙、雪の屋根、坂道。小さく手を振る若旦那の姿も見えた。
「……良い温泉街でしたわね」
「結構長くいましたよね」
ノアが言う。
「居心地良かったですもの」
「ティアさん、居心地良いとすぐ定住しかけるからなぁ」
でも、私は右ソファへ深く沈み込みながら、小さく息を吐いた。
毛布。
暖かい空気。
ガタンゴトンという揺れ。
アベルが置いた炙り蒸し菓子の香ばしい匂い。
ルークが淹れたお茶の湯気。
全部、いつも通りだった。
景色だけが変わっていく。
それが少し心地よかった。
「お嬢様」
ルークが新しい茶を置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
持ち帰った茶葉は、少し青く甘い香りがした。
ひと口飲む。
温かい。
窓の外では、雪景色がゆっくり流れていく。
「次は春の雨かぁ」
ノアが呟く。
「また変な場所を選びますね」
「暖かい場所で聞く雨音は、かなり贅沢ですわよ」
「それはちょっと分かる」
ノアは素直に頷いた。
アベルが焼きたての蒸し菓子を置く。
「ほら、冷める前に食え」
「いただきますわ」
外はまだ冬だった。
でも、白銀列車の中には、もう次の季節が少しだけ入り始めている気がした。
がたん。
ごとん。
列車は静かに走っていく。
私は右ソファへ身体を預けながら、次はどんな雨音を聞こうか、ぼんやり考えていた。
第2章『雪見風呂と牛乳編』完結です。
温泉卵、
蒸し菓子、
茸鍋、
半纏、
湯たんぽ。
ユノハナで、
かなり堕落した気がします。
次は春。
雨音と読書の季節です。




