003 料理人を拾いましたので、深夜のスープを頂きますわ
その夜、列車の窓へ静かに雪が張りついていた。
外は白い世界だった。吹雪。灰色の空。どこまで走っても雪原ばかりで、王都の灯りはもう見えない。なのに車内は暖かい。暖炉がぱちりと鳴り、赤い火が木の壁をやわらかく照らしている。
私は右ソファへ沈み込み、毛布を抱えた。
「……落ち着きますわねぇ」
琥珀色の灯り。木の香り。静かな車輪音。眠ろうと思えば、たぶんすぐ眠れる。この列車、本当に最高では?
「夕食はどうされますか」
後ろ斜めから低い声がした。
ルークだった。
私は毛布を抱えたまま止まった。
「…………」
「どうされました」
「忘れていましたわ」
「何をです」
私は真顔で答えた。
「料理人、いませんでした」
静かな沈黙が落ちた。
ルークがゆっくり目を閉じる。
「今さらですか」
「昨日は疲れていましたもの。朝は勢いでどうにかなりましたけれど、毎食自分で食事を出すなど労働ですわ」
「…………」
「私が欲しいのは、究極のダラダラ生活ですのに」
睡眠。紅茶。温かいご飯。
どれも大事である。むしろ全部大事である。寝台と暖炉と紅茶があっても、夕食が雑なら快適生活は崩れる。人間は眠るだけでは生きられない。美味しいものを食べて、また寝るために生きている。
「このままでは、快適な食生活が崩壊しますわ……」
その時、列車が少しだけ速度を落とした。
ルークが窓を見る。
「人影です」
「こんな吹雪で?」
窓の向こう、白い雪原の真ん中に黒い影が倒れていた。
◇
運び込まれた男は、暖炉の前で毛布にくるまっていた。
二十代半ばくらいだろうか。赤茶の髪は雪で濡れ、指先は荒れ、コートは水を吸って重くなっている。頬はこけていたが、目だけはまだ死にきっていなかった。
「生きていますの?」
「かろうじて」
ルークが短く答える。
私は温かい紅茶を差し出した。
「飲めます?」
男は震える手でカップを受け取り、一口だけ飲んだ。
そのまま止まった。
湯気の向こうで、男の目から涙が落ちる。
「……温かい」
小さな声だった。
「三日ぶりだ。まともな飯も、暖かい部屋も」
男は暖炉を見て、カップを見て、それから列車の中をゆっくり見回した。信じられないものを見ている顔だった。
ルークが静かに尋ねる。
「事情は」
「王都で店をやってた」
「料理店か」
「ああ。小さいが、客はいた」
男は笑った。口元だけの、乾いた笑い方だった。
「貴族の接待を断った。高い酒と、安い料理を混ぜろって言われてな。断ったら、仕入れを切られて、客も消えた。最後には店まで燃えた」
暖炉の火だけが、ぱちりと鳴った。
「それで雪山を?」
「最後に、美味い飯を食いたかった。馬鹿だよな。料理人が、自分の最後の飯も作れないなんて」
私は少し考えた。
そして立ち上がった。
「ルーク」
「はい」
「食堂車が必要ですわ」
ルークは、予想していたようにため息をついた。
「やはり」
「快適な生活には、温かいご飯が必要ですもの」
私は指先を上げた。
列車が低く震える。
寝台車の奥、まだ何もなかった空間へ、白銀の光が走った。車体の端にあった小さな連結器が鳴り、外の雪原へ銀色の線路が少しだけ伸びる。吹雪の中で、列車の後ろに新しい影が生まれた。
木の床が延びる。壁が組み上がる。窓が並ぶ。暖かな灯りが一つ、また一つと灯る。
厨房。広い作業台。深いシンク。静かな火。食器棚。長いテーブル。窓際の席。
白銀列車に、二両目の食堂車が連結された。
男が固まった。
「……は?」
私は振り返る。
「今日からここが食堂ですわ」
男は動かない。けれど、目だけが厨房へ釘づけになっていた。
ふらふらと立ち上がり、作業台へ近づく。指先で木の縁をなぞり、火を見る。棚を見る。深いシンクを見て、息を呑んだ。
「……こんな厨房」
荒れた指先が震えていた。
「夢でしか見たことない」
「使いにくいです?」
「逆だ」
男の目に、ほんの少しだけ光が戻った。
「料理人なら、一回は夢見る。火が安定して、作業台が広くて、水がすぐ使えて、皿が温められる厨房だ」
彼はそこで言葉を切り、こちらを見た。
「……なんで、そこまで」
「快適な食事環境は重要ですもの」
「それだけで?」
「温かいご飯がある場所って、帰りたくなるでしょう?」
男は止まった。
暖炉の火が、彼の濡れた髪を赤く照らしていた。
しばらくして、男は深く頭を下げた。
「……アベル」
「?」
「俺の名前だ。恩は返す」
その瞬間。
ぐぅぅ、と静かな食堂車に音が響いた。
アベルの腹だった。
私は吹き出した。
「まずはご飯ですわ」
アベルは顔を伏せたまま、少しだけ笑った。
◇
少し後、食堂車は良い匂いで満たされていた。
バターの香り。焼けたパンの匂い。野菜を煮込んだスープの湯気。厨房の奥では、アベルがまだ濡れた袖をまくり、信じられない速さで手を動かしている。
さっきまで雪原で倒れていた人とは思えない。
鍋の音が変わるたびに火を弱め、パンを取り出す前に皿を温め、卵を焼く時だけ目つきが鋭くなる。壊れた店の話をした時より、今の方がずっと生きていた。
私は窓際の席へ座った。
並んだ料理は派手ではない。黄金色のスープ。ふわふわの卵。焼きたてのパン。湯気を吸うだけで、身体が内側からほどけていく。
スープを一口飲んだ。
「~~~~……」
温かい。
優しい。
疲れた身体へ、すっと入ってくる味だった。王城の料理みたいに飾りで威圧してこない。ちゃんと、今の私を寝かせるための味がする。
「おいしい……」
思わず呟いた。
アベルの手が止まる。
「そこまでか?」
「毎日これが食べたいですわ」
即答だった。
アベルは一瞬だけ目を伏せ、それから短く言った。
「作る」
ルークが紅茶を置き、静かにアベルを見る。
少しだけ頷いた。
合格。
そんな顔だった。
「ルーク」
「なんでしょう」
「幸せですわね」
少し沈黙があった。
「……ええ」
短い返事だった。
でも柔らかかった。
窓の外は吹雪いている。魔物がどこかで吠えているかもしれない。王都ではきっと、また誰かが怒鳴っている。
でも、ここには暖炉がある。温かいご飯がある。安心して座れる席がある。
私はもう一度スープを飲んだ。
湯気の向こうで、アベルが次のパンを切っている。
帰る場所って、案外こういうものなのかもしれませんわ。
◇
その頃、王都では料理長が青ざめていた。
「料理人がまた辞めた!?」
「仕入れ先が三つ、納品を止めています!」
「保存結界の更新印がありません。食材庫が持ちません!」
王太子が机を叩く。
「なぜだ! 食事ひとつまともに出せないのか!」
老文官が、未処理の書類束を抱えたまま震えていた。
「保存結界。輸送。食材管理。厨房への予算回し」
乾いた承認印が、机の端に転がっている。
「全部、あの方が夜ごと確認していたのです」
その頃、私は暖かい食堂車で、二杯目のスープを飲んでいた。




