002 騎士様が優秀ですので、安心して二度寝しますわ
目が覚めた。
「…………静か」
思わず呟いた。
侍女が起こしに来ない。分厚い予定表もない。嫌味混じりにドレスを締め上げられることもない。
代わりに聞こえるのは、寝台の下から伝わる規則正しい走行音だった。ガタン、ゴトン。暖炉の薪が、ぱちりと小さく鳴る。それだけ。
私は毛布へ顔を埋めた。ふわふわで、あったかい。昨夜までの馬車の硬い座席が、悪い夢みたいに遠い。
「……最高ですわ」
しかも。
「八時間……寝ましたわ……」
奇跡だった。
最近は三時間寝られれば良い方だったのに。身体が軽い。頭が痛くない。人間って、ちゃんと寝ると動けるんですのね。
もぞもぞ起き上がると、窓の外は吹雪だった。雪原と灰色の空が、分厚い窓硝子の向こうで白く流れている。なのに内側だけ、別世界みたいに暖かい。
壁へ触れる。木がほんのり温かかった。
「完璧ですわね……」
こんこん、と控えめなノックがした。
「起きていますか」
低い声。ルークだった。
「起きていますわ」
扉が開く。朝の光を背負った黒髪の騎士が立っていた。肩に雪が積もっている。
「外へ?」
「結界確認です」
「この吹雪で?」
「問題ありません」
平然としている。でも、鼻先が少し赤い。
「……ルーク、こちらへ来なさい」
彼が少しだけ眉を動かした。
「ですが」
「いいから。凍えた騎士を放置すると、寝覚めが悪いですわ」
「凍えてはいません」
「鼻、赤いですわよ」
「…………」
図星。
私は笑って、近くの席を指差した。
「紅茶を出しますわ」
指を鳴らすと、淡い光がテーブルに浮かんだ。湯気の立つポットとカップ、焼きたてのクロワッサン、溶けたバター、蜂蜜、小さなスープが順番に現れる。
ルークが止まった。
「…………」
「朝ごはんですわ」
「待ってください。なぜ寝起きでこれが」
「快適な朝には必要でしょう?」
「……理屈は分かります」
少し困った顔をしている。氷の騎士、案外押しに弱い。
私はクロワッサンを割った。さくっ、と軽い音がして、湯気とバターの香りが広がる。王城の朝食は豪華だった。でも冷めていた。見た目ばかり整っていて、食べる頃には皿もパンも心も冷たくなっている。
これは違う。
今、ここで食べるための温度だった。
「……そんなに違いますか」
ルークが見ていた。
「違いますわ。食べます?」
「俺は――」
ぐぅ、と静かな列車の中に間抜けな音が響いた。
「…………」
「…………」
ルークだった。
私は口元を押さえた。
「ふふっ」
「忘れてください」
「無理ですわ」
「忘れてください」
耳まで赤い。怖い顔なのに、なんですのこの人。
「座りなさい、ルーク」
「命令ですか」
「ええ」
彼はため息をつき、向かいへ座った。動きは静かで、椅子を引く音まで小さい。
私はカップへ紅茶を注いだ。琥珀色の紅茶から、やわらかな湯気が立つ。
「どうぞ」
「……いただきます」
ルークが飲む。冷えた指先へ熱が戻っていくのが分かった。彼は少しだけ目を見開く。
「……温かい」
「でしょう?」
彼はしばらく黙っていた。それから、カップを両手で包むように持ち直した。
「こんな朝は初めてです」
私は瞬いた。
朝から外で結界確認。吹雪。冷えた指先。問題ないと言い張る横顔。
この人も、休めていなかったんですのね。
「これから毎日こうしますわ」
ルークがこちらを見る。
「毎日?」
「ええ。私は快適に生きると決めましたもの。睡眠と朝食は大事ですわ」
彼は少し黙った。
「……そうですね」
その時、どん、と重い音がした。
窓の外で、巨大な熊型魔物が白銀列車の結界へ体当たりしていた。赤い目。分厚い毛皮。鋭い爪。吹雪の中で、もう一度、巨体を叩きつけてくる。
ルークの空気が変わった。
「窓から離れてください」
剣へ手をかける。
「大きいですわね」
「S級です」
再び激突した。結界が淡く光る。けれど、紅茶は揺れない。スープの湯気もまっすぐ立っている。
ルークは窓を見る。それから私を見る。
「危険ですので、窓際へ寄らないでください」
声だけ柔らかい。
私は首を傾げた。
「ルーク」
「はい」
「あなた、私に甘くありません?」
一瞬止まる。
「…………気のせいです」
「そうかしら」
彼は外を見る。
「鬱陶しいですね」
扉が開いた瞬間、吹雪が黒い外套をさらった。
熊型魔物が咆哮する。ルークは雪原へ踏み出し、剣を抜いた。
次の瞬間、銀色の軌跡が雪の中を走る。
巨大な魔物は、咆哮の途中でずれて、重い音を立てて雪原へ崩れ落ちた。
数秒後、ルークが戻ってくる。外套の雪を払い、剣を収めた。
「外は冷えます」
最初の言葉だった。
「窓際へ寄りすぎないでください」
私は笑った。
「ふふっ」
「……何です」
「いえ」
紅茶を飲む。暖かくて、静かだった。吹雪も、魔物も、寒い外の世界も、分厚い窓硝子の向こうにある。
私は窓を見る。白い雪原の奥に、王都の方角だけが灰色にかすんでいた。
もう。
王都へ戻りたいとは、少しも思わなかった。
◇
その頃、王都。
「物流が止まった!?」
「結界承認が進まない!」
「誰が管理していた!?」
役人たちの悲鳴が、執務室に重なっていた。
王太子が青ざめる。
「……なぜだ」
老文官が、未処理書類の山を見下ろして呟いた。
「まさか」
空いた担当席。積み上がる書類。乾いたままの承認印。
「本当に、あの令嬢が……?」
その頃、私は暖かな列車の中で、二杯目の紅茶を飲んでいた。




