024 旅館の風情は素晴らしいですが、半纏は手放せませんわ
昨日、窓を開けた瞬間の冷気を、私はまだ覚えている。
ごうっ、と雪風が吹き込んできて、指先が一瞬で冷えたのだ。あれは危険だった。温泉地だから暖かい、という私の認識は完全に間違っていたらしい。
ユノハナは雪山である。
とても寒い。
なので今日は、徹底的に暖かく過ごすと決めていた。
右ソファへ沈み込みながら、私は毛布を引き寄せる。窓の外では白い雪が静かに流れていた。吹雪だ。温泉街の坂道では、朝から人影が慌ただしく動いている。
でも、白銀列車の中は春みたいに暖かかった。
暖炉が、ぱちり、と鳴る。
柔らかな熱が、車内へ静かに広がっていた。
「……やはり、外は見るだけで十分ですわね」
「完全に引きこもりの発想ですよ」
窓側にいたノアが言った。
「せっかく温泉街に来てるのに」
「昨日、外気の危険性は確認済みですわ」
「ただ窓開けただけですよね?」
「十分危険でした」
私は真顔で頷く。
あの冷気は、人類が気軽に触れていいものではない。
その時、こんこん、と展望車の扉が静かに叩かれた。
ルークが開ける。
「失礼いたします」
若旦那だった。
今日は大きな包みを抱えている。肩には雪。外套にも白い粒が積もっていた。
「本日は、ユノハナの冬物をお持ちしました」
「冬物?」
若旦那が包みを開く。
ふわりと綿の匂いが広がった。
「まあ……!」
半纏だった。
厚みのある藍色の布。中にはたっぷり綿が入っている。さらに、丸い布袋のようなものも見えた。
「こちらは湯たんぽです」
「湯たんぽ……!」
「湯治客の方々がよく使われるんですよ。夜はかなり冷えますので」
若旦那は少し笑う。
私は思わず身を乗り出した。
ふかふかしている。
見るからに暖かそうだった。
「お嬢様」
ルークが半纏を受け取る。
「お召しになりますか?」
「もちろんですわ」
即答だった。
ルークは慣れた手つきで、半纏を私の肩へ掛ける。
ふわり。
綿の重みが、肩から背中へ落ちてきた。
「……あら」
暖かい。
毛布とはまた違う。包まれる感じが強い。外気を完全に拒絶する意思を感じる。
「袖はこちらです」
「ありがとう」
腕を通した瞬間、さらに暖かさが増した。綿が空気を抱えているのだろう。じんわり熱が逃げない。
私はそのまま、右ソファへ沈み込む。
完璧だった。
そこへ、ルークが湯たんぽを差し出した。
「熱すぎないよう、厚めの布で包んであります」
「まあ」
私は受け取る。
じんわり熱い。でも、柔らかい熱だった。指先から、ゆっくり温まっていく。
思わず息を吐いた。
「……最高ですわ」
「気に入っていただけたようで何よりです」
若旦那がほっとした顔をした。
ノアが呆れたようにこちらを見る。
「いや、待ってください」
「何ですの?」
「この列車、完璧な空調なんですよ?」
「ええ」
「春みたいに暖かいんですよ?」
「そうですわね」
「その状態で、さらに半纏と湯たんぽ使う意味あります!?」
私は少し考える。
そして、真剣に答えた。
「意味がありますわ」
「あるんだ……」
「寒さを感じない場所で、過剰に暖まるからこそ贅沢なのです」
「理論が駄目人間すぎる」
ノアが頭を抱えた。
でも、半纏の暖かさは本当に素晴らしい。
毛布。
暖炉。
半纏。
湯たんぽ。
ここまで来ると、もはや防寒ではない。
堕落である。
でも快適だった。
アベルが厨房側から顔を出す。
「ちょうどいいな。みかんっぽい果物もあるぞ」
「くださいませ」
「早いな」
少しして、木皿が運ばれてきた。
橙色の小さな果実だった。皮を剥くと、甘酸っぱい香りが広がる。
「……冬ですわねぇ」
「半纏着た瞬間、一気に駄目になるな」
ノアが言う。
でも、彼も暖炉の近くから動かない。
説得力は薄かった。
私は果実をひと房口へ入れる。
甘い。
少し酸っぱい。
そこへ、温かいお茶を飲む。
完璧だった。
窓の外では、吹雪が強くなっている。白い雪が、広場を斜めに流れていた。温泉街の人々は、肩を縮めながら坂道を歩いている。
寒そうだった。
でも、こちらは暖かい。
半纏の中には、湯たんぽまである。
もう負ける気がしない。
「ルーク」
「はい」
「この半纏、かなり良いですわ」
「予備を全車両へ配備いたしますか?」
ノアが吹き出した。
「配備って何ですか!? 軍備みたいに言わないでください!」
「冬季運用では重要です」
ルークは真顔だった。
「お嬢様の快適性へ直結しますので」
「この列車、本当にティアさん中心で回ってる……」
私は湯たんぽを抱え直す。
暖かい。
じんわり熱が広がる。
半纏の綿が、その熱を閉じ込めていた。
窓の向こうでは吹雪。
でも、それすら少し綺麗に見える。
「……やはり」
私は右ソファへ、さらに深く沈み込んだ。
半纏の重み。
毛布の柔らかさ。
湯たんぽの熱。
暖炉の音。
静かな車内。
「冬は、こうでなくてはいけませんわね」
外の吹雪は、もう完全にインテリアだった。
半纏と湯たんぽ回でした。
完璧な空調の中で、
さらに防寒するという、
究極の堕落です。
でも冬って、
こういうのが一番幸せですよね。




