021 温泉街の湯巡りより、暖かい車内で茸鍋を頂きますわ
「せっかく温泉街に来たのに、湯巡りとかしないんですか!?」
ノアが、朝からとても正しいことを言った。
私は右ソファに沈み込みながら、毛布を少し引き上げる。展望車の大きな窓の外には、温泉渓谷ユノハナの雪景色が広がっていた。白い湯煙、雪の積もった屋根、坂道を行き来する湯治客。からん、ころん、と下駄の音も聞こえる。
とても風情がある。
風情はあるのだけれど。
「一番良い露天風呂には入りましたわ」
「いや、でも他にも湯がありますよね? 岩風呂とか、薬湯とか、岩盤浴とか」
「そのたびに外へ出るのですか?」
「まあ、温泉街ですし」
「そのたびに服を脱いで、身体を拭いて、濡れた髪のまま廊下を歩いて、また外気に晒されるのですか?」
「……まあ、普通はそうですね」
「正気の沙汰ではありませんわ」
きっぱりと言った。
昨日、脱衣所と廊下の寒さは経験済みである。お湯は最高だった。雪見風呂も、景色も、硫黄の匂いも素晴らしかった。けれど、湯上がりに冷えるのは許せない。
せっかく温まった身体から、熱が逃げていくあの感覚。濡れた髪から、首筋へ冷気が落ちてくるあの感じ。あれを何度も繰り返すなど、私には無理だ。
「ティアの言う通りだな」
厨房側から、アベルが当然のように言った。
「何度も湯冷めしたら風邪引くぞ」
「そこは湯冷めしないように工夫するものでは?」
「工夫してまで外に出る必要がない」
アベルは即答した。
強い。
「お嬢様の健康と快適さが最優先です」
ルークも、後ろ斜めから静かに続ける。
「湯巡りによって体力を消耗する可能性があるなら、本日は車内でお休みいただくのが適切かと」
「この列車、ティアさんに甘すぎる……」
ノアが頭を抱えた。
「甘いのではありませんわ」
私は紅茶を一口飲む。温かい湯気が、朝の車内にゆっくり溶けていく。
「合理的なのです」
「絶対違う」
ノアが即座に言った。
けれど、彼も暖炉のそばから動かない。
外は寒い。雪も重そうだ。白銀列車の中は、相変わらず春のように暖かい。毛布は柔らかく、ソファはふかふか。
これ以上の合理性があるだろうか。
少なくとも、私には思いつかない。
「それに」
アベルが、大きな鍋を抱えて食堂車の方へ歩いていく。
「今日は若旦那が茸と山鳥を届けてくれた。湯巡りより先に食うべきものがある」
「茸」
少し身を起こした。
「山鳥」
「そうだ」
「鍋ですの?」
「鍋だ」
ならば、話は終わりである。
「ノア」
「はい」
「今日は湯巡りではなく、茸鍋の日ですわ」
「決定が早い」
「重要ですもの」
「湯巡りも重要では?」
「寒いので却下ですわ」
ノアは何か言いたそうだったけれど、鍋という単語には逆らえなかったらしい。小さく息を吐いて、食堂車へ向かった。
◇
食堂車は、すでに良い匂いで満ちていた。
ぐつぐつ。
ぐつぐつ。
大きな鍋が、中央の卓上で静かに煮えている。湯気の中に、茸の濃い匂いが混じっていた。
土の香り。木の香り。山の冷たい空気を吸って育ったような、深い匂い。そこに、山鳥の脂の甘い香りが重なる。
「……これは」
椅子に座る前から、すでに負けていた。
「絶対に美味しいですわ」
「まだ食ってないだろ」
アベルが呆れながらも、少し嬉しそうに言う。
鍋の中には、何種類もの茸が入っていた。肉厚の白い茸、細長い茶色の茸、傘の大きな香りの強い茸、小さくて丸い茸。さらに、山鳥の薄切り、温泉街で採れた根菜、青い葉物。
出汁は、透き通った琥珀色をしている。
アベルが小皿へ具材をよそってくれた。
「熱いから気をつけろよ、ティア」
「分かっておりますわ」
箸を持つ。
まずは茸。
ふう、ふう、と息を吹きかける。湯気が顔に当たって、頬が少し熱くなった。
口へ運ぶ。
「……っ」
熱い。
でも、美味しい。
噛むと、茸の旨味がじゅわりと出てくる。出汁を吸っているのに、茸そのものの香りが残っている。
山の味がする。
次に、山鳥。
柔らかい。脂が甘い。熱々の出汁と一緒に食べると、身体の芯から温まっていく。
「……これは、湯巡りどころではありませんわね」
「比較対象そこなんですね」
ノアが言いながら、自分の皿の茸をふうふう冷ましている。
「でも美味いだろ」
アベルが尋ねる。
「美味しいです」
ノアは素直に頷いた。
「めちゃくちゃ美味しいです」
「なら文句言うな」
「文句じゃなくて、一応ツッコミです」
ノアはそう言いながら、もう次の具材へ手を伸ばしていた。
窓の外では、雪が降っている。温泉街の坂道を、厚着の人々が歩いていた。外套を羽織り、桶を抱え、湯気の中を移動している。湯巡りなのだろう。
楽しそうではある。
でも、寒そうでもある。
熱々の茸を、もう一つ食べた。
「……やはり、ここが一番ですわ」
「湯巡りを窓越しに眺めながら、鍋食べてる人の発言とは思えませんね」
「最高の贅沢では?」
「否定しづらいのが悔しい」
ノアは鍋を見つめながら言った。
ルークは、私の斜め後ろに控えつつ、取り皿の減りを静かに確認している。少しでも空くと、すぐに次の具材が置かれる。
茸。山鳥。根菜。また茸。
完璧な流れだった。
「ルーク」
「はい」
「この茸、とても美味しいですわ」
「若旦那へ伝えておきます」
「それと、もう少しください」
「承知しました」
迷いがない。
素晴らしい。
アベルが、鍋の火加減を見ながら言う。
「この茸は、煮すぎない方がいいな。香りが飛ぶ」
「では、今のうちに食べるべきですわね」
「その判断は早いんだな」
「美味しさは逃してはいけませんもの」
真剣だった。
鍋の中で、ぐつぐつと出汁が鳴る。湯気、茸の匂い、山鳥の脂、温かい食堂車、外の雪。
これ以上、何が必要だろう。
「……本当に、湯巡りしなくていいんですか?」
ノアが最後にもう一度だけ聞いた。
少し考えた。
湯巡り。
確かに、聞こえは楽しそうだ。色々なお湯に入る。違う景色を見る。温泉街らしい過ごし方。
でも、外は寒い。着替えは面倒。髪は冷える。
それに今、目の前には茸鍋がある。
「今日はいいですわ」
「今日は?」
「また気が向いたら考えます」
「その日は来るんですか?」
「白銀列車に湯冷めしない送迎用の仕組みができたら」
「もう温泉街側じゃなくて、列車側を改造する発想なんですね」
ノアが深くため息をついた。
しかし、すぐに鍋を食べた。
つまり、彼も満足している。
◇
鍋の締めは、雑炊だった。
アベルが、温泉地で手に入れた米に似た穀物を鍋へ入れる。出汁を吸わせ、卵を落とし、少し待つ。
ぐつ、ぐつ。
とろりとした湯気が上がる。
「……これは危険ですわ」
「まだ食う前から危険判定するな」
でも、危険だった。
小さな器によそわれた雑炊は、茸と山鳥の旨味を全部抱えていた。
一口食べて、しばらく黙った。
「ティア?」
アベルが声をかける。
「……おいしすぎて、少し考える時間が必要でしたわ」
「大げさだな」
「大げさではありません」
これは本当に、温泉街へ来た価値があった。
外を歩き回らなくても、湯巡りをしなくても、山の幸はこうして白銀列車へ来てくれる。
暖かい食堂車で。
誰にも急かされず。
髪も冷えず。
足も濡れず。
ただ美味しいものを食べられる。
完璧だった。
食べ終わる頃には、身体の芯までぽかぽかしていた。
椅子の背に身体を預ける。
「……もう動けませんわ」
「動く必要はありません」
ルークが即答した。
「食後は右ソファへお戻りください」
「やはり、この列車はティアさんに甘すぎる」
ノアが言った。
でも、彼もかなり満腹そうだった。
窓の外では、湯巡り客らしい人々が、白い息を吐きながら坂道を歩いている。きっと、それも楽しいのだろう。
でも今の私は、ここで十分だった。
いや。
ここが一番だった。
「やはり」
ぽつりと言う。
「我が家で食べる鍋が一番ですわね」
暖炉が、食堂車の向こうでぱちりと鳴った。
外は雪。
中は鍋。
身体の芯まで満たされながら、今日も白銀列車のありがたみを噛みしめた。
茸鍋回でした。
温泉街に来たのに湯巡りをせず、
暖かい車内で鍋を食べるだけ。
でもそれが、
白銀列車らしい贅沢なのかもしれません。
次回もたぶん、
だらだらします。




