019 湯上がりは、冷たい瓶牛乳に限りますわ
湯上がりに、冷たいものが飲みたい。
白銀列車の扉が閉まった瞬間、心の底からそう思った。
外の寒さが、ぴたりと消える。下駄の音も、商人たちの声も、湿った雪の冷たさも、扉の向こうへすべて置いてきたみたいだった。
車内は暖かい。
静かで、柔らかくて、空気まできちんと整っている。
「……生き返りますわ」
「さっき風呂で生き返ってただろ」
厨房側から、アベルの声がした。
見ると、彼は小さな盆を持って立っている。その上には、細長い瓶が一本。白く、冷えていて、表面にはうっすら水滴がついていた。
「湯上がり用だ」
アベルが当然のように言う。
「冷たい牛乳。甘さは足してない。風呂上がりなら、まずはこれだろ」
思わず息を呑んだ。
「……天才ですの?」
「知ってる」
アベルは少しだけ得意そうだった。
ルークが、肩から濡れた外套を受け取る。
「お嬢様。まずは定位置へ」
「ええ」
いつもの右ソファへ向かった。湯上がりの身体はまだ少し火照っている。けれど、濡れた髪の先には冷えが残っていた。
ソファに腰を下ろすと、ふかりと身体が沈む。すぐにルークが厚手の毛布を膝へ掛けてくれた。柔らかく、温かく、重さがちょうどいい。
そこへ、アベルが瓶牛乳を差し出す。
瓶を受け取った。
「……冷たい」
指先に、きゅっと冷気が移る。湯上がりで火照った手には、それだけで気持ちよかった。
瓶の口を開ける。
小さく、ぽん、と音がした。
白い牛乳が、瓶の中で静かに揺れる。
少し考えてから、私は立ち上がった。
「どうしました?」
ルークが尋ねる。
「これは」
瓶を片手に持ち、もう片方の手を腰へ当てる。
「こうして飲むべき気がしますわ」
「誰に教わったんですか、それ」
ノアが窓側から言った。
「本能ですわ」
そして、冷たい牛乳を一気に飲んだ。
こく、こく、こく。
「……っ」
冷たい。
喉を通るたびに、火照った身体の中心がすうっと冷えていく。温泉の熱、脱衣所の寒さ、外の雪。それらが全部、この一口でちょうどよく整っていく。
美味しい。
とても美味しい。
牛乳とは、こんなに偉大な飲み物だったのか。
瓶を口から離し、深く息を吐いた。
「……最高ですわ」
「だろ」
アベルが満足そうに頷く。
「もう一本あるぞ」
「いただきますわ」
「早いな」
「これは必要な文化ですわ」
私は真剣に言った。
「白銀列車に、湯上がり牛乳を常備しましょう」
「決定なんですね」
ノアが呆れた顔をする。
「決定ですわ」
だって、これは必要だ。白銀列車の大浴場でも、温泉帰りでも、湯上がりには冷たい瓶牛乳。
この世には、守るべきものがある。
アベルはすでに、二本目の瓶を冷えた桶から取り出していた。手際が良すぎる。
ふたたび右ソファへ沈み込み、毛布に包まれながら牛乳を受け取る。暖炉がぱちりと鳴り、磨かれた木の香りと、湯上がりの硫黄の匂いがほんの少し混ざった。
完璧だった。
その時、こん、こん、と展望車の方から控えめなノックの音がした。
ルークの目が静かに細くなる。空気が一瞬だけ変わった。
でも、膝には毛布があり、手には牛乳がある。
怖いことは、特に起きない。
「来客です」
ルークが言う。
「宿の者のようです。展望車の外で待たせています」
「宿の方?」
「はい。若旦那と名乗っております」
若旦那。
たしか、この温泉街の老舗旅館を取り仕切っている人だったはずだ。
「何かありましたの?」
「ご挨拶と、差し入れを持参したとのことです」
「差し入れ」
私は瓶牛乳を置いた。
重要な言葉だった。
「通して構いませんわ。ただし、展望車までです」
「承知しました」
ルークは一礼し、静かに出ていった。
居住区へは入れない。
そこは絶対だ。
でも、展望車ならば来客用の場所である。
私は毛布を整え、牛乳をもう一口飲んだ。
◇
若旦那は、思っていたより若かった。
二十代半ばくらいだろうか。落ち着いた藍色の羽織を着て、湯気の立つ木箱を両手に抱えている。
けれど、展望車に一歩入った瞬間、ぴたりと足を止めた。
「……暖かい」
小さく、そう呟いた。
無理もない。外は雪。温泉街は湯気で湿っている。旅館の廊下には隙間風があった。
それなのに、白銀列車の中は春みたいに暖かい。しかも空気が乾きすぎていない。音も静か。窓の外には雪景色があるのに、硝子一枚こちら側は完全に別世界だった。
「お邪魔いたします」
若旦那はすぐに姿勢を正した。
「当館をご利用いただき、ありがとうございます。私はユノハナの旅館で若旦那を務めております」
「ご丁寧にありがとうございます」
右ソファから、軽く会釈した。
ルークは私の斜め前に立っている。若旦那との間に、自然な壁を作る位置だった。
若旦那はそれに気づいているようだったが、余計な反応はしなかった。商売人らしく、落ち着いている。
「先ほど、湯上がりに急いでお戻りになったと伺いまして」
「ええ。お湯は素晴らしかったですわ」
正直に言った。
「雪見風呂も、とても良かったです」
若旦那の顔が少し明るくなる。
「それは何よりです」
「ただ」
私は毛布を少し引き寄せる。
「脱衣所が寒かったですわ」
「……申し訳ございません」
若旦那は苦笑した。
「古い宿でして。風情と隙間風が、なかなか切り離せず」
「風情で体温は保てませんって」
窓側にいたノアが、小さく呟いた。
ルークが無言で視線を向ける。
ノアはすぐに、カップで口元を隠した。
若旦那は、それを見て少し笑う。
「耳が痛いですね。実は私も、何度も直したいとは思っているのです。ただ、古くから来てくださる湯治客の方々が、あの寒さも含めて懐かしいとおっしゃるもので」
「分かりますわ」
私は頷いた。
「温泉は、とても良かったですもの」
そう。
旅館を悪く言いたいわけではない。
お湯は最高だった。雪景色も、湯気も、硫黄の匂いも、全部良かった。
ただ、湯上がりに冷えるのは嫌なのだ。
「それで、こちらを」
若旦那が木箱を開ける。
ふわりと湯気が立ち上った。
中には、温泉で蒸した野菜が入っていた。ほくほくした芋、淡い色の根菜、小さな茸。そして、殻付きの温泉卵。
「まあ」
思わず身を乗り出した。
「温泉卵ですわ」
「先ほど、温泉卵の匂いがするとおっしゃっていたと、宿の者から聞きまして」
「聞かれていましたのね」
「温泉街は声がよく通りますので」
若旦那は涼しい顔で言った。
少し恥ずかしい。
けれど、温泉卵は嬉しい。
アベルが木箱を覗き込む。
「良い火の入り方だな」
「ありがとうございます。源泉の温度が安定している場所を使っています」
「なるほどな」
料理人同士、すぐに通じ合ったらしい。
温泉卵を一つ受け取り、殻を割った。
とろり。
柔らかな白身。濃い黄身。湯気。
少しだけ塩を振って、口へ運ぶ。
「……おいしい」
素直に声が出た。
湯上がりの牛乳。温泉卵。暖かい車内。
これは危険だ。
永遠にだらだらできてしまう。
「お気に召したなら何よりです」
若旦那はほっとした顔をした。
「今後も、よろしければ試作品の味見などお願いできればと。お客様のお好みを知っておきたいので」
「味見」
その言葉は聞き逃さなかった。
「それは、温泉卵以外も?」
「蒸し野菜、茶葉、甘味なども」
「素晴らしいですわ」
即答だった。
ノアが小さく笑う。
「判断が早い」
「美味しいものは大事ですもの」
「でしょうね」
若旦那は少し考えたように私を見る。
「それでは、今後の手配のためにも、お名前を伺ってもよろしいでしょうか。いつまでも『白銀列車のお嬢様』では、帳面に書きづらいもので」
白銀列車のお嬢様。
少しだけ首を傾げた。
そんな呼ばれ方をしているのか。
まあ、帳面に書きづらいのは分かる。
私は温泉卵をもう一口食べてから、軽く答えた。
「レティシアですわ」
特に、何かが起きるわけでもない。
暖炉がぱちりと鳴っただけだった。
「レティシア様ですね」
「様はなくても構いませんわ。試食役として分かれば十分ですし、ティアとでも呼んでくださいな」
「では、レティシア様で」
「聞いてました?」
ノアが小さく突っ込む。
若旦那は少し笑って、帳面にさらさらと何かを書いた。
「お客様を呼び捨てにはできませんので」
「律儀ですわねぇ」
私は牛乳をもう一口飲んだ。
冷たい。
温泉卵の後の牛乳も、とても良い。
アベルが横から言う。
「ティア。もう一本飲むか?」
「いただきますわ」
あまりにも自然に呼ばれたので、そのまま頷いた。
あとから少しだけ気づく。
まあ、別にいい。
今は牛乳の方が重要だった。
ルークは何も言わず、ただ毛布の端を少し直してくれた。その仕草が、いつも通りだった。
若旦那はそんな私たちを見て、少しだけ目を細める。
きっと外では、白銀列車は妙な噂になっているのだろう。
神の線路。冬の箱庭。白夜号。
そんな言葉を、温泉街の人々が口にしているのかもしれない。
でも、今ここにあるのは、冷たい牛乳、温泉卵、暖炉、毛布。そして、湯上がりで少し眠い私だけだった。
「若旦那」
「はい」
「この温泉卵、またいただけます?」
「もちろんです」
「では、私は常連になりますわ」
若旦那は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。レティシア様」
「あと、湯上がり牛乳に合う甘味があれば、それもお願いしますわ」
「承りました」
アベルが隣で腕を組む。
「甘味なら、こっちでも試すか」
「お願いしますわ」
話はまとまった。
私は右ソファへ深く沈み込む。火照った身体、冷たい牛乳、膝の毛布、窓の外に降る雪。展望車の向こうでは、若旦那が湯気の立つ木箱を片付けている。
外の世界が、私を何と呼んでいるのかは知らない。
ただ、この温泉街では、美味しい温泉卵を持ってきてくれる人ができた。
それで十分だった。
「……良い夜ですわね」
暖炉が、ぱちりと鳴る。
冷たい牛乳をもう一口飲んで、ぽかぽかしたまま、ふかふかのソファへ沈み込んだ。
湯上がり牛乳回でした。
温泉で火照った身体に、
冷たい瓶牛乳。
そして温泉卵。
さらに、温泉街の若旦那も登場しました。
白銀列車のお嬢様改め、
レティシアさんとして、
少しだけ常連客らしくなっていきます。




