018 雪見風呂は最高ですが、脱衣所が寒いですわ
早く広いお湯に浸かりたい。
そう思いながら、私たちは大きな木造旅館の門をくぐった。
暖簾の向こうから、硫黄の匂いが流れてくる。雪を払う音、遠くの話し声、木の床を歩くぎしりという音。外の賑やかさとは少し違う、古い宿の音だった。
「まあ……」
思わず足を止める。
雪の積もった梁、磨かれた木の柱、柔らかな灯り。廊下の奥からは、白い湯気がゆっくり流れている。古い旅館なのに、どこか落ち着く空気だった。
「……これは、期待できますわねぇ」
「風情がありますね」
ルークが静かに頷く。
ノアも周囲を見回していた。
「建物そのものは、かなり良い感じですね」
「そのものは?」
「いや、構造的にはちょっと気になるというか……」
彼は壁や窓枠を見ながら、眉を寄せる。
「この宿の造り、魔導技師としては気になって仕方ないんですけど。絶対に熱が逃げる構造してますよ」
「始まりましたわね」
「だって気になるじゃないですか。気密性って概念がないんですか!?」
「ノア」
ルークが静かに言う。
「お嬢様の前で、寒さを強調しないでください」
「でも本当に気になりますって。風情で体温は保てませんよ」
ノアは真剣だった。
だからこそ、少し面白い。
「でも確かに、少し冷えますわねぇ」
廊下の隅から、すうっと風が入ってくる。湯煙で空気は湿っているのに、床が少し冷たい。
けれど、奥へ進むほど硫黄の匂いは濃くなっていく。
お湯が近い。
それだけで、かなり頑張れる気がした。
「お嬢様」
ルークが脱衣所の前で足を止める。
「私は外で待機いたします。お上がりの際はすぐに」
「分かりましたわ」
ノアは別の湯へ向かい、アベルは宿の者と食材の話を始めていた。
脱衣所へ入る。
そして、思わず小さく呟いた。
「……寒いですわね」
床が冷たい。窓の隙間から細い風が入ってくる。湯気はあるのに、なぜか寒い。
急いで衣服を脱ぎ、浴場へ向かった。
戸を開けた瞬間、白い湯気がふわりと身体を包んだ。
硫黄の匂い。濡れた石の匂い。湯の流れる音。
そして、目の前には岩造りの大露天風呂が広がっていた。
「……まあ」
思わず声が漏れる。
広い。とても広い。岩に囲まれた湯船の向こうには、雪化粧した山が見えている。しんしんと降る雪、白い木々、薄い灰色の空。湯気の向こうで、雪がゆっくり揺れていた。
そっと足を入れる。
「……っ」
熱い。
でも、心地よい熱さだった。
じん、と冷えていた身体が一気にほどけていく。肩まで浸かった瞬間、思わず息が漏れた。
「……最高ですわ」
これは、確かに来る価値がある。
温かい。広い。静か。雪景色まで綺麗。髪の先には雪の気配があるのに、身体は熱い湯に包まれている。その温度差が、たまらなく気持ち良かった。
湯船の縁へ腕を乗せ、ぼんやり雪を眺める。
しん、と雪が降る。
ぱた、と湯へ落ちた雪が、すぐに消える。
硫黄の匂いが、ゆっくり鼻に残った。
白銀列車の浴場とは、また違う良さだった。
あちらは完璧だ。温度も、湿度も、空気も、全部が快適に整えられている。
でも、この露天風呂には、外の寒さがすぐそばにある。寒い世界の中に、ぽつんと熱い湯がある。
だから、ありがたみがある。
「……これは、長く入ってしまいますわねぇ」
湯気の中で、私は目を細めた。
◇
問題は、上がったあとだった。
「……寒っ」
思わず、令嬢らしくない声が出た。
脱衣所へ戻った瞬間、隙間風が肩を撫でたのである。お湯で火照っていた肌が、すうっと冷えていく。濡れた髪から熱が逃げていくのが分かった。
床も冷たい。
湯気はある。
でも風がある。
最悪だった。
「これは……」
急いで身体を拭く。けれど髪がまだ濡れている。せっかく温まったのに、脱衣所にいるだけで熱が逃げていく。
もったいない。
急いで服を着る。
しかし、廊下へ出た瞬間、さらに冷たい風が来た。
「お嬢様」
待機していたルークが、一秒の遅れもなく厚手の外套を掛けてくれる。重く、暖かい。肩から背中まで、熱が逃げるのを止めてくれた。
「湯冷めします。すぐに移動しましょう」
「ええ……そうしますわ」
素直に頷く。
すると、別の廊下からノアが出てきた。髪が少し濡れていて、顔が険しい。
「……この宿の造り、やっぱり気になります」
開口一番、それだった。
「お湯は最高なんですよ。お湯は本当に良いです。でも、せっかく温まった熱が、廊下で全部逃げていくじゃないですか」
「ノア、声が大きいです」
ルークが静かに注意する。
「でも本当ですよ。窓枠と床下を少し調整するだけでも、かなり改善できますって」
「風情が消えます」
「風情と体温、どっちが大事なんですか!?」
ノアは本気だった。
だから、やっぱり少し面白い。
でも、言いたいことは分かる。
温泉は最高だった。
雪見風呂も素晴らしかった。
ただ、生活空間としては。
「……やはり」
私は外套をぎゅっと寄せた。
「完璧な空調のある白銀列車へ帰りますわ」
ルークは、その言葉を待っていたみたいに頷く。
「承知しました。すぐに戻りましょう」
「宿の客室は?」
ノアが尋ねる。
少し考えた。
古い木造旅館。風情はある。雪景色も綺麗だ。
でも、隙間風がある。
そして、髪はまだ少し濡れている。
「今は無理ですわ」
「判断が早い」
「冷える前に帰るのが、一番賢いですもの」
「まあ、それはそう」
ノアも素直に頷いた。
廊下の向こうから、宿の客たちの声が聞こえてくる。笑い声、下駄の音、子どもの走る音。
風情はある。
とてもある。
でも、静かではない。
そして寒い。
外套の襟を少し上げた。
「アベルは?」
「先に戻っています」
ルークが答える。
「湯上がり用に、何か用意すると」
その言葉で、足が少し速くなった。
「冷たいものですの?」
「おそらく」
なんて素晴らしい。
湯上がり。冷たい飲み物。完璧な空調。静かな車内。
もう、帰る理由しかない。
◇
夜の温泉街は、昼よりも白かった。
湯煙が灯りをぼかし、提灯の赤が雪に滲んでいる。からん、ころん、と下駄の音が坂道の向こうから響き、遠くでは宿の呼び込みの声、商人の笑い声、湯上がり客の話し声が重なっていた。
人の気配が多い。
でも、今の私は急いでいた。
濡れた髪の先が冷たい。頬は火照っているのに、首筋がひやりとする。身体の中にはまだ温泉の熱が残っているのに、外の空気がそれを少しずつ奪っていく。
足元の雪は、昼よりさらに重くなっていた。
しゃり。
ぬちゃり。
歩くたびに、靴の底が少し沈む。
ルークが手を引き、ぬかるみを避ける。
「こちらへ」
「はい」
彼は一切迷わない。人混みがあれば自然に前へ出る。冷たい風が来れば、外套の前を少し直す。道が滑りそうなら、歩幅を合わせてくれる。
完璧だった。
けれど、完璧なエスコートがあっても、外は外である。
「……白銀列車は、まだですの?」
「もう見えます」
湯煙の向こう、雪の広場に白い影が見えた。
白銀列車。
広場に勝手に伸びた線路の上で、静かに停まっている。窓からは琥珀色の灯りが漏れていた。
その灯りを見た瞬間、ほっと息を吐く。
帰ってきた。
まだ乗っていないのに、そう思った。
ルークが先に進み、扉の前で一礼する。
「お帰りなさいませ」
その言葉と同時に、扉が開いた。
ふわり。
暖かい空気が、頬を包んだ。
静かだった。
外の下駄の音も、商人の声も、湯煙の湿った寒さも、扉の内側には入ってこない。暖炉の匂い、磨かれた木の香り、柔らかな灯り、完璧な暖気。
一歩、白銀列車の中へ入る。
冷えかけていた身体が、すぐにほどけていく。
「……やはり」
思わず声が漏れた。
「我が家が一番ですわね」
奥から、アベルの声がした。
「湯上がり用、用意できてるぞ」
その言葉に、顔を上げる。
暖かい車内。静かな空気。そして、これから飲む冷たい一杯。
私は静かに頷いた。
「すぐにいただきますわ」
背後で、扉が静かに閉まる。
外の寒さが、完全に遠ざかった。
雪見風呂回でした。
温泉は最高。
でも脱衣所と廊下は寒い。
だからこそ、
白銀列車へ帰った瞬間の安心感が際立つ回になりました。
次回は湯上がり牛乳です。




