017 温泉街は硫黄の匂いと、少しの人混みですわ
がたん、ごとん。
いつもより少し重たい走行音で、目が覚めた。
右ソファへ沈み込んだまま、ゆっくり目を開ける。暖炉の火はまだ静かに燃えていて、毛布の内側は十分に暖かい。眠い。できれば、もう少しこのまま溶けていたい。
けれど、窓の外が少し違っていた。
「……山ですわね」
白い山々が窓の向こうに連なっている。氷海の平原とは違う。切り立った岩肌、深い森、雪に埋もれた斜面。空からは重たそうな雪がしんしんと降っていた。
そして、山のあちこちから白いものが立ち上っている。
煙ではない。
湯気だ。
「お目覚めですか、お嬢様」
後ろ斜めから、ルークの静かな声が届いた。
「……着きましたの?」
「まもなく、温泉渓谷ユノハナの入り口へ到着します」
温泉渓谷。
その言葉だけで、少し幸せな気持ちになる。
「朝食をお持ちしますか?」
厨房側から、アベルが顔を出した。
「起きたてなら、軽めのスープにするが」
「いただきますわ」
「はいよ」
すぐに、湯気の立つ皿が運ばれてきた。白いスープ、焼きたての小さなパン、それから蜂蜜入りの紅茶。完璧だった。
私は毛布にくるまったまま、スプーンを持つ。
一口。
「……生き返りますわ」
「お嬢様、毎回生き返ってますね」
窓側で、ノアが呆れた声を出した。
「だって美味しいですもの」
「まあ、分からなくもないですけど」
ノアも温かいカップを両手で持っている。白銀列車では、彼もだいぶ甘やかされる側になってきた。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。けれど、氷海の吹雪とは違う。こちらは水分を含んだ重たい雪だ。景色の向こうでは、白い湯煙がゆっくり揺れている。
「……本当に、湯気だらけですわねぇ」
「この辺り一帯が温泉地ですから」
ルークが答える。
「地下を流れる温泉が、街中へ引かれています」
「素晴らしいですわ」
素直に頷く。
寒い場所に来たなら、温かいお湯が必要だ。当然である。
その時、りぃん、と澄んだベルの音が車内へ響いた。
白銀列車がゆっくり速度を落としていく。
がたん、ごとん。
やがて、滑るように停止した。
「到着しました」
ルークが静かに告げる。
窓の外には、雪の積もった広場が見えた。馬車を停めるための場所らしい。白銀列車はそこへ勝手に線路を伸ばし、悠然と停車していた。
広場の向こうには古い木造の門。さらにその先、斜面に沿って温泉街が広がっている。木造旅館、白い湯煙、雪化粧した屋根、いくつもの灯り。
「ここから先は建物が密集していますので、宿までは少し歩くことになります」
「構いませんわ」
窓の外を見つめる。
「なんだか、空気まで白いですわねぇ」
「湿気が多いんですよ」
ノアが窓を見ながら言った。
「機械にはあまり優しくない環境です」
「ノア」
ルークが静かに振り返る。
「白銀列車の整備は任せます」
「うわぁ、今の絶対、僕への圧ですよね?」
そんな会話をしている間に、アベルがコートを持ってきた。
「外は冷える。ちゃんと着ろ」
「ありがとうございます」
ゆっくり立ち上がる。
毛布の外は、少しだけ寒かった。
でも、今日はこの先に温泉がある。
そう思うだけで、かなり頑張れる気がした。
ルークが当然のように横へ立つ。
「足元が悪いので、お気をつけください」
「雪ですものね」
「ええ。それと、ぬかるみがあります」
扉が開く。
その瞬間、ぶわりと強い匂いが流れ込んできた。
硫黄だ。
温泉特有の、あの独特な匂い。
私は目を丸くした。
「……温泉卵の匂いがしますわ!」
「第一声それなんですか!?」
ノアが即座に突っ込む。
でも、仕方ないだろう。
とても美味しそうな匂いなのだから。
白銀列車から一歩外へ出ると、空気がひやりと頬へ触れた。氷海みたいに刺さる寒さではない。もっと湿っていて、じわじわ冷える感じだ。雪も重たい。踏むと、しゃり、と水っぽい音がする。
「わっ」
少し足を滑らせかけた瞬間、ルークが自然に手を取った。
「お気をつけください」
「……ありがとうございます」
手袋越しでも、彼の手は暖かかった。
広場を抜けると、すぐに湯煙が漂っていた。木造の旅館、湯気を吐く排水路、軒先に吊るされた提灯。遠くで、からん、ころん、と下駄の音まで聞こえる。
「おお……」
ノアが周囲を見回す。
「思ったより、ちゃんと温泉街だ」
「温泉街ですもの」
「いや、もっと山奥の秘境みたいなのを想像してました」
「秘境かもしれないぞ」
アベルが言った。
「飯の匂いが良い」
「アベルさん、基準そこなんですね……」
でも実際、空気の中には出汁みたいな匂いも混じっていた。
硫黄。湯気。炭火。煮込み料理。
歩いているだけで、お腹が空く街だった。
その時、通りの向こうから怒鳴り声が飛んできた。
「熱いうちに運べ!」
「避寒客用の部屋が足りねぇ!」
「王都の商会がまた酒樽を買い占めてるぞ!」
大きな荷物を抱えた商人たちが、雪の中を慌ただしく行き交っている。湯治客らしい人々も多い。赤い顔をした男たち、厚着の婦人たち、子どもを連れた家族。狭い坂道を、たくさんの人が上り下りしていた。
下駄の音。話し声。湯気。呼び込み。
温泉街は、思っていたよりずっと賑やかだった。
「……人、多いですわねぇ」
ルークが自然に、人波を避ける位置へ移動した。私と他人の間へ、静かに入る。
「本日は避寒客が多いようです。宿へ急ぎましょう」
「そうしてくださいませ」
やはり、人が多い場所は少し疲れる。
外は寒いし、声も多い。
白銀列車の静けさが、少し恋しくなった。
「……早く温泉へ入りたいですわねぇ」
その呟きに、ルークが静かに頷く。
「宿まであと少しです」
白い湯煙の向こう、坂の上には大きな木造旅館が見えていた。雪化粧した屋根、暖かな灯り、立ち上る湯気。
あそこに、広いお湯があるのだろう。
外が寒かった分だけ、余計に楽しみだった。
白い息を吐きながら、湯煙の街を見上げる。
「……絶対、良い温泉ですわ」
からん、とどこかでまた下駄の音が響いた。
温泉渓谷ユノハナに到着しました。
硫黄の匂い、湯煙、下駄の音。
外が少し騒がしいからこそ、
温かいお湯と白銀列車の安心感が恋しくなる町です。




