015 王都の使者を雪原に置き去りにしましたが、列車は温泉へ向けて出発しますわ
氷海の港町に、朝が来た。
吹雪は止んでいた。けれど空気は凍りつくほど冷たい。港の石畳には薄い氷が張り、白い息が低く流れ、雪原の向こうでは海が静かに凍っている。
その港に、王太子直属の騎士団はまだ立っていた。
鎧には霜。外套には雪。馬たちは疲れ切り、互いに身を寄せ合って白い息を吐いている。
「夜が明けた……」
騎士団長が、血走った目で白銀列車を睨んだ。
「さあ、出てこい」
白銀列車は静かだった。扉は閉じたまま。窓は曇ったまま。中からは、暖かな灯りだけが漏れている。
「王命を無視するなど、許されん」
騎士団長は凍えた手で剣を握った。
「今度こそ、扉を開けさせる」
その時。
りぃん。
澄んだ音が、朝の港に響いた。
美しいベルの音。
発車を知らせる音だった。
「……は?」
騎士団長が目を見開いた。
◇
同じ頃、白銀列車の食堂車はとても暖かかった。
私はふかふかの椅子に腰かけている。昨夜もぐっすり眠れた。八時間。完璧だった。
「出発前の軽い朝食だ」
アベルが湯気の立つ皿を置く。
「温かいポタージュと、焼きたての柔らかいパン」
「まあ……」
白いスープから、とろりと湯気が上がっている。焼きたてのパンからは香ばしい匂いがして、表面の割れ目に溶けたバターが少し染みていた。
「朝から幸せですわねぇ」
「食え。冷める前にな」
私はスプーンでポタージュをすくった。
ふう、と息を吹いてから、ひと口。
「……おいしい」
甘い。温かい。身体に染みる。
「昨日の氷海も良かったですけれど、朝はやはり温かいスープですわね」
「分かってるじゃねぇか」
アベルが満足そうに頷く。
ルークが静かに横へ立った。
「お嬢様」
「はい?」
「進路クリア。いつでも出発できます」
「では、行きましょうか」
「承知しました」
ルークは迷わず頷いた。
◇
ごごごごご、と白銀列車が静かに震えた。
車輪が回る。白い車体が、朝の光を受けてゆっくり動き出す。
「待て!!」
外で騎士団長が叫んだ。
「待て! まだ話は終わっていない!」
彼は結界へ向かって駆け出す。
「王命だぞ! 王国を見捨てる気か! 戻れ! その力を王都へ差し出せ!」
だが、白銀列車は止まらない。
結界には指先ひとつ届かない。滑らかな車体は、雪の港を静かに離れていく。
騎士団長は雪の上で足を止めた。
追いつけない。
止められない。
命令も届かない。
白銀列車はただ進んでいく。王都の命令など、最初から存在しなかったみたいに。
◇
「雪景色とも、お別れですわねぇ」
私は、窓の外を見ずに呟いた。
ポタージュがとても美味しいので。
「そうですね」
ルークが紅茶を注ぎながら答える。
「次は南西へ向かいます」
「温泉渓谷でしたわね」
「はい」
「楽しみですわ」
ノアが窓の外をちらりと見た。
「……本当に、王都の人たちを置き去りにしましたね」
「何か問題が?」
ルークが尋ねる。
声は穏やかだった。でも、目はまったく笑っていない。
「いや、問題というか……」
ノアは少し考えた。
窓の外では、港が遠ざかっていく。小さくなっていく騎士団。凍った埠頭。白い海。
そして、こちら側には暖かい食堂車がある。
「……あんなにあっさり国を捨てるんだ、とは思いましたけど」
「国を捨てたつもりはありませんわ」
私は首を傾げる。
「ただ、寒い場所から移動するだけですもの」
「その感覚がすごいんですよ……」
ノアはポタージュをひと口飲んだ。
そして、ふっと肩の力を抜く。
「でも、最高ですね」
「でしょう?」
私は微笑んだ。
◇
白銀列車は速度を上げていく。
氷海の港町が少しずつ遠ざかる。白い雪原、凍った海、港の灯り、王都の騎士団。すべてが窓の向こうで小さくなっていった。
追いつく者はいない。
止める者もいない。
触れる者すらいない。
ただ、白銀の線路だけが、朝の光の中で静かに伸びている。
◇
「温泉渓谷に着いたら、茸鍋だな」
アベルはもう次の献立を考え始めていた。
「山鳥もある。川魚もいい。温泉卵も作れるかもしれん」
「温泉卵……!」
私は目を輝かせた。
「それは大事ですわ」
「だろ」
「温泉に入って、温泉卵を食べて、茸鍋をいただく……」
「完全に旅の目的が食べ物ですね」
ノアが呆れている。
でも、その顔は少し笑っていた。
「お嬢様」
ルークが紅茶のカップを差し出す。
「おかわりはいかがですか?」
「いただきますわ」
「かしこまりました」
注がれる紅茶。立ち上る湯気。膝には、ふかふかの毛布。パンは柔らかく、ポタージュは温かい。
窓の外の雪は、少しずつ薄くなっていた。遠くの空に淡い青が見え始める。
「……今日も」
私は紅茶を両手で包む。
「良い一日になりそうですわね」
「ええ」
ルークが静かに答える。
「必ず」
白銀列車は、朝の線路を走っていく。
王都から遠く、命令から遠く、寒さから遠く、面倒なものからできるだけ遠くへ。
次の温かな場所へ。
温泉と、山鳥と茸鍋のある場所へ。
ここまでご愛読いただき、本当にありがとうございます!
これにて第1章(王都決別編)、無事に完結となります。
明日からは、外部視点の閑話を一話挟み、【第2章・温泉渓谷編】がスタートします!
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それでは、明日からの第2章も、白銀列車へのご乗車を心よりお待ちしております!




