014 防音ガラスの外で追手が命令しているようですが、私はディナーのメインディッシュを頂きますわ
氷海の港町に、夜が落ちた。
空は暗く、海は凍り、吹雪だけが白く荒れている。ごうっ、と風が港の灯りを揺らし、凍った石畳の上を雪煙が走っていた。
その中に、王太子直属の騎士団はまだいた。
「団長、もう夜です」
「馬も限界です。このままでは、こちらが先に倒れます」
騎士たちの声は疲れ切っていた。鎧には雪が積もり、外套は凍りつき、馬たちは身を寄せ合って鼻息を白くしている。
朝からずっと、白銀列車は何も答えなかった。
扉は開かない。声も届かない。結界には触れられない。
まるで、そこだけが別の世界だった。
「……なぜだ」
騎士団長が低く呟く。
「なぜ、王命に従わん」
その声に憐れみはなかった。あるのは怒りだった。自分たちが命じれば扉は開くはず。王太子の名を出せば誰もが膝をつくはず。辺境送りになった令嬢など、呼び戻せば戻るはず。
そう信じて疑っていない顔だった。
「団長、一度港の宿へ」
「黙れ」
騎士団長は白銀列車を睨みつけた。
「王都が混乱している。商人どもは勝手に動き、貴族どもは騒ぎ、文官どもは泣き言ばかりだ。あの女を連れ戻せば済む話だ」
ぎり、と奥歯が鳴る。
「本来なら、王都のために働くべき女だろうが」
吹雪が、その声をさらっていく。
騎士団長は結界の前へ進んだ。
「聞こえているのだろう! 王命である!」
白銀列車の暖かな窓へ向かって、声を張り上げる。
「速やかに扉を開けろ! この列車も、その力も、王国のために差し出せ!」
透明な結界は、何も答えなかった。
◇
同じ頃、白銀列車の食堂車は明るかった。
シャンデリアが柔らかく輝き、暖炉の火が木の壁を照らしている。白いクロス、磨かれた銀のカトラリー、温かいスープの湯気。外が吹雪だなんて信じられないほど、食堂車の中は穏やかだった。
「今夜は気合い入れたぞ」
アベルが満足そうに皿を置く。
「まずは、氷海産カニの濃厚クリームコロッケだ」
「まあ……!」
私は思わず身を乗り出した。
きつね色の衣には細かな泡の跡が残り、揚げたての香りがふわりと立つ。ナイフを入れると、さくっ、と小さな音がした。中から、とろりと白いクリームが溢れる。
カニの甘い香り。バターの香り。熱々の湯気。
「最高ですわ……」
「熱いぞ。気をつけろ」
「ええ」
私はそっと口へ運んだ。
さくさくの衣の奥で、熱いクリームがとろける。カニの旨味が口いっぱいに広がり、バターの香りがあとから追いかけてきた。
「美味しいですわぁ……!」
「だろ」
アベルが得意げに笑う。
「次は魚介のブイヤベースだ。氷海の白身魚とエビを使ってる」
「なんて贅沢……」
ルークが私のグラスへ果実水を注いだ。透明な液体に、薄い果実の輪切りが浮かぶ。
「お口直しにどうぞ」
「ありがとうございます、ルーク」
「当然です」
彼の声は、とても穏やかだった。
◇
外では、騎士団長が結界の前で叫んでいた。
「開けろ! 王太子殿下の命令だぞ!」
彼は扉へ手を伸ばす。だが、透明な壁のようなものに阻まれ、指先すら届かない。
押しても、叩いても、睨みつけても、結界は揺らぎもしなかった。
「団長、やはり無理です」
「黙れと言っている!」
騎士団長は窓の向こうを睨んだ。
暖かな灯り。湯気。食卓。そして、優雅に食事をしている令嬢。
「……ふざけるな」
彼の声が低く沈む。
「王都が混乱しているというのに、自分だけ暖かい場所で食事だと……?」
騎士団長は結界に向かって叫んだ。
「出てこい! 辺境送りの身で、王命に逆らう気か!」
けれど、その声は届かない。
◇
「……あの」
ノアが窓の外を見ていた。
「どうしましたの?」
「あの騎士団長、朝からずっといますよね」
「そうですの?」
「はい。なんか、まだ命令してます」
「命令?」
私はクリームコロッケを切り分けながら、ちらりと窓を見た。
確かに、外で誰かの口が大きく動いている。でも分厚い防音硝子と結界に阻まれて、声は一音も届かない。
「お魚の骨でも、喉に刺さってしまったのかしら」
「いや、たぶん違います」
「可哀想に」
「方向性が違う……」
私はコロッケをもう一口食べる。
さくっ、とろっ。
「でも、こちらのコロッケは最高ですわ」
「話戻すの早いですね!?」
「揚げたては今だけですもの」
アベルが頷いた。
「その通りだ。冷めたコロッケは罪だ」
「罪の基準がおかしい……」
ルークが窓の外を一瞥した。
その目は氷より冷たい。
「まだ自分たちの命令が届くと思っているのでしょう」
「聞こえてないのに?」
「はい」
「不思議ですわねぇ」
私は果実水をひと口飲んだ。冷たくて、甘い。
「お嬢様の夕食中です」
ルークの声が、静かに冷える。
「邪魔になるようなら、排除します」
「夕食が冷めますわ」
「承知しました」
ルークは即答した。
ノアが頭を抱える。
「王都のエリート騎士団ですよね!? 扱い軽くないですか!?」
「コロッケの方が大事だろ」
アベルが次の皿を用意しながら言った。
「揚げたては今しか食えない」
「正論っぽく言わないでください」
「正論だ」
じゅわっ、と鍋の音が響く。
魚介の香りが、さらに広がった。
◇
外では、騎士団長が白銀列車を見上げていた。
暖かな灯り。曇った窓。湯気。まるで別世界だった。
「団長……どうされますか」
騎士団長はしばらく黙っていた。吹雪が外套を揺らす。
「……待機だ」
低い声だった。
「王命を無視するなど、許されることではない。夜が明ければ、必ず出てくる。その時、思い知らせてやる」
騎士たちは静かに顔を見合わせた。
誰も、白銀列車が自分たちのために止まっているわけではない、とは言えなかった。
白銀列車は何も答えない。
ただ、暖かな光だけが雪の港を照らしていた。
◇
「ブイヤベースも、素晴らしいですわねぇ」
私はスープをひと口飲んだ。
魚介の旨味。香草の香り。温かさ。身体の芯まで、じんわり満たされていく。
「氷海も、良いところですわね」
「食材だけで判断してません?」
「大事なことですわ」
「否定できなくなってきた自分が怖いです……」
ノアは小さくため息をついた。でも、その手はしっかりコロッケを掴んでいる。
「そろそろ、この港の海鮮も堪能しましたし」
私は果実水を飲みながら言う。
「明日は、次の場所へ出発しましょうか」
「承知しました」
ルークが即答する。
「進路を確認しておきます」
「次は、もう少し暖かい場所がいいですわねぇ」
「では、芯まで温まる場所として、西の温泉渓谷はいかがでしょう」
「温泉……! きっと街全体が湯気でぽかぽかしていますわね!」
「ええ。お湯の温かさは格別かと」
「食材も豊富だ」
アベルが言う。
「山鳥と茸がある」
「最高ですわ」
「また行き先の基準が食べ物!!」
ノアが叫んだ。
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
外では吹雪が荒れている。窓の向こうで、誰かがまだ何かを命じている。
でも、この食堂車には温かなスープの音しか届かない。
白銀列車は、明日も走る。
王都から遠く。寒さから遠く。面倒なものから、できるだけ遠くへ。
私はデザートのプリンをひと口食べた。
「……幸せですわねぇ」
甘くて、静かで、とても平和な夜だった。




