010 王都の物流が止まったそうですが、私は今日も紅茶を頂きますわ
王城の会議室は、凍えるように寒かった。
「……寒い」
誰かが震える声で呟いた。
暖炉の火は弱く、窓の隙間から入り込む風が、書類の端を小さく揺らしている。厚い絨毯も、大理石の床から上がってくる冷えを止めきれていなかった。
そこへ、悲鳴みたいな報告が次々に飛び込んでくる。
「小麦が届きません!」
「南方の香辛料もです!」
「王都行きの馬車が、どこも出発を拒否しています!」
王太子が机を叩いた。
「なぜだ!」
怒鳴り声だけが広い会議室に響く。
けれど、返ってくるのは絶望ばかりだった。
「大商会が……」
老文官が死んだ目で呟く。
「すべて、あの列車が残した道へ、物流ルートを移しております」
「は?」
王太子が固まった。
「道だと?」
「はい」
老文官は震える手で地図を広げた。
雪山。廃線。古い軍用路線。北部宿場町。凍結していたはずの街道。
その上に、赤い線が引かれている。
「白銀列車が通った後、凍結していた旧線が、なぜか走れる状態になっているのです」
「なぜか、だと?」
「それだけではありません。廃線が存在しない場所にまで、新しい線路が現れたという報告もあります」
王太子の顔が引き攣った。
「意味が分からん……」
「理由は分かりません。ただ、商人たちはこう呼んでおります」
老文官は、ゆっくり顔を上げた。
「神の線路、と」
会議室が静まり返った。
「馬鹿な……」
王太子の声が震える。
「たかが女が乗る列車だぞ!?」
「その“たかが列車”の後ろを、今や大商会が勝手に追っております」
老文官は地図を指差した。
「荷崩れしない。魔物に襲われない。雪山でも止まらない。王家専用列車ですら追いつけない。もはや、従来の馬車輸送では勝負になりません」
別の役人が青ざめた顔で続ける。
「今朝だけで、三つの商会が倉庫ごと撤退しました。荷馬車も護衛も、すべて“神の線路”側へ移しています」
「何だと!?」
「港もです。北へ向かう商人たちが、白銀列車の通過したルートへ殺到しています。皆、少しでも安全な道を使いたいのです」
そこで文官の声が震えた。
「しかも……神の線路は、王都を通っておりません」
王太子の顔から、血の気が引いた。
机へ積み上がる帳簿は増える一方だった。税収予測。倉庫街の空き状況。北部商業税の減少報告。商人ギルドからの一方的な通知。
「税収予測も崩壊しました!」
「今月だけで、北部商業税が四割減です!」
「王都の倉庫街も空になり始めています!」
誰も笑わなかった。
暖炉の火は弱い。部屋は寒い。なのに、人も、金も、物も、全部王都の外へ流れていく。
「なんでだ……」
王太子が掠れた声で呟いた。
「なぜ誰も、王都へ荷を運ばん……」
老文官が死んだような目で答える。
「白銀列車の後ろを追えば、絶対に魔物に襲われず、雪山でも止まらない。皆、そう言っております」
「…………」
「誰かが命じたわけではありません。誰もが勝手に、より安全で、より速く、より暖かい道へ流れているのです」
会議室の空気が凍った。
「なんなのだ……」
王太子が掠れた声で呟く。
「あの列車は……」
その時、また扉が開いた。
「報告です!」
「今度は何だ!」
「王都の茶商会まで、白銀列車への納品を希望していると」
王太子が絶句した。
「茶、だと……?」
「はい。白銀列車に納めた茶葉は、商人たちの間で高値がつくそうです」
「なぜだ!」
「分かりません。ですが、皆が言っております」
伝令は青ざめた顔で叫んだ。
「白銀列車に選ばれた品は、もう王都に納めるより価値がある、と」
誰も何も言えなかった。
暖炉の火が、ぱちりと弱く鳴った。
王城は、寒かった。
◇
「……最近、良い茶葉が増えましたわねぇ」
私は紅茶を飲みながら、幸せそうに呟いた。
展望車のソファは今日もふかふかだった。暖炉の火は穏やかに揺れ、窓の外には白い雪原が流れていく。湯気の立つカップからは、花のような甘い香りがした。
「そりゃ増えるだろ」
アベルが肩を竦める。
「商人たち、競うように持って来てるからな」
「ありがたいですわねぇ」
「完全に囲い込みですよ……」
ノアが遠い目をしていた。
でも、私は気にしない。紅茶が美味しいので。
「この香り、落ち着きますわ……」
「さっきも商人たちが揉めてたぞ」
アベルが焼き菓子の皿を置きながら言った。
「揉めてた?」
「ああ。“神の線路”を使わせろってな。北へ向かう商隊が、列車の後ろを追いかけてるらしい」
「不思議ですわねぇ」
私は首を傾げた。
私はただ、静かに旅をしたいだけなのに。
その時だった。
ぱしゅっ、と小さな魔導音が響いた。
空中へ、青白い魔法陣が浮かぶ。
ノアがぎょっとした。
「うわっ、王城式の軍用通信!?」
ルークが静かに立ち上がる。
表示された文章を一瞥した。
『至急帰還せよ。
王都物流網崩壊。
最強の剣ルーク、および令嬢の協力を要求する』
空気が冷えた。
ノアが小さく震える。
「あっ、これヤバいやつ」
次の瞬間、ぐしゃり、と嫌な音がした。
ルークが、魔法陣ごと通信を握り潰していた。
青白い光は一瞬で歪み、粉々に散って消える。
「ひっ……」
ノアが引いていた。
ルークの目は、絶対零度みたいに冷たかった。まるで、ゴミでも見るみたいな顔だった。
「どうしましたの?」
私が首を傾げる。
その瞬間、ルークの空気が変わった。
「……いえ」
声が柔らかい。
さっきまでと別人みたいだった。
「ただの迷惑な勧誘です」
「まあ」
「お茶のおかわりをお淹れしましょう」
彼は静かに紅茶を注ぐ。琥珀色の液体から、良い香りの湯気が立った。
「ありがとうございます、ルーク」
「当然です」
即答だった。
迷いが一切ない。
ノアがぼそっと呟く。
「祖国からの救援要請より、お嬢様のティータイム優先なんだ……」
「当たり前だろ」
アベルまで普通に頷いた。
「今さら何言ってんだ」
「えぇ……」
ノアは頭を抱えた。
でも、差し出された紅茶を一口飲んだ瞬間、ぴたりと動きが止まる。
「……あ」
湯気。甘い香り。ふかふかの座席。暖炉の熱。
窓の外は吹雪だった。なのに、ここは少しも寒くない。
「……なんか」
ノアがぽつりと呟いた。
「外に戻りたくなくなってきた……」
「でしょう?」
私は微笑んだ。
「暖かい場所で飲む紅茶は、人を少しだけ優しくしますの」
「優しく……?」
ノアが、握り潰された通信の跡を見た。それからルークを見る。
ルークは穏やかな顔で、私のカップの残量を確認していた。
「……優しく?」
「何か?」
「いえ、何でもないです……」
ノアは紅茶をもう一口飲んだ。
少しだけ、目がとろけていた。
「ところで」
私は焼き菓子をつまみながら、窓の外を眺める。
「次は、北の氷海ルートに入りますわ」
「はい?」
ノアの目が覚めた。
「北の、何ですって?」
「氷海ルートですわ」
私はにこりと笑う。
「海の上が凍っていて、その向こうに港町があるそうですの」
「いやいやいやいや。氷海って、毎年船が沈むところですよ。海竜も出るし、吹雪で方角も分からなくなるし、普通は軍でも避けるんですけど!?」
「まあ」
私は目を丸くした。
「それは大変ですわね」
「分かってます!?」
「でも」
私は焼き菓子をひと口食べた。
さくりと軽く割れて、甘い香りが広がる。
「カニが美味しいそうですわ」
「理由が食欲!!」
ノアが叫んだ。
白銀列車は、静かに雪原を進んでいく。
王都から遠く、さらに寒く、さらに危険な場所へ。
けれど、車内の紅茶は今日も少しも冷めなかった。




