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朝比奈玲はまだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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THE MAIN STREET

本編最終回

 披露宴会場は、賑やかな声に満ちていた。


 長谷川家の親族。

 朝比奈家、一条家の人々。


 今日という日を見届けるために集まった顔が、いくつもの円卓を囲んでいる。


 その中には、景たちの姿もあった。


 少し離れた席には、高橋。

 仕事の場では決して見せないような穏やかな顔で、グラスを傾けている。


「結花ー! こっち向いてー!」


 華やかな声が飛ぶ。

 『はなのや』のママと姉さんたちだ。

 着物姿の女たちが揃えば、それだけで一角が妙に華やぐ。


 そして。

 懐かしいと呼ぶには、まだ少し早い。

 大学の仲間たち。


 それに結花の幼馴染。


 同じ講義を受けた者。

 同じ場所で笑った者。


 そして――『ゆいか』と同じ舞台に立った者たち。


 それぞれ違う場所で結花と玲に出会った人々が、今日だけは同じ場所にいる。


 家族。

 友人。

 仕事仲間。


 結花が歩いてきた場所で出会った人たち。

 玲が歩いてきた場所で出会った人たち。


 そして。

 二人が出会ってから、繋がった人たち。


 誰かが笑う。

 別の席でも笑い声が上がる。

 グラスが鳴る。

 会話が交わされる。


 その光景を包むように、披露宴会場の照明が――。


 ふっと、落ちた。


 ざわめきが小さくなる。

 お色直しのために新郎新婦が中座してから、しばらく経っている。


 そろそろ再入場だろう。


 誰もがそう思い、自然と会場後方の扉へ視線を向けた。


 けれど――。

 扉は、開かない。


 その前に、一人の男が立っていた。

 ピンスポットが当てられる。


 音楽が流れ始める。

 結婚披露宴には少し意外な選曲。


 そして次の瞬間。


「……お父さん?」


 長谷川和雄。

 新婦、結花の実父だった。


 黒の礼服。

 きっちり締めたネクタイ。


 いつもと変わらない、ごく普通の父親の姿。


 ただし――。

 右手には、マイク。


「え?」

「和雄さん?」

「なんで?」


 ざわめきが広がる。

 和雄は何も答えない。

 マイクを上げた。


 歌い始める。

 低い声が、披露宴会場に響いた。


 客席の空気が変わる。


 上手い。

 かなり、上手い。


 素人の余興にありがちな照れがない。

 音程を探る様子もない。


 視線の送り方も。

 マイクの扱いも。


 妙に、こなれている。


「上手っ!」


 思わず漏れた声に、あちこちから笑いが起きた。


「なんで!?」

「結花のパパさん、すごくない?」

「和雄さん、いいぞー!」


 男性陣から声が飛ぶ。

 口笛が鳴った。


 和雄は歌を止めない。


 そちらへ視線を送り、片手を軽く上げる。

 歓声が返った。


 営業一筋、数十年。

 取引先との宴席。

 二次会。

 三次会。


 数え切れない夜を越えてきた男である。

 ――俺はコレで家族を養ってきた。


 その背中には、妙な説得力があった。


 和雄は一人で歌う。

 まだ、舞台の主役は父一人。


 そして――。

 歌声が途切れた。


 一拍。

 二拍。

 三拍。

 四拍。


 会場後方の扉が、大きく開いた。

 同時に、音が華やかに広がる。


 光の中に立っていたのは――結花だった。


 お色直しを終えた花嫁。

 その手には、マイク。


 結花が歌い始める。


 先ほどまでとは、空気が変わった。

 大学時代、何度も舞台に立った声。


 大勢の観客を前にしても揺らぐことのなかった『ゆいか』の声が、披露宴会場いっぱいに広がった。


 父と娘。

 アップテンポな曲調。

 和雄の低い声に乗せるように、結花の声が前へ出る。


 誰も知らない

 わたしが何なのか

 当てにならない

 肩書きも苗字も


「わあっ!」


 歓声が弾けた。


「結花ー!」

「かわいい!」

「ゆいかー!」


 『はなのや』の席から、大学の仲間たちから、次々に声が飛ぶ。


 口笛まで鳴った。


 結花は歌いながら笑う。

 客席へ手を振り、ゆっくりと歩き出した。

 

 和雄も娘へ向かって歩く。

 和雄が左腕を差し出した。

 結花が笑って、その腕へ自分の腕を絡める。

 そこから、二人の声が完全に重なった。

 二人は腕を組んだまま、客席の間を歩き始める。


 今日までどこをどう歩いて来たか。

 そんなもの全部ひっくるめて。


 父の低い声と娘の声が絡み合い、曲は前へ前へと走っていく。

 

 和雄が客席へ片手を広げる。

 歓声が返る。


 結花は反対側へ笑顔を向けた。

 大学の仲間たちが立ち上がりそうな勢いで手を振っている。


 『はなのや』の姉さんたちも負けていない。


 歌う。

 ハモる。

 笑う。


 ――長谷川に生まれた。

 結花は、この父と母の娘として育った。

 そして――一条の娘になった。


 今日まで、いくつもの名前に守られてきた。


 けれど。

 どの名字も、結花の全てではない。


 二人は歌い続ける。

 和雄が大袈裟に胸へ手を当てた。

 結花が吹き出す。

 それでも歌は途切れない。


 その姿を。


 一条は、自分の席から見ていた。

 静かな横顔。

 その口元には、僅かな笑みがある。


 式では、自分が結花と歩いた。

 披露宴では、和雄が娘と歩いている。


 結花には、二人の父がいる。

 どちらかが父になれば、どちらかが父でなくなるわけではない。


 長谷川の家で育ったことも。

 一条の娘になったことも。


 何ひとつ、消えない。


 ただ。

 結花の幸せを願う人が、増えただけだった。


 父と娘は声を重ねたまま、会場を進んでいく。


 曲は明るい。

 湿っぽさなど欠片もない。


 和雄が今度は客席へ向かって大きく腕を広げた。


「和雄さん、最高ー!」


 口笛。

 歓声。

 和雄がニヤリと笑う。


「お父さん、調子乗ってる!」


 結花が歌の合間に笑った。

 和雄は気にしない。

 むしろ、さらに堂々と客席へ視線を送る。


「もう!」


 結花も笑う。

 今日くらいはいい。


 娘の晴れ舞台だ。


 何十年と仕事で磨いてきたものを、全部使ってやればいい。


 父娘の声が重なる。

 腕を組んで歩く。


 そして――。

 二人が会場中央へ差しかかった。


 和雄の視線だけが、ふっと動いた。


 娘の向こう。

 会場前方へ。


 お色直しを終えた新郎が、マイクを手にこちらを見ている。


 和雄は歌いながら――顎をしゃくった。


 ――来い。


 玲が笑う。

 マイクを上げる。


 次の瞬間。


 曲が、もう一段跳ねた。

 玲の声が飛び込んだ。


「……え?」


 玲と目が合った。

 聞いていない。


「――!」


 結花の目が大きくなる。

 玲が歌っている。


「ちょっ……」


 聞きたいことは山ほどある。

 けれど、曲は待ってくれない。


 次が来る。

 結花は反射的に自分の音を拾った。


 和雄。

 結花。

 玲。


 三つの声が重なる。

 会場の空気が、さらに跳ね上がった。


「玲さん!?」

「うそ、歌うの!?」


 歓声。

 笑い声。

 口笛。


 大学の仲間たちは大騒ぎだ。


 高橋は目を丸くしたあと、堪えきれないように笑った。


 朝比奈家の席でも景たちがこちらを見ている。


 誰も知らなかったらしい。

 結花だって知らなかった。


 知っていたのは――。


 歌いながら前へ出てくる玲とその玲を呼び込んだ父だけ。


 和雄が、結花の腕を解いた。

 そのまま一歩、後ろへ引く。


 そして――。

 玲の声が、前へ出た。


 視線が重なった。


「終らない。ああ、生きている間ずっとーー」


「……っ」


 そこで。

 結花の声が、消えた。


 歌えない。

 突然だった。

 結花の胸の奥から、何かが一気に込み上げた。


 玲は歌っている。

 ただ、結花だけを見て。

 その声だけが、真っ直ぐ届く。


 愛して。

 愛されて。

 これから先も、一緒に歩いていこう。


「……っ、ぅ……」


 駄目だった。

 視界が滲む。


 この人は、恋を知らなかった。


 自分の心が誰へ向いているのかさえ、分からなかった人。


 好きになることも。

 愛することも。

 愛されることも。

 誰かと共に生きていくことも。


 何も知らなかった。


 その人が今。

 自分を見ている。


 これからの人生を、一緒に歩いていこうと歌っている。


「……玲、さん……」


 一粒。

 頬を落ちた。

 もう一粒。

 次から次へと溢れてくる。


 それでも、曲は止まらない。

 玲も止まらない。


 結花のためだけに歌うように、一人でその場所を走り抜ける。


 そして。

 次のフレーズ。


 結花が入らなければならない。


「……っ」


 マイクを上げようとした。

 息を吸う。


 無理。

 声にならない。


 その瞬間――。

 玲の声へ、低い声が重なった。


「……え?」


 父、和雄だった。

 何事もなかったように。


 ごく自然に娘が歌うはずだった場所へ入ってきた。


 玲と和雄。

 二人の声が重なる。

 ぴたりと合っている。


「……え?」


 結花が泣いたまま父を見る。

 和雄は歌っている。


 普通に。

 いや。

 普通ではない。


 そこ、私のパート。


「なんで……」


 父の声が玲と重なる。

 結花は玲を見る。


 玲も当然のように歌っている。


 父を見る。

 歌っている。


 また玲。

 また父。


「……ちょっと待って」


 待って。

 おかしい。


 なんでお父さんが、そこを歌えるの?


 しかも。


 なんで玲さんと、そんなに綺麗に合わせられるの?


「……まさか」


 気づいた。


「最初から!?」


 和雄の口元が上がった。

 玲も笑った。


「ひどい!」


 歌は続く。


「私が泣くと思ってたの!?」


 返事はない。

 二人とも歌っている。


「ねえ!」


 玲が一瞬だけ結花を見る。

 目が笑っている。


「玲さんも!」


 また涙が落ちた。


「ひどい!」


 なのに。

 笑ってしまった。

 泣きながら、笑った。


「もう……っ、なんなの……」


 歌えない。

 もう絶対に歌えない。


 だから諦めた。

 マイクを下ろす。


 そして、父と夫の歌を聞いた。


 見事なハーモニー。

 今まで見たことがない、父の派手なアクション。


「……お父さん、そんなこと出来たんだ」


 涙の合間に、思わず笑ってしまう。


 明るい。

 どこまでも華やかで。

 前を向いて歩いていくための歌。


 なのに。


 どうしてこんなに涙が出るのだろう。


 玲と和雄は歌い続ける。

 娘が歌えなくなることまで見越していたように。


 何度も合わせたのだろう。


 どこで。

 いつ。

 どうやって。


 そんな疑問を挟む隙さえない。

 曲はどんどん先へ進んでいく。


 玲の声。

 和雄の声。


 その間を、結花は泣きながら歩く。


「……お父さん」


 幼い頃。

 転ばないように手を引いてくれた。

 学校へ送り出してくれた。


 喧嘩もした。

 心配もかけた。


 それでも最後には、いつも味方でいてくれた。


 会場から手拍子が起こっていた。

 大学の仲間たちが笑っている。

 『はなのや』のママが目元を押さえ、その隣では姉さんたちが大きく手を叩いている。

 高橋も笑っていた。


 朝比奈家。

 一条家。

 長谷川家。


 あちらでも。

 こちらでも。


 笑っている。

 泣いている。

 手を叩いている。


 誰もが三人を見ていた。


 玲と和雄は歌う。


 人生には、思い通りにならないことがある。

 報われないことも。

 選ばれないことも。

 どうして自分だけと思う日もある。


 結花にも、あった。

 玲にも、あった。


 ここにいる誰にだって、きっとある。


 それでも。

 今日ここへ辿り着いた。


 結花が泣きながら笑う。

 和雄が娘を見る。


 今度は、さっきまでのような大袈裟な仕草はなかった。


 宴席で磨き上げた身振りも。

 客席を煽るような笑顔も。


 いつの間にか消えている。


 そこにいるのは、結花がずっと知っている父だった。


 和雄が手を差し出した。

 結花は、泣いたままその手を取る。


 父に引かれて、一歩。

 また一歩。


 玲は歌っている。

 和雄も歌っている。


 声を重ねたまま、和雄は娘を連れていく。


 玲の前まで。

 二人の男の視線が合った。


 言葉はない。

 必要もない。


 和雄が、握っていた娘の手を持ち上げた。


 玲が手を差し出す。

 その手へ。

 結花の手を重ねた。


 玲の指が、しっかりと結花の手を包む。


 和雄はそれを見届けると――。

 笑った。


 ただ、それだけ。


 父であることは、何も変わらない。

 娘を失うわけでもない。

 今日から誰かに譲るわけでもない。


 ただ。


 結花が選んだ人が、隣にいる。

 結花を幸せにしたい人が、また一人いる。


 それだけでいい。

 和雄が一歩、下がった。


 玲が結花の手を握る。


 結花は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、玲を見上げた。


「……ひどい」


 玲は歌いながら笑った。


「ほんっとに、ひどい……!」


 後ろで和雄も笑っている。


「お父さんも!」


 曲は最後へ向かう。

 玲と和雄の声が重なる。


 会場の手拍子が大きくなる。

 結花は二人の間で泣き笑いしている。


 家族がいる。

 友人がいる。

 仕事仲間がいる。

 箱根で出会った人々。

 大学で出会った人々。

 生まれたときから結花を知る人。

 玲と出会ってから結花を知った人。

 玲をずっと見てきた人。

 二人が出会ったことで繋がった人。


 今日。

 その全員が、同じ場所にいる。


 そして――。


 最後の音。

 玲と和雄の声が、重なった。


 音が切れる。

 一瞬の静寂。


 次の瞬間。


 割れんばかりの拍手と歓声が、披露宴会場を包んだ。


「和雄さん、最高ー!」

「玲さんもー!」

「結花ー!」


 あちこちから歓声が飛ぶ。

 和雄は満足そうに頷いた。


 玲も笑っている。


 ただ一人。


 何も知らされていなかった結花だけが、涙でぐしゃぐしゃになった顔で二人を睨んだ。


「……ひどい」


 玲がハンカチを差し出す。


「ごめん」

「ごめんって顔してない!」

「してるよ」

「してません!」


 ハンカチを奪うように受け取り、目元を押さえる。


「それに! なんで私だけ知らなかったの!? 私だって最後まで歌いたかった!」


 その瞬間。

 玲と和雄が顔を見合わせた。


「…………」

「…………」


 妙な間があった。


「なに?」


 先に口を開いたのは和雄だった。


「いや、お前は無理だろ」

「なんで!?」

「泣くから」

「泣かないよ!」


 即答した結花の目から、また一粒涙が落ちた。

 和雄が無言でそれを見る。

 玲も見る。


「…………」

「…………」


「これは違うの!」

「何が違うんだよ」

「二人が変なことするからでしょ!」

「だからだよ」


 玲が笑った。


「結花、絶対途中で歌えなくなると思って」

「玲さんまで!?」

「お義父さんと相談した」

「相談したの!?」

「ああ」

「いつ!?」


 玲が和雄を見る。

 和雄も玲を見る。

 二人とも答えない。


「ちょっと!?」


 会場から、また笑い声が上がる。

 結花は父と夫を交互に睨んだ。


 いつの間に。

 この二人は、こんなことを企むほど仲良くなったのだ。


「……歌えたもん」

「うん」

「絶対、歌えた」

「ああ」

「……たぶん」


 和雄が吹き出した。


「無理だろ」

「お父さん!」


 披露宴会場は、もう一度大きな笑いに包まれた。

次回、ラストです

お読みくださって、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
和雄さん……営業一筋。これで食ってきたって! どれだけの宴会を渡り歩いてきたんだ!!なんという強者ꉂ(≧∇≦) たしかに!こんなキャラだったとは知りませんでした!! そして玲さんとのデュオ。 いやい…
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