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朝比奈玲はまだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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結婚式

 玲は、鏡に映る自分を見つめていた。

 黒の紋付羽織袴。


 着慣れない。


 これまで和装をする機会がなかったわけではない。

 それでも、今日のこれはまったく違うものに感じる。


「玲、準備はいい?」

 母から声がかかる。

「ああ」


 返事をしてから、玲はもう一度鏡を見る。

 いつもより上気した顔付き。


「……緊張してるのか、俺」


 自分でもおかしくなって、小さく笑った。


 やがて、時間を告げられる。

 玲は立ち上がった。


 この先に結花がいる。


 白無垢を纏った、自分の妻が。

 そう思っただけで、胸の奥が大きく鳴った。


 外へ出る。

 五月の柔らかな陽射しが、境内に降り注いでいた。


 雅楽の音が聞こえる。


 神職を先頭に、列が整えられていく。

 玲は、そこで初めて今日の結花を見た。


 白無垢。


 綿帽子の下に見える、伏せられた目。

 真っ白な衣装に包まれた結花。

 玲は言葉を失った。


 綺麗だ。

 そんなありきたりな言葉しか浮かばない。


 結花が顔を上げる。

 目が合う。

 結花が、ふわりと笑う。


「玲さん」

「ああ」

「どう?」

「……綺麗だよ」

「よかった」


 結花は嬉しそうに笑って、また静かに前を向いた。


 参進が始まる。


 雅楽に導かれ、神職が進む。

 朱傘の下を、玲と結花が並んで歩く。

 その後ろには、朝比奈家と一条家の親族、長谷川家の両親と祖父母が続いている。


 一歩。

 また、一歩。


 ゆっくりと社殿へ向かう。

 隣には結花がいる。

 不思議な気分だった。


 初めて会った時も、結花は着物を着ていた。

 あの時は『さゆり』と呼ばれていた。


 本当の名前も知らなかった。

 どこの誰なのかも知らなかった。

 景の恋に付き合う形で、何度か会いに行った。

 その頃の『さゆり』は、まだ恋愛の対象ですらなかった。


 まさか、こんなふうに隣を歩く日が来るなんて、夢にも思っていなかった。


 劇的に変わったのは、日光だった。

 『さゆり』にとっては、仕事として引き受けただけの旅行。

 景とユリの恋に巻き込まれ、それでも必死に姉を守ろうとしていた。


 そんな彼女を見て――。


 自分は一方的に、この人と結婚すると決めた。

 今思えば、ずいぶん無茶苦茶な話だ。


 玲は僅かに口元を緩める。


「玲さん?」

「いや、なんでもない」

「そう?」

「ああ」


 名前を知りたいと思った。

 知ったのは、仕事で仕方なく足を運んだ学祭のライブだった。


 会いたいと思った。

 けれど、なかなか言い出せなかった。


 自分のところへ来てほしいと思った。

 そのために、いろいろと理屈を並べた。


 今なら分かる。


 ずっと、自分は結花を追いかけていた。

 けれど、今日は違う。

 隣にいる。


 白無垢を纏った結花が、自分と同じ歩幅で歩いている。

 石畳の上を、二人の足音が重なる。


 やがて社殿が近づいてきた。


 玲は前を向く。

 隣には、結花。


 その後ろには、二人をここまで見守ってきた人たち。

 雅楽の音に包まれながら、一歩ずつ神前へ向かっていく。


 もう、『さゆり』を探す必要はない。

 朝比奈結花は、ここにいる。


 社殿へ入る。


 外から聞こえていた雅楽の音が遠くなり、空気が変わった。


 玲と結花は案内に従い、神前に並んで座る。

 向かい合うように、両家の親族が席に着いた。


 やがて、式が始まる。


 一同が頭を下げ、修祓を受ける。

 玲も静かに頭を垂れた。


 神職によって祝詞が奏上される。


 普段なら長く感じるであろう時間が、今日は不思議なほど早く過ぎていく。


 やがて、三献の儀。


 巫女が三つの盃を運んでくる。

 玲は差し出された小さな盃を受け取った。

 御神酒が注がれる。

 作法は事前に教えられている。


 一度目。

 二度目。

 三度目。


 盃を口へ運ぶ。


 同じ盃が結花へ渡った。

 白無垢から覗く白い指先が盃を持つ。

 綿帽子の下で、結花が静かに御神酒を口にする。

 伏せられた目、ぽってりと赤い紅。

 その姿を見ているだけで、また胸の奥が騒がしくなる。


 次の盃。

 そして、最後の盃。

 九度の盃を交わす。

 これで夫婦の契りを結ぶのだという。


 三月三十日。


 二人で区役所へ行き、婚姻届を提出した。

 その日から、自分たちは夫婦だ。


 けれど――。


 今日、こうして神前に並び、同じ盃を交わしていると、あの日とは違う実感があった。


 結婚したんだ。

 改めて、そう思う。


 続いて、誓詞奏上。


 玲と結花は立ち上がった。

 神前へ進む。

 受け取った誓詞を開く。


 何度も目を通した文章だ。

 難しいものではない。


 それなのに、紙を持つ指に僅かに力が入った。


 玲は一度息を吸う。

 そして、読み始めた。


 夫婦となったことを神前へ奉告し、これから先、互いに敬い、支え合い、共に歩んでいくことを誓う。


 一言ずつ、ゆっくりと読み上げる。


 静かな社殿に、自分の声だけが響く。

 最後まで読み終え、玲は誓詞を納めた。


 隣に立つ結花を見る。

 結花も玲を見た。


 言葉は交わさない。

 ただ、目が合う。


 それだけで十分だった。


 二人で神前へ一礼する。


 席へ戻ると、玉串奉奠へと移った。

 玉串を受け取る。

 神前へ進み、教えられたとおりに捧げる。


 二礼。

 二拍手。

 一礼。


 結花と並んで頭を下げる。

 

 ひとつ、またひとつ。

 儀式が進んでいく。


 華やかな演出はない。

 大勢の前で愛を語ることもない。

 ただ、決められた作法に従い、夫婦となったことを神前へ報告する。


 玲には、それが心地よかった。


 やがて、親族固めの盃となる。


 朝比奈家。

 一条家。

 そして、長谷川家。


 それぞれの席に御神酒が配られていく。

 玲は、その光景を静かに見つめた。


 最初は何も知らなかった。

 結花の本当の名前も。

 生まれた家も。

 育った家も。


 何も知らずに、ただ一人の女性を選んだ。


 その先に、これだけの人たちがいた。

 誰か一人でも欠けていたら、今日ここには立っていなかったかもしれない。


 玲は、並んだ顔をひとつずつ見る。

 いろいろなことがあった。

 それでも最後には、皆が自分たちをここまで連れてきてくれた。


 それぞれが盃を手にする。

 玲も盃を持った。

 隣で結花も同じように持っている。


 合図とともに、一同が御神酒を口にした。


 親族固めの盃。


 それをもって、二人の婚儀は滞りなく結ばれた。

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― 新着の感想 ―
圧巻です! 相変わらずの解像度が高い描写!!!2回読んじゃった!笑 神前式ってこんな風にするんだなぁと、感心しかありませんでした。 きっと、袴姿の玲さんカッコよかったんだろうなぁ。 そして結花ちゃん…
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