門出
四月一日は朝比奈結花の入社式だった。
真新しいスーツに身を包み、新社会人としてキリっと気が引き締まる。
学生の頃とは違う。
前もって秘書検定やオフィスで役立つだろう資格をいくつか取ったが実践となると緊張する。
「よし……!」
会社のエントランスを前に、小さく気合いを入れる。
今日から、ここが自分の職場になる。
受付を済ませ、案内された会場へ向かう。
すでに大勢の新入社員が集まっていた。
同じような色のスーツ。
同じように少し緊張した顔。
その中に自分も混ざる。
「おはようございます」
「おはようございます!」
隣の席になった女性と挨拶を交わして、指定された椅子へ腰を下ろした。
学生時代なら、ここから友人を作ることを考えただろう。
けれど、今日からは違う。
ここにいるのは同期であり、同僚だ。
入社式が始まる。
社長の挨拶。
役員紹介。
辞令交付。
大学の入学式とはまったく違う空気に、自然と背筋が伸びた。
「朝比奈結花さん」
「はい!」
呼ばれた名前に立ち上がる。
ほんの数日前まで、一条結花だった。
婚姻届を提出して、今日から会社でもこの名前を使う。
――朝比奈結花。
まだ呼ばれるたびに、少しくすぐったい。
けれど。
「よろしくお願いいたします」
頭を下げる。
今は、朝比奈玲の妻としてここにいるわけではない。
一条家の娘としてでもない。
ましてや、舞台の上で『ゆいか』と呼ばれていた自分でもない。
新入社員、朝比奈結花。
ここからは、自分の力で覚えていく。
失敗もするだろう。
怒られることだって、きっとある。
それでも。
社会人としての朝比奈結花の一日目が、始まった。
それから数日は、教育係の後をついて回った。
挨拶。
ここでも挨拶。
そこでも挨拶。
覚えることは山ほどある。
その後はグループ全体の新入社員が集められ、数週間にわたる合同研修に入った。
場所は訓練センター。
期間中は全員、施設に泊まり込みだ。
朝から晩まで講義と実習。
課題を提出したと思えば、次の課題が待っている。
日々は目まぐるしく過ぎていった。
結花は、今日が何日なのかさえ分からなくなっていた。
「結花、誕生日おめでとう」
それは消灯前、わずかな自由時間に電話をかけた相手――玲からの最初の一言だった。
「え? 嘘?」
「今日、誕生日だろ? 四月十八日」
「うん、そうだけど……今日?」
「今日だよ。忘れてた?」
「うん。忙しくて全然意識してなかった……」
「だと思った」
玲が電話口で笑う。
「学生の頃は誕生日ってすごく意識してたけど、社会人だとこんなに日々の感覚が違うんだ……。去年はさ、玲さんから連絡なかったから……もう駄目だとさえ思ったのにね」
「あの時はごめんって。今年は忘れてなかったでしょ?」
「うん……。嬉しい。ありがとう!」
「ちゃんとしたお祝いは研修が終わってからしよう。ところで、そっちはどうだ?」
「グループ全体だから、ついて行くのに必死! やっぱり本社採用の人たちってすごいね……」
「そっか」
「あっ、でもね! 奈緒がいたの! グループ合同だから」
「奈緒ちゃん?」
「うん! 東央エンタープライズ。知らない人ばっかりだったから、ちょっとだけホッとした」
同じ新卒なのに、本社採用の人たちは次々と課題をこなしていく。
その背中を必死に追いかけながら、なんとか置いていかれないように食らいついている。
自分はギリギリ底辺を彷徨っている気がして、結花は小さくため息を吐いた。
「そっか……。頑張ってるんだな」
「なんとかね。早く帰って玲さんに会いたいよ」
「……それは俺もだよ」
「あっ! 時間だ! ごめんね。ありがとう! またね」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい!」
通話が切れた。
結花は急いでベッドへ戻る。
一方。
玲はしばらく、通話の終わったスマートフォンを見つめていた。
三月三十日に婚姻届を出した。
結婚した。
ようやく結花と夫婦になった。
そして、ほとんど一緒に暮らす暇もないまま、妻は泊まり込みの新人研修へ行った。
「……早く帰ってこないかな」
誰もいない部屋で呟く。
新婚生活は、まだ始まったばかりだった。
※※※
「それでは、この研修最後に、グループ本社統括本部、鷹司本部長より訓示があります」
その名前を聞いた瞬間、結花は顔を上げた。
――鷹司氏?
研修最終日に本社から役職者が来ることは聞いていた。
しかし、誰が来るのかまでは知らなかった。
会場前方へ視線を向ける。
壇上の袖から現れたのは、見慣れた男だった。
鷹司景。
「うわ、鷹司本部長だ」
「初めて見た」
「若くない?」
周囲が小さくざわめく。
「……結花」
隣から奈緒に小さく呼ばれる。
「なに?」
「あの人、前に何度か見た人だよね?」
「うん。鷹司氏」
「やっぱり。本社の統括本部長だったんだ」
「うん。箱根で働いてた頃に名刺貰ってるから、役職は知ってたよ」
「箱根で?」
「うん。何度か会ってる」
「へえ……」
奈緒も覚えていたらしい。
ナイトプールにもいた。
卒業ライブの楽屋にも来ていた。
けれど、奈緒が鷹司氏と個人的に話したことはほとんどない。
奈緒は改めて、壇上へ向かう鷹司氏を見る。
「なんか、こういうところで見ると全然違うね」
「……うん」
それは結花も思った。
箱根で初めて会った時、自分はまだ『さゆり』だった。
鷹司氏は人を探していて、何度か結花のところへやって来た。
その時にもらった名刺に書かれていたのが、今、司会者から紹介された肩書きだった。
あの頃は、まさか自分がこの人と親族になるとは思ってもいなかった。
ましてや、自分が東央グループの一員になり、新入社員として鷹司氏の訓示を聞く日が来るなんて。
人生って、本当に分からない。
大勢の新入社員が見守る中、鷹司氏は慣れた様子で壇上の中央へ進んでいく。
その姿を追って――。
結花は、壇上脇に並ぶ本社側の席を見た。
「――ッ!?」
思わず二度見した。
知っている横顔がある。
見間違えるはずがない。
玲だった。
――なんで!?
聞いていない。
昨日だって電話で話した。
研修がもうすぐ終わることも話した。
なのに、一言も聞いていない。
結花が凝視していると、奈緒も気づいた。
「……結花」
「なに?」
「あそこ」
「うん」
「朝比奈さん、いるよね?」
「……いるね」
「知ってた?」
「知らない」
「聞いてないの?」
「聞いてない!」
思わず声が大きくなりそうになって、慌てて口を閉じる。
前に座る研修生が振り返った。
結花と奈緒は揃って姿勢を正す。
「ごめん」
「私じゃないでしょ」
奈緒が小さく笑った。
結花はもう一度、前を見る。
玲はこちらを見ていない。
仕事用の眼鏡をかけ、真っ直ぐ壇上を見ている。
いつもの玲とは違う。
家で見る玲でもない。
電話越しに「早く帰ってきて」と言う玲でもない。
仕事をしている朝比奈玲だった。
知っている人なのに、知らない人のように見える。
「皆さん、研修お疲れさまでした」
鷹司氏の声が響く。
会場が静まり返った。
結花も姿勢を正し、壇上を見る。
今ここにいる自分は、一条家の娘ではない。
玲の妻でもない。
東央ロジスティックの新入社員、朝比奈結花だ。
隣にいる奈緒も、大学時代の友人であると同時に、今は東央エンタープライズの新入社員。
そして壇上にいるのは、親族として知る鷹司氏ではない。
グループ本社統括本部長、鷹司景。
その向こうにいる玲も、自分の夫としてここにいるのではない。
初めてだった。
東央グループに入った側から、この二人を見るのは。
結花は自然と背筋を伸ばした。




