朝比奈結花
三月三十日、前日までの雪は止んだ。
空は蒼く澄みわたり、雲一つない。
テーブルの上には、一枚の婚姻届。
キャラクターの描かれた限定の婚姻届の証人欄には、結花の実父の名前があった。
二人は今日、これを区役所へ提出に行く。
結婚式はまだ先だ。
朝比奈家と一条家が準備を進めている式も、披露宴も、今日は関係ない。
役所へ行って。
紙を一枚出す。
「玲さん、緊張してる?」
「してない」
「ふふっ」
「結花は?」
「私は……」
結花は少し考えてから、テーブルの上に置いていたスマートフォンを鞄へ入れた。
「ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「……かなり」
「……じつは、俺もだよ」
笑いながら玄関へ向かう。
靴を履き、コートを羽織る。
外へ出ると、雪の残る桜が風に揺れていた。
「綺麗……」
結花が立ち止まる。
玲もその隣で桜を見上げた。
白と、薄紅色。
冬が終わって、春が来る。
「ねえ、写真撮ろうよ! 婚姻届も一緒に!」
結花が笑った。
顔を寄せ合い、景色と婚姻届を画面に収める。
「いいね。記念に残った」
一つの画像を二人で確認する。
「では、行こう」
「はい」
玲は結花の手をしっかりと繋ぐ。
いつもの道を二人で歩く。
何度も歩いた道なのに、今日は少しだけ違って見えた。
区役所に着けば番号札を取って、順番を待って、呼ばれた窓口へ婚姻届を出す。
きっと、それだけだ。
何か劇的なことが起きるわけではない。
けれど今日から。
朝比奈玲と一条結花は、夫婦になる。
「案内番号122番の方」
「はい」
二人は立ち上がり、呼ばれたカウンターへ向かう。
「はい、不備ございませんので、本日付で受理となります。おめでとうございます」
恐ろしく事務的な一言で、二人は既婚者になった。
「私、今日から朝比奈、結花か……。この一年で随分名前が変わった気がする」
「そうだね。でも、もう二度と変わらない」
「えぇー?わかんないよ?未来は?」
「変わらない。それだけは自信を持って言うよ」
「なんで?」
「俺が結花の手を離す訳ない。もし、喧嘩しても絶対追いかけるし?」
「ええ?束縛系の旦那さま?!結婚早まったかなぁ?」
結花は苦笑する。
「今更?俺は割と執念深いよ?」
「知ってる!!」
二人で笑いながら区役所を出る。
外は変わらず、雲一つない青空だった。
「玲さん」
「ん?」
「朝比奈結花って、どう?」
「いいと思う」
「……それだけ?」
「可愛い」
「名前に可愛いとかある?」
「長谷川結花も、一条結花も、さゆりもみんな可愛かったよ……」
玲は繋いだ手を一度離した。
そして、今度は指を絡める。
「でも、朝比奈、結花が一番可愛い」
「ええ?」
呆れながらも、頬が緩む。
「帰ろうか」
「はい」
「……結花」
「なに?」
「今日からよろしく」
一瞬、結花が目を丸くした。
それから、満開の桜みたいに笑った。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。旦那さま」
「――それ、いいな」
「え?」
「もう一回言って」
「嫌です!」
「なんで?」
「玲さん、絶対調子に乗るから!」
「お願い、もう一回だけ!」
「嫌!」
雪の残る桜並木を、二人で歩く。
昨日までとは何も変わらない。
繋いだ手も。
隣を歩く人も。
帰る場所も。
ただひとつ。
今日から二人は、夫婦になった。
役所でもらった書類を使い、名義変更が必要なところには一通り届けを出した。
銀行口座。
クレジットカード。
携帯電話。
保険。
その他、思いつく限りのもの。
「……結婚って、大変」
結花はテーブルに突っ伏した。
「婚姻届は一枚だったのにね……」
「その後が多いの! 私、この前やったばっかりなのに!」
「ああ……」
「長谷川から一条になった時に全部変えたんだよ? それを今度は朝比奈にするの!」
「お疲れさま」
「玲さんはいいよね! 何にも変わらなくて!」
「俺?」
「朝比奈玲のままじゃん!」
「そうだね」
「ずるい!」
理不尽な抗議に玲は笑った。
「じゃあ、俺も何か変えようか?」
「何を?」
「……分からない」
「ほら!」
結花は再びテーブルへ突っ伏した。
「もう名字変えないからね」
「うん」
「絶対だからね?」
「それは俺も困る」
「玲さんが言うと重いんだよなぁ……」
「今更でしょ?」
「そうでした」
顔を上げた結花と目が合う。
二人同時に笑った。
テーブルの上には、手続きの終わった書類と、まだ確認しなければならない書類。
その一枚に印字された名前を、玲は見つめた。
――朝比奈結花。
「……いいね」
「何が?」
「いや、名前」
「また?」
「何回見てもいい」
「そのうち慣れるよ」
「そうかな?」
「毎日見るんだから、慣れます!」
毎日。
その言葉に玲は小さく笑った。
「そっか。毎日か」
「……なんで嬉しそうなの?」
「嬉しいから」
「変なの」
呆れたように言いながら、結花も笑っていた。




