059件目 相棒の無自覚と星渡人の苦しさ
以前レオンハルトさんからもらった、『廷臣法官の心得』。前世で言う辞書くらいの厚さがある。これを読んでいくのは大変だけど、レオンハルトさんの人生を守るためだ。
そう決意して開いてみたけど、すぐに閉じる。そうだった。渡された時も読もうと思ったけど、開いた時の真っ黒さ加減に意欲を削がれたんだよね。
でも、今日はそんな事言ってられない。
グッと拳を握って気合いを入れ直し、再び捲る。書かれている文字は印刷かと思うほど丁寧な文字で、レオンハルトさんの真面目な性格が伺えた。こんな所でも彼の事を考えるなんて、と思わず頬が緩んでしまう。
そのまましばらく勉強をしていたけど、夜間警護を担当してくれるグラディア姉弟が部屋にやってきた。
「アンネ様。夕食を取っていないと伺いました。体調が優れませんか」
「えっ……もう、そんな時間?」
スーザンに指摘され空腹を自覚した瞬間、わたしのお腹が盛大に音を立てた。恥ずかしくなってお腹に手を当ててスーザンを見たけど、微笑ましそうな顔をしている。
「いかがしましょう? ガッツリ系もあっさり系も用意できると思いますが、アンネ様のお腹具合はどんな感じでしょうか」
「あ、あっさり系をお願い」
「かしこまりました。ではそのように伝えておきます。運ばれるまで、少々お待ちください」
スーザンは部屋の外で待機していた警護担当の兵士に伝え、すぐに戻ってきた。そしてわたしが読んでいた『廷臣法官の心得』を見ると、ギュッと眉が寄る。
「スーザンも読んでみる? 廷臣法官に必要な情報だけど、近衛も覚えておいたら便利かもしれないし」
「い、いえ……私は、そんな難しい本を読めません」
「難しいというか、箇条書きみたいな感じだよ」
「カジョウガキ……それは、どのようなものでしょうか」
「えーとね、事柄をいくつかに分けて書き並べる事なんだけど……」
例えばねと今開いていたページを指差しながら、具体的に伝えていく。
「今、このページでは『怒り』について触れられているの。人がどんな時に怒り、どんな仕草をするのかというのが種類ごとに書かれていて……最初の方は『喜び』について書かれている。そんな感じで、喜怒哀楽に別れているんだ。箇条書きは、それぞれの項目の中でさらに細かく解説する時に使われているの」
「な、なるほど……それを理解できるアンネ様はすごいですね」
スーザンは口元に手を当て、本を覗き見ている。この仕草は、驚きと関心を示す動作だったはず。
「書き方の癖がわかれば、読んでいけるよ」
「さすがです、アンネ様。私はこう……文字ばかりだとどうしても苦手意識が強くなってしまいます。絵で解説してもらえると、理解できると思うのですが……」
「それだ!」
「え?」
わたしも最初は苦手だった。確か前に、コナー先輩も言っていたよね。分厚い本を読んでいるのはレオンハルトさんと副長官のケビンさんくらいだって。
それはつまり、先輩も読んでないって事。たぶん、他の同僚も。
読んだらわかる。『廷臣法官の心得』がいかに重要な事を書いているかって。読むまでのハードルが高いなら、低くすれば良い。
「ねぇ、スーザン。レオンハルトさんって、まだ天秤宮にいるかな」
「はい。今の時間ならばまだ戻られていないと思います」
「それじゃぁ、ちょっとレオンハルトさんの所に行ってくるね」
意気揚々と寝室を出る。すると今日は早めに終えたのか、ちょうどレオンハルトさんが部屋に戻ってくる途中だったみたい。廊下で遭遇した。
「レオンハルトさん!」
「アンネ殿?」
レオンハルトさんを見つけた喜びで、声も足取りも弾む。でも、そんなわたしを見てレオンハルトさんが、一歩下がった気がする。少し顔を引きつらせたような……? わたし、何かしちゃった?
不意に見せられた仕草にさっきまでの勢いが削がれ、首元に手を置いた。でもすぐに、こういう仕草がレオンハルトさんに読まれてしまうと思い直して手を下げる。
「アンネ殿? どうかしたのか」
「あ……えっと、一つ伺いたくて」
「何でも聞いてくれ」
「あの、前にいただいた『廷臣法官の心得』なんですけど、あれを読みやすくするために絵をつけても良いですか」
「絵を?」
「ダメ、でしょうか」
「いや、何も問題ない。私にはない考えだ」
まだまだ勉強不足だ。首を傾げられた時、レオンハルトさんの目が見開かれた。あれは純粋に疑問とか驚きだと思うけど、まだそうだと自信を持って言えない。
不安になって聞いてしまったけど、レオンハルトさんは想像した感情の通りに答えをくれた。
「良かった。作者の許可を得ないと改変できないですから」
「あれがアンネ殿の力になれるのなら、私も嬉しい」
「(あっ……)」
ほんの少しだけ、レオンハルトさんの目元が軟らかくなった。本当にそう思ってくれているみたい。
思わぬタイミングで目撃した、『喜び』の感情。その表情がわかるようになって、わたしの胸も跳ねる。
……いや、勘違いしちゃダメだ。あの表情はあくまでも、『廷臣法官の心得』を読んでいるからって事なんだ。
自分を戒めて寝室に戻ろうとすると、わたしを追いかけていた優しい眼差しのスーザンと目が合う。それは、勉強をしていなくてもわかる。もの凄く、見守られているって。
で、でも、ここで強く否定しても意味はない。たぶんスーザンの中で考えは固まっていると思う。表情の事を指摘しなければ、スーザンも突っ込んで聞いたり言ったりしないよね?
寝室に戻りつつ、紙とペンを用意してもらうように頼む。中へ入ると、あっさり系の夕食が用意されていた。
スープとかサラダとかを食べて、その後は『廷臣法官の心得』にイラストをつけていく。でも悲しいかな、わたしには絵心がなかった。
「うーん……」
「アンネ様! ご安心ください! ここに、絵を描く事が趣味の愚弟がいます!」
ビシッと手を向けられ目を丸くしているソイルさんが、何度か瞬きをしてから近づいてきた。
「ソイルさん! この表情を絵にできますか!」
「えーと、これは……」
喜びの章の、一つ目を指差す。でもソイルさんは首を傾げたまま。もしかしたら姉弟だし、ソイルさんも文字ばかりなのはわかりづらいのかもしれない。
わたしは改めて、『レオンハルトさんと会えた時』を思い出して表情を作る。そして自分の顔を指差しながら伝えた。
「これです。こんな表情をお願いします」
「わ、わかりました」
目を細め、目の前にレオンハルトさんがいると考えて微笑む。そんなわたしの表情を見たソイルさんが何回も呆けたように手を止めていたけど、そのたびにスーザンに肩を突かれていた。
「こ、こんな感じでどうでしょうか」
「お、おぉ……」
こんな表情で、とお願いした。だけどわたしの顔のまま『嬉しいもしくは喜び』の表情を描かれると、何だかこそばゆい。
「あ、あの、同じ表情で全く違う別の誰かで描いてもらう事はできませんか」
「別の誰か、ですか? それは、誰にしましょうか。模写はできるのですが、見た事がない人を想像して描くのはできません」
「んー……」
絵のモデルをやれと頼むようなものだよね。神々との契約もあるし、わたしが頼んだら断れない。いや、あれは王族にだけ課せられたものだっけ? どちらにしても、頼みづらいよね。
……それなら、恥ずかしいけどわたしがモデルを務める、か??
「……ごめんなさい。まだ決心がつかないので、ちょっと保留にさせてください」
「わかりました。協力しますので、いつでもどうぞ」
今日は解散とし、わたしは寝る事にした。
翌日。
仕事はわたしがやりたいタイミングで良いと言われていたから、出勤していた。終業時間になった時、帰っていく先輩を発見。
イラストについて聞いてみようと思って、駆け寄って外に出た。
「先輩!」
「アンネちゃん。どうしたの」
「今、お時間大丈夫ですか」
「問題ないよ」
さっそく聞いてみようと思った時、勉強したばかりの仕草を発見してしまった。
足先はわたしに向き、目元まで優しく微笑む。話を聞くという意欲がわかるように、少し前のめりになっていた。
「先輩の意見を伺いたいんですけど……」
「ん?」
先輩が、足をクロスして手を組んでいる。わたしと話す事を心地良いと思ってくれているみたい。
わたしを真っ直ぐに見つめ、そらさない。
「え、えっと……『廷臣法官の心得』って、あるじゃないですか。あれに描かれた内容が絵でわかるようになっていたら、読みますか」
「絵か! 良いね。絵で解説してくれたら読みやすくなると思う」
ニコニコと微笑み、先輩がわたしから目をそらさない。その目の奥に、熱を感じるような……?
『廷臣法官の心得』は、あくまでも犯罪者の心理を解説しているもの。日常生活で、恐らく好感を持ってくれている相手に対しては解説されていない。それはたぶん、犯罪者から求愛されるようなケースが少ないからだと思う。
「アンネちゃん? どうかした?」
「い、いえ……」
向けられているのは、先輩の優しさか愛情か。それをわざわざ指摘するのも違う気がするし、もし勘違いだったら恥ずかしすぎる。
仲良しだ、とは思う。でもそれ以上の事は考えた事がなかった。
見た仕草で勝手に悩んでいると、先輩がクロスしていた足を戻す。誰か不快な人でも来たのかと思って目を向けると、レオンハルトさんがこちらへ向かっていた。
あれ? 先輩はレオンハルトさんと仲悪くなかったよね??
「コナー。そこで何をしている」
「何って、アンネちゃんと話してたんですよー。長こそ、どうしてこちらに?」
「私は、アンネ殿を心配しているだけだ」
「心配? いくらおれでも、急に襲うなんてしませんよ?」
右の口角を上げ、挑発するような微笑みを向ける先輩。
それに対するレオンハルトさんは……よくわからないな。仕草から感情を読み取れない。
「誰もそんな心配はしていない。今黒幕が逃げているとはいえ、アンネ殿は命を狙われている状態だ。アンネ殿が無防備であれば、そこを突かれる。そんな事もわからないのか」
「だったら、長は同僚のおれとも話をするなって言うんですか。束縛しすぎると、嫌われますよ?」
レオンハルトさんが、首元に手を当てて咳払いをした。
「私は、アンネ殿の安全性を言っている。そこに好悪の感情はいらない」
「はーい、わかりました。おれはとっとと帰りますよ」
最後はおざなりに言って、先輩は帰ってしまった。
先輩を見送らずわたしを見ていたレオンハルトさんは、目が合うとすぐにそらしてしまう。
「アンネ殿も。まだ安全が確保されていない事を理解しておくように」
「はい……」
「すぐに護衛がやってくる。それまでは天秤宮で待機だ」
「……わかりました」
一瞬、先輩からの言葉で不快になったのかなって思った。嫌われたくない不安が、表に出たのかなって。
でも、レオンハルトさんはいつも通り。それどころか、ちょっと厳しい。わたしと先輩が一緒にいたから駆けつけたわけじゃなくて、わたしが命を狙われている状態だから近寄った。同じ『心配』だと思うけど、わたしにとっては天と地ほどの差がある。
わたしはレオンハルトさんを追いかけながら、道端の小石を蹴った。




