第9章 0時の向こう
10月6日の午後、貴島昌人の机へ1件の通報が届いた。
金融当局の検査担当者として、東栄銀行への検査準備を進めていた。47歳の貴島は、最初の電話で、調査の結論は約束できないと言った。
「資料を受け取ったことと、あなた方の見立てを採用することは別です」
乾は、わかっています、と答えた。
乾は権限が停止される前に取得した資料と、その取得履歴を分けて提出した。荻野の控え、多賀谷の綴りの写し、沢渡のノート、工場の写真。最初の2枚に未確認事項も列挙した。抜けている日付に丸をつけ、知っているふりをしない形に整えた。
貴島は、なぜ廃棄予定を知ったのかと聞いた。乾は照会番号を答えた。
なぜ銀行内部で止められないのか。申請権限が監査部に集中し、その監査部自体が疑義の対象だからだと説明した。
「廃棄を止める必要と、不正の主犯が誰かは、別に判断してください」
乾は言った。
「後者が決まるまで前者を待ったら、確認する材料がなくなります」
貴島はしばらく黙った。
「担当部署と調整します」
電話は切れた。
乾は机の上に携帯を置いた。返事を待つ以外にも、やることがあった。提出した資料の目録を、もう1度照合した。
10月7日、東栄銀行の不正融資疑惑が大きく報じられた。
支店の前に、開店前から人が並んだ。多賀谷は入口に立ち、窓口の人数を増やした。大丈夫です、と繰り返す代わりに、手続きの順番と、その日の取扱いを説明した。
高齢の客が通帳を差し出した。
「ここへ預けたのは、あんたがいるからだよ」
多賀谷は通帳を受け取った。
その言葉を、以前なら誇りに思った。いまは、自分への信頼を理由に金を残してもらうことが、恐ろしかった。
「ご判断に必要な説明をします。お急ぎの支払いがあるかも、先に教えてください」
客は少し驚いた顔をした。
多賀谷は窓口へ案内した。守るとは、相手の選択を狭めることではない。30年かけて覚えたやり方を、1つずつ捨てていた。
佐野は異動先へ出勤したあと、休暇を取った。
多賀谷と荻野は、支店の業務を引き継いでから大阪へ向かった。3人が現地へ行っても、廃棄を止める権限はない。だが、委託先へ説明する人間と、資料を持っている人間が必要だった。
新幹線の中で、荻野は母の施設へ電話した。夜の連絡は携帯へ、と伝えた。
「帰らなくていいのか」
多賀谷が聞いた。
「今日は、兄が行きます。頼みました」
「そうか」
荻野は携帯をしまった。
頼める人がいることを、頼んで初めて知った。仕事でも、家でも、1人で抱えることを真面目さと取り違えていた。
佐野は膝の上で資料を読み返していた。列車がトンネルへ入ると、窓に3人が映った。誰も英雄のようには見えなかった。疲れた会社員が、仕事の続きをしていた。
馬淵は事情聴取を終え、弁護士と外へ出た。
逮捕されたわけではなかった。だが、自由に歩けることと、疑いが晴れたことは違う。携帯には知らない番号の着信が並んでいた。
佐野から短い連絡が来た。大阪へ着いた。委託先の窓口と話している。
馬淵は、頼む、と打ちかけた。
その2文字に、自分ができないことを全部載せそうになった。
必要な追加説明があれば電話に出る、と送った。
自分が中心にいなくても、仕事は進む。そのことを、悔しいと思わずに受け入れるまで、少し時間がかかった。
大阪の駅で、佐野は1度だけ道を間違えた。
改札を出たところで、地図の上下と自分の向いている方向が合わなくなった。多賀谷が案内板を見上げ、荻野は3人分の切符を財布へしまった。誰も急げとは言わなかった。そのことが、かえって佐野を焦らせた。
「反対です。こっちじゃありません」
自分で言い、来た方へ戻った。電話で聞いた建物の名を、もう1度地図へ入れた。
委託先との面会は、データセンターではなく、市内の連絡事務所で始まった。会議室へ通されたとき、午後5時を少し回っていた。相手は営業担当と契約管理の担当者の2人だった。持参した資料の表紙を見て、銀行の職印がないことを指摘した。
「支店長名の照会は出しています」
多賀谷が控えを示した。
「廃棄の取消しを命じる権限が、支店長にないことは承知しています。ただ、記録の内容に争いがあると知った事実を、御社の責任者へ届けたい」
営業担当は、顧客との契約に従っている、と答えた。
佐野は鞄から旧媒体廃棄予定の通知を出した。対象期間の部分だけを開き、机の中央へ置いた。
「この通知に書かれている媒体と、銀行から説明された移行先の記録は、同じものですか」
「移行は完了しています」
「媒体の移行ですか。記録項目の照合ですか」
契約管理の担当者が、営業担当を見た。佐野は返事を待った。
「技術的な詳細は、現場へ確認しなければ」
「では、確認をお願いします。私たちは、移行が失敗したと申し上げているのではありません。同じだと判断した範囲を知りたいんです」
担当者は席を外した。会議室の時計の針は、支店のものより細かった。秒針がなく、時間が止まっているように見えた。
荻野が水の入った紙コップを佐野の前へ寄せた。佐野は礼を言い、飲まずに置いた。
戻ってきた担当者は、廃棄対象の一覧を見せることはできないと言った。
「他のお客様の情報も含まれます」
「全部は求めていません」
荻野が初めて口を開いた。
「対象の識別番号を、こちらの通知と照合できませんか。見せられない項目を隠した状態でも」
佐野は荻野を見た。彼は自分の控えを保全されたときの手続きを、思い出しているようだった。
担当者は、通知の発行元へ確認すると答えた。銀行へ電話をかけるのだとわかり、佐野の背中が固くなった。そこへ戻れば、また監査部が窓口になる。
「どちらへ確認されますか」
「銀行の契約上の責任部署です」
「その部署が、今回の照会を止めている可能性があります。こちらからお渡しした情報の共有先を、記録してください」
営業担当の表情が変わった。
「銀行内部の問題を、当社へ持ち込まれても困ります」
多賀谷が、はい、と答えた。
「困ると思います。私たちも、御社に銀行内部の犯人を決めてほしいのではありません。いま捨てれば、銀行内部で何があったかを調べられなくなる。その危険を、お伝えしています」
営業担当は、今日の廃棄だけを止めれば済むのかと聞いた。
佐野は、済む、と言いかけた。止めてくれるなら、その言葉にうなずきたかった。
「保全の範囲と期間は、正式な責任部署で決める必要があります。私たちだけでは決められません」
「それでは、こちらも判断できません」
会議室の空気が重くなった。佐野は膝の上で手を握った。正確に答えるほど、相手が動く理由を減らしている気がした。
多賀谷が照会書を自分の方へ引いた。
「私の連絡先を、夜間の現場責任者へ渡してください。銀行から正式な連絡が入ったとき、現場で最初から説明を繰り返さずに済むようにしたい」
担当者は、その取次ぎならできると言った。
午後7時前、3人は事務所を出た。
止まったものは、まだ何もなかった。だが、現場の窓口と、夜間の連絡経路は確認できた。佐野は歩きながら乾へ報告した。乾は、こちらも別の経路を当たっている、とだけ答えた。
「私たちが行っても、同じ説明になるかもしれません」
「なるかもしれない。でも、正式な指示が出たあと、対象が違ったでは困る。現地で確かめる人がいるのは、助かる」
佐野は電話を切った。自分たちが最後の扉を開けるのではない。扉を開ける人間が、違う部屋へ行かないようにする。それも仕事だった。
タクシーの運転手へ住所を伝えると、かなり先だと言われた。佐野はうなずいた。窓の外で、知らない店の灯りが続いた。夕食を食べる人々が見えた。自分たちが急いでいるからといって、町の時間が速くなるわけではなかった。
荻野は後部座席で、資料の角を揃えていた。
「現地へ着いたら、最初に何を出しますか」
「通知と、照会書。次に、いまの面談の記録」
佐野は答えた。
「私が話を広げすぎたら、止めてください」
荻野は少し驚き、それからうなずいた。
多賀谷は前の座席で、支店へ電話していた。明日の窓口の人数と、引継ぎの確認だった。ここへ来たために、支店の誰かが困っている。そのことを忘れない声で、1つずつ尋ねていた。
データセンターの受付は、白い光で満ちていた。
佐野たちは入館できなかった。窓口の担当者は、正式な取消しがない以上、予定を変えられないと言った。
「取消しではなく、保全の要請です」
佐野は説明した。
「申請権限そのものに疑義があります。移行先に同一の記録があるかも未確認です」
担当者は資料を受け取り、上へ連絡した。
23時を過ぎた。乾からは、当局へ追加資料を送ったと連絡が来た。貴島からの返事はなかった。
荻野は時計を見た。
「ここに来なかったら、もっと早く別のことができたんでしょうか」
多賀谷は椅子に座ったまま答えた。
「いま、その計算をしても、時計は戻らん。次に何を伝えるか考えろ」
佐野は、保全要請の受付時刻と、回答者の名を確認した。怒鳴れば早くなると思いたかった。だが、怒鳴られた人間が自分の責任を避けようとすれば、手続きはもっと固くなる。
23時41分、委託先の責任者が来た。
「銀行の権限者からは、予定どおり実施するよう再確認が来ています」
「その再確認も、残してください」
佐野は言った。
声が震えた。震えても、言うべきことは言えた。
23時53分、受付の電話が鳴った。
責任者が受話器を取り、立ち上がった。別室へ入った。佐野たちは待った。
荻野は、母からもらった古い腕時計を見た。秒針が少しずれていた。壁の時計とどちらが正しいのか、急に気になった。
23時58分、責任者が戻った。
「廃棄工程を停止します」
佐野は聞き返した。
「対象の媒体は」
「未処理です。保全対象として隔離します。作業記録も残します」
多賀谷は背もたれから身体を起こした。
責任者は続けた。
「当局から銀行へ資料保全の要請があり、銀行の別の責任部署を通じて、正式な停止指示が入りました」
貴島は、扉を蹴って現れなかった。見えないところで、権限と責任をつなぎ直していた。
佐野は椅子に座った。泣くより先に、喉が渇いた。
荻野が自動販売機で水を3本買ってきた。
0時、3人は白い受付で、水を飲んだ。
失われなかったものは、まだ何も語っていなかった。だが、確かめるための明日が残った。
廃棄停止の連絡を受けたとき、馬淵はアパートの台所にいた。
佐野は、止まった、とだけ言った。馬淵は椅子に座った。何かを言おうとしたが、声が出なかった。
「対象の媒体は、未処理です。作業記録も、残すそうです」
「わかった」
それだけ答えるのに、時間がかかった。
電話を切ってから、湯を沸かした。誰かと乾杯したいとは思わなかった。勝ったわけではない。残ったものを、これから読む。その結果、自分たちの見立てが間違っている可能性もある。
それでも、湯気を見ているうちに、涙が出た。
泣く理由を、1つにできなかった。自分の名を取り戻せるかもしれない。柏原製作所の機械が動くかもしれない。有働を疑ったことが間違いではないかもしれない。間違いであってほしい気持ちも、まだあった。
馬淵は顔を拭き、佐野へ返信した。3人とも、帰る前に休んでほしい。領収書は残しておいてほしい。調査のために必要な費用として、正式に説明できるようにする。
送ってから、管理職らしいことを言ったと思った。だが、誰かの善意の出費を、あとで美談にして消したくなかった。
大阪のホテルで、佐野は靴を脱いだ。
足の甲に跡がついていた。多賀谷は別の部屋へ行き、荻野は母の施設へ電話していた。ロビーで飲んだ水の冷たさが、まだ身体に残っていた。
ベッドに横になると、携帯が鳴った。母からだった。
「こんな時間に、ごめん。まだ仕事」
「終わったところ」
「ちゃんと食べた」
佐野は夕食を思い出した。新幹線の中で、小さなパンを食べた。あとは水だけだった。
「これから、食べる」
「無理しないでね」
佐野は、うん、と答えた。
無理をしていることを説明するには、事件を説明しなければならない。説明できない仕事のために、家族には大丈夫としか言えない。その言葉で、家族の心配を遠ざけてきた。
「少し、疲れた」
佐野は言った。
母は、そう、と答えた。何があったのかと、すぐには聞かなかった。
「じゃあ、食べて、寝なさい。話したくなったら、聞くから」
電話を切り、佐野はコンビニへ行った。温かい汁と、おにぎりを買った。部屋で食べると、急に眠くなった。
明日の仕事のことを考える前に、灯りを消した。
貴島は、停止の確認を受けても、机を離れなかった。
保全されたことを確認し、今後の取扱いと責任者を記録した。止めたという口頭の連絡だけでは、別の工程で処理される可能性が残る。対象の識別番号と、隔離した場所、誰が立ち会ったか。1つずつ確認した。
同僚が、これで不正が出なかったらどうする、と言った。
「出なかったことを、確認する」
貴島は答えた。
「記録を残す判断は、犯人を決める判断ではない」
同僚はうなずき、別の資料を持ってきた。
通報者は切迫していた。切迫しているから正しいとは限らない。だが、切迫していることを理由に、感情的な訴えとして片づけるのも違う。
貴島は最初の2枚を読み返した。何がわかり、何がわからないか。乾が分けたその紙が、判断を早くした。
大きな声より、分けられた問いが役に立つことがある。そのことを、貴島は翌日の打合せで伝えようと思った。
10月8日の朝、乾は出勤する代わりに、指定された会議室へ向かった。
入口のプレートには銀行の名がなかった。会議室には外部の技術者と保全担当の弁護士が先にいた。乾が鞄を置く前に、技術者は言った。「まず、してはいけない作業を確認しましょう」
「記録を読むことが目的です」
乾は答えた。
「読むために、元の状態を変えないことが先です」
技術者は白紙に順序を書いた。媒体を誰が受け取り、どこで複製し、どの複製を作業用とするか。乾はペン先を追いながら、昨夜の0時に消えずに済んだものが、今日の不用意な操作で失われる可能性もあると知った。
停止したという連絡だけで、助かったと思った。だが、記録は、残っているだけでは足りない。あとで誰かが、都合よく書き換えたのではないかと言ったときに、どう答えるかまで考えなければならなかった。
「こちらから渡した資料も、同じ扱いになりますか」
「来歴が違います。委託先から出るものと、銀行の方が取得したものを、最初から混ぜないでください」
乾は自分の目録を開いた。1つの事件だからと、資料の番号を通しで振っていた。技術者は、それを否定せず、受領経路を別の列へ足した。
「番号は、そのままで構いません。何と何を比べたかが、戻せればいい」
乾はペンを取った。昨夜まで自分が教えていたことを、今日は教わっていた。
大阪では、多賀谷がホテルのロビーで電話を受けた。
媒体を外へ出す前に、委託先の内部手続きが要るという。佐野は朝食の途中だった。パンを皿へ戻し、電話を代わってもらった。
「保全対象は、隔離されたままですね」
「はい。ただ、当初の指示では、移行前の記録全体という表現でした。対象の特定を、もう少し」
佐野は通知を出した。廃棄対象の期間と、保存単位の番号。昨夜、荻野が確認していた箇所だった。
「こちらで持っている通知には、ここまで書かれています。それ以上は、私たちの推測で足せません」
「この範囲で、間違いないと署名していただけますか」
佐野は返事を止めた。
署名すれば作業は先へ進む。だが、佐野たちは保管庫の中を見ていない。現物の範囲を証明できないまま「間違いない」と書けば、今夜守った記録を、明日の証拠にはできなくなる。
「通知の写しと一致することなら、確認できます。現物の範囲については、保管責任者と正式な受領者で確認してください」
電話の向こうで、担当者が紙をめくった。
「では、そのように書き分けます」
通話を終えると、荻野が皿を見ていた。
「冷めましたね」
「そうですね」
佐野はパンを一口食べた。冷めた食事を、よく働いた勲章にするつもりはなかった。温かい飲み物を頼み直し、席を立たずに食べ終えた。
最初の作業用データが準備されたとき、乾は馬淵へ連絡した。
本人が自由に閲覧できるわけではない。疑義のある日時と、確かめたい項目を、外部の担当者へ提出してほしいという依頼だった。
馬淵は自分の名のある案件を、先頭へ書いた。柏原製作所。2025年3月14日。承認者表示。そこまで書いて、ペンを置いた。
自分に向けられた疑いが晴れれば、それで終わりにしたくなるかもしれない。だが、33社のうちには、馬淵の名前が一度も現れない会社もある。
紙を2枚に分けた。
1枚は、本人操作とされた根拠。もう1枚は、保証がいつ、どの記録へ加わったか。2枚目には、自分の名が出てこない案件も入れた。
弁護士に見せると、なぜ2枚にしたのかと聞かれた。
「僕の疑いだけが晴れても、まだ困っている会社が残るからです」
弁護士はうなずき、ただし、あなたが全件を調査する立場ではない、と言った。
「確認してほしい項目を提出することと、結果を全部知る権利があることは違います」
馬淵は、わかりましたと答えた。以前なら、また自分だけ外されると思っただろう。いまも、少し思った。だが、ほかの会社の事情まで、自分の疑いを晴らす材料として自由に読めるわけではない。
2枚の紙を封筒へ入れた。表には、自分の名だけを書いた。
夕方、技術者から乾へ質問が来た。
「当時の画面で、承認済という表示は、どの段階で出ましたか」
「承認が終わった時点です」と答えかけて、乾は口を閉じた。毎日見ていた画面の裏で、何がいつ書き換わるのかは、知らない。
「仕様書で確認します」
そう答え、古い操作手順を探した。
手順には、承認済の案件を表示、とあった。承認済が何を意味するかは、書かれていなかった。別の資料を開き、受付、審査、承認、帳票出力の順を並べた。1つの言葉の中に、別々の処理が押し込まれていた。
乾は質問を送り直した。承認者の操作が完了した時点なのか。承認状態の項目が更新された時点なのか。帳票を作った時点で参照した状態なのか。
技術者からは、その3つを分けて調べる、と返ってきた。
乾は椅子へ深く座った。わかっているつもりの言葉を、もう1度分ける。その作業を、17件の報告を書いたときにもできたのではないかと思った。
できたかもしれない。だが、その後悔だけでは、目の前の質問は減らない。
未回答の欄へ日付を書き、次の資料を開いた。
解析には数日を要した。
残っている記録を読める形に戻し、時刻の差を補正し、系統ごとに照合する。乾は外部の技術者へ、自分が望む結論ではなく、時刻と操作の対応関係を確かめる質問だけを渡した。
2025年3月14日の柏原製作所の記録には、保証の項目がなかった。3月20日の特権訂正で、保証と承認者表示が加えられていた。
操作はAUD-0001の特権経路を通っていた。だが、それだけでは有働本人と決まらない。
認証装置の利用記録、管理端末の操作記録、入退室記録が照合された。複数の日付で、有働の専用認証と部長室の端末が重なった。共有の可能性を確認する聴取も行われた。
荻野のIDによる削除は、通常の本人認証ではなく、管理者の代理実行だった。馬淵の補助作業者欄も、本人のカード利用ではなく、監査側からの登録だった。
名義口座の開設には、本人確認を省略する例外処理が使われていた。馬淵が窓口に来た記録はなく、書類を持ち込んだ経路は三隅の関係者へつながった。
沢渡の通報書も、受付簿と照合された。滲んだ印の文字は、結局読み切れなかった。だが、通報書の管理番号と受領日に対応する記録には、当時の監査部次長、有働克典の名があった。自分は前任者の時代のことを知らない、という説明と食い違った。
決定的な1枚があったわけではない。
別々の場所に残り、別々の人間が守ってきた記録が、ようやく互いを裏づけ始めた。
佐野が原本の隅に見つけた鉛筆の番号は、契約書の内容とは別のところから意味を持ち始めた。
独立した調査の窓口から、閲覧時の記録をもう1度提出してほしいと連絡があった。佐野は、番号が似ているという自分の印象を外し、見た数字と、複写した封筒の位置だけを示した。
数日後、資料を作った経路について、追加の確認を受けた。
「この番号を、三隅の会社のものだと考えた理由は」
「提案書の番号と似ていたからです。ただ、同じ番号ではありません。桁数も違いました」
「では、同一の管理体系だと確認したわけではない」
「はい」
佐野は答えた。役に立つと思って出した手掛かりが、目の前で弱くなっていく。だが、強いふりをさせるために出したのではなかった。
調査担当者は、別の資料を開いた。銀行へ書類を搬入した業者の受渡し表だった。そこには、鉛筆の番号と対応する欄があった。
番号は、三隅の会社の案件番号ではなかった。搬入前に複数の書類をまとめた、作業単位の番号だった。佐野が見た提案書との類似は、根拠にならなかった。
「ただ、受渡し表には、書類の持込元が残っています」
担当者は言った。
佐野は机へ身を寄せた。持込元の会社は、三隅の関連先だった。印影を見比べていたときには見えなかった経路が、封筒と作業番号から出てきた。
「私の見立ては、間違っていたんですね」
「番号の意味については違いました。番号を記録したことは、確認の役に立ちました」
佐野はうなずいた。自分が正しくなかったことと、自分のしたことが無駄だったことは、同じではなかった。
その受渡し表だけで、契約書が偽造されたと決まるわけではなかった。
顧客が正しく作った書類を、別の会社が運ぶこともある。調査は、誰が運んだかから、誰が用意し、誰へ渡したかへ進んだ。
柏原製作所が取引情報の更新のために提出した書類には、受付日と担当部署が残っていた。その後、複写されたものが、本部照会用の資料へ添付されていた。添付を求めた依頼は、監査部から出ていた。
佐野は、当時の窓口の行員に会った。調査担当者が同席し、質問はその担当者が行った。佐野は、受領の控えについて説明するために呼ばれていた。
行員は、会社の実印を預かったことはないと答えた。
「印鑑証明書は、受け取りました。定期確認の書類と一緒です」
「用途について、別の説明はありましたか」
「ありません。いつもの確認でした」
いつもの、という言葉のあとで、行員は唇を結んだ。
「私が、気づかなかったからですか」
調査担当者は、いま確認しているのは書類の経路です、と答えた。
佐野は口を挟まなかった。あなたのせいではないと言いたかった。だが、責任の範囲を決める権限は自分にない。言えるのは、自分も最初は、いつもの画面を信じたということだけだった。
面談のあと、行員は受領の控えを見た。
「これ、残してくれていたんですね」
「柏原さんが、残していました」
佐野は答えた。
銀行のために受け取った紙を、顧客が銀行から身を守るために残していた。2人は、同じ小さな受領印を見ていた。
馬淵が追加の聴取で聞かれたのは、電子印影を登録したときのことだった。
入行時の印影を、そのまま使っていると思っていた。だが、実際にはシステムの更新に合わせ、何度か画像を取り直していた。日付を示されても、すぐには思い出せなかった。
「欠けた印鑑だから、他人には作れないと思っていましたか」
担当者に聞かれ、馬淵は、少し、と答えた。
「欠けていることが、自分のものだという目印でした」
「画像になれば、その欠けも複製されます」
「はい」
馬淵は膝へ手を置いた。
印鑑を落とした日の記憶は、鮮明だった。床へ転がった音と、先輩に笑われたこと。だが、その印影を読み取る機械へ紙を渡した日の記憶は、ほとんどなかった。
自分が大切にしてきた道具の傷を、他人が簡単に使えた。そのことに腹が立った。傷を見れば本人だと信じたのは、銀行だけではない。自分も同じだった。
担当者は、画像の取得と保管の経路を確認すると言った。馬淵は、お願いします、と答えた。
帰宅して、認印のケースを開いた。欠けた縁へ指を当てることはしなかった。これを捨てても、使われた記録は消えない。買い替えれば安心できるという話ではなかった。
ケースを閉め、質問された内容を弁護士へ送った。
乾は、照合の結果をまとめた表を見ていた。
画面にあった承認者の名。実際の操作を記録した系統。書類を運んだ会社。添付資料を求めた部署。1つずつでは、別の説明もできた。だが、同じ案件の同じ変更へ、別々の記録が集まっていた。
表の右端には、なお未確認の欄があった。乾はそこを消さなかった。
調査担当者が、現時点での見立てを尋ねた。
「保証を成立させるための確認ではなく、成立したように見せるための記録が、後から揃えられています」
乾は答えた。
「その説明が、いまの資料には最も整合します。ただ、誰がどの範囲を指示したかは、個別に確かめる必要があります」
担当者は、同じ表をもう1度見た。
乾は、ようやく、疑いを言葉にすることと、結論を急ぐことを分けられた気がした。慎重であるために、何も言わないのではない。言えるところまでを、言える強さで言う。
17件の報告で、何度も戻されてきた問いが、今度は次の人間へ渡っていった。
三隅が口を開いたのは、関連先の資料が保全され、取引経路が少しずつ特定されたあとだった。
自分だけが罪をかぶると恐れたのか、もう逃げられないと悟ったのか。馬淵には知りようがない。
弁護士を介して伝わった内容には、資本提携後の有働の地位と三隅側の報酬に関する記述があった。問題は外部資本の導入ではない。危機を仕組み、取引先の信用を崩し、その弱みを使って銀行と企業の値札を書き換えようとしたことだった。
三隅は25年前の馬淵鉄工所についても話した。
当時の格付け変更の担当者は、有働だった。
連絡を切っても、馬淵は立てなかった。椅子の下で、靴底が床に貼り付いているようだった。
屋台の灯り。有働が口にした、若い頃に潰した1社。
問いを飲み込んだ夜から、25年も前に父がいた。同じ話の中に2人がいたことを、馬淵はようやく知った。




